猫を起こさないように
月: <span>2019年5月</span>
月: 2019年5月

モンスターハンター・ワールド


モンスターハンター・ワールド


西日射す四畳半一間のロスの大邸宅に設置された120インチのスクリーンと7.1chサラウンドが火を吹くゲームがようやっと現れやがった! モンスターハンターワールド! じつに気持ちよく5,000円もするコントローラーを破壊させてくれる! ぼくはもう君から目が離せない! エコノミック・ダウンサイジングが本邦へ引き起こしたゲーム機の小型化・携帯化は、このシリーズにとって非常に不幸なことだったと改めて感じざるを得ない。市井の一皇族に過ぎない当アカウントは、世界各地に残る巨人伝説をリアルに裏付けるほどの巨人少女なのだが、アンドレ・ザ・ジャイアントがスリーディーエスなるマイクロマシンを自在に操作できるか想像してごらんなさい。おまけにピーエスフォーのコントローラーはある程度頑丈で5,000円ポッキリだが、スリーディーエスなるマイクロマシンの画面やヒンジは、頭突きパツイチで簡単に破壊される上、20,000円超もするため、到底リーズナブルな遊戯とは言い難い。後半マップの力尽き具合とか、ドドガマルやらヴォルガノスの扱われ方とか、導蟲は目標へ誘導するくせにコンテンツへの誘導は絶無だったりとか、エンシェントドラゴンハンターワールドと化すエンドゲームまわりとか、全体的な作り込みの甘さを言われれば、確かにその通りだ。しかしながら、市井の一皇族はモンスターハンターワールドを全面的に肯定する。こういうのでいいんだよ、こういうので! 本作の前に触っていたブレス・オブ・ザ・ワイルドは、素晴らしいゲームだと理性では賞賛しながらも、ゾーラ編をクリアしたところでなんとなくプレイする気をなくして、一度も破壊されなかったコントローラーを置いてしまった。それがどうだ、モンスターハンターワールドではすでにコントローラーを2つも破壊し、夜中に心からの怒りを絶叫して隣人に通報され、路上のムシロで超多忙なエグゼクティブの日常を送る俺様のプレイ時間は、すでに100時間を越えた。ブレス・オブ・ザ・ワイルドがルーヴル美術館だとするならば、モンスターハンターワールドはタバコ臭い、手アブラとヤニでコンパネのべとべとする場末のゲーセンである。生まれも育ちも下品な元皇族の俺様からすれば、モナリザの美やヴィーナスの造形の完全さを高い知性から後付の教育で理解はすれど、結局この身になじむのはイーゲームだかなんだか知らない、昨今の教養や理性で脱臭されていない昭和のゲーセンなのだ。傷んでいない方のコンパネに身をねじこませ、メンチや奇声や台バンの盤外戦で心理的優位を得て、負けそうになれば出ッ歯の仲間が筐体の電源を引っこ抜く、折り目正しい大人とやらが眉を潜める、そういった無法の鉄火場こそが我が戦場なのである。……などとほとんど両手放しのベタ褒めで毎日プレイしていたのは、先月末のこと。いまや全くピーエスフォーを起動していない。この連続ツイートも数週間前に書かれていたのが、ずっと塩漬けにされていたものである。エンドゲーム周りの不完全さに飽きが早まった? いや、違う。ランスシリーズ最終作が発売されたからである。

ブレードランナー2049


ブレードランナー2049


スターウォーズ7とは逆で、ハリソン・フォードが出てくるまでは面白かった。それ以降は、腐っても「ブレラン」の続編をうたうのだから、最高の環境で視聴しようと思い、アイ・マックス・スリー・ディーを選択したことがアダとなる。オリジナルの冒頭で流れる例のみょんみょんしたテーマっぽい音楽が、ゴスペル風テルミンみたいにアレンジされて重低音で響きまくり、人物アップの長回しが多用されるのと相まって、nWoオールタイムワーストであるところのシン・レッド・ラインを視聴したときと同じ気分にさせられたのには参った。他にも、サイレンスの宣教師みたいなウォレス社のラスボスとか、レプリカントたちの蜂起とか、9つのオフワールドとか、ブレランの世界観をマルチバース的に広げたいんだろうなと推測させる続編への色気が、全体的に悪目立ちしていたように思う。主人公のKが一度は手に入れたと錯覚するオリジナリティ・イコール・アイデンティティが尽く借り物であったことと、ブレランの続編を制作する行為そのものとのオーバーラップが自己言及的に読める部分だけを焦点化し、完全に閉じたまま終わることができれば、作品の格はもう少し上がったことだろう。てなわけで、全体として監督が誘導する方向に全然ノレなかった俺様だが、追い討ちをかけるように後半、後ろのオッサンが嗚咽まで漏らして号泣しだしたので、最高にダウナーな気持ちにさせられた。これがあるから、映画館で見るのはイヤなんだ!

