猫を起こさないように
年: <span>2019年</span>
年: 2019年

漫画「惨殺半島赤目村2」感想

 あ、あれっ? 聖典・ファミコン探偵倶楽部を引き合いにしてまで期待感を表明した同シリーズの開幕だったのが、わずか二巻の打ち切り的大駆け足で終わってしまったことへ、ある種の失望を覚えている。

 しかも、村を焼き払い、登場人物を皆殺しにし、あらゆるタブーに触れつくす終盤の大カタストロフは、キャラクターの意志ではなく作者の自我に色濃く支配された悪い方の予定調和だった。キャラクターや世界の設定だけは非常に細かく書き込んでおきながら、最後は人類滅亡で皆殺しみたいな乱雑さに、私にも君にも覚えがあるところの学生時代の黒歴史的な創作ノート感がすごくある。

 鈴木先生は教師視点から学校を描くというアイデアが、ともすればエログロ方向へ傾きがちな悪癖をなんとか最後まで抑えこんだ、奇跡のバランスに立脚したがゆえの快作だったんだなと、読了後に半ば呆然としながら思った。なので、ループタイの男を登場させるバイオレンスジャック的クロスオーバーは、どちらの作品にとってもよいやり方ではなかったな、と感じた。

映画「エリジウム」感想

 前作とは比べものにならないほどの予算や大物俳優を有しながら、ここまでダメな映画にできるってどないやねん。

 タイトルとなった宇宙ステーションは申し訳程度の短い描写しかなく、物語の大半が第9地区のセットをそのまま持ってきたのかと疑わせる、スラム街での小競り合いに終始する。アフリカで難民となったキャットフード好きのエイリアンとか、低予算を逆手にとった前作の設定は、おそらくブレードランナー以降で示された中でもかなりユニークなSF的世界観だったように思う。

 ひるがえって、本作は何も新しいアイデアを持っておらず、伏線の欠如した場面と場面をそれらしく貼り合わせるだけの、致命的に構成の下手な監督であることを露呈してしまった。ストーリーは行き当たりばったりの支離滅裂、伝えたいメッセージは何もなく、かろうじて撮りたい設定やギミックだけが先行してあり、それらさえも二作目にして老大家の如き自己模倣が始まっている。もうびっくりするほど、褒めるべきところが見当たらない。特にステーション内の通路に桜だか梅だかを配置した戦闘シーンには、これを新しいと思っているのだろう監督の自意識と圧倒的なセンスの無さが鼻について、即座に視聴を止めようかと思ったぐらいだ。

 あれっ、登場人物の感情の動きを含めて、映画を構成するあらゆる要素が設定に隷属させられてるのって、最近どっかで見たなー、どこだっけなーと思ってたら、エヴァQだった。

アニメ「ガッチャマンクラウズ」感想

 質問:ガッチャマンクラウズはどう思いますか?

 回答:うむ? 私への質問はweb拍手ではなくアスクエフエムを通してもらえるとありがたい。まあよい、先のSF愛好家ディスを受けての質問かもしれないが、Huluに入っていたのでクルセイダー育成の傍ら視聴した。結論として、このアニメは3つの点でダメだ。

 一つ目は別にガッチャマンで無くても成立するところ、二つ目はセリフ回しが汚いところだ。若手の脚本家が「これが、今の……俺らの、リアルなんスよ……!!」とかつぶやきながら書いてそうだ。悪役から学生から政府高官から、登場人物すべての自意識がこの汚いセリフ回しのレベルに統一されており、長くは見ていられないぐらいだ。

 なに? 海外で人気あるんスよ? それは翻訳の過程でセリフの汚れが脱臭されたことが主な理由だろう。なに? 3つ目がありませんだと? あれで三つの理由だったんだよ。おれたちゃ数学があんまり得意じゃないのさ。ここじゃあな。

映画「アナと雪の女王」感想

 世紀末覇王ディズニーの歩む、比類なき王道。

 一点の曇りさえ無いその有様には、「ハア? 180キロの速球を投げられんのに、なんでチンケな変化球とやらを覚える必要があんだ? いらねえよ、小細工はよ!」などと、スキンヘッドに刺青の大男がパツパツのタンクトップで後ろから耳元に囁きかけるのが、聞こえてくるようですらある(幻聴です)。

