猫を起こさないように
年: <span>2021年</span>
年: 2021年

アニメ「範馬刃牙」感想

 ネトフリに範馬刃牙が入ってるのに気づいて、見る。「貴方との対決をもって、オレという物語の幕引きとしたい」という前章での宣言から、そこへ至る紆余曲折が描かれるのですが、アニメで見てもやっぱりゲバルをどうしたかったのかは、わからないままでした。刃牙世界における三大不遇キャラを挙げるならば、順に天内、アライ、ゲバルとなりましょう。いずれも強キャラ匂わせから、主役級の持つ作者補正を越えられずに惨敗するという展開が共通しています。本作ではチェ・ゲバラよりセルジオ・オリバへの思い入れが勝ったということかもしれません。

 いまでこそ、ネットによるミーム汚染でネタ漫画あつかいされている刃牙ですが、幼年編終盤の勇次郎との戦いは、少年漫画における頂点のひとつだったと言えましょう。妊娠、出産を経ても「愛する男の女」のままだった朱沢江珠の母性が、瀕死の我が子を眼前にして目覚め、「地上最強の生物」へ徒手で敢然と挑みかかる。犯し、孕ませ、生ませ、屈従の下に置いたはずの存在が、母なるものに化身するのを目の当たりにし、「おのれ以外のすべてが凌辱すべきメス」としか見えぬ世界で、彼はその未知の何かを「いい女」として殺す以外の選択を持たなかった(そしてたぶん、そのことをずっと悔いている。息子からの「なぜ母さんを殺したの?」という問いかけへの返答に、それがかいま見える)。その後、息子が母親の遺体を背負い、警官に追われながら商店街を駆けるシーンは、まさに情動のクライマックスであり、そのテーマ性は世界文学の高みにさえ到達していたと言えましょう。

 範馬刃牙における父親と息子の戦いは、この妻イコール母親の死を下敷きにしているからこそ、厳密に物語を編んでいくのならば、「父殺し」か「子殺し」以外の結末を持てないのです。そんな中で、父子の対決は両者の会食からそろりそろりと始まりました。「どんな強敵にも主人公補正で勝つ」と揶揄され続けてきた刃牙が、作者の思い入れがもっとも強い勇次郎へと挑むのです。おそらく、どちらの結論にするか作者自身にも決められぬまま、父親と息子の戦いは進んでいきます。途中、作中の人物にネットでの感想へ反応させたり、突然ユーイチローなる人物を登場させたり、迷走ぎみに着地点を探る展開が続きました。そしてついに、決着のときがやってきます。少年誌に掲載されている漫画なのですから、普通に考えるのなら「父殺し」で終わるのが至当でしょう。しかし、長期連載の果てに作者自身が父となり、何より範馬勇次郎をあまりに魅力的に描きすぎてしまった(どこかのヘタれ司令とは大違いですね)。当時、掲載誌の立ち読みで展開を追っていましたが、かつて勇次郎が江珠にしかけた両手で鼓膜を破壊する技を食らう刃牙の大ゴマを見た瞬間、幼年編の終盤とストーリーがつながって、コンビニで周囲に人がいたにもかかわらず、思わず嗚咽が漏れたのを思い出します。グラップラー刃牙にはじまったこの長大な父と子と母による三位一体の物語は「子殺し」で幕を閉じるのだと考え、その結末までを一瞬で脳内に幻視してしまったからでした。この象徴的なコマは、作り手自身も抗うことのできない「大きな物語」が憑依的に描かせたものだと、いまでも確信しています。

 さて、少し話はそれます。「何が起こるか作者さえ原稿に向かうまではわからない」展開が本作の魅力を作り出していますが、連載初期には人気の低迷から打ち切りの危機を経験したそうです。仕方なく、そこまでのストーリー(花田)を放棄して、とっておきのとっておきだった「俊敏なジャイアント馬場による回転胴まわし蹴り」カードを切ったら、次々と新たなアイデアが浮かんでくるようになって、人気はたちまち回復し、連載を継続することができたという話をどこかで聞いたことがあります。これは、創作を志す者にとって考えさせられる逸話で、使われない良いアイデアはときに新たな思考が発生するのを妨げるということです。ちなみに、nWoのフィクションが頓挫し続けているのも、MMGF!の終わりに至るストーリーラインがそのアイデアの座ともいうべき場所を占拠しているからです。

 話を範馬刃牙へ戻しますと、父子対決の結果はみなさんがご存知の通り、大きな物語の要請を意志の力でねじふせ、作者その人が行司役となって「どちらも生かす」ジャッジが最終的に下されました。その是非を判断することは私にはできませんが、いずれにせよ、刃牙世界の背骨であったテーマはそこで閉じ、以後に語られている内容は余生とでも呼ぶべきものでしょう。この物語はもうどこで終わっても、大往生と呼べる段階に達しているのです。ベルセルクもこの段階に入ってから、絵画作品へと移行すればよかったのにと、悔やまれてなりません。どこかで読んだ「キャスカは鞘当てに過ぎず、ガッツがグリフィスを抱けば、この物語は過不足なく終わる」という指摘はまさに至言で、あのデビルマンにおける善と悪のアルマゲドンも、アキラがリョウを組み伏すことで終わったのですから(だから、阿部定的な情念を背景に、此岸の浜辺でアキラの下半身が喪われた)。

アニメ「スペースダンディ」感想

 アマプラでスペースダンディが配信されたので、通して見る。じつは、これがはじめての視聴でした。異様に豪華なクリエイター陣による大人のお遊びと言いましょうか、ドタバタSFギャグ実験アニメ(微エロ)へと仕上がっています。ただ、単話完結のオムニバス形式を貫けばよかったのに、最終話付近で物語全体を刺し通すクシを用意したのには、「なんかこのままじゃ、もったいなくね?」という作り手の色気のようなものを感じてしまいました。通貨の単位がウーロン(例の冷蔵庫も出てたらしい)だったり、同監督のカウボーイビバップを表だか裏だか陰だか陽だかに配して作られていることは明らかで、妙に一般的な評価が低い理由も(そして参加者が豪華な理由も)あらかじめそれを期待されてしまったのが原因でしょう。ビバップは全話通じての平均点が80点を超えるのに対して、ダンディは90点の話(「全速力で大人になる」少女の話)もあるのに、平均すると50点くらいになってしまうような印象です。

