NOMAD メガロボクス2、見る。「あしたのジョー50周年企画」として再アニメ化が模索されたものの、「あおい輝彦と出崎統ぬきでジョーをやるなんて、キリストとヨハネぬきで聖書を書くみたいなもんだな」と冷静になり、舞台を近未来に移して登場人物も翻案したのが前作でした。ほぼ初代劇場版に沿った内容で進み、「力石徹に当たるキャラが死なない」という変更に作品テーマを重ねて、きれいに終わっていたように思います。これまで言及しなかったのは、「白都のお嬢様、原作と違って、クールというよりコールド」「サチヨって名前、少年のナリだけど、成長したら美少女の伏線だろうな」ぐらいの感想しか抱かなかったからです(ただ、ギアの設定は最後まで意味不明でしたが……)。
本作はその続編であり、劇場版第二作をなぞって力石徹の死からホセ・メンドーサ戦までのアレンジが描かれるのかと思いきや、ストーリーラインをまったくのオリジナルへと変更してきました。南米要素はそれこそ音楽ぐらいのもので、原作の後半パートを換骨奪胎し、作品テーマだけを取り出して新たな物語へと移植しているのです。「放浪者が家族を見つけ、安息の地に定住する」「未来のため、燃えつきるまで戦わない」がそれで、原作ジョーがたどりつく孤独と破滅の逆を描くことが強く意識されています。近年では非常にめずらしくなった、ガチガチにテーマ・オリエンティッドな作品であり、「間に合わないタオルと間に合うタオル」とか「放浪をやめた者から始める者へ引き継がれるバイク」とか、徹頭徹尾、主題が先行して描かれます。キャラクターはそれを表現すべく配置されており、長く鬱々としたビルドアップもいとわず、丁寧に丁寧に人物の背景と舞台を描いていく。かつてのセル画を思わせるアナログな描写も、他のアニメにはない独特な雰囲気を作り出すことに成功しています。
ただひとつ問題なのは、そこまでやってるのにぜんぜんおもしろくないことです。フィクションの魅力って、現実の地続きからはじまって、読者が気づかないうちにウソで離陸して、気づけばはるか上空を飛翔していることだと思うんですよ。メガロボクス2は、「現実を徒歩でかちゆき、ペースをあげないまま、同じ現実にたどりつく」話なんです。作り手の押し出したいテーマを語ることが最優先で、物語的なカタルシスはまったく与えられない。近年、ドラゴンクエストやらアンジェリークやら既存の虚構にビルドアップ部分をすべて依存して、カタルシスだけを描き続ける作品群が幅をきかせているのを苦々しく思っていましたが、メガロボクス2を最後まで我慢して見て、テーマ先行型のフィクションが廃れてしまった理由がよくわかりました。
だって、つまんないんだもん! 余力を残してるのにタオルでTKO負けするジョーなんて、だれが見たいんだよ! ヨーコとのロマンスを全面的にオミットしてどうすんだよ! リングで死ぬ覚悟を決めたのに、思わぬ告白をされて生きることへ未練が出て、世界戦の舞台でアパシー状態に陥るジョーとか最高に泣けるだろ! 「恋人を殴り殺された財閥令嬢が、なぜかオレのことを好きになってしまった件」だろ! 「鑑別所あがりのオレを追い回していた警官たちが、なぜかオレのために君が代を演奏している件」やろがい! そのくせ、サソリやらハチドリやら、ヤクザが作品の主題とおぼしきポエムや絵本を延々と朗読したり、作り手の自意識がダダ漏れになってんだよ! 話さえおもしろきゃ、テーマなんてどうだっていいんだよ!
面白くするためにわざと言い過ぎましたが、良い作品の条件とは「テーマの面白さとキャラクターの魅力が合致していること」だと、本作を通じて、あらためて確認できました。けれど、サチヨが男の子だったことだけは、本当にゆるせないです。え、サチオって言ってる? マジで? (ヘッドホンで確認して)ホンマや……クルーエリティ・オブ・エイジング!