 西洋のミュージカルは、日本の歌舞伎に相当すると考える。観客席の御見物の視線はカメラの機能を持たないから、演技側の過剰な強調によってカメラ的演出が行われる点が共通しているからだ。あらかじめカメラ的演出を持っている映画芸術にミュージカルを落とし込むことは、ストーリーテリングと歌唱パートの尺のアンバランスが理由で失敗するケースが多いように思う。この意味では、一般に評価の高いレ・ミゼラブルも失敗していたと感じている。成功したミュージカル映画は、例外なく通常の映画の枠を外れた長い尺で構成されていることに気づくと思う。先に挙げた2つの要素の避けがたいアンバランスを、できる限り薄めるためだ。本作では、驚くべきことに1時間40分強という短い尺でありながら、極限までテンポを高めた演出とキャラの表情、そして台詞でストーリーテリング部分を圧縮するという力業を用い、ミュージカル映画の持つその欠点を克服してのけた。正直、この類の物語のビルドアップ部分は日本昔話の例をあげるまでもなく定型化されており、今回のディズニーのやり方は新たなテンプレートとして定着する革新でさえあるかもしれない。

 一点の不安さえ無いその様子には、「ハア? 格闘技? 減量して弱くなってんだろ? なのに、どこがチャンピオンなんだ? わかんねえ、そりゃ小人の見世物小屋の間違いだろ!」などと、黒人の大男がトランクス一丁の馬乗りで耳元に囁きかけてくる重みを我が腰に感じるようでさえある(幻覚です)。

 しかしながら、ラプンツェルのときにも指摘した毒を新生ディズニーは依然としてはらんでおり、今回は兄弟姉妹間に存在する双方向でありながら、たぶんに一方的な葛藤がそれに該当する。スタッフロールの後、悪役にまで救済を用意するディズニーが、エルサにだけは身内の愛だけで我慢することを強いて、「国イコール家族」のために奉仕する残りの人生を喜びとして受け止めるよう洗脳する。無邪気にこの映画を礼賛するのはおそらく次男か次女であり、老老介護に疲弊した長男や家族が理由で婚期を逃した長女は、きっと砂を噛むような読後感で劇場を後にすることであろう。

忘備録「クトゥルフ神話、あるいはゲームブックの記憶」

 ところで、このトラペゾヘドロンを見てくれ、どう思う? すごく……輝いてます……小鳥猊下であるッ!

 クトゥルフ神話の良さって、何をおいても固有名詞の発するワクワク感にあると思う。nWoという物語は大不評頓挫中であるが、そんな私が今いちばん欲しいのは文章力でもアイデア力でもなく、間違いなくこの固有名詞ワクワク力である。背景とか全然知らないけど、フジウルクォイグムンズハーとか、イクナグンニスススズとかを、いつかネイティブの発音で実際に聞いてみたいものである。

 なぜ唐突にこんな話を始めたかと言えば、ギャラクティカがどうしてこんなに私にとって面白いのかを考えたとき、失われた故郷である地球を目指すという設定に古い記憶を刺激されているせいではないかと考えたからだ。この筋立ての原型、オリジナルは私にとって東京創元社ゲームブック、デュマレスト・サーガである。2巻の終わりで主人公がついに地球の座標を発見してからというもの、かれこれ25年ほど続きを待っているが、未だに刊行の気配さえない。その未消化感を満たしてくれているからこそ、ギャラクティカがこんなにもグッとくるのではないかと分析している。どうやらこのシリーズには原作があるようだが、個人的には「巨大コンピュータの謎」と「惑星不時着」のアール・デュマレストこそが本家本元なのだ。まさに江戸の敵を長崎で討つそんな最中に、ゲームブックつながりでクトゥルフ系のそれを連想したが故の、唐突な冒頭の話題ふりであった。

 おい、早くその球形のひっかかりのついた先細りのトラペゾヘドロンをしまえよ! しまえったら! えっ、トラペゾヘドロンってもしかしてそういう? 小鳥猊下でした。

 マーカーに更新されていく世界人口。そうか、我々が滅びるとき、残された人類の数はホワイトボード上でカウントダウンされるのか。

映画「ホビット2」感想

 ホビットの冒険における最重要の伏線である「暗闇の謎かけ」を前作で消化し、本作ではいよいよピーター・ジャクソンが他ならぬ「自分の」ロード・オブ・ザ・リングスにつながる前日譚として、好き勝手に語り出した感がある。「キャラの立ってない髭面ばかりじゃ、画面が持たねえな」とばかりに原作では未登場のレゴラスを登場させ、さらには原作には存在しないタウリエルなる森エルフをねじこんできたばかりか、生物学的に交配のできない設定(だよね?)のドワーフと胸焼けのするロマンスを展開させる始末である。

 ここまで水増しして三部作に仕立てようとするのは、本作をスター・ウォーズよろしく、同じ構成で異なる結末を持った、相似形を成すプレ・トリロジーに位置づけたいからなのは、もはや誰の目にも明白であろう。ロード・オブ・ザ・リングスのときに感じた原作への深い敬意はどこへやら、自分以外はもはや誰も指輪物語の映像化へ手を出せないことを自覚しての大狼藉、諸君の言葉で言うならば原作レイプ、それも衆人環視のまっただ中で見られていることに興奮を促進された大強姦である。面白く無いかと問われれば、面白い。しかしそれは、画面作りやクリーチャーの造形やアクションのアイデアや、ピーター・ジャクソンの持つ資質に依拠した部分が面白いのであって、もはやトールキンの原作とは関係ない次元の面白さだと言えよう。