 んで、カウボーイビバップのほうもテレビ版と劇場版を通して、ひさしぶりに見直したんです。アルファキャッチと風水少女の話は若干トーンが浮いているような気がしましたが、まー、つくづくパーフェクトな構成ですねー。DVDボックス(過去の記録媒体を模した装丁のヤツ)を持ってる程度にはファンですが、これまでほとんど同作に言及したことはなかったような気がします。これはつまり、言葉で後から何を付け加える必要もないほど完璧なシリーズだということでしょう。ビバップは「エヴァ以降」の作品で、それこそ雨後のタケノコのごとく乱立したオリジナルアニメ群が、思春期のジャリどもの抱く一過性の葛藤をウジウジ描いていたのに対して、「こういうのが大人なんだぜ」「こういうのがカッコいいんだぜ」というメッセージをワルい音楽とともに軽妙洒脱に表現していて、突出して新しく見えたのを覚えています。シリアスとコメディ、メインストーリーとサブシナリオが絶妙のさじ加減で配置されていて、終盤は「ブレインスクラッチ」での虚構への耽溺に向けたメタ的な批判ーーこれから語る内容への照れかくしーーから、最高にクサいフィクション(褒めてます)である最終2話へと怒涛のようになだれこんでいく。ビバップクルーたちの離散から、スパイクの「あしたのジョー」エンドへの流れは、今でも涙なしには見られない、この上なく美しい終わり方だと思います。

 これを受けての劇場版は、最終回以前の時間軸で作られていて、4人の関係性、主人公の生き方、そして「人生とは、一夜の夢である」ことを改めて補強しており、テレビ版から一貫したテーマが引き継がれていました。映画としての評価はあまり高くないようですが、アニメでは数少ないイスラム圏の描写を含めて、個人的には大好きな作品です。まあ、テレビ版での「100万回生きたねこ」や、劇場版での「胡蝶の夢」など、あまりに作品テーマの提示と引用がド直球すぎるきらいはありますが、まったくテーマを持たない作品(もう名前は出さない)に比べれば、はるかにマシでありましょう。当時さんざん言われたことに、「次のルパン三世をねらえる作品」という評価があり、じっさい、このキャラと世界観で延々と話を続けることはできたと思います。そこを、「いや、ビバップは食い足りないくらいでちょうどいいんだ」とうそぶいて、続編や前日譚にいっさい手を出さなかったのも、海外までを含めた作品の神格化へ大いに寄与していると思います。「レッドドラゴンの内幕」とか「ジュリアを巡る三角関係」とかを詳しく語ってしまうと、陳腐にしかならないのは目に見えていますから。

 あと、ついでに実写版の情報を探ってみたんですけど、ライティングが妙にペカペカ(セル画を意識してる?)した、海外オタクたちによる名場面コスプレ集みたいなスチルが次々と出てきて、暗澹たる気持ちにさせられました。キアヌはいったいこの10年、路上で何をしとったんや……アホな配給会社に権利を取られてしまいよってからに……。

 最後にダンディへ話を戻しますと、ビバップのそれを裏返しにした「オッサンって、パイオツとヒップが大好きで、パッと見はエロくてダサくてカッコ悪いけど、じつは優しくて若者にはないユーモアがあるんだよ!」というメッセージが含まれてるような気がして、ちょっとカッコ悪いなーと思いました。

 (禿頭和装の大男が大喝して)未来に送るのは、女と子供だけでよい! 貴様も漢なら、過去に死ねい!

 あと、ぜんぜん話は変わるけど、ビバップ最終話でフェイがスパイクへの気持ちを表すために空砲を3発撃つシーンがあるけど、あの演出ってもしかしてシティ・オブ・ゴッドが下敷きにあったのかなー。

ゲーム「Diablo II Resurrected」感想

 Diablo II Resurrected、プレイ中。本当はこんな感想を書いてるヒマがあったら、少しでも長く触っていたいのだけれど、印象は時間とともにうつろうものなので、ここに残しておく。まず、本作はリメイクではなく、ゲーム性をいっさい変更しないまま、グラフィックとサウンドだけを当世レベルに引き上げた、完全リマスター版です。触れるオブジェクトが減って(本棚とか)いたり、スキルの挙動も一部おかしい気がしますが、今後のアップデートによって改善(回顧?)されることでしょう。もうオリジナルスタッフも残っていないだろうし、変な色気を出して「よかれと」改変しなかったのは、たいへんな英断だったと拍手したいです。ハクスラの初源にして至高、数々のコピーを生み出しながら、そのどれもが本家を越えるには至らなかったマスターピースに、新たな寿命が吹き込まれた(imbue)のですから! ゲームの視覚的進化はここ10年で急激に鈍化しているように感じるので、今回のリマスターはかなりの時間をDiabloIIに与えてくれるはずです。ここ20年、プレイを継続しているのは、中断期間こそあれDiabloIIとFF11だけで、かけた時間もそれこそ年単位でカウントすべき、文句なしに私的ツートップの一角です(次点はFallout3とNewVegasをmodでガッチャンコしたTTW)。

