猫を起こさないように
月: <span>2021年3月</span>
月: 2021年3月

映画「TENET」感想

 何の、とは言わないけど、口直しに積んだままになってたTENET(英語の回文になってるので、カタカナ表記できない)を見る。劇場で鑑賞しようと思ってたんだけど、何かの併映で映画の冒頭部分がけっこう長めに公開されてたのを見てから、なんとなく興味を無くして、結局は行かなかった。あの冒頭の映像って、続きが気になるような内容とヒキになってなかった気がするんだけど、逆効果だったんじゃないかしら。

 事前の情報で想像していたのは、豪華な「メメント」ぐらいの内容だったんですけど、いい意味で期待を裏切られました。小手先の編集やCGに逃げない、堂々たるタイムトラベルSFアクション映画に仕上がっています。近年の大作映画って悪い意味でCGまみれで、どんな絵でもスタジオで自在に作れるぞっていうギーク感がときどき鼻につく(ホビットとかアベンジャーズとか)んですけど、本作は実在の人物を実在のモノとともに実在のロケーションで撮影するんだという強い執念を感じました。そのおかげで昔の大作アクション映画(ターミネーター2とか)のような、新しいけど懐かしい、不思議な画面の仕上がりになってます。

 ただ、順行と逆行にまつわる映像が正しく表現されていたかどうかは、よくわかりませんでした。タイムトラベル物に新しいパースペクティブを加えていたかどうかも、私には判断できません。インセプションのときみたいに「だれも見たことがない映像を撮ろう!」という意気込みが、若干から回ってる気はしました。この順行と逆行の見た目が本当にややこしくて、監督自身もどっかで編集ミスってそうですし、背景のモブの役者たちもよく見たら、おそるおそる演技してる感じがあって笑いました。

 あと、登場するだけで画面の縮尺がくるってる感をかもしだす例の女優ですが、劇中でだれも身長のことに言及した台詞(拳をボキボキ鳴らしながら「おまえのようなデカいババアがいるか!」)を言わないのが不思議でしたね。そして、男性が女性を殴るインパクトの瞬間と、顔にできたはずのアザを写さない場面には、いまのハリウッドの窮屈さを感じました。

 それにしても、2000年に「メメント」を見たときには、こんな大作映画を撮るような方向へ進むなんてまったく思ってなかったんですけど、「ダークナイト」が監督の人生にとって大きなターニングポイントになりましたね。バットマン・シリーズが無かったとき、クリストファー・ノーランが2020年にどんな映画を作っていたかという仮定には、すごく興味があります。

 いやー、でも映画を見るときに、監督が信用できてビクビク不安におびえなくていいって、こんなにも素晴らしいことだったんですね! みなさんはもうおわかりでしょうが、ひとつ前に見た劇場映画との落差から高評価になってる可能性もあるので、念のためにお伝えしておきます。

シンエヴァ「第三村節考、あるいはケンスケについて」呪詛

承前:ドキュメント「シンエヴァ・アディショナル呪詛(2021/3/6~3/24)」

*記事の後半で、津波の文章が書かれます。

 チョムスキーの生成文法が上梓されたとき、「これで我々は、あと10年は食える」とのたまった言語学の先生の話、しましたっけ? いまの気持ちは、居並ぶ経済学者たちに、「みなさんは、どうしてこの大不況を予想できなかったんですの?」とお訊ねになられたエリザベス女王の逸話を聞いたときと同じものです。え、いったいなんの話をしてるのかって? もちろん、シン・エヴァンゲリオン劇場版の話に決まってるじゃないですか!

 アスカとのカップリングで急にスポットライトが当たったケンスケですけど、2回目の視聴を脳内で反芻しながら確認していくと、シンエヴァでのケンスケの描き方ってすごいサイコパスみ(アタシ、西古パス美! 17歳、女子高生!)あるなー、と思いました。還暦を過ぎた読者のために、もう少し噛みくだいて言えば、生来的に共同体へなじめない人として、気づく者だけが気づくように、ソッと毒を入れて演出をつけてある感じがするのです。この描き方はもしかすると、本作のプロットに対する副監督からのささやかな抵抗なのかなー、とパンフレットを読んでて思いました。つまり、オタクがオタクを卒業できないまま、ある種の反社会的な異常性を抱えたまま、ずっとひとりで生きていくと覚悟を決めていた(アスカと同じ)のに、ひょんなことから社会に居場所を持つことができてしまった。そして、それを喜ぶ気持ちと望まない気持ちが半々ぐらいで拮抗している状態を描いているような気がするんですよねー。「俺たちが持ってんのは、卒業できるような生ぬるい特性じゃねえんだ、結婚して日和ってんじゃねえぞ、コラ!」という副監督の声にできない恨みが、ケンスケに込められているのではないかと推測するのです。

 昭和の大家族、「貧しいながらも楽しい我が家」で居場所のないシンジーーケンスケもなじめないーーを引き取って、自宅までの道すがら、夜の底をふたりそぞろ歩きながら、だれも聞いていないのをいいことに「ニアサーも悪いことばかりじゃない」なんて、ギョッとするようなことーー他の村人が聞いたらどう思うのかーーを言い出す。直前の、トウジと委員長のなれそめを語った延長の台詞のようでいて、実はそうではないとも聞こえる。友人のいないミリオタで、野営ゴッコとひとりサバゲーが好き(テレビ版)で、自分がまっとうではないことに気づいていて、学校という強制力のある集合が消えた先には社会のどこへも所属できず、糸の切れた凧みたいに飛んでいくしかないことが薄々わかっている。そんな漠然とした将来への不安が、突然の大災害によってすべて消滅してしまった。文明の壊滅した世界では、アマチュア・オタクの聞きかじった技術や知識でも人の役に立つことが「できてしまい」、そして何より信じられないことに、かつては遠巻きに見つめるばかりだった学校のアイドルが、はぐれ者どうし引き合うゆえなのか、自分の家へと転がりこんできた。

 おそらくケンスケは、エヴァのコクピットではない場所で「世界がどうなったっていい」といつも願っていたもうひとりの少年で、その妄想の実現により世界を阿鼻叫喚の地獄絵図へと堕とすことを代償として、彼のような人間にとっては平穏な日常がただ続いていくだけの未来よりも、ずっとマシなものーーファイナンスのような「ブルシット・ジョブ」では得られない、共同体と地続きで役に立つ実感を伴い、面と向かって感謝もされる立ち場ーーが結果として「手に入ってしまった」。だからこその、「ニアサーも悪いことばかりじゃない」発言であり、声優の静かな演技とあいまって、世界の壊滅をどこかで喜ぶ魔を心にすまわせる感じがビンビン伝わってきます。シンジに向けられたうっとおしいばかりのトウジの善意を、じつはいちばん疎ましく思っているのがケンスケで、「シンジも早く第三村になじんでくれればいいんやが」という言葉を黙って聞く彼の横顔からは、やはり人外の魔のにおいがかすかにただよってくるのです。

 終盤、「*津波の映像が流れます。」のテロップ予告もないまま、民家の高さを倍するインフィニティ津波が第三村へ迫る中、トウジが「ニアサーを生き延びたワシらの運を信じるだけや」とかすげえテキトーにつけられた台詞を言うかたわらで、ケンスケはファインダー越しにではなく、己の両のまなこで(「少女保護特区」の名シーンを彷彿とさせますね!)結界・イコール・防波堤を乗り越えんばかりの津波を凝視します。残された人々を生かしてきた結界は、その実、旅と放浪を奪われたスナフキン、人間の共同体の中にずっとはいたくないだれかを閉じ込める機能をも同時に果たしてしまった。アスカがシンジに向けて放った「生きたくもなければ、死にたくもない」という言葉、それはもしかすると、いつかケンスケが閨でアスカにつぶやいた言葉だったのかもしれません。目前に迫る破滅を見つめながら、彼の胸中には「この偽りの理想郷・第三村ごと、ボクの偽りの幸福を押し流してくれ!」という、人ではないものの叫びが渦巻いていたに違いないのです。しかし、第三村の描写はその短いシーンを最後にブッツリと途絶え、その断絶は事故で即死となった人間の意識はかくやと思わせる唐突さにまで至り、監督はQを作ってしまったことへの贖罪どころか、再び被災地とその暮らしを踏みつけにしたまま遁走し、私小説「個人的な体験」へと退行していくのです。ケンスケの抱いた昏い願いが成就したのかどうかは、宇部新川のアホみたいな脳天ファイラーの空撮で幕となった劇中では、いっさい触れられることがありません。

 激情のあまり気づいてなかったけど、いろいろシンエヴァの感想を読んでたら、空撮シーンのBGMって「残酷な天使のテーゼ」なんですって。つまりあのエンディングは、テレビ版の第弐拾六話のラストとオーバーラッピング(笑)して読ませるよう仕組まれていたわけで、本当に監督の悪意は底抜けですねえ! それとも生粋の女たらしの、「無邪気で可愛い人」なのかな! シンジ・イコール・監督の幸せな悟りに対して、劇場に座ってる私たち観客へ「おい、『おめでとう』って言えよ。おい、拍手もしろよ」って演出で強要してやがんですよ! ねえ、殴りたおされてから顔を足で踏まれてるのに、なんで君たちヘラヘラ笑ってんの? 悪意ある仕打ちに、みんなもっと真剣に怒っていいと思いますよ! 唐突に津波のシーンを入れたのも、自分のリハビリのために津波を描きたかっただけで、DSSチョーカーを見てシンジがゲロをはかなくなったのと同じような理屈、遠回しな自分語りなんでしょ? もうボクは震災による傷を乗り越えましたって、あの瞬間は鎌倉にいて特撮のビデオでも見てたんだろうし、その傷ってリスカの自傷痕じゃん。

 この映画を褒めている人たちは、ある不幸に対する監督の底抜けの無神経さをどう思ってるんでしょうか。繰り返し放映される津波の空撮(空撮!)をモニター越しに眺めながら、家々が押し流される様に指を折りながらフレーム数を数えて、いま見ているものがどうアニメーションにできるかをまず考えたんでしょ? いや、非難はしてませんよ、その冷徹な観察は超一流のクリエイターにとっての避けられない業(カルマ)でしょうし、「人間であることを捨てた」先にたどりつける創造の極地には、あこがれと畏敬の念すら抱きます。許されないのは、それを優れたSF作品に昇華させるのではなく、自分語りに消費したことなんですよ! おいコラ、観客に「おめでとう」って言わせる前に、まず被災地の方々に「ごめんなさい」だろうがよ! 宮崎翁から発される有形無形の赤い圧力に抗しきれず、みなさんの不幸をエンタメにしてすいませんでしたって、そこから逃げずに(逃げちゃダメだ!)ごまかさずに、取り巻きや批評家や作品に大便(失礼、代弁)させずに、まず自分の口でそれを言えよ!

