猫を起こさないように
日: <span>2019年12月15日</span>
日: 2019年12月15日

ゲーム「艦これ2014夏イベント」感想

 艦これの夏イベントが始まったので、本日の11時02分ちょうどに最初の海域へ艦隊を送り出した。どうやらアニメ化も決まっているようで、きっと今年のコミケトーも一時帰還した英霊たちが目を覆って空を仰ぐような感じになるのだろう。

 個人的なことを言わせてもらえば、今回のイベントに至る運営側のブレないやり方にひどく感心している。史実通りミッドウェーからの沖縄決戦(岡本喜八!)をやってしまえば、太平洋戦争をモチーフにしたこのゲームに残されたテーマは無く、本質的には役割を終えてしまう。周辺の異様な盛り上がりを考えれば、この最大にして最後の海戦を持ってくることは、来年にでも再来年にでも、あと何年かは引き伸ばせたはずなのだ。

 しかしながら、大和をかなり早い段階から登場させたことからもわかるように、このブームがいつか必ず終息していくことを運営側はすでに見越しているように思う。おそらくはその終わりの時点から振り返れば、いちばん熱く盛り上がっていたと思い出されるだろうこの夏に、しかも原爆の投下から終戦へと至る正にこの時期をねらって今回のイベントを合わせてきたことに、私は確かな強い意志を感じるのだ。これまでに幾度か紹介した愛するブラッドベリのフレーズ、「おれたちは滅びていくのかもしれない」が表現する静かな諦観をこの狂騒の盛夏に忘れない姿勢へ、私は最敬礼を送りたい。

 だから、萌えではない方の状況をこそ意識しながら、今回のイベントを楽しみたいと思う。最近では思い出したときに艦隊を遠征に出すくらいしかしていなかったから、きっと高難易度の終盤ステージはクリアできないに違いない。

 でも、それでいいのだ。私たちの祖先も、ついにそれを果たさなかったのだから。終わりの延長線上にある今を、いつか思い出として語る今を、いっしょにじっくりと味わおう。

 そろそろ諸君のプリキアータイムも終わっただろうか。タイフーンに降りこめられたkinky地方在住(用例:His sexual demands are kinky.)の俺様が、ミッドウェーを攻略しながら片手間にダラダラとしゃべろうかと思う。

 チクショウ! 本土が攻められてるってのに、燃料が底をつきはじめた! 大和型の大破すること、まさに豆腐の如し! そのたびに鋼材が四桁単位でフッとんでいく! こいつァ、リアル沖縄決戦の様相を呈してきやがった!

 なに、燃費の悪い大和型をわざわざ使わなくても、金剛型とか長門型を使えばいいじゃないですかだと? バカヤロウ! マリー・アントワネットみたいなこと言ってんじゃねえ! おれァ、大和じゃなきゃダメなんだよ! 大和といっしょに、史実をくつがえすんだよ!

 燃料が、尽きた……!! (男の戰いの抑揚で)

 あと一度撃破すれば、露助ないし毛唐、もしくは紅毛人、あるいは鬼畜米英を本土から永久に追放できるという大詰めで、初めてボスマスからそれた。ちょうど燃料は尽きた。本当に、心の底からブッ殺してやりたい。憎悪でさえ、シミュレーションの対象なのか。

 沖縄決戦の反省会すっぞ、コラァ!

 このキソ野郎が! なんちゃって雷巡め、ちっともカットインしやがらねえ! たまにしたと思ったら、ドヤ顔で雑魚ばっかねらいやがって! アリューシャンの先輩方にヤキ入れてもらいてえのか!

 神妙な顔で聞いてるフリしてんじゃねえぞ、このヤマンバギャルめが! ポンポンポンポン爆竹みてえに大破したかと思や、立ちバックで突っ込まれたみてえな気に障るツラしやがって、ドM野郎め!

 大口あけて笑ってんじゃねえぞ、英検5級のイカサマビッチ帰国子女めが! 砲撃なんざハナから期待しちゃいねえが、オマエが毎回ちゃんと探照灯うってりゃ、とっくにこの戦争終わってんだよ!