 そして、前トリロジーと無理やり物語構成を似せにかかっている弊害の最たるものとして、アラゴルンのポジションにあるトーリンの描写の劣化が挙げられるだろう。児童文学の原作では一種のユーモアとして機能していた彼のアホさ、身勝手さ、カリスマ性の無さが、むしろ欠点として観客に強調されてしまっているのは、トールキン・ファンとして非常に残念である。

 あと、オーランド・ブルーム、相変わらずこの無表情のエル公は弓矢を近接格闘武器みたいに使うな、と思った。それと、サウロンのシルエットがまんまゼットンなのはギレルモ・デル・トロのスケッチが残ってるのかな、と思った。それと、スマウグはあんな口の形をしているのに、ティー・エイチの発音がうまいな、と思った。

アニメ「あしたのジョー2」感想

 過度なアルコール摂取にしばしば意識を喪失する、いわゆる寝正月の最中、西方蛮族提供の流感みたいな名前の動画配信サービスに、「あしたのジョー2」が追加されているのを発見し、長い前髪で片目を隠しながらジャージ姿の体育座りで視聴を行う。途中、家人が無神経に部屋の扉を開け放ち、「マア! また暗い部屋でテレビ見て! 目が悪くなるわよ! 前髪も切りなさい!」などと甲高い声でまくしたてるので、「うるせえババア! ブッ殺すぞ! あと、お酒買ってきて!」と絶叫したりした。

 最終話近く、少年鑑別所時代のジョーの仲間が喫茶店に集い、昔のことをふりかえるシーンがある。うろ覚えの記憶で再現すれば、こんな感じだ。

 「ぼくたちは変わってしまったけれど、矢吹丈だけがあの頃の青春のままにいる。それが、たまらなく嬉しいんです」

 「へえ……おまえ今、小説家とか、学校の先生でもやってんの?」

 「いいえ、地方の工場の、ただの工員ですよ」

 かつては気にも留めなかったこのやりとりが、いまでは強く胸に迫る。おのれが矢吹丈その人ではなく、矢吹丈のことを語るだれかであることを知っているからだ。ウルフ金串の回といい、元全日本チャンプの回といい、昔はものをおもはざりけり、年齢を経た現在だからこそ感じられる哀切の数々に、成熟を拒否し続けてきたこの身が、遠くまでよろよろと、なんとか歩いてきたことに気づかされた。物語後半へ進むにつれて力尽きてゆく作画と演出も、ジョー自身の崩壊とリンクしているように感じられ、涙なしには見ることができない。

 「へへ、ほんと、テキストサイトなんてのは運だよなあ。たった一発のラッキーヒットですべてが決まっちまうんだから。あのとき、あのラッキーヒットさえなけりゃ、メジャーのスターダムにいたのは、俺だった。俺の方だったんだ」

 あのころ、ぼくたちはみんな、矢吹丈になりたかった。

映画「まどか☆マギカ新編」感想

 アイム・スティル・リヴィング・イン・ザ・ナインティンズ! 小鳥猊下であるッ! 貴様らがあんまりEOEを超えたとか破を超えたとか騒ぐから、「エヴァを馬鹿にするなッ! エヴァをけなしていいのは、この世でボクだけなんだッ!」と絶叫しながら自家用ジェットで奈良の辺境を脱出し、まどかマギカ新編を見てきた。

 幼少期にトラウマを植え付けられた誰かが、トラウマを持たない誰かとのふれあいによって魂の癒やしを得る。テレビ版から引き続いて、苛烈な虐待を受けた子供や猟奇殺人者が描いた絵画を連想させる背景美術が素晴らしく(中世? 同じ意味だろうが!)、それを素晴らしいと感じる理由が作品テーマとの融合にあったのだと気づいた。

 最近の私の気分を伝えれば、この脳髄にはまったトラウマテックなフィルターを外して眺めるならば、世界に通底する基調はおそらく善だろうと考えているし、何より行動の事実として今や人類の存続の側に加担してしまっている。確かに自分は歪んでいて間違っているが、この世の別のところには健やかで正しいものがあると信じられること、あるいはそれへ実際に触れることが、誰かにとっての救済なのだと思う。