 すいません、また少し、ほんの少しだけ冷静さを欠いてしまいました。旧エヴァと新エヴァが地続きであることは、ゲンドウの台詞だけで判明(絶対に許さない)してしまいましたが、「終劇」の先でエヴァ世界にとっての現在である第三村とそこに住む人々がどうなったかについては、いろいろと考察(笑)があるようです。おそらく正確なところは、第三村は三人目の綾波をふくめて副監督の担当パートであり、監督は基本的にそこへ興味や関心を持たないばかりか、作品を終わらせるにあたって意識の上にさえ無かったーーだから「空撮エンド」をビッグ・アイデアだと信じることができたーーということでしょう。「見るべき第一はスクリーンの中にある」と仮定した場合、エヴァ世界は新旧ともに監督の自我へと吸収・合併(さすがビジネスマン!)されて完全に消滅したとしか、作中で提示された情報からは読めませんね。丁寧に描写された第三村も、人知れぬケンスケの苦悩(それはキミの妄想)も、チンチンに短い浴衣で「エヴァンゲリ音頭」を踊って村人たちに笑われるネモ船長(それもキミの妄想)もすべて失われ、「終劇」の先は大津波にさらわれたように何も残されていないのです。おや、図らずもシンエヴァという作品が、エヴァ世界にとっての東日本大震災だったという結論になりましたね。2012年にQを見た直後のシンエヴァ予想に、「ゼロが空集合なのは前作との連続性を否定する意味に違いなく、次こそ正統の続編が制作され、オープンエンドのマルチバース的世界観が明らかに」って書いたけど、監督の未来に向かってオープンエンド(笑)のシングルバースで、昔からのファンにとってはデッドエンドって、これどないなっとんねん。エヴァっちゅうあの巨大IPがメタメタに(ダブルミーニング)されてしもて、もうどうにも商売になれへんがな。

 あのね、メタって軽いスパイスとしては有効だけど、メインディッシュにはならないんですよ。でも、時代と接続した一回こっきりのイレギュラーである旧劇の成功で、勘違いしちゃった。シンエヴァの終盤でコックが自信ありげに出してきたのは、黒胡椒がひかれもせず粒のままで敷き詰められたパイ皿みたいなもんで、どうやって食べるんですか、これって感じ。メタの絶妙な使い方で思い出すのは、ランス10に登場する新聞記者のキャラですね。ランスシリーズって、鬼畜王と戦国で極度に肥大化したファンの作品イメージに長く続編を足止めされて、エヴァ新劇を取り巻く状況と似たようなところがあるんだけど、こちらは表現方法を模索するため、ジャンルさえ違えた紆余曲折の果て、30年近く続いたシリーズにも関わらず、フィクションの内側だけですべての世界設定を回収して、二度と語りなおせない永遠の物語としてみごとに終わらせたんですね。エヴァンゲリオンはもう取り返しがつかないけど、「終わらない物語」を現在進行形で語っている定命の人たちは、ぜひランス10に触れて、その手腕を見習って欲しいです。

 話を戻すけど、この新聞記者はランスシリーズの30年来のファンとイコールの存在として造形されていて、発言の端々に作品を外側から俯瞰するメタ的な視点が垣間見えるの。このキャラのイベントを進めていくと、最後の最後で「あなたがこの世界のことを忘れても、わたしはずっとここにいて、この世界の行く末を見守り続けてる」みたいなことを言うのね。どんなに心ふるわせる傑作を体験しても、人生と時間は否応に前へと進んでいって、やがてすべての虚構は現実の背後へ、忘却の彼方へと過ぎ去っていく。いそがしい日々のはざまで、ときどきフッとランスシリーズのことを思いだすとき、このキャラがいまでも私の代わりにあの世界を見守ってくれていると想像すると、本当は何も存在しないはずの場所から暖かで前向きなエネルギーが湧き上がって、生きることを肯定してくれるのです。

 もう言ってもせんのないことですが、私がシン・エヴァンゲリオンに期待していたのは、虚構よりも現実へ多くの時間と感情を割かなければならなくなった大人たちへ向けた、すべてを忘れたあとにさえ人生の一部となって背中を押してくれる、成熟した何かだったのだと思います。あらゆるフィクションにはその力があり、それを信じられないまま、もしかすると一度もそれを感じたことがないまま、つまらぬ生活感情の表出と己の過ちを糊塗することを、虚構の持つ豊潤な可能性へ優越させた情けなさに、ただただ涙がこぼれます。あ、いま気づきましたけど、「糊塗すること」って「槍でやり直す」構文ですね。やー、テキスト書きとして恥ずかしいなー、アハハハー……はぁ。

有志による英語版:The ballad of Village III

ドキュメント「シンエヴァ・アディショナル呪詛(2021/3/6〜3/24)」

承前:アニメ「2021年のエヴァンゲリオン」雑文集(1/15~3/5)

2021年3月6日

どんどん気持ちが不安定になっていく。人生で2回エヴァが終わるなんて信じられない。

終わるのを見届けるなんて生やさしい感情じゃない、俺がエヴァを殺しに行くんだって気分になってる。じゃないと逆に殺される。

端的に言って、ビビッてる。これまでのエヴァへのディスりの数々が、これから戦うヘビー級チャンピオンを攪乱するための盤外戦に過ぎなかったことがわかる。それもただのボクサーじゃない、25戦25KO、そのうち20人をリング上で殺してる。

計量をパスした後の記者会見で、挑戦者の俺はビビッてることを隠すため、さらに狂騒的にしゃべり続け、チャンピオンはただ擬と黙っているだけなのに、こちらの心と体力がみるみる削られていくのだ。

この9年を平気な顔で生きてきたくせに、シンエヴァ視聴まで残り36時間ぐらいを残すばかりの今になって、突発的な事故や病気で死なないか不安になってきた。明日は家から一歩も出るまいし、あさっては劇場への移動に細心の注意を払わねばらならないだろう。

俺とエヴァとの間にある感情は複雑きわまる。ルックスが超絶好みの美少女ゾンビとつきあいだして、最初は幸福の絶頂だったのに、次第に束縛と浮気がひどくなり、人生のリソースを9割以上もっていかれるようになって、もう別れてくれと懇願するのに、別れてくれない。

追いつめられたあげく、殺しても殺してもドロリと復活する美少女ゾンビへ馬乗りになって、「死んでくれ、頼むから死んでくれ」と泣き叫びながら、何度も何度もその頭蓋に大きな石を打ちつける感じ。

そして、このイメージにさえ、旧劇ラストの首しめが色濃く反映されており、美少女ゾンビに石を打ちおろしていたはずの自分が、いつのまにか美少女ゾンビに石を打ちおろされている。エヴァを殺すというのは、もはや自分を殺すことと同義であり、もうどうすればいいのかわからない。

シンエヴァの終わりを見届けた瞬間、劇場の座席に座ったまま心臓マヒで死ねれば、それが最も幸福な結末であるような気さえしてきた。同じ想いを抱いた同胞が、劇場で本当に自殺をはかってニュースにならないか、半ば本気で心配している。

なあ、俺のことをいつも見てたんだろ? おまえも不安で不安でしょうがないんだろ? よし、期間限定の慈愛をしよう。シンエヴァ公開直前、エヴァに関する質問へ全レスすると同時に、この嵐の夜に互いを暖めあう目的でエヴァを語る、本当の意味での慈愛をしよう。

ただし、シンエヴァを最高のコンディションで視聴するため、3月7日22時を慈愛の期限と定める。正体を知られたくないワケありの君は、以下の匿名質問箱を使ってもいいし、使わなくてもいい。

2021年3月7日

残り24時間。処刑台へ上がる前に過ごす、最後の一日。

碇容疑者という単語がテレビから聞こえてきて、ビクッとする。

エヴァQを見る前の自分が何を感じていたか、確認してきた

驚くほど、いまの気分と酷似している。
『明日の今頃、ここにいる私はいない。いるのは、シンエヴァを見てしまった私だ。シンエヴァを見るために、この9年を生きたと言っても過言ではないだろう。明日の今頃、どんな気分が私を満たしているのか。それは新たな数年を余命に加えるのだろうか。』

シンエヴァの個人的な見どころは、「旧劇を超えるかどうか」しかない。あの巨大な感情を超えるかどうか。旧劇への言及を徹底的に避けてきたカントクが、衰えた創作パワーを補充するために、新劇を終わらせるためだけに旧劇を引っぱり出してきて、もし中途半端にしやがったら生みの親でも許さねえ……!!

序と破の視聴終了。いま見ると、序は後半ですらまだまだ手堅くアイアンで刻んでる感じ。それに対して、破の前半は思いっきりドライバーをぶん回してる感じ。

ここにも書いたけど、19話のリメイク部分はあれだけ絵を動かして尺も取ってるのに、全体的に薄まっててダルい。ベテランが触るのを怖がって、若手に突っ込ませて成功しなかった感じ。

Qはどうしようかなー。こないだ劇場でIMAX版見たばっかりだしなー。見ると怒りで血圧が上がるのは確実なので、シンエヴァ直前に脳溢血とかで倒れたらシャレにならないしなー。

2021年3月8日(1回目)

時が来たね。

見終わった。

2時間35分がぜんぶエヴァQの続き。

端的に言って、ゴミ。「エヴァらしさ」をはきちがえた、自己模倣のカタマリ。

声優とか関係者とか試写会を見た人たちが、微妙に言葉を濁す感じの裏にあるものがわかった。

2回見るつもりでチケットも押さえてあるけど、もう行かない。

いい年齢をした大人が熱にうかされたみたいにアホみたいな文章を一ヶ月にわたって書きつらねたあげく、責任のある大人が仕事の都合をつけて平日の朝イチからアニメを見に行ったという恥ずかしさ。

「成熟した大人が体験するには恥ずかしいもの」として観客に突きつけるという意味なら、制作者の目論見どおり、私のエヴァンゲリオンはきょう終わりました。

「コピーに魂を込めることでオリジナルを超える」人が、還暦を迎えてアニメ界の大御所になった結果、周囲を見渡したらもうコピーする先が無くなっていたので、自分の過去作をしこしことコピーし始めるのを、劇場の大画面で見せられる悲しみ。

いまは、心の底がシーンと冷たくなる感じで、許せない。
『シンエヴァの個人的な見どころは、「旧劇を超えるかどうか」しかない。あの巨大な感情を超えるかどうか。旧劇への言及を徹底的に避けてきたカントクが、衰えた創作パワーを補充するために、新劇を終わらせるためだけに旧劇を引っぱり出してきて、もし中途半端にしやがったら生みの親でも許さねえ……!!』

朝ドラみたいな、「となりのトトロ」のコピーはあったな。

シンジくんの声優、あれ、ホンマあかんで。事前にかなり大きなネタバレしてるやん。

シンエヴァ、朝イチの回を視聴後に呆然と帰宅して、今まで気を失うように寝てた。

エンタメとして始まった新劇が突如Qで私小説と化し、再びエンタメに路線を戻すかが今回の焦点だった。それが、旧劇と同じくまた私小説としてエヴァを終わらせてしまった。

しかも、浅いリストカットをひとりで手当てして、「すっかり治りましたー」みたいに自傷痕を見せびらかす感じ。

旧劇で「甘き死よ、来たれ」が鳴りはじめた直後の、タイトルとセル画裏返しが連続で流れるシーンを、プロジェクターで体育館の壁へ映す演出には、端的に「殺すぞ」と思いました。

あのエヴァの終わりが、東日本大震災に影響を受けたリブートの大失敗を自己回収する作品って、監督以外のカラー関係者は納得してるの? シンパ側近女性のフィルターによる取捨選択を通してしか進言が届かない、裸の王様になってんじゃないの?

