猫を起こさないように
月: <span>2021年7月</span>
月: 2021年7月

アニメ「トップをねらえ2!」感想(だいぶエヴァ呪)

 ピのつくイベントがもたらした唯一の恩恵である連休を使って、「トップをねらえ2!」を通して見る。はてブ民との死闘でも伝えたと思いますが、原典至上主義者なので、この2も「あの名作の監督を変えて、パロディみたいな続編を作るなんて!」と、持ち前の潔癖さから視聴を拒否していました。それがシンエヴァで呪いが解けーーあ、カン違いしないで下さいよ! 監督がクリエイターとしての良心を持っているという思い込みが消えたという意味ですからね!ーーて、17年越しに本作の視聴へと至ったわけです。感想としては、これ、エヴァンゲリオンを主題とした変奏曲の第一楽章って感じですね。さらにグレンラガンの第二楽章、見てないけどダリフラ?の第三楽章へと続いていく、エヴァに影響を受けた作り手たちによるアンサーのひとつだと言えます。端的に言って、シンエヴァで見たいと思っていたものが少しは見れて、かなり楽しんだと思います(1話で主人公の下半身ばかりを執拗に映し続けるのには、正直どうしようかと思いましたが……)。

 そしてトップ2を見たことで、シンエヴァの構成について解像度が上がりました。トップ2はシンエヴァの副監督が作っており、前者の要素を後者から引き算すれば、監督が手がけたパートが明らかになるという寸法です。この視点でシンエヴァを腑分けすれば、序盤の第三村のロケハンが監督(レイ回りはたぶん副監督)、中盤から終盤にかけての戦闘が副監督、最終盤の補完計画が監督といった構成になるでしょうか。つまり、シンエヴァは表現手法による三幕構成の芝居になっているのです。序盤はロケハンとアングルの模索に特撮の手法、中盤から終盤はトップ2を彷彿とさせるロボットアクションの描写に「間に合わないから」コンテを切る従来の手法、最終盤は旧劇・新劇の過去素材に風景写真と鉛筆画を加えたテレビ版弐拾伍話・弐拾六話と同じコラージュの手法で、それぞれ作られています。シン・ゴジラのときも、最後の最後は「すべての素材を人質に、編集室へ立てこもった」ようですが、今回は編集のための素材が足りないあまり旧劇まで引っ張り出すハメになって、さぞかしご苦労なさったでしょう。まあ、マラソンを走るためにバットを素振りするみたいな、無駄な努力の総天然色見本となってしまったわけですが! 余裕があるときは社長先輩(笑)の顔で後発の育成の真似事をしたって、追い詰められると「100%自分の意志だけで画面を作れる」コラージュの手法へと退行してしまうことからもわかりますが、監督は自分以外のだれも信用していないし、だれかを育てる気なんてさらさらないんです。もっとも近くで彼を見てきたジブリの翁が「大人になれないひと」だと言明するように、監督は成長どころか「トップをねらえ!」の当時から一貫して何も変わっていません。シンエヴァ終盤の手法と終わらせ方が、それを強烈に裏書きしているではありませんか。

 考えれば考えるほど、この作品をもってして成熟や前進を語る人々の内面には、「精神の盲点」とも呼ぶべき病裡が潜んでいるとしか思えません。彼らの態度は、皮層的な雰囲気だけに流される、所謂「B層」と申しましょうか、為政者がいかようにも操縦可能な「大衆」そのものです。「なぜならば」、本邦においては学校教育の偉大な成果から、正解を持った人物が常にいると信じこまされ、社会に出た後も脳内に仮構したその「先生」へ向けて品行方正にふるまうタイプの人種が、かなりの数で存在するからです。そして、集団を指揮する側にとって彼らの態度は好都合なので、長じてからその心的な指向性を修正されることはありません。「:呪」のリンクを公式アカウントにぶら下げて、「こういうのも悪い影響を及ぼすと思う」とご注進に上がる人物を見たときは、愕然としましたね。「校則を守らない不良を、先生に言いつけて指導してもらう」という心性が、大人になっても維持され続けているんですもの!(ちなみに、この先生への信頼が反転したものが、野党的な言説です)