 レベルデザインという言葉を最近よく使ってる気がしますが、この観点から評価しても間違いなく最高のゲームだと言えるでしょう。「ドロップ品による資産形成」がゲームのキモで、「かけた時間が必ず報われる」デザインになっており、死亡による適度なペナルティも、プレイにピリッと緊張感を与えています(1回の死ですべてが失われるハードコアを耐える血管の強さは、私にはもうありません)。選べる職業が7つ用意されていて、大ざっぱにくくるとそれぞれ4パターンほどPvEのビルドがあって、30通りくらいの育成を楽しめるーー慣れてくると、ここからPvP含めて無限に細分化していくーーんですけど、資産をゼロから積み上げていく過程が、掛け値なしに面白い。思わぬドロップ品で、育成の方針や使用キャラが思わぬ方向へと、どんどん変化していく。気がつけば何時間も経過していることはザラで、社会人にとってじつに危険なゲームなのですが、今回のリマスターのおかげで、いちどハマればゲーム人生の終わりまでを伴走してくれる伴侶となったことは、間違いないでしょう。

 スマホゲーの隆盛により、ゲームパッドに比しての操作性の劣化から、システムで補正をかけたり自動化したり、プレイヤーがやらなくても済む要素が増え続けていて、それに慣れている層には「やることの多い、不親切でメンドくさいゲーム」と映るかもしれません。でも、ゲームって、こうだったんですよ。レアなドロップ品は早い者勝ちで、ボス戦のさなかにPlayerKillerが乱入してパーティが壊滅する、こういった人間由来のギスギス感に、理不尽や不愉快を感じるのかもしれません。でも、ゲームって、ずっとこうだったんですよ。カンストしたら「みんな同一の」ステータスになって、「集めるべき」装備品と「最も有効な」スキルは決まっていて、あとはそれを「正しいタイミングで」実行できるかだけが問われる、それはゲームと呼ばれるものからは遠いように思います。私の書きぶりに挑発されたと感じるのではなく、どこかにあった違和感を刺激された貴方には、ぜひいちど触れてみることをおススメします。仮に科学の進歩で寿命が200年まで延伸されたとして、このゲームは最期までずっと寄り添い、貴方の余暇と虚しさを埋めてくれることでしょう。

 ここからは余談ですけど、オリジナル発売の当時は日本語版があまり出回ってなくて、ずっと英語版でプレイし続けてきたんですよね。今回のリマスター版には各言語のローカライズがあらかじめ含まれていて、もの珍しさもあって日本語でプレイを開始したんです。最初はアイテム名が脳内で英語版と一致せず、ひろってグラフィックを見てから同定されるような感じでした。そして何より、文字フォントがダサい。Diablo IIって英語のオリジナルフォントが雰囲気を作っているゲームなのに、既存の日本語フォントをそのまま使っているものだから、当世風に言えば、ダサさがエグい。カウボーイビバップの実写版オープニングぐらい、ひどい(もう見ないことに決めました)。極めつけは、ソーサレスのスキルを振ろうとして、Warmthに「インナーフレイム」なるユニクロの商品みたいな名前がつけられてるーー翻訳ですらないーーのを見て、ただちに英語版へと戻しました。この、30年前に大作洋画の字幕でナツコ・トダがつけたようなアホみたいな和製英語、いったいどこの薄らトンチキの仕事なんでしょうね。あの頃に比べて、いまの若者たちは総体としてずっと賢いし、英語もはるかにできると思いますよ。何の意図があって、こんなクソみたいなローカライズにしたの? キミの感性、このゲームにいらんから!

 ソーサレスでNMメフィストを対岸焼きしつつ、セカンドキャラのクエストを野良パーティで進行するのが楽しくて、人生でこれほど楽しいこと他にあるのってくらい、楽しい。そして、nWoより4ヶ月も後に開設された匿名掲示板のスレッドに人が戻ってきたのも、うれしい。古強者が昔みたいに長時間プレイができないとボヤいてるの、わかるなーって感じ。あの頃は10時間くらいモニターの前に座りっぱなしでも、ぜんぜん平気だったよなー。でも、新参者がディアブロ3を元にした「改善案」なんかを肛門の反対側についた粘膜からひりだしているのを見かけると、彼/彼女が生命を喪失する瞬間に責任を持ちたいぐらい、感情が沸騰して目の前が真っ赤になるなー。しばらく忘れてたけど、ディアブロ2のこと、こんなにも好きだったんだなー。

 ラダーに新ルーンワード導入かー。クラス間の性能補正とか、不遇ビルド(弓アマなど)の調整ぐらいなら許容範囲だけど、ZODZODZODでED1000%みたいな「ぼくのかんがえたさいきょうの」ルーンワードだったらヤだなー。新モンスターにしても、世界観を壊さないようにしてほしいなー。これらの内容で新しいスタッフの力量とディアブロ2愛がはかれると思うけど、不安しかないなー。

 Diablo II Resurrected、いよいよ1stラダー開始ということで、朝の9時からヨーイドンでスタートしました。8人パーティのうち7人がソーサレスというpubゲームに微苦笑しながらも、全員が資産ゼロでウェイポイント未開通な最初期のワチャワチャがいちばん楽しいなー、なんて3時間ブッ通しのプレイでact5まで駆け抜けて、ノーマルのバールランに潜り込んでさらに2時間、自分的にはかなりの高効率でレベル45に到達して、さあどうだとランキングを見たら、トップ層はもうレベル80近い。まあ、知ってましたよ。8人組の固定チームが24時間はりついて、引率キャラが完成したらラッシュにつぐラッシュでHELLへ次々と新キャラを送りこんで、8pplのドロップ品をチームとして強くなるよう再配分して、あとはレベル99までbot によるバールランをひたすら繰り返す。ゴールデンウィークの休日出勤を終える頃には、二度と挽回できない天文学的な差に広がってるんでしょうねー。まあ、ラダーってずっとそんなもんだし、20余年ぶりの新パッチ導入によるお祭り騒ぎへ参加できただけで、私は幸せでした(涙目で)。

 ゲーム「ディアブロ2」感想(完全版)
 ゲーム「ディアブロ3」感想

漫画「ブルーピリオド11巻」感想

 漫画「ブルーピリオド」感想(10巻まで)