 てめえもだよ、役立たずの尻軽空母が! 前から思ってたけど、なんで目の焦点があってねえんだよ、このテカテカトルコ相撲パイオツロンパリ野郎が! どの性癖層に訴求してんのかわかんねえよ!

 目ェ伏せてお通し作ってますみたいな顔してんじゃねえぞ、このドサ回りの演歌歌手めが! 高校生のガキがいそうなツラして、なんで3スロットなんだよ! スロットは秘裂の隠喩じゃねのかよ!

 土下座だ! おまえら全員、大和ねえさんに土下座しろ! 

雑文「エヴァQ生実況(2014.9.5)」

 すごい早回し。この併映いらなかったよな。

 この巨神兵がセット販売なのも、Qの嫌いなところだ。明らかに現実のとある災害を本作へ紐付けようとしている感じが。

 すべてのエヴァファンをだまくらかした(気難しい、何も褒めないことを信条とする批評家連さえ!)伝説の8分が始まるよーー‼︎

 思えば金ローでこの先行放送を見て、実際に劇場へ向かうまでの20時間くらいが、もっともエヴァ熱が高まり、いちキモオタとして存分に二次創作的な妄想を膨らませるのできた、楽しく幸せな時間だった。

 これまでカントクが関わった作品へのオマージュをふんだんに盛り込んできた新劇である。ラスト二作はバイオレンス・ジャック的な大お祭りのエンターテイメントをやるんじゃないかと想像していた。

 たとえばこの場面に先駆けての、戦略自衛隊が迫る中でのオネアミスばりの弐号機打ち上げシーンが見られるのかもしれないと期待していた。

 そして、地球に帰還したシンジ君の大活躍を、何の疑いもない未来として、まざまざと幻視していた。

 それが、あんなふうに、陰惨に裏切られることになるとは……

 サターンファイブみたいな小ネタにイラッとくる。うるせえ。

 なんか画面暗くない? ジバニャン好きの小学生に配慮しているの?

 旧劇と同じく四人に囲まれて銃を向けられる主人公。戦自と同じデザイン?のコスチューム。いま思ったけど、スターウォーズep3の感じで新劇から旧劇へと巻き戻そうとしたのかな……

 おい、ポッと出の新キャラごときがシンジさんをにらんでんじゃねえよ!

 おい、状況を説明してやれよ! ブッ殺すぞババア!

 寒々しいまでに上滑りしたブンダー起動シークエンス。ここ、地球のどこなの……

 Qの中で、この「緊張するわー」だけはゆるす。

 なんで登場人物の全員が同じ語彙レベルなんだよ……

 ポッと出の新キャラごときがシンジさんに舌打ちしてんじゃねえよ!

 だから、説明してやれよ!

 なんで説明しないのかさっぱりわからない。ねえ、説明したら死ぬの?

 明らかにこの場面、膣内に槍イコール陰茎を突っ込んだ子宮口ないし処女膜の破砕を連想させようとしている。ここまでの新劇には無かった、あからさまなセックスの暗喩である。

 子ども向けのアニメにセックス要素を取り入れるなんていう、90年代全開のアングラ感、カッコイー‼︎ コウノトリを信じる(以下略)!! これがライブ感なんですね、カントク(cunt-Q)⁉︎

 唐突にサラリと明かされる、時空制御さえ可能とするスーパーテクノロジー。

 ほんとここ、地球のどこなの……

 たった十四年でここまで科学が進歩することをもはや信じることはできない。なぜならぼくたちは、自家用車が空を飛ばない2014年をすでに生きているから。

 ギターのウィープが視聴者の慟哭を表しているんですね!

 人類も滅んだみたいだし、もう地球を捨ててどっかいっちゃえよ。いや、もしかすると今後のギャラクティカ路線への伏線なのかもしれない。

 いや、なんで技術屋じゃなくてテストドライバーが事故の責任負わされんのよ。社長もだんまりやし。悪いの君らやないの。

 そんな効果音じゃ、強化ガラスは割れないよ!

 出た、「エヴァの呪縛」! 古い鯖に当たったときのような深刻な蟻走感が全身を包む!

 だから、説明しろよ! クソババアどもが!

 この期に及んで高圧的な命令口調……毒親の典型例……

 勘弁して欲しいのはこっちだよ!