 新劇に「世界がまだ見ぬサイファイの新たな地平」を求めたのが求めすぎだったことは、もう残念ながら認めざるをえません。しかしながら、あんなグズグズの、煮過ぎて原型を留めなくなった豆腐みたいな結末を迎えるくらいなら、シンエヴァはトップ2水準のエンディングで必要十分だったし、監督が余計な色気(キモッ!)を出さなければ、まちがいなく達成できたと思いますよ。エヴァ変奏曲に携わったスタッフを擁しているのだから、せめて第三幕をすべて彼らの差配に預けて、普通のフィクションとして語り終えていれば、新劇の当初の志に含まれていただろう「ファンにエヴァを返す」という目的を、象徴的にも実際にも達成できていたのにと、いつまでも悔やまれてなりません。

 これが最後のシンエヴァ語りになることを祈りつつ、終わります。

映画「ブルージャスミン」感想

 リのつくイベントの開会式が、「よーちよち、就職アイスエイジのうるさがたのボクがだいちゅきな、ゲーム音楽でちゅよー、ドラクエうれちいねー」とあやしてきたので、正拳突きで画面を叩き割り、テレビの残骸に傲然とそびらを向けると、シアターの棚に7年ほど眠っていたブルージャスミンを再生する。あれ、なんでこれ買ったんだったかなーと思ってたら、ケイト・ブランシェットが主演だったからでした。最近は小さな画面でアニメばかり見ていたこともあり、大きな画面に映し出される生身の人間の情報量に圧倒されました。姉妹の関係性に説得力を持たせる、絶妙なルックスをしたサリー・ホーキンスだけでもスーパーカブの100倍くらいあるのに、ケイト・ブランシェットの演技ときたら、さらにその1000倍ぐらいの情報量が濃縮されているのです。アニメで作れば、とても間が持たないようなストーリーなのに、女優の肉の実在へどうしようもなく視線を釘づけにされてしまう。輝くような笑顔から突然すべての表情が消失し、涙に溶けたマスカラで隈取られた老木のウロのごとき視線がカメラを向いた瞬間、ほとんど金縛りのような感覚を味わいました。

 あと、社会的地位を得るために出産適齢期を消費した男女が養子を取って家族を作るのって、キリスト教文化に根差してるんでしょうけど、本邦ではあまり見ない選択肢ですね。新世界だからこそ、ヨーロッパ的な「氏」とか「家」とか「血」の否定に、逆張りみたいな力学が作用しているのかもしれません。まあ、監督・脚本がウディ・アレンなので、彼の個人的な生育史から来ているアンコモンなケースという可能性もありますが、実際のところはどうなんでしょうか。女性たちの愚かさへ向けた視点が非常に皮肉っぽいのも、ウディ・アレンだなあって感じです。「まあボクの経験上、女なんていうのはすべて、ブルージャスミンの姉か妹にカテゴリできるんだよ」ぐらいに思ってるのかもしれません。

 それと、妹の子どもたちが男の子でよかったと思いました。女の子だったら、作品テーマがそこに向けて曲がっていったでしょうから!

映画「劇場版 少女☆歌劇レビュースタァライト」感想(ハサウェイ未遂)

 「よし、ハサウェイ見に行くぞ!」と何度も声に出すことで己を鼓舞し、イヤイヤ映画館に行ってきました。んで、ハサウェイのチケット買おうとしたら、タッチパネルのボタンが暗転してて押せないの。「エッ エッ 大人気……ってコト?」などとスモプリ(small and prettyの略で、nWoの登録商標)の顔でうろたえてたら、単に上映開始時間を過ぎているだけでした。どうやら、違う映画館のサイトを調べていたようで、オマケになぜか1日1回しか上映してません。やはり、ガンダムには縁が無いのだと、ガックリ肩を落として帰ろうとしたら、「待って、劇場でハサウェイのブルーレイ販売してるよ」って、インターネットがささやいてきました。「ワッ ワッ 買って帰れば、家でハサウェイ見られる……ってコト?」などとスモプリの顔で喜んでいると、「でも、劇場でハサウェイ見ないと売ってもらえないよ」ってインターネットが再びささやいてきたのです。これには無数のクエスチョンマークがスモプリの脳裏を乱舞し、「エッ エッ ハサウェイ見たらもうハサウェイ見る必要ないのにハサウェイ見ないとハサウェイ見られない……ってコト?」と大混乱に陥りました。ビニル製のサイフに千円札と小銭がパンパンに詰まっている、サウジアラビアの王族とは縁もゆかりもない富豪だというのに、欲しい商品を売ってもらえないのです。