 ブルーピリオド11巻、読む。読み終わるのが惜しくて、ことさらにゆっくり読む。それにしても、優しい物語です。あの乱暴な男の子も、あの繊細な女の子も、現実にはいくらでもいて、ほとんどが「よい大人」に出会わぬまま、説明のつかない不全感を抱えたまま、大きくなっていく。以前の感想に、「才能ある友人の母親は裁いているので、今後どう扱うかは気になる」と書きましたけど、「あふれる善意によって壊れる子ども」の描き方が本当に真に迫っていて、この作品ではもう親にまで目くばせする必要はないような気がしました。金銭をふんだんに惜しまず、時間をたっぷりとかけて、気持ちにどこまでも寄り添い、そうして壊された子どもの心は、いったいどのように救われるのでしょう。

 最近、頻繁にエル・ジー・ビー・ティーの話題を目にするようになり、そのたびに心がざわめくのを感じます。私の人生の履歴書は、「昭和の幸福」をトレースしたようなものであり、周囲から眺めれば、その外殻には傷ひとつ無いように見えるでしょう。なのに、こんなにも苦しい。この苦しみは、ほとんど実体を伴っているようにさえ思えるのに、パッケージ化され、ラベルを貼られ、他者が理解でき、行政が取り扱うことができるそれらとは違って、どこにも存在しないのです。世に言う児童虐待が「子ども”に”復讐する」ことなら、この巻で描かれている教育虐待は「子ども”で”復讐する」ことであり、かけられた期待を裏切ったことで生じる子どもの苦悩は、やはりどこにも存在しないのと同じなのです。

 ピカソの挿話が暗に示すように、親に「心砕かれた者」がその傷を昇華させたものが作品だとするなら、芸術の本質とは先に壊されただれかが、後から壊されただれかをケアするカウンセリングであり、始まりと終わりが同じ場所にある、尻尾を喰う蛇を想起させます。「心砕かれた者」は「心健やかなる者」にこそ救ってもらいたいと願うのに、「心健やかなる者」は芸術や心理学のような体系には、おそらくたどりつかない。だれから聞いたのだったか、「人生で本当に救えるのは、ひとりだけ」という言葉が、いまさら胸に迫ります。ここまで書いて、ブルーピリオドは「心砕かれた者」たちの群れに飛び込んだ、「心健やかなる者」を描いているような気がしてきました。藝大という魔性の城で、主人公がたどりつく芸術のカタチは何なのか、あるいは芸術にはたどりつかないのか、どのような結末を迎えるにせよ、最後まで見守りたいと思います。

 『氷のように枯れた瞳で、僕は大きくなっていく』

雑文「親ガチャ、魂の座」(しつこくエヴァ呪)

 ペアレンタル・ガシャポンなる概念を頻繁に目にするようになったので、諸君には魂の話をしておく。結論から先に言えば、かような概念は成立しない。肉体と魂は不可分であり、肉体が消滅すれば魂は肉体に紐づけられた固有性、すなわち意識を消滅させられる。ペアレンタル・ガシャポンという言葉を発明したのは、己のレアリティが不当に低いと恨んでいる連中だろう。しかし、リセマラの段階で、それを感じている意識イコール魂は永久に失われる。不遇へのさもしい劣等感を含めて、それが自身一代限りの固有性なのだという理解を持てば、己を愛おしく思う気持ちも多少は芽生えよう。さて、近代においては科学技術の進歩(古臭い言葉だ)から、「天上におわす神」は否定されてしまった。なので、神学的に神の御座は人の心、感情の中にあるということで科学との折り合いをつけている。ロシア文学に頻出のテーマである「内なる神が他者のため、個としての不条理を駆動する」にもつながっていく考え方だ。飢餓状態の囚人が、同じ虜囚にビスケットを分け与えるのは、個の存続を考えればまったくの不合理である。つまり、彼は行為の不合理性によって神の実在を証明していると言えるのだ。

 これを、「内なる神が人類のため、個としての不利益を決断する」と読みかえてもいい。FGO世界の「抑止力」なる概念ーー人類悪の発生へカウンターとして強力な善が惹起するーーは、まさに現代キリスト教における「アダムの分霊、内なる神」を、地球規模へと拡大して表現している気がしてならない。そしてFGO世界でのキリストたる、かのクリプターは、全人類の超人化による究極の理想郷を願ったが、これは従来の文学や神学の枠組みでは仮構できない新しいテーマだったことは、もっと広く言及されていい。蛇足的に話を追加しておくと、この「抑止力」の着想は、ランスシリーズの勇者システムから来ていると推測する。世界の危機がシステム上で人類の総人口と紐づけられていて、現生人類の総数が減れば減るほど、勇者の能力が反比例に向上していくという、アレだ。ちなみに、全人類が滅亡すれば、勇者には神を殺す力が付与される。エヴァQみたいな、何の設定にも裏づけられていないフワフワ・ワードとは異なる、正しい「神殺し」の用法と言えるだろう。ファンガス、どこかのインタビューでランスシリーズについて言及していないかしら。まあ、もっとも影響を受けたものを伏せようとするのはクリエイティブの倣いであり、それがnWoの不遇を作り出していることも確かなんですけどね!