“NEON GENESIS”の”NEON”は”NEW”の意味じゃないとテレビ版のときからさんざん言われてきたのに、「碇君がネオン・ジェネシス、新しい時代を作るのよ」みたいなぞんざい極まる回収ための回収には、もはや「ハア?」という脱力感しかない。

ちょっと、9年前の気持ちを再掲しとくよ。驚くほど、いまの気持ちとブレてないから。

『あのな、難しいことゆうてへんねん! ワシはシンジ君が初号機で大活躍するのを見たいだけやねん! それがあんなワケのわからん戦艦のエンジンにされてしもて、活躍どころの話やあらへんがな! 正味、女子の乗るロボットの活躍は14年前のんでお腹いっぱいやねん!』

『ステーキハウス開いたからゆうてステーキ食いに来とんのに、さんざん待たしたあげくデカいジャガイモをツマに出されて、やれ有機農法やら、やれバターが上等やら、そんな講釈はいらんねん! さっさとブ厚いステーキに塩だけふって持ってきたらええねや!』

『おどれ、まさか続編で被災地の綿密な取材にもとづいたサードインパクト後の街を描写したりせんやろな! まさか、 今回は生きとるか死んどるかわからんかったキャラが街の復興の(加地さんとかトウジとかや)旗振りしてんの見てはげまされるみたいな展開にするんちゃうやろな!』

『どんな気にくわん世界でも我がの気持ちでチャラにしたらアカン、この新しい小さな幸せを守るためにボクは戦うんやとか言い出さへんやろな! サードインパクト後に生まれたトウジと委員長の子供なんかが作劇上のギミックになったりしてな! うう、考えただけでサブイボやわ!』

『そんでラスボスのおとんに立ち向かうみたいな展開にホンマなりそうで、ワシいますごい怖いねん! エヴァQのラストシーンと予告からは、そんなベタな臭いしかせえへんねん!』

いやー、設問が簡単過ぎたことはありますけど、ほぼ9年後の続編を予見してましたねー。

世界の片隅のいちファンの想像が、先回れるような作品であってほしくはなかった。

2021年3月9日

呪いを書いてる。だれも幸せにしない、書いた本人さえ救われない、呪いを。

2021年3月10日

呪い、明日の14時46分にnoteで公開予定です。

2021年3月11日

追悼「シン・エヴァンゲリオン劇場版:呪」

2021年3月12日

拡散してほしい。世界を呪いで塗りかえたい。

批評家どもの「シンエヴァは傑作。続きはサロンで」商法にだまされて、「よくわからなかったけど、褒めていいみたい」と脊髄だけで生きている脳無しニワトリどもが安心してペチャクチャやりだした今のヌルい空気を、呪いで黒く塗りかえしたい。

少し目を離している隙に、けっこうバズッてますね。「炎上してアホに発見されて怒られが発生して閉鎖」がここ数年の目標だったので、嬉しいのと同時に呪いが成就するためには、まだまだケタが足りないという気分もあります。

「こいつみたいのが青葉容疑者になるんだろうな」とか言われてますが、ファンの心性とはすべからく(エヴァ語)ジョン・レノンに対するマーク・チャップマンのそれを特濃として、どれだけそこから薄いかというグラデーションの違いでしかありません。

私のエヴァ語りにむらがるニワカファンどもは、こちらのnote記事をリンク先も含めてすべて読んでから、「:呪」にダ・カーポ(笑)して下さい。ファンの脳内に巣食う、「本物のエヴァンゲリオン」を見せてあげますよ。

あと、2012年に書いたこれもすごい面白いので、「:呪」に共鳴した貴君は読むといいです。

今週末、旧劇のときすでにこの世にいた人と2回目を見るチャンスがあるんですけど、正直どうするか迷ってる。前にどこかで「地獄が続かないのなら、愛を続ける他はない」って書いたけど、憎しみだけを続けるのって、特に年を食うとパワーを使うんですよね。

何回もシンエヴァを見ることで、許したり、認めたり、もしかすると、愛したりする気持ちに傾くのが怖い。「旧劇にふれられたら、それはもう戦争だろうが!」というオールド・ファンの「まごころ」を失いたくないのです。

 雑文「エヴァンゲリオン大学心理学部形而上心理学科」

2021年3月13日

 エヴァ芸人の走りみたいなテキストで小銭を稼いでいた人物がシンエヴァを絶賛していることを知る。「え、それって貴方のアイデンティティの明確な否定じゃないの? もしかして、テレビ版と旧劇の内容を全く読めていなかったの?」とまず驚き、続いてえいと塹壕から飛び出した瞬間、味方(そう、味方と思ってた)に背中から撃たれた兵士の気持ちになりました。やっぱり商業ムラでの生活が長くなると、仕事が回ってこなくなる村八分を恐れる余り、発言がヌルくなっていけませんね。「こんなの俺の愛したアヤナミじゃねえ、予定調和まみれのツキナミだ!」ぐらい言ってキレちらかしてくれてると思ってたのに! かつては舞台上で抑えきれない深刻な衝動からアンプを蹴り倒して破壊していたロックスターが、いまやアンプが壊れないようにヨボヨボの足を当ててソッと倒す「ロック仕草」に終始して、往年のファンがそれに拍手する。そして、初源の熱気を知らない若いファンが、そういうものだと思ってつられて拍手する。あのエヴァなのに、もはやこれ、伝統芸能と化しちゃってますよ。業界内でのポジショニングを気にして日和った言動に流れるぐらいなら、最後まで皮膚病の野良犬でいようとの決意を固くしました。いま思いましたけど、シンエヴァってナウシカ歌舞伎みたいなものかもしれませんね。旧劇を底本にした、エヴァンゲリオン歌舞伎。

 小鳥猊下だお! 仕事つらいお! 謎の定額制サービス「働かせホーダイ!」に加入中なので、もちろん今日も仕事でしたお! いい大人のクセして、月曜日にマンガ映画を見るためにすべての社会的責任を投げうって休んじゃってるし、しょうがないよね(てへぺろ)! いま確認したらnote記事「:呪」の閲覧数が2万、スキが200を超えてました。最初の週末を越えるのに、まずまずの走り出しと言えるでしょう。はてなブックマークのコメントも160くらいついててぜんぶ読んでるんだけど、人気コメントのトップが「クリエイターも人間なのに、『殺すぞ』なんて言葉を使って正気か」という内容でした。ここ10年のインターネットの変化について頭では理解していたつもりでしたが、あまりに慎重に深く深くワールドワイドウェッブの底へもぐりすぎていたため肌感覚ではわかっておらず、いつのまにかズレが生じてしまっていたということでしょう。また、ウマ娘の大流行に乗っかってバズらせたいあまり、売り言葉に買い言葉で「種無し」なんて表現を使ってしまったことも、いまでは後悔しています。これらの過ちを真摯に反省(過ちを認めるのが「大人」だからね! )し、note記事「:呪」について次のようにエラッタを出させていただきます。既閲覧者2万人すべてへ届くよう拡散の方、よろしくお願いします。

 「同記事内に登場するすべての『殺すぞ』を『ブチころがすぞ』、すべての『種無し』を『限りなく透明に近いスペルマ』に読み替える。この効果はインターネットが存在する限り永続的である」。

 ですので皆さんは、当該の表現がお手持ちのデバイスやモニターに表示されるたび、必ずエラッタの指示どおりに赤の極太マッキーで画面へ直接、修正を行ってください。各ユーザーが修正を怠った場合に生じる全ての道義的・社会的責任については、これを永久に放棄します。

2021年3月14日(2回目)

 2回目を見てきた。夜に少しつぶやくかも。

 シンエヴァ、2回目を見てきた。何も言わないでおこうと思ってたけど、無理でした。少し長くなります。「虚心に客観的に」を心がけて見て、印象が大きく変わらなかったのは、良かったのか悪かったのかわかりません。ただ、「監督の人格から切り離した一個の物語として視聴する」という試みは、完遂できませんでした。理由は後述します。私にとってのエヴァンゲリオンとは、「公開時点で他のすべてのアニメ作品から、ぶっちぎりで抜きんでた最高峰」を指すブランドのことであり、旧劇・序・破までは見事にこの高すぎる期待値を越えてきたのです。2回目は初回のような激情から離れることができて、ゴチャゴチャよくわからないアクションシーンも、音楽に集中して見ることでイライラせずにすみました。Qのときもストーリーは意味不明だったけど、曲はすごくよかった。シンエヴァも劇伴だけ取り出したら最高峰だなー、と思いました。でもやっぱりこの出来には、他のだれより監督自身が満足しているとは思えません。「俺は社長で小学生 今日も乗り込むエヴァンゲリオン 我が社の金庫を守るため 我が社の社員の給料が」と、断腸の思いで片目をつぶって完成したことにしたのを、なぜか批評家もファンも大絶賛してて、いちばん首をかしげてるのが社長自身のような気がします。下手に語りだすとまた1万字とかになるので、2回目の視聴で気になったところだけ、断片的に指摘します。

 第三村でアスカがシンジの口にレーションを突っ込むシーンの台詞、「アンタは宮崎駿の言うことを聞いて震災を反映したエヴァを作っただけかもしれないけど、その程度の精神強度でエヴァに震災を反映してほしくなかったわ!」と聞こえました(呪い)。

 アグ波(agriculture Ayanami)がレーションとSDATを渡しに行ったときのシンジさんの台詞、「エヴァQで新劇の初期プロットをメチャクチャにして会社を危機に陥れたボクに、どうしてみんな優しいんだよ!」と聞こえました(呪い)。そっかー、だれもキミに厳しいこと言ってくれなかったんだねー。ふつう他人に優しいのって、その人の人生に関心がないか、下手なこと言ってからまれたくないかのどっちかじゃないかなー。優しくせずにキチっと叱るのって、全身全霊のパワーを使う行為だから、どうなってもかまわない人には、僕はやらないなー。

 補完計画が進行する中、ゲンドウが鉛筆画を背景にベラベラと情動失禁的にしゃべる長広舌(もうこのパート、小説でいいじゃん)だけど、旧劇の補完シーンではソリッドな表現と短い独白で、同じ内容が過不足なくぜんぶ観客に伝わってましたよ。「お前が拒絶した、すべてがひとつになる世界」という台詞(台詞で!)で、旧劇とのつながりが明示されてしまったことは、やはり心の底から許せない。しかし、ダイレクトエントリーなる奇矯なアタオカ実験で妻を失ったことへの悔恨は、正しい形で死者の弔いをできなかったゆえの執着だという描き方は、すごく共感できます。先日、ある親しい人を亡くしましたが、感染症の影響からひっそりと家族葬で送られました。ご遺体のお顔を見て、ご遺体とともに一夜を過ごして、故人を愛した人々の中で読経を聞いて、初めて解かれる執着もあります。このパートだけは、とても今日的だと思いました。

 あと、「イスカリオテのマリア」なんて最高にアタマの悪い単語を言わされて、これが声優としての最後の仕事になるかもしれないなんて、冬月の役者さん、かわいそう。

「監督、結局マリが何者なのか作中で説明できてませんよ」
「アホ、マリは俺のヨメだろうがよ!」
「し、しかし監督、それじゃ観客が納得しませんよ」
「適当に聖書の単語を並べときゃいいんだ! 俺やお前なんかが考えるより、よっぽどうまくエヴァファンどもが説明してくれんだよ!」
「そんな無責任な! アマチュアの発想を上回ろうとする努力を放棄するなんて、プロ失格じゃないですか!」
「うるせえ、言われたとおりにしろ! 俺がいちばんうまくエヴァを創作できるんだ!」

 それと、シンジが三本目の槍?を手に「ネオン・ジェネシス」って言うの、作中の人物の視点からでは出てこない単語で、これ、みんなまたマジメに理由を考えてんの? 「新たな創生記」って意味で言ってんなら”New Genesis”だし、仮にシンジが英語に堪能だったとしても出てこない台詞で、テレビ版のタイトルから引いてきた以外の回答がない。考察班(笑)の皆さん、ご苦労様としか言いようがない。

 「:呪」に「普通の映画としては佳作から凡作の間」って書いたけど、例の波打ち際に8号機でマリが迎えに来て、事象の地平面から現実へ戻ったあと、この映画の構成でもし「普通の映画」だったら、シンジのいない世界で第三村で下船したクルーと人々が共に生活する様子を描いて終わり、じゃないですか。あれだけ余計な尺を使って描いた村の人々が、無事だったかどうかも知らされないまま、クルーたちのその後にもいっさい触れずに、宇部新川なんて一般の客にはなんのことだかわからない町の空撮で終わる。守るべき人々や生活なんてのはQへのエクスキューズ(と、宮崎駿への目配せ)に過ぎず、監督には元よりどうでもよかったことが、この展開で明らかになります。旧劇のときすでにこの世にいた人にラストシーンのことを話したら、「そうなん? あれ、第三村が発展したんやと思ってたわ」ですって。まあ、ふつうの人がふつうに見たらそうなりますよね、ふつう。「見るべき第一はスクリーンの中であって、作者個人とからめて読むのは違うと思うので……」って、おいィ? お前らは今の言葉聞こえたか? お前、この唐突なラストシーンをどう説明すんだよ! 旧劇の内容と切り離してさえ、補完計画以降は普通の映画として読解させるような構成になってねーんだよ! 序と破はキチンと「普通の映画」として作ってあって、こんな読み方を許さなかったし、じっさいだれもしてなかったじゃねーかよ! Qといいシンといい、物語の作り方に問題があるんだよ! 「普通の映画としてさえ凡作から駄作の間」に格下げだ!