 アウト・オブ・レンジ(ファンの心が)。

 そうこの、ネルフ本部とブンダーしか劇中に存在しない感じ。アングラ演劇を思わせる閉塞感。制作側が意図してその雰囲気を作ったのでは「ない」ことが透けて見えるのが、絶望に拍車をかける。

 ちょっと待って! なんであのドーム状のものを見ただけでエヴァってわかったの?

 旧劇の殺戮会場。

 ピアノの上達スピードが速すぎる! 3秒で雨だれ式から両手を!

 ジェネシスつながり?

 たぶん回収されない伏線。

 「元気少ない」「おなか満腹」。脚本家の自意識が鼻につく。

 言葉だけで解説すんなよ! わけがわからないよ!

 ダッシュがついてた。

 なんでピアノの内部構造を3D化するのに何千万もかけたんですかァーーッ‼︎ 何千万もかけてるのになんでテレビ版ではバッサリ編集しちゃうんですかァーーッ!! 無意味の浪費が本作の裏テーマなんですか、カントク(cunt-Q)ゥーーッ‼︎

 エロゲっぽい写真。旧劇の巨大アヤナミの残骸。

 旧劇の記憶の洪水を連想させるシーン。突然の絶叫を少しズラして、エヴァファンをビックリさせるという、憎らしいセルフパロディ演出。

 ふたりで完成できるようなものなんだ、エヴァって……

 まさか、これを見た誰もが「エヴァなんてどうでもいいんだ」と考えるようになるとは……ライブ感?

 「君になら」「君となら」。日本語最大の特徴であるところの、助詞を上手く処理した名セリフの誕生だァーーッ! と、脚本家が考えていそうなところがすごいムカつく。

 ほんと、ネルフ本部とブンダーしか存在しないのね。

 インフィニティ……もう英語の単語はダサいってことに気づこうよ。

 いや、テレビ版ではそんないうほど連弾しなかったし。

 マークシックス……バックセックスみたいなポーズだな。

 だから暗いよ! もっと光を!

 だから武器をおいて説明しろよ! 28歳なんだろ! おまえが馬鹿なガキだよ!

 旧劇に逆行した血涙という露悪趣味。

 操縦席に飲み物がたくさん散らかっばってるってことは、13号機がフタを開く前からそこにいたんだよね。どこから入ったの?

 いや、どうでもいいんだけど。もうキミ、ほんとどうでもいいキャラになりさがったよね。意味深なセリフのすべてに、なんの意味もないことがわかったからだよ。

 男とか女とか言わないのが新劇だったのに、いまのセリフは旧劇そのものだ。

 エヴァの特撮的対比による巨大感がことごとく失われる状況設定。たぶん、制作側の意図したものでは「ない」ことが絶望に拍車をかける。

 いや、だからなんでその黒いソウメンが使徒だってわかったの……

 新規ファンに旧劇のアレっぷりを体験させるためのQなんですよね? 次回は破の続きなんですよね、カントク(cunt-Q)?

 本作では碇司令の婿養子設定が消滅しているが、これはカントク(cunt-Q)が自分のスタジオを持ったゆえの主体性回復を、お得意のライブ感覚で表現しているのではないか。

 さらに、Q制作の中で多くの離反者を生んだことが、廃墟に立つ孤独な王としての自己イメージを碇ゲンドウに投影させたと思われる。カントク(cunt-Q)ならではの、疾走する山吹色のライブ感だ。

 改訂できるんだ。聖書とコーランもあとから書きかえできるよ!

 冬月先生の電源コード抜き削除とか、やっぱQには余計なシーンが多すぎたね!

 俺たちは中指を立てたい気持ちでいっぱいだ!

 ブラックボックスを抱えたリアルロボットを人の知恵でなんとか制御しながら運用していくもどかしさがエヴァの魅力だったのに、この弐号機は原理不要の絵作りスーパーロボットと化してしまっている。おそらく、ライブ感によるものだろう。

 全身がコア……全身がクリトリスみたいな感じ?

 ほんと、支離滅裂なストーリーを音楽で無理矢理ひとつにつないでる感じ。

 旧劇っぽいセリフ。Qってカントク(cunt-Q)がほとんど脚本書いてるんだろうな。

 あれ、モザイクかけないの?