 あと、シンエヴァの話をすると反応があるので、最後にあえてまたそっち方向へと話題の舵を切っていきたい。まあ、カリ高チン棒現象?(エコー・チェンバーです)を己の内に作り出してしまっていることは、重々に理解しているつもりである。テレビ版と旧劇のエヴァって、世界観の話だったと思うんですよ。「人類救済のカタチを巡っての、複数組織による綱引き」という大文字の物語に翻弄されながらも、なんとかそこへ抗おうとするキャラクターたちの苦闘が、この上なく魅力的に描かれていた。それがシンエヴァでは世界観の消滅に伴って、大文字のキャラクターに物語の側が隷属し、翻弄されるハメになってしまった。もはや古い世代の世迷言に過ぎないのかもしれませんが、こと虚構においては、与えられた事象に対する行動や決断が、登場人物の内面を彫刻すると思うんですよね。つまり、「どのような出来事に対処するか?」が、まず物語の中核・イコール・テーマに据えてあって、人々のふるまいは、それの輪郭を際立たせるための付随的な要素、すなわち触媒に過ぎないわけです。けれど、「ツンデレ」に端を発する様々な「人間の記号化」が先駆した物語群が、いまや巷間にはあふれかえっています。物語の中核が設定される以前から、どのような内面のキャラクターであるかが、作り手によってあらかじめ決められてしまっているのです。この作劇の違いが、旧エヴァとシンエヴァの間に横たわる、明々白々とした差異なのだと言えるでしょう。メタ的には、「アスカ以前にツンデレなし」の革新性が、際限なきコピーの果てに陳腐化してしまった事実へ気づかないまま、いっさいのアップデートをせずに引き写したーー「陰キャ」「ホモ」「毒親」「ナード」「メンヘラ」「昭和」「天然」みたいに一言で要約できる内面を持った登場人物たちーー結果、シンエヴァは後者の虚構群へと堕してしまったのかもしれません。

 ……などと上等っぽい語りに持っていったところで、序破で丁寧にビルドアップした中身をQでぜんぶブッ壊したことが等身大の正味なのは、なんとも虚しいばかりです。そして、代わりとなる世界観を思いつかず、残されたキャラだけで仕方なくパズルを始めたら、ピースがはまらない(当たり前)ので、ピースそのものを歪めたり切断したりして無理やり長方形の見かけにこしらえたのが、シンエヴァの正体なのです。

映画「ジョン・レノン・ニューヨーク」感想

 これまた何年か、シアターで棚ざらしになっていたジョン・レノン・ニューヨーク見る。エイト・デイズ・ア・ウィークがイマジンの前半部分の拡大版だとしたら、こちらは後半部分のそれ。構成としては、ジョンの死を受けて「オール・ユー・ニード・イズ・ラブ」から「イマジン」「イン・マイ・ライフ」と畳みかけるイマジンの方がずっと好みです(少年期のショーンが父の丸眼鏡をかけて東京バビロンみたいな肩幅の服でインタビューに答える激萌え映像もあるし)。けれど、大まかな流れとしてだけ把握していたビートルズ解散後のジョン・レノンの軌跡が、関係者インタビューを通じて私の中でより精彩になったのは、僥倖でした。ヨーコから追い出されたジョンが、ロサンゼルスで酒びたりの生活となった後、狂乱する群衆の中へ「奴らは俺を欲しがってる」と言いながら自暴自棄に飛び込んでいった話や、関係者による「彼は本当に泥酔すると必ず『ヨーコ!』と叫んだ」という証言には、思わず涙がにじみました。

 オノ・ヨーコって、ビートルズ・ファンにとっては解散の引き金となった、エヴァで言うところの碇ユイばりの魔女で、むしろその存在は疎ましく語られることの方が多いように思います。しかし、泥酔してすべての理性のタガが外れたあげく湧き上がる「ヨーコ!」という叫びに、ジョンは真実に彼女を愛していたことが伝わってきました。若い時分のオノ・ヨーコのことを言えば、英語の発音のマネがうまい典型的な帰国子女(財閥の御令嬢)って感じで、よくよく聞いてみると話の中身はカラッポなんですよ。ジョンとマスコミの前に出るときも、基本的に相づちか、直前のジョンの言葉をオウム返しすることに終始している。共通の友人たちの前でグルーピーとファックして恥をかかされたことが、ジョンを追い出した理由みたいに話していましたけど、巨大なカリスマとペアで語られ続けることによるアイデンティティの衰弱も大きかったと思うんですよね。じっさい、彼と別れたあとの活動が彼女に自立と主体性を回復させ、それらをあらためて確立したからこそ、またヨリを戻すことができたのでしょう。その後、誕生日に米国の永住権を手に入れ、二人目の息子を同じ日に授かって、そこから父親として「人間になろうとする」ジョンの決意と生活は、涙なしにみることはできません。

 最近、葬送のフリーレンを読んだんですけど、高齢化するドラクエ世代に向けた、遠くない己の死を追想する物語だと感じました。淡々とした筆致で紡がれる美しい記憶のストーリーは、しかし次第に変質していきます。淡々とした筆致は、取り扱うテーマを表現するための手法ではなく、作画担当の個性であることが判明し、ハンターハンターの念を連想させる魔力の描写など、次第に原作者が富樫先生フォロワーであることを隠さなくなっていきます。「勇者の死から29年後」から時間が動かなくなり始めているのも気になります。このト書きが30年、40年と動いていく物語だと思っていました。「勇者のときには満足のいく看取りができなかったフリーレンが、新しい仲間たちをーー新しい仲間がフリーレンを、でもいいーー今度こそは正しく看取る」という岩のように静かな成長譚だと思っていたのに、週刊少年ジャンプ的なバトル漫画に内容がシフトし始めたのは気にかかります。「葬送の」が魔王軍の幹部を殺しまくったゆえの二つ名として作中に語られたのには、思わず「えー!」と声が出ました。