ラ・ラ・ランド


ラ・ラ・ランド


ん、んんー? 古き良きミュージカルと恋愛映画の文法で作られているせいか、視聴中はローマの休日やメアリーポピンズが思い出されてならなかった。丁寧には作られていると思うけれど、ん、んんー? 素人から玄人に至るまで、あそこまで手放しの絶賛を巻き起こすほどの内容かと問われれば、まったくそうは思えない。作品としては嫌いじゃないし、仮に単館上映とかでひっそりと消えていくような映画だったならば、声を大にして名作認定したかもしれない。オープニングのハイウェイシーンばかり流し続ける、視聴側の知性を低く見積もった配給会社の売り方を含めて、周辺状況にゲンナリという感じだ。

ドラゴンクエスト10


ドラゴンクエスト10


例によって「トランキライザー、喰え、喰え!」の最新作をプレイ中だが、あのハゲ、こっパゲ、失礼、昨今の諸君は高学歴女子による禿頭への罵倒へ嫌気がさしているのであったな! 言い換えよう、あの毛根ザラキーマおしゃれメガネ野郎、やっぱりすげえぜ! ネタバレを避けるために小説のタイトルで例えると「ベロニカは死ぬことにした」以降は鬱々とした展開が続き、(え、例えになっていないって? いったんテキストサイト運営から遠ざかると、洒脱な隠喩の腕前も鈍ろうというもの。ボクは悪くないもーん、ボクを見捨てた貴様らが悪いんだもーん)さすがの小生も懊悩に満ちた陰のある美男子の表情で「やはりホーリー遊児でさえ、不可逆の喪失を描くことを避けられない時代なのか」などとつぶやいていたのを、軽々と飛び越えていきやがった! ドラクエ以外には不可能な、あらゆる作劇の作法を無視した50時間のプロローグ、起承転結の巨大な起と承には、もはや驚愕と賞賛をもって返すしかない! 凡百のメーカー、凡百の作品なら、ついつい追加DLとしてカネとっちゃいそうなもんですよ、この展開で! おい、FGO、最近のてめーのことを言ってんだよ! ホーリーさんの頭髪でも煎じて飲みやがれってんだ! このカネも名誉も十分に持った頭髪以外完璧超人は、もう現世のあぶく銭なんてビタイチいらねーんだよ、ただ純粋に俺たちファンの驚く顔が、喜ぶ顔が見たいだけでやってらっしゃるんだよ! おい、FGO、テメーも去年まではそうだったじゃねえかよ! 復刻、復刻、クソアガルタの慢心大三元かよ! ブチころがすぞ! おい、クソフェミにからまれてるクソ夏イベ、クソおもしれえじゃねえか! やればできるんだったら、いつもやれよ! おい、何の話だったかすっかり忘れたじゃねーか! なにッ、ドラクエ以外にも起と承だけで10年かけてる劇場アニメがありますよ、だって? (赤を基調としたデザインの寸胴魔法使いの声で)おにいちゃんのバカ! (下まつげの長い旅芸人のイントネーションで)アンノちゃんはハヤオちゃんのマネをして、結末を考えずに作り始めちゃっただけじゃないの! ライブ感だと? 片腹痛いわ、ギコハハ! なに、シンエヴァの新しいティザーサイト見ましたか、だと! もう俺は深読みなどせん、深読みなどせんぞ! 上段と下段が呼応関係であり、「続きに非ず、終わりに反して」という意味が隠されていて、いよいよ破の続きが物語られ、その先にはエヴァの世界観を共有したガンダムばりのマルチバース作品群の展開が準備されているなどとは、毛ほども考えてもおらぬわ! (寸胴魔法使いが指をつきつけながら)なによ、その目は! 本当なんだからね!

正解するカド


正解するカド


8話視聴後「カド・ザ・ライト・アンサーは小鳥猊下将軍が育てたらしい」
9話視聴後「カド・ザ・ライト・アンサー? 小鳥猊下将軍は育てとらん」
最終話視聴後「すごい……どん底の底をついたと思っていたのに、まだその下があっただなんて……!! 視聴者のたどりついたこの場所こそ正に異方、そしてこれが異方の感覚……!!」
虚構にここまで心動かされたのは、久しぶりのことだ。じつにエヴァ破からのエヴァQを視聴したとき以来であり、むしろこれは賞賛に値するのかも知れぬ。その激情に、今年3枚めのモニターが破壊された。久方ぶりの激アングリー・P・P・サークルであった。しかしながら、当初ツッタイーで同作品へしたり顔の言及をしていたジャパニーズ・エス・エフ作家どもが、いまや軒並み沈黙を守っている事実に対しては、大いに溜飲を下げておる。