 また男と女に拘泥したこのセリフ。すごい旧劇っぽい。

 なんや、世間って。人類ほろびたんとちゃうんか。

 テレビ局のお偉いさんたる「ゼーレ」がいなくなった今、物語のすべての帰結はカントク(cunt-Q)の責任ですよ!

 旧劇の記憶がないと「自分のことばっかり」なんて発言は出ませんよね。

 L結界密度……放射能を連想させようとしてるのか……

 NEXT。EVANGELION3.0+1.0。これは破の続きからの急やりなおしで決まりだね!

 最後に不謹慎を承知で、フォロワーの減少を覚悟で言わせていただきます。東日本大震災における本邦最大の喪失のひとつは、エヴァンゲリオンです。あの震災さえなければ、エヴァンゲリオンは今度こそまっとうなエンターテイメントとして終わることができたのに!

追悼「シン・エヴァンゲリオン劇場版:呪」

ゲーム「サイコブレイク」感想

 サイコブレイクのPS4版やってる。ムービーとプレイのシームレスな融合を狙ってるのはわかるんだけど、ラスト・オブ・アスがより高いレベルで達成してしまっているので、つい最近リマスター版をプレイしたばかりの目で見ると、演出的にもモーション的にもグラフィック的にもかなり厳しい。インセプションを彷彿とさせる冒頭の都市崩壊とか、パイを彷彿とさせる白黒の精神病院での演出とか、ストーリーとシステム双方で全体的に既視感が強すぎる。

 いったん悪い印象を抱いてしまうと、映画的演出の一貫だろう画面上下の黒帯とか、主人公の背中を追い続けるカメラとか、ただただ視認性を悪くさせているだけで何の効果にもつながっていないように見えてくる。カメラが背後の位置から動かせないのは足回りの動きが地形の起伏とリンクしてないせいだろうなとか、ワイヤーとかトラバサミのトラップって世界観的にいったいだれが設置してんのとか、下手くそな性的愛撫に抱くような、うまく騙してくれないことへのイライラばかりが募っていく。

 ゴアモードも制作側が望んだ演出意図の再現とかではなく、どうせ強く吸えば気持ちいいんでしょみたいな、場末の娼婦的投げやりさをしか今のところ感じない。

 今後、この感想がくつがえされることを祈りたい。

雑文「本邦のSF界隈、あるいは日本語ラップについて」

 本邦のSF界隈がその構成員の高慢と偏狭によって版図を失い続けてきたという指摘を、またぞろ自らの手で立証していると聞きおよんだ。

 以前いろいろしゃべったので同じ言葉は重ねるまいが、SFの本質って異文化コミュニケーションだと思うんだよね。知性の質そのものが異なっているだれかといかに意思疎通し、可能ならば共存の道を見つけようという試みがSFだって信じてるわけ。他者と意志を通わせることの困難さって、もっともミニマムな範囲でいうと幼少期に肉親とどうコミュニケートしていたか、その質がどんなものだったかが個人にとって大きいと思う。だから、どんな場でもだれとでも軽々とコミュニケーションしてのける人たちっているけど、うらやましいと思うと同時に、彼らはSFには到着しないだろうなって考えるわけ。個人としてコミュニケーションの不具を抱えているだれかにとって、SFっていう手段はすごい有効なセラピーっていうか、解決策っていうか、魂の癒やしだと信じ続けてきたわけ。

 今回の騒動だけど、わずかの想像力があれば改善可能だったシステムの不備を泣き言で看過し、かつ自分たちとは異なる文化土壌から来た存在をまずもって拒絶していて、どっちもすごいSFの本質とかけ離れたやり方じゃない? 思ったのは、ああ、やっぱりなー、日本のSF界隈から出たSFって本当の意味でのSFじゃないんだなー、ってこと。結局ジャパニーズラップと同じで、舶来の方法論を歪に模倣しながら、最後にはよそ者をだれも受けいれない土着のムラを形成するに至ったんだよね。ジャパニーズラップも、ジャパニーズサイファイも、国や人種を越えた偉大な虚構分野としてのジャンルに、何ひとつ影響を与えていない、何ひとつ還元していない時点で、もっと深刻なアイデンティティ・クライシスに陥ってしかるべきじゃないの? 結局のところムラを形成して、そこだけで有効な権威のボールをパス回しして、一定の満足を得ちゃったんだよね? ヒューゴー賞とネビュラ賞に国籍条項ってあったっけ?