 なぜ唐突に葬送のフリーレンの話を始めたかといえば、ジョンの亡くなった翌日、オノ・ヨーコとプロデューサーがスタジオに集まって、残された曲や録音を聞いて故人を追悼するエピソードが出てきたからでした。「どのように記憶に残るか?」という問題は、ある程度まで人間社会に関わった者ならば、大なり小なり、だれもが抱くようになるものなのかもしれません。曲はもちろんのこと、大量の写真や映像、そしてスタジオ内のバンドに指示を出す声までが録音として残されていて、それらを見聞きすれば、ジョン・レノンという個人は、いつでも我々の目の前へ鮮やかによみがえります。テキストしか表現方法を持たない私にとって、どこか頭の片隅に栗本薫(中島梓)の残り方があるのだと思います。小説ではなく、彼女が本人として登場するエッセイ群のほうにそれを強く感じるのです。特に小説道場は、35年前に始まり、25年前に幕を閉じ、道場主が亡くなって10年以上が経ち、門弟に故人もいるのに、紙面を開いた瞬間、すべてがリアルタイムで行われている鮮やかさで、眼前によみがえります。まるでみんな、生きているかのようです。私がいまだにインターネットでテキストを書いているのは、このたぐいの不滅を求めているからのような気がしてなりません。データは10年、紙は1,000年、石は100,000年、SNSのサービスを提供する会社には、せめて100年を長らえて、次の世代へと私たちの記憶を運んでほしいものです。

 そして、ジョン・レノンがたったの40歳で亡くなったのだという事実と、彼が残した膨大なクリエーションの足跡に、あらためて打ちのめされる思いがしました。

雑文「小説道場・月姫編」

 続いては門弟志望、那須キノコ(このペンネームなんとかならんかね)『ツキヒメ』。五千枚(長い!)の力作である。
 いまは懐かしい「吸血鬼モノ」(ときめきトゥナイト!)なのだが、アニメと私小説がごっちゃになったような不思議な読み味の作品だった。キャラクターの描写もほとんどマンガで、登場人物が多いわりに三人ぐらいまでの書き分けしかできていない。世界観は魅力的なので、いいイラストレーターと組んで挿絵がつけば、若干、印象はマシになるのかもしれないとは思う。
 文章について指摘すると、ところどころに光る修辞はあるものの、全体的に表現が冗長で硬い。へんへーにはすごく、だれかから批判されることを恐れてわざと難解にした、防衛的な硬さに思えたね。ただ、この硬さがバシッと決まる場面もあるので、もっと読者に対するガードを下げて、短くて平易な文章を意識して増やすといい。そうすれば、ずっととっつきやすくなるだろう。
 キツイことを言うようだけど、いまの君にはまだ、この規模の群像劇をキチンと書き上げるだけの地力はない。もっと登場人物を減らして、いちばん書きたい関係だけにしぼってごらん。そうして、少しずつ書ける範囲を広げていったほうがいい。ほんとうは、先輩なんかとではなく、もっと妹との関係を掘り下げたかったんじゃないの? たいせつなのは、物語がどう動きたがっているかの声をじっくりと聞いてあげることだ。それは同時に、自分の心を知る作業に他ならない。
 そして、ひとつ私が大きな瑕疵であると感じるのは、不死身の吸血鬼をそれと知らずに殺害してしまうくだりだ。夢の中で人を殺してしまい、汗びっしょりに目を覚まして、夢だったことにホッと安堵する。そんな経験はだれにでもあるだろう。着想の原点はそのあたりじゃないかと思うが、殺人(この場合、殺バンパイアか)を肯定するために「天涯孤独の粛清マシーン」みたいな設定をひねりだしたところで、主人公の動機が「快楽殺人を目的とした通り魔」のそれであることは決して消えやしないのだ。もちろん、小説に書いてはいけないことなどない。しかし、君があつかおうとしているのは、死ぬほどデリカシーのいる、極めてセンシティブな内容だ。君にその覚悟があったとは、とうてい思えない。力量もだ。自分の娘を通り魔に殺された両親の気持ちが、いったい君に想像できるのかね?
 なるほど、君は自分の苦しさのために書いたのであって、その人たちのために書いたのではないと言うのかもしれない。だが、小説を世に問うというのは、そういうことなのだ。娘を殺された両親の元へこの作品が届き、彼らの感じることに対していっさいの申し開きが許されないということなのだ。かように、書くことは地獄だ。けれど、先生はこの地獄が嫌いではないのだよ、那須。もしかすると君はまだ若く、切実に自分が救われることを願っていて、そんな親の苦しみなんて薬にもしたくないと思っているのかもしれない。君に必要なのは、おそらく時間であり、人生経験だろう。しかし、あせって大人になることはない。愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。きっといつか、私の言うことがわかる時が来ると思う。
 最後に辛辣なことを言ったが、世界観や造語のセンスにはキラリと光るところがある(ような気がする)。いちど吸血鬼モノから離れた別の作品を見せてください。四級。

 ……そして、次作の『Fate/stay night』で、大絶賛から初段へ昇格するイメージ。

 うーん、ツギハギって感じで、似ないなー。これでシンエヴァ批評やりたいのになー。

ゲーム「月姫リメイク」感想

 月姫リメイクをダウンロードする。ビジュアルノベル(死語?)なのに1万円近くする価格設定で、「やっぱ、FGOへの課金にしとくのが賢明かー?」と最後まで迷いましたが、全編がファンガスの筆だということと、今後のイベントでコラボがありそうな感じなので、購入に踏み切りました。正直にぶっちゃけますと、月姫については完全未履修なんですよねー。ヒロインのビジュアルと主人公の能力くらいしか知らない。その断片的な知識だけで「少女保護特区リライト版」というパロディをでっちあげたんですけど、直後に実施したアンケートに「こいつァ……!!」と書き残したのは、まちがいなくファンガス本人でしたねー。いやー、まいっちゃうなー。

 月姫をさわりだけ読んだ猊下に去来する、アタタカイオモイ。

 ファンガスの文章なのに、漢字の開き方が異なるという違和。
 書き手の「若さ」を強くにじませた、横溢する観念的な述懐。
 ここからアヴァロン・ル・フェへ至る、遥かな道程への感慨。