 ちなみに、ビニル製のサイフをバリバリゆわせながらオープンし、おつりの出ないよう1円単位の小銭までキッチリ支払うことの文化的対偶が何か、この場を借りてお伝えしておきましょう。赤銅色の肌をした白人ファーマーがガッデム・ビッグなトラクターで荒野のガススタンド兼雑貨店に乗り付け、ジーンズのポケットから直に取り出したシワくちゃのドル紙幣を指で伸ばしながら、コークと洋ピン誌とともにカウンターへ置くことが、それに相当します。

 閑話休題。シンエヴァの興収が100億を超える一方、ハサウェイは15億どまりなので、エヴァがガンダムに勝ったなんて話も聞こえてきますが、興収なんて飾りに過ぎんのですよ、偉い人にはそれがわからんのです(ガンダム下手が露呈)。客単価を考えれば、シンエヴァの各種割引もある1500円に対して、ハサウェイは定額1900円(ひどい)プラス特典付きブルーレイ1万円と、単純計算で8倍ほどにもなります。興収に変換すれば120億、いや、シンエヴァはハサウェイの5倍ほど長く上映していますから、実質は600億ほどの売り上げを達成したと見なしてよいでしょう。40年間にわたり時代に応じた派生作品たちを次々と生み出し続ける豊饒な商いは、25年間にわたり依怙地なまでに固執した同じキャラと同じロボットと同じストーリーをさらにパチンコで薄めてほとんど軟便みたいになった単品コンテンツとは、比較にすらなりません。閃光のハサウェイ、ファンの記憶に汚物をなすりつけてでも記録に残りたいシンエヴァとは真逆の、成熟した大人を転がして喜んでカネを払わせる、堂々たる商売だと言えましょう。まだ見てへんけど。

 んで、このまま帰るのもシャクなので、ロビーで時間をつぶして、ハサウェイの代わりに話題のレビュースタァライトを見ました。そしたら、あまりにビックリして、腰が抜けました。タイムラインへあれだけの激賞しか流れてこないのに、ここまで1ミリも気持ちがシンクロしない映画って、ある? もしかすると、演劇や舞台に関わった方にだけ、引っかかるフックが仕込まれているのかもしれません。一言でまとめてしまうと、「宝塚音楽学校を舞台にした少女革命ウテナ」なんですけど、徹頭徹尾、頭で考えて、理性の内側で作ってる感じがしました。一見して不条理にうつる演出とか同じモチーフの執拗な繰り返しって、絵画で言うとゾンネンシュターンとか、映画で言うとヤン・シュヴァンクマイエルとか、アニメで言うと幾原邦彦とか、作り手が内的衝動に突き動かされて、どうしようもなくそう表現してしまうところに、観客は圧倒されるわけです。この作品は、そういった欲動の放出を一方的に浴びせるのではなく、勉強に使ったノートを隣りに座って丁寧に説明してもらっているような印象を受けました。破綻と不条理を表現のよすがとしながら、どこどこまでも理性的で、けっして狂うことがないと見すかされてしまう感じです。あと、デュエルとデュエルの間に挿入される回想シーンがけっこう長くて、ダレました。それと、歌劇モノなのに歌唱が耳に残らないのも、説得力を弱めているように感じました。マクロス方式で、歌パートだけタカラジェンヌに任せた「アタシ・再録音」バージョンを作りましょう(無茶ぶり)。

 いろいろ言いましたが、これらは偶然みかけたラーメン屋の行列へならんで味にガッカリするような、個人的な「好悪」の話であって、作品への「評価」でないことは強調しておきます。たぶん、私はこの舞台の「観客」ではなかったということでしょう。え、家人の感想を聞きたいって? 生粋の関西圏パンピーであり、「しょうもな。これやったら倍はろて、大劇場のB席とるわ」とか言われたらイヤなので、連れてってません。もちろん、見に行ったことも言いませんよ!

漫画「奈良へ」感想

 「奈良へ」読む。奈良県北部在住なので物語の舞台が生活圏と重なり、ほぼすべてのコマのロケーションがわかって、メチャクチャ面白かった。「奈良高やったら大丈夫やろ」みたいな、下手な帝大より公立トップ校の方が通りがいいのも、わかるなーって感じ。

 県民ではない人物の感想は巻末の解説を読んでいただくとして、奈良の住人(非ネイティブ)から見ても、土着の方々(ネイティブ)の無意識に流れているナチュラルな差別意識の感じが、とてもうまく描かれていると思いました。「奈良町ってオシャレですよね!」「あんなもん、花街やないの。三条通りから向こうに子ども行かしたらあかんで」とか、「王寺って日本一住みよい町なんですって!」「あんなもん、××業者の溜まり場やで。すぐ水つかるし、住むとこやないわ」とか、呼吸するように出てきますからね!