 監督、資料を管理する会社とか特撮のための博物館とかでモノを残すのにご執心で、十年後のエヴァ回顧展とかで「ホウ、これがあの伝説の空撮に使われたドローンの実物ですか」とか、渋川先生みたいな口調でオタクどもがニチャクチャやってるのが目に浮かぶようです。しかしながら、そこに2009年7月から2011年3月の間に制作されただろうモノは展示されないに違いありません。それはまるで政治家や官僚と同じ手法で、監督が「正しい歴史」を自由に編纂できる無謬のオーソリティと化してしまったことを意味します。それは「悲しい」ことですが、新劇の結末がこうなってしまったいま、とくだん「残念」なことではありません。2回目の感想は以上です。

2021年3月15日

 エンジェル・ブラッド(サブイボ)! アグ波(agriculture Ayanami)はぜひ流行らせていきたい! 小鳥猊下であるッ!

 2回目を見終わってから、いろいろと感想を読んでるんだけど、ストーリーの中身ではなくてカップリングで炎上している界隈があるんですねえ。中でも、なんの伏線も無いまま唐突にアスカとケンスケがくっついたことへ、強い憤りを表明している方が多いようです。あの、伏線はちゃんとあってね、旧劇で撮影されながらオミットされた実写パートで、生身の声優がキャラ名で生々しい(と、監督が信じる)女性の実態を演じるドラマがあるんだけど、そこでアスカと同棲してるのがケンスケ(トウジだったかも?)なんですよねー。脚本段階では「うえー、口の中にまだ残ってるみたい」とか「いい年して、まだエッチなビデオ見てんの?」とか、監督が女性声優にエロい台詞を言わせたい気持ちがムンムンに漂っていて、女性の下ネタ的発言をカセットレコーダーで収集している「えの素」の小さいオジサンを否応に想起せざるをえません。それにしても、こんなエヴァファンにとって必履修級の実写パートの存在を知らないで、よくノコノコと完結編を見に行けましたね! 「25年ROMってろ」がオールド・ファンからニワカの諸君に贈るまごころの言葉です。

 あと以前、MIYAMOOが出演しているとおぼしき裏ビデオの話をしたことがありましたけど、ブンダーを直下から撮影していたケンスケが急にアスカへカメラを向けて、アスカが「もう、撮らないでよ」って手で顔を隠すシーンがあるじゃないですか。初回も2回目も、なんかこの場面に既視感があるなーって思ってて、まさかあの裏ビデオに同じ場面があった……? もはや確認する術(VHSデッキ)は無いんですけど、もしこれがシン(真)だとするなら、監督のMIYAMOOに向けた執着、怖ッ!

2021年3月16日

 「黒波」なんて、エヴァQからアップデートされていない中二病くさい名前じゃあないかい? 今日からオマエは「アグ波」だ! 農業を意味するアグリカルチャーから2文字をいただいた、「アグ波」だよ! 「アグ波」流行らせ隊であるッ!

 シンエヴァ、2020年6月27日か2021年1月23日に公開されてれば、「:呪」を含めた数万文字にわたる雑エヴァ語りはぜんぶ無かったと思うんです。恨みごとのひとつは言ったかもしれませんが、ここまで長大なものにはならなかったでしょう。2012年のQから半年くらいは昏い感情が胸中に渦巻いてましたけど、そこから8年ばかりは時折の言及こそあれど、エヴァへの関心を基本的に失っていました。それが二度にわたる延期のせいで、潜伏感染していたヘルペスみたいにエヴァが再発したと思ったら、みるみる重篤化して心を侵食していったのです。なので、寛解までにはもう少し時間がかかりそうです。エヴァから現実へ帰る(笑)ためのリハビリだと思って、もうしばらくは「呪い」におつきあい下さい。まあ、正確には1日の3分の2ほど労働者として「現実」をやった後、床につく前の1、2時間の「夢」でこれを書いているのですが、資本家や使用者の方々には伝わらない話でしょう。

 2回目の視聴を終えて、話の内容を反芻してて気になったところのひとつに、クルーを全員退艦させた後で巨大アヤナミへとカミカゼ特攻する場面で、ミサトの一人称が「お母さん」になったことがあります。まあ、シナリオの流れで盛り上げるためにそうしてるってのは百も承知なんですけど、昭和の理想郷みたいな第三村の描写とかを見せられてからだと、文句のひとつもつけたくなっちゃう。特に現代の女性にとって、「お母さん」っていうのは子どもといっしょのときにかぶるペルソナのひとつであって、ひとりのときに自分を「お母さん」なんて言わないと思うんですよね。「お母さん」であることが骨がらみのアイデンティティと化すのは、それこそ磯野フネみたいな昭和の専業主婦ぐらいで、悪い言い方をすると少年だった監督が見上げる母親のイメージが平成・令和・還暦を越えて更新されていないのが、このシーンを通じて伝わってきます。これを「子育てをしてないから」と揶揄するのは、監督の放ったメッセージと同じレベルで下品だから言いません(言ってる)けど、別に子育てをしなくたって現代社会をふつうに生きてればふつうに更新されそうな価値観ではあります。むしろ、こんな現世のよしなしごとよりも魅力的な、いにしえの映像世界へと耽溺する、「日本のおたく四天王」の二つ名を持つ監督の面目躍如としておきましょうか。

 映画全体の構成バランスを考えたとき、カメラが最後に第三村へ戻ってこないのはおかしいと指摘しましたが、宇部新川の空撮に至るまでのシーンって、昭和の野暮ったさみたいのに映画全体を浸してきたのに、ここだけすごく令和っぽい(神木くんのせい?)というか、カッコつけてると思うんですよね。批評家の皆さんは、「この印象の断絶と飛躍こそが監督のねらいである」とか語るんでしょうけど、そんな商売と関係のない昔からのいちファンであり観客に過ぎない私には、監督がかつて「紅の豚」に向けた批判である「宮さんはパンツはいてる。その最後の一枚を脱ぐのが作品作り」と同じものを感じます。旧劇からさんざんカッコつけてきたけど、昭和のフィクションが発する重力から逃れられない、いつまでも昭和が輝いているように見える古びた感性こそが俺の正体なのだと、「パンツを脱いで」さらけださないといけなかった。つまり、「ミサトの特攻でブンダーが爆発する瞬間、呼ばれた気がして振り返るリョウジ」みたいなベタベタのベタな親子の絆の描写が必要だったし、キザッたらしい空撮ではなく「第三村の人々と夏祭りで『エヴァンゲリ音頭』を踊る浴衣姿のブンダークルー」をラストシーンに持ってくるべきだったし、エンディングテーマはUTD氏が藤圭子ばりのこぶしをきかせて歌いあげる「びゅうてぃふる・わぁるど(艶・怨・演歌ver.)」であるべきでした。半ばおもしろおかしく読ませるための冗談ですが、半ば本気でもあります。それでは、今日はこのへんで失礼することにしましょう。明日も「現実」がありますので!

2021年3月17日

 このアグー豚のチャーシュー、美味しーっ! (靴墨で丸く口ヒゲを書いた股引ハラマキが舌足らずに)え、いまチミ、「アグ波」っつった? 小鳥猊下であるッ!

 シンエヴァ肯定派の意見を読んでる。だいたい3つくらいに分類される感じでしょうか。まず、「疲れたから終わったことにしたい派」ですが、気持ちはわかります。いまさら旧劇の頃のように感情を沸騰させても、現実に何も得るところはありませんものね。私はどうも教務課の手違いで2度目の留年となったみたいですが、ご卒業おめでとうございます。次に、「還暦を過ぎた監督の労をねぎらう派」ですが、クリエイター職に多いようです。非クリエイター職からすれば、なんで旧劇で俺たちを全力で殺しにきたエヴァンゲリオンが、肩を貸してもらって介護されてんだというやり場のない憤りを感じます。年老いた毒親が肉体の衰えから生きることへ弱音を吐くのに、ちょっとは優しくしてやらなきゃいけないかなと譲歩させられてる感じが許せないですね。しかしながら、この二者は出されたものが自分の想像を越えなかったという点では共通しています。出力された感想に手心を加えたかどうかの違いしかないので、「否定派」と基本的には同じ立場だと言えるでしょう。そして最後に「大絶賛派」ですが、公開直後によーいドン!で駆けだして、「最高だった!」「監督ありがとう!」と大声で叫び回る段階が過ぎて、ジワジワと後ろから否定的な意見に追いつかれはじめていて、いまはレース場を引き返して、それらを順ぐりにけたぐりで潰しにいってるところでしょうか。「アナザー・インパクトとかアディショナル・インパクトとか、出てくる用語の響きがイマイチなのはわざとで、エヴァを終わらせるために作品そのものを無化しようとする意図がある」だとか、「補完計画中のイメージはすべて、フィクションであることを強調するためにわざとクオリティを下げて作っている」ーーええ? 「自らが率いて十年が経つ制作会社のCG班の実力をそのまま演出として使っている」ならまだわかるけど、すごいなーーとか、薄々は作品の弱点として気づいている部分をガードしに行きながら、攻め込まれてる個所の戦線を回復しようと躍起になってる感じが見ていて辛いです。大きな怖い声を出せば相手は言うことを聞くだろうという、お得意のマッチョイズムを貫きとおせばいいものを、ベトコンにつりこまれる米軍みたいに隘路へと入っていくのは、それこそ相手の望むところで得策ではないとアドバイスしておきます。枝葉末節に触れず、「シンエヴァの凄さがわからないヤツは、バカ!」を大声で繰り返すのが最善の策でしょう。そこでは勝てませんから。結局のところ、「絶賛派」も「否定派」もどう解釈したいかの違いだけで、見ている映像の中身が同じであることが「絶賛派」からの丁寧な指摘でわかりつつあります。1回目の視聴では、あまりに感情が沸騰していたのでエンドロールの直後につい「ゴミ」と大きめにつぶやいてしまったのですが、旧劇のときにはこの世にいなかった人の反応は「え、そんなに? わたしは面白かったけど?」でした。2回目の視聴では、旧劇のときにすでにこの世にいた人の反応は、「長いなーとは思ったけど、気になるところもなかったし、楽しく見れたわ」でした。この2人は一週間が経過して、もうまったくシンエヴァのことを話題にはしませんし、シンエヴァを見たことさえ忘れてしまったようですし、リビングのパンフレットはすでにナベ敷きとして使われています(3冊買ってあるから安心ですね)。大手検索エンジンの映画レビューに「長かったけど、面白かった!」と書いて4をつけて、その日のうちにシンエヴァのことが頭から消えてしまう人々が観客の95%で、残りの5%が1か5をつけて、もう見終わったのに延々とそこへと言葉を費やしている。つまり、シンエヴァを「見る」という行為だけで満足できず、何かを「語って」しまっている時点で、我々はみんな同じ穴のムジナなのです。シンエヴァは監督自身によって壊された、まごうことなき「ゴミ」ですが、どうかしばらくは仲良くやっていきましょう、ご同輩!