 ーーーそして、気づく。

 ああ、なんてことだろう。
 午前6時33分は。

 早朝ーーーではーーーないーーー

 月姫リメイク、学校を早退してヒロイン?と出会うとこまでプレイ。うへえ(ドン引き)。まあ、展開自体はうっすらと知っていましたよ。でも、夜道で襲われて、死にたくないから仕方なく眼鏡を外す、みたいな流れだと思ってたんですよ。それが、勝手にストーキングして不法侵入して有無を言わせず一方的に、って完全にアウトのやつじゃないですか! 生き返ったからオーケって、なんの正当化にもなってませんからね! SATSUGAI時に地の文のフォントを変えてあったりしたけど、なんらかの叙述トリックになってて、事実が反転したり納得できる動機が示される解決編を用意してあるの? この人物が主人公である物語を読み進めるのはキツイなー、と思い始めています。

 月姫リメイク、最初の吸血鬼を斃す(笑)ところまで読み進める。「両親が他界してから妹に飼われながらメイドにかしずかれつつパツキン美女と深夜徘徊する異能力者のオレ」は、まさに中二病のダブル数え役満であり、十代の頃に出会って魂に刻んでおくべき作品だったと、いまさらながらに悔やまれます。そして、これはこれで面白いのですが、FGOが大ヒットしたことはファンガスの作家人生にとって、本当に僥倖であったと改めて感じました。もっともアクティブ・ユーザーの多かった時期に配信された第1部6章・7章・終章のことが語られがちですが、第2部4章・5章後半・6章における「視点の上昇」は、書き手がそこからさらなる進化を遂げたことを如実に表しています。FGOはリリース最初期でけっこうなやらかしをしていて、もし早々にサービス終了の憂き目を見ていたら、その世界線でのファンガスが何を書いていたかを想像すると、けっこうゾッとさせられるものがあります。話を月姫に戻しますと、あまりに唐突なSATSUGAIの動機については、これまでのところグジグジとした繰り言ばかりで、ずっとモヤモヤさせられっぱなしです。これ、事故の記憶や母親の死と関わってて、「なぜ、他ならぬ彼女を殺さなくてはいけなかったか?」がちゃんと回収されるんですよね? 若かったとはいえ、ファンガスのつむぐ物語であり、「ただの中二病的フレーバーでした」で終わらないことを信じたいです。

 あと、「アルトリア」が「アーサー」の変形であるように、「アルクェイド」って悪魔城伝説の「アルカード」から来てるんですよね? もしFGOで「アルパチーノ」が女体化実装されたら「アルピトゥーナ」とかになるんだろうなー(妄言)。え、月姫リメイク、フルプライスのくせにストーリーが半分しか収録されてなくて、妹ルートは未実装ですって? あの意味深ムーヴなツンデレ女子の秘密を知るのに、もう12年待つ必要があるの? キミら、よくこんな遅筆作家のファンをずっと続けていられるね!

 アルクェイド・ルート、クリア。結局、主人公の正体と殺害の動機は明かされないままでした。ヒロインもずっと「無垢ゆえの残虐と処女性」みたいな描き方だったのに、最後の最後でネトラレっぽい告白を始めたり、全体的にキャラと性癖とテーマがとっちらかってるなー、と感じました。サブヒロイン・ルートでこの隙間が埋まることを強く期待しつつも、英霊システムというのは改めて偉大な発明だったと言わざるをえません。そして、十代の「クラスのうちで目立たないコ」に向けた幻想とはいえ、プレイ時間の割にボリュームを感じなかったのは、やはり生死にまつわる観念的なト書きに共振できないほど、私が年を取ってしまったということでしょうか。初老を越えたら死は、健康診断の数値に表される、ただの現実ですからね。最近、思うところあって、江森備の私説三国志を読み直してるんです(蒼天航路を経たいま、脳内ビジュアルがあっちに引っ張られて大変)けど、もし月姫が小説道場に投稿されていたら、栗本薫はどんな評をつけただろうなーとか、終盤のプレイ中に考えていました。

 あと、Z指定なのにセックスシーンの描写が江森備ばりに短い(あっちはそれでも超ドエロだけど)のには、たいそうガッカリしました。なんのために上限いっぱいの年齢制限をしたんや! Fateの王様ルートでの魔力供給のアレみたいに、高校2年生が突然、オッサンみたいなネチッこい言葉ぜめーーノベルだからしょうがないのかしらーーをやりだすのを、有名声優の熱演で聞けると期待していたのに! それ以前に、吸血衝動うんぬんがセックスの暗喩(若い書き手の含羞による)だと思ってたので、あの場面では思わず、「ファックするんかい!」と声を出してしまいました。Fateシリーズと違って、月姫世界では血液と精液は別モノなんですかね? 「上の口から血液を飲むことを拒絶しても、下の口から精液を入れたら魔術的に同じことなのでは?」などと思ってしまいました。

 それと、代行者先輩(笑)が「なぜあんな化物を気にかけるの?」みたいなことを尋ねて、主人公が「愛してるから」と答える場面があるじゃないですか。もしかすると感動的なシーンなのかもしれませんが、やっぱり美醜の問題を感じてしまいましたねー。ガワがパイオツカーデーのパツキン美女なら、中身が化物だろうが宇宙人だろうが、愛せるに決まってるじゃねえか、っていう。あらためて、ファイアパンチでの問題提起(トガタの退場とともに消失したけど)が、二次元業界内では類まれなことを確認できました。なんか以前、似たような感想を抱いた作品があったなー、なんだったかなーと考えていたら、ゼノブレイドクロスだった。

 シエル・ルート、少し読んでは私説三国志に戻るのを繰り返している。全面改稿ではなく「書き直し、書き足し」のようで、オリジナルの文章ママとおぼしきところで、ちょっと読んでられない気持ちになってしまうのです。

 あと、女性キャラクターがこぶしを軽くにぎって上腕を双丘の傾斜に沿わせるようにハの字に胸元へ引き寄せる「肉のカーテン」みたいな仕草、すごく昭和レトロって感じがするなー。こんなムーヴをする女子、最近とんと見ないなー。

 雑文「小説道場・月姫編」

映画「エイト・デイズ・ア・ウィーク」感想(またもエヴァ呪)