 話はそれるが、遅ればせながらキーチVSを最終巻まで読了した。高天原勃津矢と同じく、世界に対して特別な存在であるためには、人類の存続に挑戦する悪を行使することが、現代では唯一の方法だ。作中にたびたび描写されたように、善行に対してネットの白けた発言は「教祖様」と揶揄できるが、明確な悪の一線を踏み越えた者に対しては、一斉に誰もがからかいを止めてしまう。悪の行使は、世界に偏在する目に見えない善を一瞬だけ可視化させ、人の心へ集合無意識的な善を否応に惹起するからだ。世界中を味方につけることはできないが、世界中を敵にすることは誰にでもできるのである。

 閑話休題。ドラスティックな世界観の反転が、まどかマギカの持ち味だと思う。テレビ版のあの結末から、新編のこの結末へと至ることは、むしろ物語自身が求める必然であった。それゆえに、新編はテーマとして退行せざるを得ず、私には語られるべきではない、非常に蛇足的な内容だと感じられてしまった。そして、ネット上の感想に散見される続編への期待に驚く。もし更なる続編が構想されるならば、ここまでのような叙述トリック的作劇、短所を隠し長所を強調する化粧に長けた女性の手口では、どうしても追いつかない場所へ突入するだろう。

 今回の物語の最終盤、これはEOEでさえ感じたことだが、表現しようとしている中身に絵と言葉が追いつかない感じがあった。この先にはデビルマン的な善と悪のハルマゲドンしか残されておらず、その描写に説得力を持たせることは、あのエヴァでさえ未だ達成の不可能な、正に神か悪魔の領域なのだ。諸賢は軽々と続編への期待をぶちあげぬがよろしかろう。

 ああ、聖典たるEOEにまで言及してしまった! ごめんなさい、教祖さま! もう、こんな不敬は致しませんから!

映画「鈴木先生」感想

 「グレーゾーン」「アウトサイダー」「システム」をテーマとして、原作の2つのエピソードを融合させた脚本の良さが際立っている。二人のアウトサイダーがたどった異なる結末を対比することで、「もしかすると、世界は良い方向へ変わっていけるのかもしれない」という希望を、絵空事ではなく信じる気持ちにさせてくれる。

 ご存知のように小生は、世代のバトンによる変革というメッセージに極めて弱い。原作を偏愛する身にとってテレビ版は承服しがたいものだったが、この映画版へは手放しの称賛をさせていただきたい。

 しかしながら、小川蘇美役の演技は映画の良さを一等減じており、このキャスティングだけはテレビ版に引き続きなお承服しがたい。

映画「シンドラーのリスト」感想

 『一人の人間を救うものは世界を救う』

 (氏名の接尾語が-deluxeであろう巨漢が画面奥からカメラ方向に走ってきて)もおーっ! アンタたち、最近サボってんじゃないの? なにをって、アタシをほめることに決まってんじゃないの! インターネットって、欧米文化でしょ! 言葉が神さまとの契約とか言っちゃう世界の連中がつくってんのよ! そんなに愛してなくても、毎日アイ・ラブ・ユーっていうのが基本なのよ! ここは言葉にされなかったら存在してないのと同じ、契約の世界なのよ!

 そうそう、アタシこないだね、ひさしぶりにアレ見たのよ、アレって言ったらすぐわかりなさいよ、シンドラーのリストに決まってんじゃない! アタシもう何回見たかわかんないくらいこれ見てんだけど、まー、このスピルバーグってユダ公、毎ッ回毎ッ回みごとに感動させるわ! よい大人の、なんて言ってるけどアンタ、このリーアム・ニーソンがまさにアタシの考えるよい大人ってヤツよ! すこしはアンタたちも見習いなさいよ! 迫害者ってのはね、はじめは味方みたいな顔してやってくんのよ! アンタたちをじっさいに助けてくれるのは、見た目は迫害者みたいなヤツなのよ! 迫害する側がメチャメチャ力を持ってんのよ、迫害者のフリするしか助ける方法なんてないじゃないの!

 なのにアンタたちはアタシの14年にわたるおたくディスを見て、すっかりアタシを迫害者だとかんちがいしてさあ! いい加減、町ですれちがいざまにキモイって小声で言う連中と、14年間ずっとアンタたちの側から離れずにディスり続けてきたアタシとの違いを理解しなさいよ! オンナにここまで言わせるなんて、サイテーよ! いつかアタシはアンタたちから「二次元を救うものは三次元を救う」ってドイツ語で書かれた萌え画像を受けとるのよ! 「私は今までなにをやってきたんだ。この廃盤アニメDVD-BOXを手放せば、あと二、三人はおたくが救えたかもしれない。この売れ残りの黄ばんだ同人誌を手売りすれば、あと一人はおたくが救えたかもしれない。私には、もっとできたのに!」とか言いながら号泣する日を夢みてんのよ!

 だから、もっとアタシを愛しなさいよ! 夢、見させなさいよ!