2021年3月18日

 ねえねえ、聞いて聞いて! 「エヴァQ」のQは「阿Q正伝」のQからとったらしいよ! (靴墨で丸くヒゲを書いた股引ハラマキが舌足らずに)え、なに、いまチミ、「アグ波」っつった? 小鳥猊下であるッ!

質問:本物だ… 本物の方の言葉を拝めるの嬉しい…。文章が楽しい。かように色鮮やかで鋭利な、言葉と感情のアルバムに出会えたことに重ねて感謝します。

回答:過分な評価を、とは謙遜しません。私のエヴァ雑文集は、まさにファン歴25年の精髄、貴方の表現する通りの逸品なのですから! しかしながら、この文章が「本物」だとわかるのは、貴方が知性と審美眼を兼ね備えた「オタク」だからなのですよ。たいていの「ふつう」の方は、「なんやこれ、エヴァの感想やいうから見てみたけど、目のすべる読みにくい文章やなあ」と文句を言って、ブラウザの戻るボタンを押して、終わりです。私は怪文書の類として、「:呪」をはじめとしたエヴァに関するテキストを書いているつもりです。25年前、テレビ版放映終了から劇場版公開までの間、無数の怪文書が乱れとびました。そのうちのひとつを未だに手元に持っていますが、だれかにFAXされたとおぼしき手書きの文書で、何十回もコピーを繰り返した結果、文字は判別の難しいまでにかすれ歪み、書かれている内容を含めて、流行りの言葉に乗っかっておくと「呪物」としか言いようのないシロモノです。そういえば、出版物に収録される前から、テレビ版の企画書のコピーも持ってましたね。いま思い返すと、いったいどこが出元だったのか、怖くなります。エヴァにまつわる私の文章も、SNSのサービスを使ってきれいにまとめられて、もしかするとコンテンツ然として見えているかもしれませんが、私の中のイメージは25年前、関係者と称する人物がテレビ版作成の裏側を赤裸々につづった、あの「呪物」としての怪文書、判読の困難なA4の紙束なのです。

 雑文「建築物としてのエヴァンゲリオン」

質問:監督はシン・エヴァについて賛否両論のふきあれる今の状況をどう見てるんでしょうか。

回答:おっ、ええ質問やな。ケトゥ族のスピーカーがウエメセで多用するところの「グッド・クエスチョン!」やで。「シン・ウルトラマンの編集作業と追加撮影で忙しくて見てない」がホンマのとこやろうけど、こんな回答はつまらんし、オモロイかオモンナイかがワイら関西人の基準やから、オモロイほうで話を進めていくで。ふつうの監督でふつうの映画やったら、興行収入が評価のモノサシになるんやろうけど、コイツは腐ってもーー「腐ってやがる。遅すぎたんだ」ーーあのエヴァや。ふつうの監督やないし、ふつうの映画やない。カスのQかて、興収だけでいうたら前作を上回っとる。あれや、ドラクエシリーズでいうところの7みたいなもんや。どっちも売り上げ最高なんが、いっちゃんおもんないねん。アンタの質問への答えはズバリ、シンエヴァの「全記録全集」が発売されるかどうかで、監督がファンの感想に何を感じたかがわかるいうことや! Qとの合体版か分冊で鈍器みたいな本が出版されるんやったら、観客の受け止め方が監督にとって好ましいか許容範囲内だったということやし、もし出版されへんのやったら、耳の穴から湧いたウジが這い出てくるみたいな脳天ファイラーの結末に、監督自身が救われんかったことの証明になるんや。要するにやな、Qからの長い長い地下レジスタンス活動の末、あんなダボハゼみたいな完結編を公開されてしもた以上、「否定派」諸君に残されとる最後の勝利条件は死なばもろとも、「全記録全集」の出版阻止だけということや。オマエら、なに銃口さげて下むいて涙ながして抵抗をあきらめとんねん! まだ勝てる道が残されてんねんぞ! まだまだやり方がナマぬるいんじゃ! これが最後の祭りや、もっと盛大に「:呪」を拡散して、ワアワアやったらんかい! 大人アスカの破れたラテックス・スーツの隙間から手ェ突っ込んで、おっぱいモミモミしたろかい、ワレェ!

2021年3月19日

 UGGのブーツ、可愛いーっ! (靴墨で丸くヒゲを書いた股引ハラマキが舌足らずに)え、なに、いまチミ、もしかして「アグ波」っつった? 大人アスカの破れたラテックス・スーツの隙間から手ェ突っ込んで、鎖骨ギシギシいわせたろかい、ワレェ! 小鳥猊下であるッ!

 シンエヴァ公開から10日以上が経過して、さすがに反応が薄くなってきた。アディショナル呪詛、続けるべき?
 総括や! 革命戦士として、監督に総括を求めるんや! 85.1%
 還暦を過ぎた作家に奴ら加減ってものを知らないのか! 4.3%
 痛いやろけど怪我したらもう呪詛を吐かんですみます! 10.6%

2021年3月20日

 ケンスケについて書いてたら、また感情が沸騰(フットーしちゃうよう!)してきて、「第三村節考」みたいになってきた。すでに五千字に迫る勢いで、公開するかどうかはアンケート次第ですが、その際は「アディショナル呪詛」から別記事に分離するかもしれません。

シンエヴァ「第三村節考、あるいはケンスケについて」呪詛

2021年3月21日

 またシンエヴァのこと書いてる。抜いても抜いても溜まる腹水みたいなもので、病気由来のものであることも理解してる。みなさんにとっては悪臭を放つ何かなのかもしれませんが、苦しむ患者にはもう出なくなるまで吐くぐらいしか方法がない。でも、「エヴァは人生」ですし、人生の一部を壊された人の語りとしては、比較的おだやかな方なのではないでしょうか。

「さながら『アウグスティヌスの告白』といったところですね」
「なんだって? アグリコラとしての綾波レイを意味する略称『アグ波』のことを君は言っているのかい?」
「い、言ってません。言ってない」
「つまり、『アグリコラ綾波レイ』では言いにくいので、『アグ波』というわけだ。なるほど、これは発明じゃないか!」
「言ってないよーッ!」

 年明けからエヴァに心を囚われ続けていたため、ずっとプレイが止まっていたドラクエ11Sをようやくクリアする。30周年の集大成として、ロト3部作へと至る「神話」が描かれており、MMORPGやスマホゲーなど、様々な枝葉へ派生していくドラクエシリーズの依るべき大樹の幹、堂々たるフラッグシップとして作られたことが伝わってきました。昔からのファンと新しく合流したファン、どちらも楽しめるように配慮しながら、ロト3部作につなげるために少々強引だったり、あとづけの部分もありますが、ドラクエという偉大なるマンネリズムへのレスペクトを保ったまま、余計な改変への色気を見せずに、キッチリとお話を終わらせました。ランスシリーズとはまた少し風呂敷の畳み方は異なりますが、長く続いたシリーズの自走性やキャラクターの持つ人格を尊重しながら、作り手が作品そのものと敬意のある対話をして終わらせた点では同様と言えます。以前、ハンターハンターの作者が作中のキャラ同士の掛け合いでストーリーを作っていくという話を紹介したことがありますが、これはつまり、「虚構のキャラといえど一個の人格であり、それを作者が改変することは基本的にできない」という強い信念からなされていて、同作が持つ魅力の根幹でもあります。

 この態度の対極にあるのが、エヴァQとシンエヴァだと指摘できるでしょう。変えてはいけない作品の中核をなす深い場所へ手をつっこんで、作り手の語りたいストーリーを実現するために、シリーズの自走性とキャラクターを壊したことは、本当に罪深い。だれかの感想に「シンエヴァで『碇シンジ』というキャラクターは1秒も登場していない」というものがありましたが、全面的にその意見に同意します。碇シンジという尊厳ある人格はたぶん、シンエヴァが始まる直前、ロボトミーで消されたのです。フィクションの登場人物を「作品の外」で殺すことを裁く法律はありませんが、しかしそれは倫理的に許されるのでしょうか。物語の中盤、ブンダーの監禁部屋で、シンジがアスカから「なぜ私があのとき怒ったかわかる?」と聞かれて、「3号機に乗っていたアスカを生かすことも殺すことも自分で決めなかったから」と答えて、「やっとわかったのね」とそれが正解みたいに受け入れるやりとりがありました。私は最初にこれを聞いたとき、意味不明すぎてワケがわかりませんでした。3号機との戦いでシンジは自分の意志で「アスカを殺さないこと」を決めていたし、2人目の綾波を救出するシーンでも自分の意志で「レイを助けること」を決めていた。破の段階では、明らかに「主人公の決断」として肯定的な視点で描かれているのに、Qに移った途端に「必要な戦いを放棄したばかりか、ひとりの少女以外の破滅を願った」と、他ならぬ作り手その人によって解釈を反転させられてしまう。もはやシリーズとして、ストーリーの一貫した内的必然性は失われており、作り手の意図で各キャラクターを高次で洗脳する、いわば「魂の殺人」が行われたとしか思えません。

 シン・ゴジラが成功したのは、余所様の著作物なので壊してはいけない枠組みから距離を保てたことが大きかったのでしょう。シン・ウルトラマンも、この点についてはまず監督自身の作品に対する深い敬意があるため、安心できます。余談ながら、もし仮に映画の終盤でピンチに陥ったウルトラマンが自らマスクをはぎとり、その下から監督の素顔が現れる展開になって、昔からの特撮ファンが騒然となる様を見ることができれば、シンエヴァのことを許せる気持ちになるかもしれません。しかしながら、エヴァについては自社で権利を持ってしまったことで、「どこまでも自由に枠組みを壊せる」と考えてしまい、ストーリーは監督の自我に隷属し、キャラクターたちの人格へのレスペクトは失われた。監督は本邦随一の昭和特撮オタクであり、絵作りの天才だとは思いますが、ストーリーの語り手としてはまったく信用がなりません。「じゃあ、どんな続編だったら満足したの」と言われてますが、シンエヴァを拒絶する人たちが希望しているのはたぶん同じ中身で、脚本・設定・作画を副監督と旧劇の量産機戦を担当した人にすべて任せて、監督には編集権だけを預けた陣容で制作される、破の予告通りに語られたヱヴァンゲリヲンなのです。正味の話、シンプルな話をややこしくしてんのは、いったいどいつなんやってことやがな!