 ネトフリでエイト・デイズ・ア・ウィーク見る。ビートルズのドキュメンタリーとしては、イマジンを擦り切れるほど(もはや黒電話とかフロッピーディスクみたいな表現)リピッてるんですけど、あっちはジョン・レノン中心の構成なので、解散後のオノ・ヨーコとの生活にかなり尺が割かれてるんですよね。本作はライブ・コンサートをやっていたアイドル時代に多くの時間を使っていて、とても新鮮な気持ちで見ることができました。シガニー・ウィーバーとか、少女の頃に彼らの熱烈なファンだった有名人たちのインタビューも挿入されてて、ウーピー・ゴールドバーグ(ガイナン!)が登場したのは、嬉しい驚きでした。母親がサプライズでチケットを押さえてくれていた話と、”They are colorless.”とため息みたいに言う様子が強く印象に残りました。ビートルズって、あれだけ豊かで多彩な音楽活動を繰り広げながら、デビューから解散まで実質9年くらいしかないんですよね。ちなみに、シンエヴァの制作期間も同じ9年で、両者の間に横たわる長大なクリエイティブの格差には、もはや愕然とするばかりです(鷺巣先生、かわいそう。まあ、特撮テーマの再録音以外はいっさい口出ししないし、ジャブジャブ無尽蔵にお金を使わせてくれる都合のいいパトロンぐらいにしか思ってないのかもしれませんけど!)。

 ビートルズに話を戻しますと、スーツ姿にマッシュルーム・カットで、互いに区別のつかない4人のイギリスの若者が、まったく異なる個性と見かけを持った大人の男性へとメタモルフォーゼしながら劇的に楽曲を変化させていくその過程は、まさに「創造の魔法」という表現がピッタリと当てはまるでしょう。そして、アイドル時代の記録映像は白黒だったのが、スタジオ録音へと移行する時期からカラーへと転じるのも、撮影技術の進化と並走したまったくの偶然ながら、「サナギから羽化した」ような印象をさらに補強しています。もしジョン・レノンが凶弾に倒れなかったら、再結成した四人がどんな音楽を作ったのかは、ファンたちの間にいつまでもたくましい想像(僕はビートルズ!)をかきたてます。シンエヴァみたいな自己模倣のサンプリング集と化してしまった可能性もゼロではないとうそぶきつつも、想像の中でだけ楽しめる点においては、じつに優雅な遊びだと言えるでしょう。エヴァンゲリオンに関しては、いまだ作り手が存命であり、海外メディアによる監督インタビューから判断しても、さらに「どん底」の底が開く可能性が残されている絶望的な状況なのですから!

 再びビートルズに話を戻しますと、有名なルーフトップ・コンサートが本作の締めとなるのですが、四人が屋上で「ドント・レット・ミー・ダウン」ーー「甘き死よ、来たれ」のサビは、この反転だと信じて疑いませんーーを演奏する姿には、なにか神々しいものさえ放たれているように感じます。以前、スーパーマン・リターンズの感想で「冒頭、スーパーマンが飛行機を不時着させるスタジアムの観客のひとりであれたら」と述懐したことがありました。もし立ち会うことができたら、どんな惨めな人生が後に残されていても、その瞬間を反芻するだけで生きていけるイベントがこの世には存在し、サヴィル・ロウの街路からアップル・コアの屋上を見上げる通行人であれれば、それだけでこの尊大な自意識を死ぬまで食餌していけただろうと夢想して止みません。そして私の生きる時代では、そこへもっとも近かったはずのシンエヴァ公開初日・初回の劇場が、そこからもっとも遠い場所だったというシンプルな事実に対する深い失望が、いつまでも、いつまでも、いつまでも、胸のうちから消えないのです。

漫画「ファイアパンチ」感想

 ファイアパンチ、読む。好きなモチーフや嗜癖(人肉食とか)をぎゅうぎゅうに詰め込んだ、作家としての良い部分と悪い部分のメーターがともに振り切れている作品でした。序盤から中盤にかけては世紀の大傑作なのではないかと興奮していましたが、終盤から最終話にかけて物語のテンションは次第に下がっていき、チェンソーマンほどは漫画読みたちの俎上にのぼることの少ない理由がわかりました。「どんなキャラでも、物語のためなら躊躇なく壊すことができる」「冷笑という言葉では生ぬるいほど、人間と人類に対する期待値が低い」、この2点が突出した彼の持ち味だと思うんですけど、殺せるからといってトガタを殺したのが迷走の引き金になったと思います。それは鳥が空を、獣が陸を、魚が海を否定するのと同じ作劇であり、氷の魔女に役割を引き継がせればまだどうにかなったかもしれませんが、本作のテーマが依拠する土台を完全に消滅させてしまった。ブッとんだセンスにばかり目が行きがちですが、基本的に物語文法への意識を強く持ったクレバーな作家なので、本作では「トガタを退場させたら、この物語はどうなるんだろう?」という悪魔の誘惑にあらがいきれなかったのだと思います。そして、「外見と演技によるアイデンティティ」というフレームが無くなり、そこから思想・信条・宗教・文化・歴史・地縁・血縁・道徳・倫理・勇気・信念を順に放棄していった上に地球まで破壊して、最後に残ったのが「愛」(と映画館)だったというのは、プラネテス級のドッちらけな幕引きでした。

 どっかの炎上ユーチューバーもそうですけど、自己認識が「300年を生きる魔女」であるうちは、歴史や人類のすべては他人事だし、おのれの主観だけでいくらでも何かを断罪することができます。身体の内側から「ファイア」が消えて、ただの寒暖が身をさいなむようになり、だれもが自分よりは優れていると感じるようになってからが、人生の本番なのではないでしょうか。 え、アンタが他人のこと言えるのかって? 小鳥猊下はネット黎明期から生きているレジェンドなので、すでにそのくびきからは逃れているよ! いつまでも安心して見ていられるね!