 これこそ、私がネットを「世界の半分」だと感じる理由であるし、いくら「正しい」と思われる「進歩的な」場所へと目盛りを指す矢印を押していったところで、手を離せば土着の方が座っているあのゼロ地点へと向かって、自動的にジワーッと戻っていくと感じるわけですよ。それに、目盛りの矢印を押してる方々って、末代が多いように見えるし……って、アンタもだいぶ意識を奈良県に毒されとりますな!

 観光向けに作られた奈良のイメージではなく、粗野で猥雑な「卑」の部分を味わいたい向きに、「奈良へ」、超オススメです。

映画「三島由紀夫vs東大全共闘」感想

 そろそろオのつくイベントの舞台裏感動垂れ流しが始まりつつあるので、テレビの電源を引っこ抜いてアマプラのクソ重いユーアイをグリグリと先行入力していたら、「三島由紀夫vs東大全共闘」が配信されているのを発見した。大海を思わせる膨大な配信コンテンツの中で、何を視聴するかというのは、もはや意志を伴わせることが難しく、運や偶然でしかなくなってきましたね。昔、まともに就職できなかった学生運動崩れの溜まり場みたいな中小企業に関わったことがあり、あの手の連中を感化させた思想の上澄みに触れておきたい気分もありました。昔の大企業は、SNSを若手に実名サーチさせる以上の人定作業をキチッとやっていたので、全共闘の幹部とかコミュニストは書類段階ではじかれるんですけど、人事の甘い中小企業なんかがいったんひとりを入れてしまうと、どんどん仲間を呼んで企業風土を汚染して、過去との断絶を作っちゃうんですよね。

 まあ、これはどうでもいいので、話を「三島由紀夫バーサス」へと戻します。感想としては、三島由紀夫があまりに強すぎることと、トーキョー・ユニブだろうがトーヨー・ユニブだろうが文系はおしなべてクソで、いつの時代も感情で都度ブレるうわごとしか発さないことがわかりました。どいつもこいつもこれまで見てきた学生運動崩れのオッサン、オバハンの話法にソックリ(当たり前)で、人間の集団に生かしてもらう程度の才覚しか持たないのに、その運営へ責任を負う気はいっさい無い連中の放言を我慢強く聞いて、駄々ッ子をさとすように言いふくめる三島先生の姿には、我が身の過去を重ねて涙が出てきました(やはり、「転生したら小鳥猊下だった」のでしょうか?)。学生サイドは、全体として言っていることが観念的で弱すぎ、特定の思想を運動の支柱にしたというよりは、土着の同調圧力で全国的な暴動にまで至ったんだなーとあらためて感じました。当時SNSがあったら暴動は起こらなかった気がするし、今日SNSがなければ暴動が起きておかしくない素地はすでに存在するでしょう。いずれにせよ、感情の乗り物である文系人間は昆虫と同じで環境への反射以外の行動を持たず、いつの時代も本当にクソだな、という印象を強くしました。

 ただ、娘を連れて討論に参加していた演劇畑の学生だけは、圧倒的な「狂」と「暴」の雰囲気をはらんだ老人になっていて、目の奥には半世紀を経た今でもまだ革命の火が燃えており、文系が意思の力で保てる一貫性もあるのだと感心させられました。この人物は反体制派の極北ですが、体制側に入り込むことのできた演劇人が見せる、驚くような臭気を放つ傲慢さの根っこには、彼の抱く革命思想と共通したものがある気がします。そして、いまの若いネット論客たちにこういう人物と差し向かいで議論する胆力があるとは思えません。晩年の三島由紀夫が肉体改造と武芸に傾倒していったのは、「いつでもお前を殺せる」という感覚で人と対峙するためでしょう。だから、スネかじり大学生どもの無礼な態度にも、寛容な微笑で対応することができたのです。なんとなれば、この世界では「死」だけが、いつでも、いつまでも特別だからです。「死」に至る「暴力」を封鎖されたこの場所で、革命は起こり得ません。もし私が体制側に属していれば、大衆をコントロールする有効な手段として、SNSでの言論にパワーがあると思い込ませることを目指すでしょう。そして、SNS以外の場所でいま、だれが、どう考えて、何を準備しているのかを想像することは、とても楽しい遊びです。あるいは、SNSの外にもう人間と呼べる存在はいないのでしょうか。

