猫を起こさないように
日: <span>2021年3月21日</span>
日: 2021年3月21日

映画「TENET」感想

 何の、とは言わないけど、口直しに積んだままになってたTENET(英語の回文になってるので、カタカナ表記できない)を見る。劇場で鑑賞しようと思ってたんだけど、何かの併映で映画の冒頭部分がけっこう長めに公開されてたのを見てから、なんとなく興味を無くして、結局は行かなかった。あの冒頭の映像って、続きが気になるような内容とヒキになってなかった気がするんだけど、逆効果だったんじゃないかしら。

 事前の情報で想像していたのは、豪華な「メメント」ぐらいの内容だったんですけど、いい意味で期待を裏切られました。小手先の編集やCGに逃げない、堂々たるタイムトラベルSFアクション映画に仕上がっています。近年の大作映画って悪い意味でCGまみれで、どんな絵でもスタジオで自在に作れるぞっていうギーク感がときどき鼻につく(ホビットとかアベンジャーズとか)んですけど、本作は実在の人物を実在のモノとともに実在のロケーションで撮影するんだという強い執念を感じました。そのおかげで昔の大作アクション映画(ターミネーター2とか)のような、新しいけど懐かしい、不思議な画面の仕上がりになってます。

 ただ、順行と逆行にまつわる映像が正しく表現されていたかどうかは、よくわかりませんでした。タイムトラベル物に新しいパースペクティブを加えていたかどうかも、私には判断できません。インセプションのときみたいに「だれも見たことがない映像を撮ろう!」という意気込みが、若干から回ってる気はしました。この順行と逆行の見た目が本当にややこしくて、監督自身もどっかで編集ミスってそうですし、背景のモブの役者たちもよく見たら、おそるおそる演技してる感じがあって笑いました。

 あと、登場するだけで画面の縮尺がくるってる感をかもしだす例の女優ですが、劇中でだれも身長のことに言及した台詞(拳をボキボキ鳴らしながら「おまえのようなデカいババアがいるか!」)を言わないのが不思議でしたね。そして、男性が女性を殴るインパクトの瞬間と、顔にできたはずのアザを写さない場面には、いまのハリウッドの窮屈さを感じました。

 それにしても、2000年に「メメント」を見たときには、こんな大作映画を撮るような方向へ進むなんてまったく思ってなかったんですけど、「ダークナイト」が監督の人生にとって大きなターニングポイントになりましたね。バットマン・シリーズが無かったとき、クリストファー・ノーランが2020年にどんな映画を作っていたかという仮定には、すごく興味があります。

 いやー、でも映画を見るときに、監督が信用できてビクビク不安におびえなくていいって、こんなにも素晴らしいことだったんですね! みなさんはもうおわかりでしょうが、ひとつ前に見た劇場映画との落差から高評価になってる可能性もあるので、念のためにお伝えしておきます。

シンエヴァ「第三村節考、あるいはケンスケについて」呪詛

承前:ドキュメント「シンエヴァ・アディショナル呪詛(2021/3/6~3/24)」

*記事の後半で、津波の文章が書かれます。

 チョムスキーの生成文法が上梓されたとき、「これで我々は、あと10年は食える」とのたまった言語学の先生の話、しましたっけ? いまの気持ちは、居並ぶ経済学者たちに、「みなさんは、どうしてこの大不況を予想できなかったんですの?」とお訊ねになられたエリザベス女王の逸話を聞いたときと同じものです。え、いったいなんの話をしてるのかって? もちろん、シン・エヴァンゲリオン劇場版の話に決まってるじゃないですか!