 あと、ブンダーを巨大アヤナミへ特攻させる場面で、イスカリオテのモヨコ(キャラ名なんだっけ?)が「ユイさん、人類の科学技術はここまできたよ」みたいなこと言うんだけど、あの瞬間の「ハア?」っていうシラケっぷりったらなかったです。序破のような人類の現在と地続きに見える地点から丁寧に設定を積み上げたのなら、まだ話はわかりますよ。Qシンの「リアリティが底を割った世界」でそれを言われても、「ナディアでいうところの発掘戦艦は、古代人のテクノロジー(笑)で今の人類とは何の関係もないし、もっと言えば君はただのアニメキャラに過ぎないのに、なんで急に人間の代表みたいな顔で科学技術を語りだしたの?」としか感じなかった。

 それとさあ、もう「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」になってるのわかった上で細かい話するけど、カヲルがrealityとimaginaryを並列の対比で語ってるところ、どっちも名詞で使ってるなら「現実」と「虚数」って意味なのに、作中では後者を「空想」「想像」の意味で使ってる感じなんですよね。なら、imageかimaginationが正しいんじゃないの? 元より定義とかどうでもよくて、自分にとって音の響きがカッコいいかどうかだけで語彙を選択してるんですよね。百歩譲ってそれは作り手のクセとして呑みこむとして、なんで高学歴の批評家たちが同じレベルのアホになってその語法を受け入れて、その語法で話をしてんの? 贔屓の旦那衆からの、最終回へのご祝儀にもほどがあるわ!

 質問:最後のほうで急に出てきた渚司令ってなんのことですか?

 回答:もう考える気も失せてるけど、ガイナックス時代の監督がゲンドウで、カラー時代の監督がカヲルって言いたいんじゃないですか、どうでもいいけど。カヲルと言えば、パンフレットで声優が放った「テレビシリーズのときから考えていたとしたら、年月の長さも含めて、すごい伏線回収ですね」みたいな挑発的発言が最高でした。「建て増し」「あとづけ」「路線変更」のコンボに嫌気がさしていた私は、当事者のこの遠回しの皮肉へ大いに溜飲を下げました。

2021年3月22日(NHKドキュメンタリー)

見てる。抽象的な言葉で部下を煙に巻いて、無駄な長時間労働を強いるタイプの上司。監督の言葉ひとつでお通夜状態になったときの、現場の表情ったらないですね。

スタッフによる、奥歯にモノが挟まった遠回しの批判。「頑張りが足らない」って、どの口が言うねん。あいだにシン・ゴジラを挟んで、アニメと水と油の手法を手に入れたことがよくなかったね。

「いま自分のこと、かわいいって思ってるでしょ?」。奥さんのインタビュー、すごく良かった。同じクリエイターだからこそ、彼のエゴを理解できるし、許せるし、助けようと思ったんですね。ちょっと泣ける。

ビデオフォーマット版を使うなよなー。

見てるのはコアなファンだけなんだから、エヴァのこんな復習いらないんじゃない? もっとパワハラ上司の側面を写してよ。

ネット掲示板、見てたんですねえ。「2階建てのスタジオから飛び降りても死ねないよ。関心を引くためのフリだよ」ってスタッフに突っ込まれてましたね。

自分に無いものを吐き出そうとしたことが原因ですよ。

奥さん、愛ですね。本当に、彼のことを愛してるんですね。

わかってましたけど、東日本大震災がエヴァに与えた影響については完全にスルーしましたね。宮崎翁と現場スタッフからの赤裸々な証言を聞きたかったんですが!

社長が周囲に理解を求めんなよ。社長がするのは指示だけだよ。

脚本からやりなおしすぎ。副監督、えらいなあ!

スタッフへは遠回しにしかいけないけど、声優には厳しくいける監督。実写なら俳優に厳しくいけるのが、気持ちよかったのかな。

指示が抽象的すぎる。おまえが自分でやれよ。

「もう間に合わない。作り上げることが最優先」。ぜんぶ自分が招いた結果なんですけど、カッコいいナレーションで肯定的に描かれて、良かったですね。

「物語は始まらない」。シンエヴァがエヴァ世界にとっての東日本大震災であることを裏書きする言葉。

MIYAMOOの台詞を聞いて、HEAVEN状態の監督の表情。

「甘き死よ、来たれ」を流すんじゃねえ!

監督とMIYAMOOのやりとり、もっと見たかったなー。

見ろよ!

奥さん、いいなあ。監督は自分に向けられたこの愛を、シンエヴァでは表現しきれていないと思いますよ。

奥さんの愛に支えられて、SF作品として正しくエヴァを終わらせれば、監督は男を上げる(昭和的表現)ことができたのに、奥さんの支えを作品そのものへと同化してしまった。本当に、残念です。

脚本の書き直しとかで毎回わざとギリギリまで追い込まれる状況を作ろうとするのって、ある種の病気だと思いますよ。少なくとも社長の態度としては、完全にアウトだと思います。

組織内に監督と同格の存在が副監督しかいなくて、彼が「恋女房」のキャッチャーみたいにいつも献身的に動いて、建設的な提案かワガママかのジャッジをしなかったことが、シンエヴァという作品の空気に良くも悪くも表われている気がしました。

2021年3月23日

 昨晩のドキュメンタリーを思い出してる。「失敗の舞台裏」として興味深く見ました。監督の意見はどんなものでも絶対で、女性スタッフの表情は「次に何を言われるのか」と恐怖にこわばってて、男性スタッフは「ボクは怖くないんだぞ」という虚勢から裏で社長のこと小馬鹿にしてて、社内の雰囲気はすごく悪いように見えました。「作品至上主義」はじつに結構なことですが、シンエヴァの仕上がりを見ると、今回ばかりはとても成功したとは思えません。エヴァ序破やシン・ゴジラに表出されていた、「人間は個人としてはダメだけど、組織ならば大きなことができる」というポジティブなメッセージはどこから出ていたんでしょう。その影響を与えた人物は、退社しちゃったのかな。社内には昔からの仲間と年下のスタッフしかいないみたいで、監督をいさめてくれる年上の相談役がそばに必要だったんでしょうね。社外や沖縄ではなく、すぐとなりで伴走してくれるペースメーカーが。今回はそれが奥さんだった。ジブリのプロデューサーにシンエヴァの脚本を読んでもらっていたという話を聞いて、つくづくそう思いました。旧劇とエヴァQは自分の男性が出すぎていないか確認するために社外の女性に脚本を読ませ、シンエヴァは妻という女性からの影響が出すぎていないか確認するために社外の男性に脚本を読んでもらった。制作に追いつめられると「社内から監督の姿が消え」、スタッフに頼らずすべて自分でなんとかしようとする。スタッフもどこかでそれがわかってるから、監督がすべてを差配しようとするまで真剣に仕事をしない(ちゃぶ台返しで無駄になるから)風土ができてしまっている。ゆえに、監督の期待を越える人物は育たないし、育ったとしてもそのシステムに嫌気がさして、辞めていってしまう。副監督の発言にもありましたが、監督は生粋のクリエイターであって、人材や組織を育てるような人間ではないように思います。若いスタッフの「これで最後だから」という言葉は、エヴァンゲリオンだけに向けられたもののようには聞こえませんでした。

 例のドキュメンタリーの感想つづき。会議の場面がいくつかありましたが、監督が一方的に何か言って、スタッフ全員が神妙な顔でシーンとそれを拝聴するみたいなのばかり。もっとケンケンガクガク、怒鳴り合いみたいな現場を想像してましたよ。制作の終盤、監督が涙目になりながら「こんなに理解されてないとは思わなかった」などと乙女のようなことを言うのが、会議で唯一あらわれた「感情」でした。シンエヴァが監督一色に染められたのも無理からぬことかと、少しだけ同情しました。会議でのダンマリに対して、監督がいない場所でのスタッフのゆるみっぷりたら見ていられないほどで、我ながら不思議な感情ですが、監督の代わりに連中を怒鳴ってやりたい気持ちになりました。「意見を出せって言うけど、結局おまえの考えるベストを後から出してくるんだろ?」と思っている部下に囲まれているときのトップの辛さって、わかるような気がします。まあ、トップのそれまでの運営の仕方が悪いんですけど、意見のすべてを直接にか間接にかで潰され続けるうち、だれも仕事の結果に責任を感じない操り人形になって、会議そのものが形骸化しちゃうんですよね。「それで、正解は何なんですか?」といった具合に、置かれた外的状況に向けた解決策ではなく、トップがあらかじめ持っていると部下が信じる正解を探しだすんです。もっとも先鋭的であるはずのクリエイターの世界で、それが行われているのを見るとは思いませんでした。ああいう自分の考えに固執する上役ーー監督は超弩級ですがーーってどの組織にもいますけど、二人きりで(みんなの前じゃ「恥をかかされた」気持ちが優先しちゃうからダメ)真正面から失礼なぐらいのトーンでガツンと直言した方がいいですよ。そうやって、もし懐の中に入れてもらったら、意見を求められるようになるし、助言も半分くらいは聞いてもらえる。でも、監督をクリエイターとして尊敬して、みんなが監督にあこがれて入ってきた、ある意味で完全に上位下達の組織では、その枠組みの外に出るのが難しいんでしょうね。なので、意見をできるのは昔からの盟友しかいなくなり、その朋友たちも監督の下に残ってあくまで支え続けるか、監督の下を離れるかの二手に分かれてしまった。そして直言をできる人間が組織内にいなくなり、監督は制作のある時点で頼みできない社員たちに期待することをキッパリと止め、結果としてシンエヴァは旧劇以上に監督の実存へと依拠したインナーワールドへと変貌したのでしょう。

 あのドキュメンタリーを見てから、老いた両親に優しくせねばと思う気分に心が寄ってきて、エヴァに妥協してエヴァに手加減しなければならないことが、本当に辛い。なんぴとの登頂をも拒む孤高の冬のエベレストが、いまや観光客にあふれる春の天保山と同じになったことを認めるのと同義なのですから!

 余談になりますが、UTD氏のインタビューも見たかったなー。出てくる女性が表情のひきつった部下と奥さんしかいなくて、もう少し距離のある人物(女性)から現場と監督がどう見えているかを知りたかったです。

2021年3月24日

 二週間以上も荒れ狂って、そろそろ冷静になってきた。肯定派はシンエヴァを単体の映像作品として見ていて、否定派はシンエヴァを連続した物語として見ている。だから、どこまで話しても平行線で、決して交わらない。「物語派」として、言いたいことはだいたい吐き出したので、そろそろこの「呪い」も終わりにしたい。正直なところ、語ろうと思えば永久に語れることはわかっている。しかし、この二ヶ月というもの、貴重な人生のリソースーー時間と情動ーーをいちアニメ作品へ注ぎすぎてしまっている。ここは私の戦場ではないし、そろそろ「エイヤ!」と叫んで、書くのを止める頃合いだろう。ちょうどいいタイミングで例のドキュメンタリーが放映されて、いま呪詛としての体は半透明に消えかかっている。ときどき単発のエヴァ語りツイートはするかもしれないけど(するんかい!)、シンエヴァに関する長めの感想はもうおしまい。2021年1月15日から3月24日までの69日間、合わせて10万字近い妄執の旅におつきあいいただき、ありがとうございました。

 蛇足ながら、感情的な罵倒にすぎるという「:呪」に対するご指摘への反省を踏まえ、「第三村節考」ではケンスケに感情移入させることで、シンエヴァの作劇がいかに歪かを証明してから罵倒するテクを使ってみました。こっちも拡散してね。小鳥猊下からシンエヴァを呪うみんなへの、最後のお願いだよ! それでは、カラーが資金繰りに行き詰まる、もしくはWアンノの破局によって新たなエヴァが再起動(笑)するその日まで、さようなら! 大丈夫、「さようなら」はまた会える「お呪い」(半透明の体が薄くなって、スーッと消える)!