映画「ホーリーチキン」感想

 ホーリーチキンの監督ですけど、父親から受けた虐待への怒りをファストフードに、虐待を止めなかった母親への恨みを女性へのセクハラに、それらに起因する生きづらさをアルコールへの耽溺に向けているように見えます。数学の才能が無いグッド・ウィル・ハンティングとでも申しましょうか、良いセラピーを受けたら負の感情がすべて消えて宗教家にでもなりそうな、典型的な西洋型トラウマ人格であると指摘できるでしょう。前作のスーパー・サイズ・ミーは、ドキュメンタリーのていをしながら、ビックマックを食べてからゲロするみたいに、落とし込みたい文脈への誘導が非常に強くて、個人的に社会批評としてはあまり刺さらず、視聴後もモリモリとバーガーを食らい続けてきました。それが今回は、鶏肉産業が抱える問題に対して警鐘を鳴らすためだけにファストフード店の設立へまで至っており、前作と比べても社会批判の強度が格段に上がったように感じました。

 このへんの経緯には、アカデミアの雇われを辞して会社を設立したイーストちゃんの手法を想起させられました。ブロックされてるので何が起きてるかあまりわかってませんけど、わざわざ低みへと下りていって感情でプロレスするところも似てるような気がします。前にも書いたけど、彼にはやっぱり酔わずにしゃべってほしいし、できることなら文筆だけで思想を表現してほしい。みなさん、すぐルッキズムとかおっしゃいますけど、人前で話をするのって、声のコントロールを含めた外観の総合を見せる技術だと思うわけですよ。その訓練を受けていない人が、純粋に話の内容だけで判断してくれと言っても、外見に引っ張られず聞くには受け手側へ相当の知性と自制が要求されます。イーストちゃん、社員に軽んじられることを著書で嘆いてたけど、原因の7割くらいは話し方だと思うんですよねー(残りの3割は、本人が克服したと信じているマッチョイズム)。最後に彼の語りを聞いたのは、シンエヴァ公開当日の動画ですけど、まー、これがひどかった。忖度の眼差し(「シンエヴァが傑作だ」というトーンが決まるまでの様子とか)を向けながら、表向きは無頼なマッチョのようにふるまう追従者2名を前に、酔っ払いながら甲高い声で早口に話す様子は、彼の来歴とエヴァとの関わりを知らない者が見たら、即座に印象だけでチャンネルを変えたことでしょう。何度でも繰り返しますけど、イーストちゃんにはやっぱり酔わずにしゃべってほしいし、できることなら文筆だけで思想を表現してほしい。

 だいぶ脱線したので、話をホーリーチキンへ戻します。最初の店舗が2016年にオープンしたみたいですけど、現状はどうなってるんでしょうか。ちょっと調べた感じだと、2019年で更新の止まったツイッター・アカウントと、フランチャイズを募集するホームページが残っているだけのようです。もし、ホーリーチキンがフランチャイズで全米へと広がって、ナンバー1シェアのチキンサンド・チェーンとなり、同時に鶏肉産業の闇が明るみに引き出されて衰退して、結果ホーリーチキンも順に閉鎖へと追い込まれるみたいな展開になれば、実効的な究極の社会批評が完成するのになあと思いました。