 アスカとのカップリングで急にスポットライトが当たったケンスケですけど、2回目の視聴を脳内で反芻しながら確認していくと、シンエヴァでのケンスケの描き方ってすごいサイコパスみ(アタシ、西古パス美! 17歳、女子高生!)あるなー、と思いました。還暦を過ぎた読者のために、もう少し噛みくだいて言えば、生来的に共同体へなじめない人として、気づく者だけが気づくように、ソッと毒を入れて演出をつけてある感じがするのです。この描き方はもしかすると、本作のプロットに対する副監督からのささやかな抵抗なのかなー、とパンフレットを読んでて思いました。つまり、オタクがオタクを卒業できないまま、ある種の反社会的な異常性を抱えたまま、ずっとひとりで生きていくと覚悟を決めていた(アスカと同じ)のに、ひょんなことから社会に居場所を持つことができてしまった。そして、それを喜ぶ気持ちと望まない気持ちが半々ぐらいで拮抗している状態を描いているような気がするんですよねー。「俺たちが持ってんのは、卒業できるような生ぬるい特性じゃねえんだ、結婚して日和ってんじゃねえぞ、コラ!」という副監督の声にできない恨みが、ケンスケに込められているのではないかと推測するのです。

 昭和の大家族、「貧しいながらも楽しい我が家」で居場所のないシンジーーケンスケもなじめないーーを引き取って、自宅までの道すがら、夜の底をふたりそぞろ歩きながら、だれも聞いていないのをいいことに「ニアサーも悪いことばかりじゃない」なんて、ギョッとするようなことーー他の村人が聞いたらどう思うのかーーを言い出す。直前の、トウジと委員長のなれそめを語った延長の台詞のようでいて、実はそうではないとも聞こえる。友人のいないミリオタで、野営ゴッコとひとりサバゲーが好き(テレビ版)で、自分がまっとうではないことに気づいていて、学校という強制力のある集合が消えた先には社会のどこへも所属できず、糸の切れた凧みたいに飛んでいくしかないことが薄々わかっている。そんな漠然とした将来への不安が、突然の大災害によってすべて消滅してしまった。文明の壊滅した世界では、アマチュア・オタクの聞きかじった技術や知識でも人の役に立つことが「できてしまい」、そして何より信じられないことに、かつては遠巻きに見つめるばかりだった学校のアイドルが、はぐれ者どうし引き合うゆえなのか、自分の家へと転がりこんできた。

 おそらくケンスケは、エヴァのコクピットではない場所で「世界がどうなったっていい」といつも願っていたもうひとりの少年で、その妄想の実現により世界を阿鼻叫喚の地獄絵図へと堕とすことを代償として、彼のような人間にとっては平穏な日常がただ続いていくだけの未来よりも、ずっとマシなものーーファイナンスのような「ブルシット・ジョブ」では得られない、共同体と地続きで役に立つ実感を伴い、面と向かって感謝もされる立ち場ーーが結果として「手に入ってしまった」。だからこその、「ニアサーも悪いことばかりじゃない」発言であり、声優の静かな演技とあいまって、世界の壊滅をどこかで喜ぶ魔を心にすまわせる感じがビンビン伝わってきます。シンジに向けられたうっとおしいばかりのトウジの善意を、じつはいちばん疎ましく思っているのがケンスケで、「シンジも早く第三村になじんでくれればいいんやが」という言葉を黙って聞く彼の横顔からは、やはり人外の魔のにおいがかすかにただよってくるのです。

 終盤、「*津波の映像が流れます。」のテロップ予告もないまま、民家の高さを倍するインフィニティ津波が第三村へ迫る中、トウジが「ニアサーを生き延びたワシらの運を信じるだけや」とかすげえテキトーにつけられた台詞を言うかたわらで、ケンスケはファインダー越しにではなく、己の両のまなこで(「少女保護特区」の名シーンを彷彿とさせますね!)結界・イコール・防波堤を乗り越えんばかりの津波を凝視します。残された人々を生かしてきた結界は、その実、旅と放浪を奪われたスナフキン、人間の共同体の中にずっとはいたくないだれかを閉じ込める機能をも同時に果たしてしまった。アスカがシンジに向けて放った「生きたくもなければ、死にたくもない」という言葉、それはもしかすると、いつかケンスケが閨でアスカにつぶやいた言葉だったのかもしれません。目前に迫る破滅を見つめながら、彼の胸中には「この偽りの理想郷・第三村ごと、ボクの偽りの幸福を押し流してくれ!」という、人ではないものの叫びが渦巻いていたに違いないのです。しかし、第三村の描写はその短いシーンを最後にブッツリと途絶え、その断絶は事故で即死となった人間の意識はかくやと思わせる唐突さにまで至り、監督はQを作ってしまったことへの贖罪どころか、再び被災地とその暮らしを踏みつけにしたまま遁走し、私小説「個人的な体験」へと退行していくのです。ケンスケの抱いた昏い願いが成就したのかどうかは、宇部新川のアホみたいな脳天ファイラーの空撮で幕となった劇中では、いっさい触れられることがありません。