THE END OF CURSE OF NEW EVANGELION (臭激、じゃない、終劇)

カルテ「シンエヴァ・リカリング呪詛(2021.3.26~)」

追悼「シン・エヴァンゲリオン劇場版:呪」

*以下のリンク先を読んでおくと、呪いの効果が高まります。

アニメ「2021年のエヴァンゲリオン」雑文集(1/25~3/5)

 旧劇のときにはこの世にいなかった人と席をならべて見て、終わったあとはいっしょに少し話をして、本作を目にすることのないまま、この世を去った人たちに思いをはせました。旧劇からのファンと新劇から入ったファンでは、シンエヴァの受け止め方はかなり違うだろうことは理解しています。なので、ファースト・インプレッションでの言い過ぎをまず少し修正しておきますね。

 「一般的な映画としては佳作から凡作の間くらいかもしれないが、エヴァンゲリオンとしてはゴミ」

 2時間35分の半分ぐらいを過ぎたあたりから、もう腕時計ばっか見てました。私小説とプロダクトを両立するダブルエンディングは儚い妄想であり、「One Last Kiss」と「beautiful world(da capo ver.)」もスタッフロールで2曲続けてベタッと流すだけで、作劇と関連した効果的な使われ方というのはありませんでした。

 昨年、先行的に公開された冒頭10分の映像を見たとき、もしかすると「破滅を目前にした人類の共闘」、あるいは「エヴァ世界の拡充(GガンダムならぬGエヴァ!)」を目的としてパリが舞台に選ばれたのではないかと少しだけ期待していましたが、まったくそんなことはなく、ただエッフェル塔をFATALITYとして用いた戦闘を描きたかっただけで、ナウシカの再アニメ化でクシャナ殿下のこのアクションだけを映像にしたいと宮崎御大に申し入れて、「オマエはそんなことだからダメなんだ!」と叱られたときから、1ミリも前進していないことがわかりました。

 序盤では、エヴァQにおいて語られなかった舞台の裏側にあったものを丁寧に描写していこうとするんだけど、テレビ版で言うところの3人目の綾波を主役として「となりのトトロ」をコピーした田舎ぐらしを延々とやる。夏休みに帰省する両親の実家の大家族が、人生の幸せやまっとうな人間のイメージとして提示されるのって、補完時のゲンドウの語りにも通じていきますけど、あまりに昭和的で安直すぎませんか。田舎の大家族から離れて都会に出た核家族の子どもの、さらに子どもである若いファンが唐突すぎる「里山生活」の描写をどのように見たのかには興味があります。近年の朝ドラが描く戦前から戦後にかけての農村のイメージの中に、ヤマト以降に顕現した特殊性癖であるところのプラグスーツを着たままの綾波がウロウロ歩いてるのは、ほとんどギャグにしか見えませんでした。奥さんの影響を受けた、モノ余りカネ余りの都会人だからこそ可能な、ファッションとしてのロハス&ビーガン生活に、監督はきっと脳髄までどっぷり浸かっているんでしょう。新劇内のテーマとしては、すでに破のスイカ畑のシーンで「土のにおい」として過不足なく示されていた中身であり、それを延々と薄めて再提示しているに過ぎません。

 以前、エヴァQについて「依拠する現実を失ったがゆえの、リアリティの底割れ」と指摘しましたが、そこへの反省(オア、反発)から現代の都市ではなく昭和の田舎を寄る辺としたのは、これまでの世界観からはひどく浮いてしまっています。「出されたものを食べないのは、失礼じゃないか!」とシンジを叱りつけるトウジの父親なんて、宮崎駿作品を模した亜流みたいなキャラでした(ゲド戦記かよ!)。素朴な疑問なんですけど、たった14年で家の内装があんなに古びて詫びた感じになるものなの? たった14年であんな老若男女そろったコミュニティが形成できるものなの? トウジが村のために人を殺めたことをほのめかすような台詞があったり、監督の中で「戦争帰りの殺人(に傷つき、悔いている)者がすぐそばで暮らす昭和」が聖域として極限に美化されていて、材料をぜんぶ使い切った後で最後の引き出しを開けたら、少年時代の原風景的なイメージとしてそれが出てきた可能性はあります。

 数分の描写しかないミサトと加持の子どもってのも唐突で、のちにシンジとの和解を演出する目的で、作劇のために置かれた書き割り以上には感じられません。「Qのミサトさんがシンジに冷たい態度をとっていた裏には、こんな葛藤があったんですね」とか感動している向きもあるようだけど、それは逆なんですよ。「Qのミサトの態度を観客に納得させるためには、どう演出したらいいか?」の設問ありきで、回答はどれもこれも9年を費やしたあとづけの言い訳ばかりじゃないですか。荒れ狂うDV夫にしこたま殴られたあと、優しく「ゴメンね」とささやかれながら手当をされて傷が癒えたとして、殴られた事実は消えないし、夫の急な変貌に妻は恐怖をしか感じないでしょう。自分でマイナス100にした状況へ2時間35分かけて少しずつ他所様と過去作から引いてきた水を注いでいって0に戻すって、こんなひどいマッチポンプ見たことないですよ……いま書いてて、いや、前に見たことあったなーと思い直しました。

 エヴァQとシンエヴァの関係は、スターウォーズで言うところの「最後のジェダイ」と「スカイウォーカーの夜明け」の関係と酷似しています。他者の意見を聞き入れない自己陶酔的な思い込みの暴走で、それまで積み上げてきた歴史ある作品の舞台をちゃぶ台がえしでグチャグチャにしたのを、続編で本来的には不要の長尺を使って丁寧にまた一から積み上げ直して、なんとか無様ではなく終わらせる形だけを作ったというあのやり方で、盛り上げようとするシーンはことごとく過去作のコピーなところまでソックリです。スターウォーズの方は8と9が別々の監督だったので、ライアンへの恨みとエイブラムスへのねぎらいという感情にそれぞれ落ち着き(け)ましたが、エヴァに関しては自分でちらかしたのを自分でかたづけて、「えらいねー」と取り巻きの女性に頭をなでてほめてもらう得意顔の子どもがいるようにしか見えません。しかも、脱糞後の尻をふくだけの行為に「落とし前をつける」とか、まさに昭和任侠モノの語り口でカッコよさげに宣言されても、どんな共感が生じるっていうんですか。

 本作はQの挽回と新劇の総括として、批評家連中が旧エヴァと関連させて語りやすい要素をストーリー全体のそこここにまいてあって、「あ、これはあれとからめてこう語れる!」という喜びがきゃつらの好印象の正体で、そこで話される内容は昔からのファンの受け止め方とは何の関係も連絡もありません。監督は外部への発信や折衝について専属の担当を置いてやらせてるみたいですけど、今度はシンエヴァに関するファンとのコミュニケーションを批評家たちにやらせようってわけです。自分の口で語りさえしなければ、間に入った人間の「勘違い」で後から「解釈」の修正がききますから。これ、実に日本的な忖度のシステムで、トップの真意を限られた取り巻きしか知らされないことで形成する権威の仕組みなんです。あんまり詳しく語ると怖い人が来るので短く言うと、「御簾ごしのミカド」を源流とする本邦に特有の土人的な支配構造です。今回、かなりそこを意識的にやっていて、挑戦者だったエヴァが批判を許さない権威者になったことをまざまざと見せつけられました。

 そして、中盤でシンジが再びブンダーに戻ってから延々と続く戦闘シーンを、楽しんで見ることのできた昔からのファンはいったいいるんでしょうか。次々とブンダーの姉妹艦ーー見た目の違いはほぼないのに、出てきた瞬間に名前を言い当てるリツコ。「確か4番艦があったはず」の台詞の直後に真下から4番艦がぶつかってくるの、笑わせる以外の演出意図は無いですよね?ーーが現れて、どれだけ被弾してもダメージ描写が皆無の緊張感に欠ける砲撃戦を繰り返すのもそうですが、Qの段階ですでにお腹いっぱいのアスカとマリによるオレツエエ・バトルを、喉の奥にじょうごを突っ込まれたガチョウみたく流し込まれ続ける苦痛ったらありません。ギャンギャン叫びながら目から極太バイブみたいのを抜き出したり、もう何ひとつ画面と気持ちがシンクロする要素がないまま、Qで指摘した魅力絶無のスーパーロボット・アクションでストーリーが進んでいるような雰囲気だけを醸成していきます。もう言うだけヤボですが、工業の壊滅した世界でのヴィレ側の修理・補給問題は農村パートで不充分ですけど示されましたが、おじさんとおじいさんだけの組織であるネルフ側のそれらについては、完全に説明を放棄していましたね。

 終盤の人類補完計画の下りは、旧劇がシンジを通した全的な補完だったのに対して、ゲンドウ、アスカ、カヲル、レイを列に並ばせて順番に補完しては退場させる同人誌みたいな中身なんですけど、絵ヅラを旧劇から借りてきてアップグレードしようとして、大失敗している。コピーに感情とセンスをブチこむことで作品を作ってきた人物が自作のコピーに手を出した結果、若かった頃の己の感性と向きあって昔からの客に新旧を比較されるはめになってしまった。率直に言って手法だけがトレースされてて、音と画面は豪華になったのに、感情とセンスは劣化してしまっている。実写ふうに置き換えられた巨大アヤナミの顔ーーたぶんシンジの声優の顔演技が下敷きにあり、ツイートの「未体験の試練」がこれーーが結婚披露宴の高砂の金屏風みたいな背景で出てくるの、もうこのへんから疲れてきて真面目に作ってないでしょ? 公開前に不安を吐露した、第三新東京市で行われる初号機と13号機のバトルは、自社のCG班がいつまで経っても期待通りのモノを上げてこないのに業を煮やして、テレビ版の最終2話と同じ「赤点とるくらいならマイナスにしてやる」という心境になって、その後のギャグみたいな場面ーーミサトのマンションや学校の教室でエヴァが戦うーーを含めて、ヤケクソで演出をつけたようにしか見えませんでした。巨大アヤナミの頭部めがけて小さなブンダーが突撃していく横シューみたいな画面は超兄貴そのものの絵ヅラで、これも笑わせにきてますよね? 旧劇とは比較すべくもない、しまりのない、だらしのない、緊張感に欠けるシーンの連続です。

 ねえ、CG班の人たちは、何の進歩もないままずっと給料はらってもらって、あのエヴァを時代遅れのポンコツな仕上がりにして、いったいこの9年なにしてたの? 「俺たちの親分に恥をかかせちゃいけねえ!」みたいな昭和任侠の気概をだれも持たなかったの? オーケーもらってホッとしてんじゃねえ! あきらめられてんだよ! 最高にカッコいい絵作りをしてきた編集とコラージュの極みにいる人物が、かつてのようには良い素材を与えてもらえなかった末の、昔だったら絶対にオーケーを出さないような自棄に見えるシーンがいくつかありましたが、カラー設立から10年以上が経過したのに、監督の眼鏡にかなう人材は育ってないんでしょうね。それもあってか、エヴァをたたむのに監督の私小説的な心情を用いるしかないという結論こそ旧劇と全く同じですが、映像的には「まごころを、君に」の自己模倣に終始するわけです。「コピーに魂を込めることでオリジナルを超える」人が、還暦を迎えてアニメ界の大御所になった結果、周囲を見渡したらもうコピーする先が無くなっていたので、自分の過去作をしこしことコピーし始めるのを劇場の大画面で見せられるのには、もはや悲しみしかありません。しかしながら、旧劇で「甘き死よ、来たれ」が鳴りはじめた直後の、各話タイトルと裏返しのセル画が連続で流れるシーンを、プロジェクターで撮影所の壁面へ映す演出ーー新劇のタイトルが追加されてるーーには激しい怒りが沸騰し、端的に「商業にまみれた人買いの汚い手で俺の旧劇に触るな、殺すぞ」と思いました。