アニメ「逆襲のシャア」感想

 古いオタクとして恥をしのんで告白しますが、わたくし、ガンダムの単位を履修していないと申しましょうか、ストーリーをほとんど理解できていないんです。なぜ唐突にこんな話をしてるかというと、タイムラインに「閃光のハサウェイ」の激賞ばかりが流れてきて、これは見に行くしかないのかと、復習のため「逆襲のシャア」をアマプラで流し始めたら、ガンダムに対して長く抱いていた劣等感みたいな気持ちを、またぞろ追体験してしまったからです。特にこの逆シャアは、例えるなら私大文系にとっての高等数学みたいなもので、必死に理路を追いかけようとしても、途中で毎回ふり落とされてしまいます。なんとかストーリーに食らいついていっても、突然の場面転換や独特の台詞回し(汚なプレシャア?)に一瞬、理解を脱線させられ、そうなると元の線路へと戻る前にストーリーが先へと進んでいって、視聴するというより、ただ眺めているだけになってしまう。ならば、モビルスーツのアクションを楽しもうと試みても、付けられた効果音が少ない(宇宙空間だから?)せいか、流麗な動きがスーッと目の前を流れていって、いま何が起きているのか、だれとだれが戦っているのか、やはりわからなくなってしまうのです。ストーリーもアクションもわからなければ、残されるのは言語化できない印象だけとなり、私にとってガンダムはずっと「夢と記憶の物語」ーー以前Fallout3について書いた雑文のようにーーであり続けているのです。内容が理解できないから、ガンダムを思い出すときは、それに紐づいた現実の記憶ばかりがよみがえってきます。小学生の頃、主人公機のプラモはすべて売り切れで、駅前の模型屋で作中に登場しないゾゴックと姫路城の抱き合わせを買わされた話は、すでにしたような気がします。イズミヤのワゴンで見つけた、作中に登場したかは知らないギャンとかいうのに、加減がわからず元の造形が変わるほど塗料をドボドボに塗りつけ、部屋へ充満したシンナー臭に気分が悪くなったのが、人生でプラモを作った最後です。あと、「144分の1スケール」という意味があるのかわからない中途半端な縮尺に首をかしげたことが、私を理系から遠ざけたのではないかと少し疑っています。「逆襲のシャア」は、たぶん神戸の映画館で見ていると思うのですが、脳裏に浮かぶのはロビーから直接スクリーンが見える、扉も壁も無い劇場のイメージで、それが記憶なのか夢なのかさえ定かではありません。そのとき、劇場で見た(と信じる)エンディングは、ガンダムが隕石を押し戻せたか不明のまま、カメラが引いていって地球の輪郭から太陽の光が広がるというもので、エンドロールには女性ボーカルの曲が流れていました。今回、アマプラで最後まで見たら内容がまったく違っていて、己のガンダム作品に対する親和性の低さと記憶の不確かさへ、あらためて愕然とさせられた次第です。この程度のガンダム解像度で「閃光のハサウェイ」を見に行って楽しめるだろうか、そろそろ上映も終わるし、どうしたものかな……などと、いつもの保留グセで決断を先送りにしながら、今日も今日とてFF11をプレイしつつ、ホーリーチキンを見てしまいました。このドキュメンタリー、ガンダムで例えるなら、連邦の気持ちを理解するためにシャアがイチから反乱軍を組織するみたいな内容なんですよ。え、的外れな要約からガンダム下手が伝わってきますね、だって? スーパー・サイズ・ミー(不条理オチ)!

映画「トゥモロー・ウォー」感想(少しエヴァ呪)

 見終わった直後、オレの両のマナコからは熱い涙がほとばしっていた。これこそ、ほんの30年ほど前のハリウッド映画に満ち満ちていた熱気ーー最高にアタマの悪いシナリオで、最高に政治的にも倫理的にも正しくなくて、最高に無駄な爆薬を使いまくった、最高に女どもに配慮しない、最高の男たちが演じる、最高の超B級アクション映画である! ネコ飼いにとってはトラウマになるだろう、むやみと気持ち悪いエイリアンの造形も、ギーガーのそれを更新していて(言い過ぎ)必見級の仕上がりだ!

 まあ、改変可能な直列宇宙の設定で始まったのに、父娘の会話ではいつのまにか互いを改変できない並列宇宙の話になっていたりとか、細かいツッコミどころはそれこそ無数にある。特に終盤、娘が生命を賭して父に託した対エイリアン毒薬を持参しながら、ロシアの凍土に眠る敵の宇宙船を結局は爆破で始末したのには心底ビビッたし、そこからメスが一匹逃げ出したのには脚本家が伏線を忘れていなかったとホッと胸をなでおろした。大爆発を背に両手足をジタバタさせながらスローモーションで退避ジャンプする主人公の姿にはアナクロな懐かしさで胸がジンとしたし、スノーモービルをエイリアンの横ッ面にぶちかましたときにはインディージョーンズを思い出して少年のような歓声をあげた。よく見れば、主人公の父親ってショーン・コネリーに似てない(言い過ぎ)? そして、メスのエイリアンを父と子の共闘で追いつめたあげく、なんとステゴロで倒しかけたのには映画前半の脚本家が途中で降板させられたのかとドキドキしたし、毒薬入りの試験菅を握りしめて口腔へのパンチをぶちかましたときには思わずガッツポーズが出た。にもかかわらず、主人公が「死ねーッ!」と叫びながら繰り出したナガブチキックと崖からの落下ダメージがエイリアンの直接の死因になったのには、心底ビビッた。

