猫を起こさないように
日: <span>2021年6月22日</span>
日: 2021年6月22日

アニメ「SHIROBAKO」感想

テレビ版

 いまさら「SHIROBAKO」見終わった。数年前に1話を再生したんだけど、学校で自主アニメ作ってるナード階層なのに全員がキラキラ美少女なことへクラクラして、長く視聴を止めてしまっていたのでした。今回はFF11のおかげでそこを越えて、主人公が制作会社に勤めるところまで進んだら、文系クソ仕事のリアルが描かれていてメチャクチャ面白いじゃないですか! あとから見る人のためにモエ・コション(仏語)向けじゃなくて、もっと正しく作品を評した感想テキストを書いておいてくださいよ、もう! 私が日々やってる仕事も業界こそ違えど、たぶんアニメの制作デスクと似たようなものです。組織に所属するすべての人間をプロジェクトの文脈に落とし込んで、目標が達成されるまで、きしむ歯車に潤滑油を差したり交換したりを繰り返して、とにかく計画を前へと進めていく。人間が人間であるがゆえに存在する業務であり、肩書きが付随してカネ払いが良かろうと、実際には歯車ひとつほどの価値もない中身なのです。目標を達成した後に作品が残るだけ、アニメの制作デスクはずいぶんとマシな仕事に見えました。

 しかしながら、爽快感やワンダーとは遠い文系クソ仕事をアニメとして見せるために、5人の若い美少女たちの成長譚にしているのは、しょうがないとは言え、ところどころにチグハグ感が出ています。顕著なのは男女のキャラデザの差異で、美味しんぼの郷土料理編で実在の人物を模写したような男性が、顔面の3分の2を眼球で占拠された美少女に詰め寄られるシーンを見たとき、実存のゆらぎにめまいがしました。別々に映っている場合にはそれほど気にならないのですが、同一画面に入るともはや系統の異なった生物にしか見えなくなっています。そして、女性キャラのデザインは、年齢が上がるほどに眼球が小さくなっていく仕組みなのです。でもこれは、モエ・コション向けのアニメ全般に当てはまるルールでしょう。「セクシャルな消費は眼球から行われる(だから、加齢で縮む)」のは、この業界に古くからある不文律なのかもしれませんね。

 またぞろ昔の調子で「萌え」を茶化してしまいましたが、ストーリー自体はすごく良くできていて、登場人物の感情の流れにいっさいの矛盾がありません。そして特に、年かさの男性たちにまつわる挿話には、どれもグッとさせられました。社内の喧騒から離れて定時退社する初老の男性が、じつはかつてのスーパーアニメーターであり、彼の働きがプロジェクトの危機を救う話には思わず涙がこぼれました。世代の分断が声高に叫ばれ、被害者だからこそ、どれだけ横暴にふるまっても許されるという態度が横行する中、本当に力のある年配の人物ほど節度を保って出しゃばらず、ただ静かに終わりのときが来るのを待っている。そういう人物を見出して組織の現在に関与させ、「だれひとり排除しない」ことが、結果として大願の成就へとつながっていく。拙作「MMGF!」を読んでもらうとわかると思いますが、こういった組織人たちの協働の様子は、私の内側に強い感動を惹起するようです。もしかすると、指輪物語の「もっともとるにたらない者から、もっともいやしい者へとかけられた小さな情けが、世界を救う」というあのモチーフにも、影響を受けているのかもしれません。特に現実では相手がだれであれ、人を粗末に扱っていいことなんて、ひとつもありませんからね(オマエが言うなって顔してる)。また、寡作で知られる背景美術のレジェンドが、「映画監督になりたかったけど、誘われてこの仕事を始めたら面白くなって、気づいたら三十年も経っていた」みたいな独白をするシーンがあるんですけど、まさに仕事の本質を言い当てている気がします。世間に言われているほどには、人が仕事を選べることはまれで、仕事が人を選び、やがて人が仕事そのものとなる。私はそのプロセスをずっと傍観する立ち場にあり、とても腑に落ちる感覚だと思いました。特に文系クソ仕事に従事するだれかは、人間関係の中でしか何者かにはなれないのです(理系のアナタには、この自己決定権の無さを想像できないでしょう)。