 本邦の文化が持つ美徳と正反対の部分を極限にまで濃縮したものが、ジャパニーズ・サイファイ・ビレッジだという事実を再確認できたことだけは、良かったです。小鳥猊下でした。

雑文「先代の巫女について」

 ”The place you were speaking to the world is heading towards new world order, I want to know what is wrong the old world order?”

 平和に関する国際的な賞を受けたあの少女について、少し思うところを話したい。同賞は大上段に主観的かつ蒙昧なまでに高踏的で、いつも強い臭みを感じてきた。少女はこの受賞を契機として、融和可能・共存可能なムスリムの代表として、また、キリスト教世界の対イスラミック・ステイトの象徴として、政治的に利用され続けることになるだろう。そして以後の彼女は、彼女という個人を越え、一部のムスリムからは打倒すべき西洋文明の生ける偶像として、常に生命をねらわれつづける立場に置かれるだろう。この受賞は彼女の人生を、もしかするととても短いものにしてしまう可能性さえあるということだ。他の部門の授与が過去の実績に立脚しているのに対して平和に関する賞は近年、あまりに現在の世界情勢とリンクしすぎている。彼女が成長して大人になった後に賞を与えることも、選択肢として十分にあったはずだ。しかし、ノーベル委員会はイスラム国の台頭という現実に押され、彼女がまだ子どもであるという事実に目をつぶった。国際社会へ明確なメッセージを「今」発したいという誘惑に、膝を屈したのである。”I also had dreams like a normal child has.”、私には夢が「あった」。彼女はもう、ふつうの子どものように自身の将来を思い描くことはできない。この受賞は子どもを戦士とし、子どもから将来を奪うというイスラム国の方法と、奇しくも相似形を為してしまっている。委員は誰ひとりとして、大人の世界の戦争へ子どもを加担させることの醜悪さに、気がつかなかったのだろうか。

 ”…if you were shot but Americans in a drone attack, would world have ever heard updates on your medical status?”

映画「フォレスト・ガンプ」感想

 20年ぶりにフォレスト・ガンプを見た。公開当時は雰囲気で感動していたけれど、改めて見ると軽度の知的障害を持った主人公が、身持ちの悪い女性の人生を尻ぬぐいさせられる話だったことがわかり愕然とする。

 これは身持ちの悪い主人公が軽度の知的障害を持った(としか思えない描写の)女性に人生の尻ぬぐいをしてもらう泣きゲーと同じ構図であり、エロゲー業界で一時代を築いたあの物語類型は、もしかしてフォレスト・ガンプの影響下にあったんじゃないかと思い至り愕然とする。

雑文「文学とラノベについて」

 質問:文学とラノベの定義って、どうお考えですか?

 回答:確か以前も同じような話をした思うが、いちど語られれば再び語りなおす必要の無い非更新性が文学であり、同じテーマや筋立てを異なる書き手が時代に応じて幾度も語りなおさねばならないという切迫性がラノベである。

 しかし、この質問はそもそも前提がおかしい。つぶ餡とこし餡の優劣ならば激論も交わせようが、餡子と生クリームの比較を問われても、好みを答えるしかできないのと同じだ。ラノベは歴とした日本の文化だが、本邦には私小説こそ腐るほどあれ、文学が存在したことは一度もない。文学とは、いつでも止められる精神病めいた繰り言を指すのではなく、どうしても逃げられない世界の不条理と四つ相撲を組む肉体そのもののことだ。つまり、ソルジェニーツィンは文学だが、太宰治は文学ではない。この意味では、ラノベの方が真の文学により近いと言える。

 個人的なことを言わせてもらえば、小鳥猊下を許容できなかったという時点で、どちらも不十分なジャンルであり、さしたる興味はない。ちなみに「非更新性」というのは俺様の造語だ。あらかじめ権利は放棄してあるので、好きに使ってよい。