 激情のあまり気づいてなかったけど、いろいろシンエヴァの感想を読んでたら、空撮シーンのBGMって「残酷な天使のテーゼ」なんですって。つまりあのエンディングは、テレビ版の第弐拾六話のラストとオーバーラッピング(笑)して読ませるよう仕組まれていたわけで、本当に監督の悪意は底抜けですねえ! それとも生粋の女たらしの、「無邪気で可愛い人」なのかな! シンジ・イコール・監督の幸せな悟りに対して、劇場に座ってる私たち観客へ「おい、『おめでとう』って言えよ。おい、拍手もしろよ」って演出で強要してやがんですよ! ねえ、殴りたおされてから顔を足で踏まれてるのに、なんで君たちヘラヘラ笑ってんの? 悪意ある仕打ちに、みんなもっと真剣に怒っていいと思いますよ! 唐突に津波のシーンを入れたのも、自分のリハビリのために津波を描きたかっただけで、DSSチョーカーを見てシンジがゲロをはかなくなったのと同じような理屈、遠回しな自分語りなんでしょ? もうボクは震災による傷を乗り越えましたって、あの瞬間は鎌倉にいて特撮のビデオでも見てたんだろうし、その傷ってリスカの自傷痕じゃん。

 この映画を褒めている人たちは、ある不幸に対する監督の底抜けの無神経さをどう思ってるんでしょうか。繰り返し放映される津波の空撮(空撮!)をモニター越しに眺めながら、家々が押し流される様に指を折りながらフレーム数を数えて、いま見ているものがどうアニメーションにできるかをまず考えたんでしょ? いや、非難はしてませんよ、その冷徹な観察は超一流のクリエイターにとっての避けられない業(カルマ)でしょうし、「人間であることを捨てた」先にたどりつける創造の極地には、あこがれと畏敬の念すら抱きます。許されないのは、それを優れたSF作品に昇華させるのではなく、自分語りに消費したことなんですよ! おいコラ、観客に「おめでとう」って言わせる前に、まず被災地の方々に「ごめんなさい」だろうがよ! 宮崎翁から発される有形無形の赤い圧力に抗しきれず、みなさんの不幸をエンタメにしてすいませんでしたって、そこから逃げずに(逃げちゃダメだ!)ごまかさずに、取り巻きや批評家や作品に大便(失礼、代弁)させずに、まず自分の口でそれを言えよ!