 話は大きくそれますが、今回FGO第2部6章を読んでいてガツンとやられたのは、敵が主人公を評した「君より強いヤツや賢いヤツはいくらでも見てきた。けど、君ほど運と仲間に恵まれたヤツはいない」という言葉です。これはたぶんファンガスの自己認識である(だから、大金が転がりこんでも手が止まらないし、狂わない)と同時に、「強くて、賢い」ことだけを追求する、最近のSNS界隈における風潮へ向けた遠回しな揶揄のような気がしました。そして隙あらば自分語り、私には運も仲間も無いので、ずっとどこへも行けないまま、インターネットに幽閉されているのです。

 話をSHIROBAKOへと戻しますと、最終回の手前である漫画家が吐露する「主人公が本当に立ち直れるのかどうか、僕にはまだわからない。もしかすると立ち直れないかもしれない。だから、アニメでも簡単に立ち直らせてほしくない」という言葉、これこそすべての創作者が持つべき視座ではないでしょうか。言葉というのは世界認識の道具であり、我々は抽象と具象、直面する様々な事物に言葉をかぶせて個人的な理解の文脈を作る。それは目の前に事物が存在しないフィクションを物語るときも同じでしょう。事物が無いから自在に曲げることができるように見えるだけで、現実と同じく制約は確かに存在する。シンエヴァ(いい加減にしたら?)は、具象に対しては丁寧にセットを作ったり入念なロケハンをしながら、人間の心という抽象に対してはそれをしなかった。声優に「シンジを立ち直らせたいんだけど、どうやったら立ち直ると思う?」なんて聞いている時点ーー「立ち直れない」なんて選択肢はハナから無いーーで、作品の失敗は約束されていましたね。

 物語の後半、コミュニケーションの苦手な吃音ぎみの女性アニメーターが出てくるんですけど、どうしても「外見が可愛いから許されてるし、成り立ってるように見えるんじゃねえの」って気持ちになってしまいました。アニメ制作会社の実態と男性の関係者たちが非常にリアルに描かれる一方で、女性キャラクターたちについては虚構内のデフォルメによる手加減があって、否応に「美醜の問題」を想起せざるをえません。解決する必要もないんですが、モエ・アニメにおいては「醜」にまつわる苦悩や生じる問題が、女性サイドにおいてはいっさい脱色されてしまうのは、いつも引っかかります。特に本作は、アニメ制作の裏舞台を生々しく描いているので、男女の扱いのギャップが余計に気になりました。劇場版は未見ですが、「5人の美少女たちはアニメキャラなので、元よりこの世界には存在していませんでした」みたいなメタ・エンディングーー5人がいない制作会社の日常風景を実写で映して幕(エヴァからの悪い影響)ーーを迎えていても納得するだろう気分は、手放しで賞賛する裏側に少しあります。

 あと、車の挙動がいつも初代リッジレーサーなのは笑いました。それと、シナリオライターの「舞茸しめじ」って、ファンガスがモデルなの?

劇場版

 SHIROBAKO劇場版、見る。特に新しい登場人物が出てくることもなく、テレビ版からテーマの更新があるわけでもなく、蛇足感の強い後日譚でした。監督と原作者の対話で描き切ったはずの作品が、シリーズを重ねるうちに萌えというにはドぎついエロへと変じていったという顛末も、業界への批判に見せかけながら男性の観客に向けたサービスって感じで、「テレビ版の感動を汚すなよなー」って思いました。個人的な嗜好を言えば、終盤の上昇を演出するために序盤で大きく下降させるプラマイゼロの作劇は、あまり感心できません。

 しかしながら、キャラクターの内面をめぐって葛藤するシナリオライターたちの話は、涙腺にグッときました。ヒデアキに彼らの爪のアカを煎じて飲ませたいですね。まさに、この視点が存在しなかったからこそ、シンエヴァは珍奇かつ珍妙かつ滑稽な、自我のある等身大の人物をデフォルメたっぷりの人形に変じたあげく、赤子がそれらを両手につかんで幼稚な妄想を繰り広げる、「バブバブごっこ遊び」になってしまったんですからね! 劇中のセリフ、「不肖の弟子じゃない、商売敵だ」になぞらえて言うなら、「責任ある大人じゃない、オギャ丸バブ夫だ」みたいな感じですかね?(もうムチャクチャ)