 そして、「己の人生をフィルムに熱転写する」人が、カネのかかった自費出版の私小説で最後に提示してきたのは、妻と出会うまでの己の精神史をゲンドウへと仮託した赤裸々な告白と、添い遂げられなかったかつての恋人と互いに別々の伴侶を持つようになってから交わす「好きだったと思う」「好きだったよ」という言葉、つまり旧劇の裏にあった泥沼の恋路の清算だけでした。アスカの声優との距離感がエヴァの終わりに当たって重要ということを半ば冗談みたいに話しましたけど、違う意味で的中してしまった形です。今回のアフレコでアスカの声優が監督からかけられたという「宮村がアスカでよかったよ」という台詞は、人生や人間関係のすべてを秘し隠さず、作品作りへ流用していくクリエイターとしてのおぞましさが最大級に伝わってきて、背筋に寒気が走りました。

 ぴちぴちのラテックス・スーツに身を包みリアルよりのキャラデザで描かれた大人アスカ(MIYAMOOによるコスプレを意識させている)が例の砂浜に横たわっているのにシンジが「僕も好きだったよ」と声をかける場面には、「おまえら、こんなのアフレコの合間に喫茶店とかで二人きりでやれよ! 劇場の大画面で俺らに向けて中年のオッサン、オバハンの気持ち悪いやりとりを垂れ流してんじゃねえ!」と絶叫しかけました。ここ、怖いところだと思うんですけど、監督からの一方的な恋慕を、作中のキャラに「好きだった」と言わせることでまるで両想いだったみたいに改竄してるんですね。まさにエヴァンゲリオン・イマジナリーというわけで、パンフレット冒頭に寄せた監督の文章でも破の直後から、迷いなくQの世界観で続編制作を始めたことに「なっている」。「イヤな現実はエヴァに乗って変えてしまえばいい」じゃないですけど、ごまかそうとしてるふうではなく、強いイメージ力で本当にそう信じていることをうかがわせ、周囲にその誤認を正す人物はもういないのかと、ゾッと薄ら寒い気持ちにさせられました。

 補完の終わりに、旧劇でセル画を裏返して撮影したのを業界の先輩から「凄まじい脱構築」と激賞されたのがいつまでも頭から離れないのか、今回も延期につぐ延期で作画は間に合ってるはずなのに、線画とラフによる制作の裏側を見せるんだけど、斬新だったのは当時だれもやらなかった初めての試みだったからで、25年を経た今ではもうマンネリ感しかありません。巨匠の手クセをみんなが「そうそう、これだよ、これ」って褒めそやす感じも気持ち悪い。前も言いましたけど、こんなの最初の相手が偶然スカトロマニアだったから成功した「sixty-nine中の脱糞」だって、だれか監督の頬を張ってでも止めてあげて下さいよ。旧劇の表現は尖りまくってて最高にロックでしたけど、シンエヴァは「アニメ映像の面白さ」とやらがもはや伝統芸能の域に突入してて、スローな雅楽って感じですね。

 そして、真希波マリが何者であるか監督はずっと決めていなかったーーサブの監督に声優の演技プランを丸投げするほど無関心ーーのを、シンエヴァでとってつけたように安野モヨコとイコールの存在に変えてきました。つまり、多くの観客にとってどうでもいい中盤の派手なバトルは、かつての想い人といまの奥さんを大好きなロボットに乗せて戦わせるという、監督にとってだけ最高に気持ちいいゴッコ遊びだったことが明らかになります。まさに「最低だ、オレって」から1ミリも進展のない、オナニーによってしか作品を完成させることのできない開き直りを、再び我々は見せつけられたというわけです。そら、オールド・ファンの大部分が望む、シンジが初号機で大活躍という至極簡単なカタルシスを描けないのも、無理ないわ。だって、情けない還暦のオッサンが乗ったロボットじゃオナニーどころかインポでチンポさえ勃たんからな! おっと、失礼。

 それと前も言ったけど、英語ってもう日本では人口に膾炙し過ぎて三周くらい回ってダサいってことにそろそろ気づこうよ。インフィニティ、アナザー、アディショナル、アドバンスド、コモデティ、イマジナリー……音の響きが自分にとってカッコいいって理由だけで使ってるでしょ? ファイナル・インパクトを批判されたからって、アナザー・インパクトやらアディショナル・インパクトやら、あのエヴァでセンスの無さとカッコ悪さに悶絶するときが来るなんて、思ってもみませんでした。

 そしてエンディングの、故郷の街を実写で空撮しての結婚報告エンドって、「旧劇の『現実に帰れ』をすごく前向きにやってる!」みたいにニワカどもが騒いでますけど、そう読ませたいという意図が先行して、ひどく空疎で皮層的に感じました。結婚という営為の高揚感だけを描いて、異なる価値観の相手と相手の家族ごとなんとかやっていく苦しさみたいのはバッサリ切られてる(まあ、Qが結婚生活での苦難を表現していたのかもしれませんが……)。でも、結婚報告って相手の両親に会うときの方が感情の比重は高くないですか? それを奥さんの地元じゃなくて自分の地元を映して映画をしめてんのって、ああ、徹頭徹尾ジコチューの自分クンなんだなって印象しか残りません。「いい大学を出て都会で稼いでるのかもしれんが、結婚もせず子どももいないなんて、どこか人間的に欠陥があるんじゃないのか?」みたいな昭和の田吾作マウント、農耕馬の土くせえアオリに、あれだけ先鋭的なサイファイだったエヴァが25年を経てすっかり同調してやがるんですよ。「俺は結婚して救われたよ? 君がどうかは知らんけど、やってみたら?」って、思うのは勝手だけど、それを救済のメッセージとして伝えたいなら自分語りじゃなくて作品の内容で表現しなきゃダメじゃないですか。

 20年前に結婚して、子供も二人いて、どっちもそろそろ成人を迎える年齢になって、マイホームのローンも返済し終わって、子育てもようやく終わりにさしかかってて、でもそんなのは社会的な皮一枚の外殻に過ぎなくて、オレの本質や魂の在り処とは何の連絡も関係もないんだよ! 現実の個人がどんな生活を送っているかとサイファイのセンス・オブ・ワンダーの間には何の連絡もないし、むしろ何か関係があったらダメなんだよ! SFファンなんだったら、アーサー・C・クラーク御大を見習えよ! マイナス100のオタクだった私が、結婚を契機に少しずつ昭和の「常識的な価値観」をおのれに注いでいって、今ではプラマイ・ゼロの真人間になりましたって、そんな情けないフィクションを堂々と書くなーッ(島本和彦の作画で襟をつかんでガンガン壁に打ちつけながら)! いいか、オマエが最後に観客たちへ提示したのは、だれかがオマエに「この種無しが!」と罵るのと同じ、やっちゃいけねえ類の倫理に欠けた下品なメッセージなんだよ! 旧エヴァでアニメのファンダメンタルになって、だれもちゃんとオマエを叱れなくなった、あるいは叱ろうとした人間を遠ざけた結果がシンエヴァの結末へそのまま表れてるじゃねえか! 還暦を迎えてんのにそんな貧相な社会常識しか持ってねえのかよ、クソが!

 すいません、興奮のあまり少し、ほんの少しだけ冷静さを欠きました。ちょっと監督は妻という究極的には他人である存在に、レゾン・デートル(笑)を依存しすぎじゃないでしょうか。もし今後、仮に二人が破局を迎えるとしたら、次のエヴァが作られる土壌になるのは確実で、その内容も展開も完全に予想できますが、もはや私には関係の無いことです。奥さん、こんなふうに精神的に依存されてることを盛大に全国のスクリーンで公開されて、イヤじゃないのかなあ。わたしだったら激怒するけど、クリエイターなので気持ちはわかるって感じなのかしら。相手の感じ方を無視して、相手が喜ぶと思って、自分が愛情と信じるものを一方的に押しつけ続けるのって、25年前の想い人へのやり方からまったく進歩していないように思えます。わたしが今もっとも感想を聞きたいのは、横目に互いを見ながら最終回のご祝儀で好意的な感想に終始する自称エヴァファンどもではなくて、奥さんからですね。二人の間に子どもがあれば、監督は己の自我と子どもの自我を区別できず、幼少期には成長記録をドキュメンタリー映画で作るなど溺愛したあげく、思春期には支配的な毒親と化した可能性が高いでしょう。そして反抗する子どもへの感情を勝手にアニメ化して一方的な贖罪と考え、家庭内のことを全国公開された子どもはますます父親と距離を置いたことでしょう。

 結局、エヴァはガンダムのようなプロダクトにはなれず、ロボットアニメなのに監督の私小説という正に人類未到のイビツにたどりつき、それは続編や派生作品にだれも手を出せない場所で、ここからはもう古典として消費されていくばかりかと思うと胸が詰まります。作中で「仕事」って言葉が繰り返されてて耳に残りましたけど、スタジオを残していくためには新劇でエヴァをプロダクトにしておかなくてはいけなかったし、新劇制作の初期動機はそれだったはずでしょう。エヴァを愛して貴方の下に集まった人々を庇護するために、エヴァをガンダムと同じものにすることこそ、貴方の本当の「仕事」だったんですよ。これから何年かが経過して、ジブリみたいにスタッフを首切りで整理して、著作権の管理会社として存続する未来がありありと見えます。新たな挑戦でクリエイターとして恥をかきたくない気分がまさった自分クンが、自分を慕って集まってきた人々の未来のためではなく、自分のためだけに旧劇へ依拠した無難ーーエヴァに無難なんて言葉を使うことになるなんて!ーーなやり方で新劇を終わらせようとした軌跡が、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」のすべてです。

 よかったところですか? 「終劇」の後にシン・ウルトラマンの予告を持ってこなかったのは、少しだけ大人になったのかなと思いました。私のようなこじらせたオールド・ファンを痛めつけ、失望させ、関心を無くさせるという意味をもあらかじめ織り込んで「さらば、全てのエヴァンゲリオン」と宣言していたのなら、監督の悪意は底抜けで、まったく大したものです。見事に、貴方の意図はかつてエヴァファンであった私の一部を永久に殺しましたよ。

 想像するだにおぞましいことですが、再延期にあたって3月11日を新たな公開日に設定するプランも監督の脳裏をよぎったに違いありません。そうならなかったのは、監督が分別のある大人になったからというより、思いつきで「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」と東日本大震災をリンクさせようとしたことが、あまりに深く隠蔽しておきたい事実だからに他なりません。

 10年前の今日、多くの生命が失われ、エヴァンゲリオンが壊れました。

 どれだけ監督による正史が否定し、隠蔽しようとも、この事実が消えることはありません。私にファンとしての使命が残されているとすれば、この事実を語り部として後世に伝え続けることだけでしょう。あの偉大なエヴァンゲリオンの終わりが、東日本大震災に影響を受けたリブートの大失敗を自己回収する作品になってしまったこと、あの偉大なエヴァンゲリオンが持っていたポテンシャルが、過ちを認められない人物による自己弁護に消費されてしまったことは、本邦のフィクションにおける巨大な損失であり、心から残念でなりません。「シン・エヴァンゲリオン劇場版」は、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」の続きを見たかったと切望する死者たちと、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」の続きを見たかったと切望する生者たちによって、この先も永久に呪われてあるでしょう。

 拡散し、届いて、偽史として権力に焚書されることで、この呪いは完成します。どうか、私の想いが彼の元へと届きますように!

有志による英語版:[Full spoilers!] In Memoriam of “Shin Evangelion: Curse”

シンエヴァ「第三村節考、あるいはケンスケについて」呪詛

ドキュメント「シンエヴァ・アディショナル呪詛(2021/3/6~3/24)」