 おっと、カン違いしちゃいけないぜ、オレはこの作品をけなそうとしてるわけじゃあない。この映画では、旧来的な家父長制に対するトラウマ由来の神経症的疑念など一秒たりとも脳裏をよぎったことのない、最高に熱い男たちによる家族賛歌というテーマが、剛直した鉄棒のように2時間18分をズドンと貫いていた。「オレの未来はいつだって、目の前にいる家族なんだと気づいたぜ!」みたいな強い胸ヤケを誘発するセリフから、主人公の顔面の堂々たるアップでエンドロールへと移った瞬間、オレは全裸のまま立ち上がって拍手をしていた。同時に、両のマナコから滂沱と流れる熱い液体が頬を濡らしていた。結局のところ、アタマが悪い制作陣がひらきなおって全力で作ったアタマの悪い映画は、ストーリーの整合性が支離滅裂でも、ほとばしる熱いパトス(笑)でぜんぜん見られるし、なんなら感動までさせられる。本邦で言えば、島本和彦作品(失礼)がそれに当たるだろう。

 一方で、シンエヴァみたくアタマの悪い制作者がアタマの悪いことに自覚的でなく、観客にアタマが良いと見られたいという作り方をした映画は、ふんぷんたる自意識の悪臭にまみれて、とても見られたものじゃない。旧劇はかしこいオレたちのための映画だったのに、シンエヴァはアホのヤンキーどもがベソベソとエヴァ泣きする、心底アタマの悪い映画にさせられちまった。どんな映像作品を見てもシンエヴァのことが思い出されちまうのは、最悪の精神汚染だぜ。なに、今週末に予定されている最後の舞台あいさつは見に行くんですか、だと? 確認はしてないが、どうせ安全圏の太鼓持ちゲストばかりと台本ありでする、ノット感謝・バット集金の銭ゲバあいさつだろうな! 本当にファンの方を向いて感謝していれば、Qを破棄して当初の予定通り破の続きを語る続編になっただろうし、いまみたく無様にジタバタすることもなく、もっと早い段階で興収100億を突破できていたはずだ! ただ、安野モヨコが司会をつとめ、降板した副監督と退社したイラストレーターをゲストとして招いて、監督の前でカヲル・加持・冬月の声優がアスカの声優にウザがらみするのを台本なしの時間無制限でやるなら、万難を排して見に行くことを約束しよう!

 最後に話をトゥモロー・ウォーに戻すが、デジタル配信のおかげでアメリカの映倫的な組織を通さず、こんなにも倫理観のアップデートされていない、最高に古臭い最高のバカ映画を見られているのだとしたら、とんだ怪我(人類規模の)の功名だったと言えよう。そして、最高の映画を最高の悪文で紹介した最高のオレは、今夜は最高にクールに去るぜ。

アニメ「オッドタクシー」感想

 恩人が言及してたオッドタクシーをなにげなく見始めたら、脚本がとてもとてもすばらしい。「ミステリー仕立ての群像劇長編漫才」ってコンセプト、メチャクチャ新しいなーと感心してたら、第4話が心のいちばん深くてやわらかい部分へ、返しのついた針の如く斜めにブッ刺さって、抜けなくなった。待って待って、これドグラ・マグラの売り文句みたく、心の防壁(ATフィールド)を立てずに受け入れたら、気が狂うか人を殺すまで行くやつ。油断してたとはいえ、ちょっと尋常じゃない。