 すいません、また少し、ほんの少しだけ冷静さを欠いてしまいました。旧エヴァと新エヴァが地続きであることは、ゲンドウの台詞だけで判明(絶対に許さない)してしまいましたが、「終劇」の先でエヴァ世界にとっての現在である第三村とそこに住む人々がどうなったかについては、いろいろと考察(笑)があるようです。おそらく正確なところは、第三村は三人目の綾波をふくめて副監督の担当パートであり、監督は基本的にそこへ興味や関心を持たないばかりか、作品を終わらせるにあたって意識の上にさえ無かったーーだから「空撮エンド」をビッグ・アイデアだと信じることができたーーということでしょう。「見るべき第一はスクリーンの中にある」と仮定した場合、エヴァ世界は新旧ともに監督の自我へと吸収・合併(さすがビジネスマン!)されて完全に消滅したとしか、作中で提示された情報からは読めませんね。丁寧に描写された第三村も、人知れぬケンスケの苦悩(それはキミの妄想)も、チンチンに短い浴衣で「エヴァンゲリ音頭」を踊って村人たちに笑われるネモ船長(それもキミの妄想)もすべて失われ、「終劇」の先は大津波にさらわれたように何も残されていないのです。おや、図らずもシンエヴァという作品が、エヴァ世界にとっての東日本大震災だったという結論になりましたね。2012年にQを見た直後のシンエヴァ予想に、「ゼロが空集合なのは前作との連続性を否定する意味に違いなく、次こそ正統の続編が制作され、オープンエンドのマルチバース的世界観が明らかに」って書いたけど、監督の未来に向かってオープンエンド(笑)のシングルバースで、昔からのファンにとってはデッドエンドって、これどないなっとんねん。エヴァっちゅうあの巨大IPがメタメタに(ダブルミーニング)されてしもて、もうどうにも商売になれへんがな。

 あのね、メタって軽いスパイスとしては有効だけど、メインディッシュにはならないんですよ。でも、時代と接続した一回こっきりのイレギュラーである旧劇の成功で、勘違いしちゃった。シンエヴァの終盤でコックが自信ありげに出してきたのは、黒胡椒がひかれもせず粒のままで敷き詰められたパイ皿みたいなもんで、どうやって食べるんですか、これって感じ。メタの絶妙な使い方で思い出すのは、ランス10に登場する新聞記者のキャラですね。ランスシリーズって、鬼畜王と戦国で極度に肥大化したファンの作品イメージに長く続編を足止めされて、エヴァ新劇を取り巻く状況と似たようなところがあるんだけど、こちらは表現方法を模索するため、ジャンルさえ違えた紆余曲折の果て、30年近く続いたシリーズにも関わらず、フィクションの内側だけですべての世界設定を回収して、二度と語りなおせない永遠の物語としてみごとに終わらせたんですね。エヴァンゲリオンはもう取り返しがつかないけど、「終わらない物語」を現在進行形で語っている定命の人たちは、ぜひランス10に触れて、その手腕を見習って欲しいです。

 話を戻すけど、この新聞記者はランスシリーズの30年来のファンとイコールの存在として造形されていて、発言の端々に作品を外側から俯瞰するメタ的な視点が垣間見えるの。このキャラのイベントを進めていくと、最後の最後で「あなたがこの世界のことを忘れても、わたしはずっとここにいて、この世界の行く末を見守り続けてる」みたいなことを言うのね。どんなに心ふるわせる傑作を体験しても、人生と時間は否応に前へと進んでいって、やがてすべての虚構は現実の背後へ、忘却の彼方へと過ぎ去っていく。いそがしい日々のはざまで、ときどきフッとランスシリーズのことを思いだすとき、このキャラがいまでも私の代わりにあの世界を見守ってくれていると想像すると、本当は何も存在しないはずの場所から暖かで前向きなエネルギーが湧き上がって、生きることを肯定してくれるのです。

 もう言ってもせんのないことですが、私がシン・エヴァンゲリオンに期待していたのは、虚構よりも現実へ多くの時間と感情を割かなければならなくなった大人たちへ向けた、すべてを忘れたあとにさえ人生の一部となって背中を押してくれる、成熟した何かだったのだと思います。あらゆるフィクションにはその力があり、それを信じられないまま、もしかすると一度もそれを感じたことがないまま、つまらぬ生活感情の表出と己の過ちを糊塗することを、虚構の持つ豊潤な可能性へ優越させた情けなさに、ただただ涙がこぼれます。あ、いま気づきましたけど、「糊塗すること」って「槍でやり直す」構文ですね。やー、テキスト書きとして恥ずかしいなー、アハハハー……はぁ。

有志による英語版:The ballad of Village III