 オッドタクシー、最終話まで見終わった。シナリオの構成が海外ドラマのトップ層と同じレベル。早晩、ハリウッドで西洋文化に翻案したものが実写化されると思います。なんとなれば、近年はクソどうでもいい(私にとって)ヒーローもの映画が、マルチバースの名の下に連発されているように、現地では良質な原作が枯渇状態にあるからです。「ODD TAXI」が「OD TAXI」でもあった(私的解釈)というオチには感動しましたし、名作に対しては「まあ、とりあえず見てよ。損はさせないから」以外に費やす言葉は無いわけですが、気になった点を少し述べたいと思います。もちろん、これらの難クセが作品の価値を減じることは、いっさいありません。まず、大オチを隠すためだとは重々承知しながら、オド川がいない場面のカメラが彼の主観と同じものを映していたのは、ミステリーとしての説明が難しいところです。あと、タクシー運転手と精神科医とチンピラと大学生の動画配信者が同じ知能の同じ語彙で話をしているというのは、冷静に考えると不自然かもしれません。語彙つながりで言えば、「魂と肉体が『剥離(はくり)』してる」ってセリフがあって、明らかな誤用です。この場合は、「乖離(かいり)」が正しいでしょう。これだけの脚本を書く方が間違えるとも思えませんから、声優の誤読を音響監督がスルーした可能性があります。クレバーな雰囲気が一瞬シラけましたから、ぜひ再録で修正して下さい。それと、優しい読後感は嫌いじゃないし、個人的な好みの話になるけど、第4話の彼はジョーカーとしてキッチリ破滅させてほしかったです。

 いろいろ言ったけど、まあ、とりあえず見てよ。損はさせないから。

アニメ「スーパーカブ(最終話)」感想

 アニメ「スーパーカブ(11話)」感想

 スーパーカブ、最終話を見る。富士山に登る話とシーちょう救助の話をはぶいて、このツーリングを3話くらいかけてやれば、かなりマシな読後感になったのになーと思いました。しかし、最終話を見て強く感じたのは、これが多くのファンタジーと現実のオミットによって成立している物語だということです。まず私がシーちょうの親なら、うろんな友人たちとのバイク(しかも、スーパーカブ)による西日本横断の旅なんてぜったいに許さないでしょう。ソロでキャンプをするアニメもそうですけど、単独行動する若い女性たちへ向けた男性たちの危険な劣情を、わざと脱落させることで物語を成立させてませんか。次に、スーパーカブの「スーパーカブが守ってくれる 」という言葉は大ウソで、単車での交通事故がライダーにどれほど悲惨な結果をもたらすかは、皆さまもよくご存じのことでしょう。「出発1時間後に入念な整備をすることで安全が得られる」みたいな語りがありましたけど、どれだけ注意したところで、無謀な運転手からのもらい事故は避けようがありません。そして最も大きなファンタジーは、本作において乗用車と歩行者がほとんど申しわけ程度にしか描写されないところでしょう。車なしでは生活できない試練の大地・ナラフォルニア在住だからわかるのですが、乗用車と歩行者とバイクによる三すくみのトライアングルは、互いが互いを「死ね」と思っている実線で構成されています。つまり本作では、狭い車線を時速40kmくらいでチンタラ先行するバイクへと向けられた乗用車からのまなざしと舌打ちが削除されており、だからこそ爽やかなロードムービー感を醸成できているのです。

 スーパーカブ、1話は主人公の語りがほぼ存在せず、演出のみで見せていく形だったため、まんまとだまされてしまいましたが、この人物(イコール作者)の自意識がかなり独特であることが、あとになってどんどん判明していきました。原作では男性バイカーのむこうずねを靴で蹴り上げるシーンまであるようで、ファーストインプレッションからカン違いしたこちらが悪いのですが、やはり相当に奇矯な性格のキャラクターだと言えましょう。話は少しそれ、たぶんそれたまま終わりますけど、フィクションの中で女性が男性にフィジカルで優越する描写って、近年とみに多くなってきたように思います。これ、現実の若い女性にとって悪い教育になってませんかね? むこうずねを蹴り上げた男性は逆襲してこないし、逆襲してきても返り討ちにできるって思いこむようになりません? まあ、現代社会で全力のフィジカルをぶつけあう瞬間なんてスポーツ以外にほぼないわけですが、フィクションによる補正を無視して、「男性とやりあっても勝てる」という刷り込みが若い女性たちに生じるのだとしたら、日常のある瞬間に決定的な悲劇をもたらす原因になってしまわないか、心配します。ネットでペロペロと論議なさってる方々もそうですけど、「対面することの圧力」と「肉による暴力の予期」って、現実のコミュニケーションにまま生じる摩擦係数で、これを無視した計算でシューッと気持ちよく滑っている感じは、私にとってなんだかモゾモゾと気持ち悪いものです。