この世界の片隅に


この世界の片隅に


映画というのは、言葉にできない感情を表出するための芸術形態なのだという。監督の特質を推察するに、言葉と考証の人なのだと思う。アリーテ姫においては、雄弁すぎる登場人物がすべてのテーマを言葉で語り尽くしており、冒頭の定義で言うならば、映画として成立していなかった。しかし、今回の監督は原作を越える言葉を加えず、ただ考証の緻密さにに徹しており、それが最大の効果を発揮しているのだ。そして主人公役の“ウイ”ではない方の女優が物語終盤で発する「アホのまま死にたかった」みたいな台詞は、奇しくも彼女自身の置かれた境遇を代弁しており、一種ドキュメンタリーのように響くのである。現在、どうやら芸能界から干されてしまっている彼女は、しかしながらこの国の存続する限り視聴され続けるだろう傑作に名を残せたことを喜ぶべきであろう。そう言えば、3月11日に向かう物語と、8月6日に向かう物語という点でも、シンクロしてますね。

ファイナルファンタジー15


ファイナルファンタジー15


ゲーム部分は存外悪くない。昆虫なみの自意識を持つ、造作の整った若人(男娼の条件だ)が乳繰りあうことと、オープニングでおもむろにスタンド・バイ・ミーが流れ、「四人のうち一人が死んで、皆でそれを回想するお話だったりして、ハハハ」などとふざけていたら、何のひねりもなくそのままだったことを許容できるならば、だが。そして日本人は、オープンワールドのゲームを作るのにつくづく向いていないと思った。砂漠と太陽が生んだ一神教は、何も無いがゆえの足し算的思考を養わせた。反対に、豊かな自然と月が生んだ多神教は、恵まれた環境ゆえの引き算的思考を発展させる。ファミコン時代に本邦のゲームが世界を席捲したのは、まさにこの引き算的思考に基づいていたからであろう。オープンワールドの設計思想は足し算的であり、この分野はケトゥ族に任せておくべきなのかも知れぬ。
クリア後の感想。ネット上での罵詈雑言ほど、悪い読後感を小生は持っておらぬ。気のおけない友人たちが後に得た社会的地位に妨げられ、疎遠になってゆく様は身につまされる。そして昆虫的な、すなわち累積的でない知性を持った個人は、課金ガチャのような短期的刺激に向けた快と不快以上の感覚を人生に持ち得ず、それがゆえの虚しさをいつも抱えながら、自裁を決断する精神的強度もついに獲得できない。もし個としての死に世界的な意義を与えられたならば、多くが喜んでそれを選択するだろう意味性の希薄さに、我々は生きている。もし我々が大人になるとしても、この程度の理解、この程度の成熟に留まるだろうというリアルさだけは、意識的ではなかろうが、じつによく表現できていた。FF15は、現代の未成熟とみじめさを描いた佳作である。

君の名は。


君の名は。


あのさあ、非モテ童貞ロリコン野郎であるところのシンカイ=サンの作品は「ほしのこえ」(ひらがな表記なのがまたムカつく)から見てる熱心なアンチであるところのこのボクから、本気で感想を聞きたいワケ? 語作りの薄っぺらさを直視せず、厚塗りの絵作りに逃走し続けている、あの犯罪に至らなかった方のペドフィリアについて、いまさらまた語れってえの? キミ、小鳥猊下の「ボイシズ・オブ・ア・ディレッタント・オタク」読んでないの? わかった、わかったよ、わかったからそれ以上、こっちに顔を近づけないでくれ。キミの臭いの粒子がボクの敏感肌に付着したらどうしてくれんだよ、もう(謎の擦れ音)。初期作から一貫して、いかに膣口と陰茎を遠ざけるかというテーマをストーリーに落とし込もうとし続けてきたカントクだけど、今作の方法はじつに奇抜だったね! ネタバレにならないようにしゃべるけど、カントクの性的嗜好へ新たにネクロフィリアが加わるおぞましい瞬間を、観客たちは否応に見せつけられたというワケだね! 話は変わるけどさあ、ドクター・マシリトと、なんだっけ、飲尿マキアートみたいな同人作品を商業誌に臆することなく発表する剛の者との対談記事を偶然ネットで読んだんだけどさあ、近年のカントクはこの剛の者と同じワナに陥っていると感じたよ! 画面の細密さを増すことで、物語の希薄さと失速感を補おうとしていながら、まったくそれに自覚的でないというワナだね! シン・ゴジラのCunt-Qはエバー・キューへの反省から自身の弱点へ意識的になり、徹底したそれらへの逆張り、長所へのレイズにつぐレイズでついに大傑作をモノにしたけど、シンカイ=サンにこの方法が有効かは疑問だよ! だって、伸ばすべき長所、拡大するべきイビツがどこにも無いんだからね! 整形にまで手を出した厚化粧の醜女、これこそがカントクの表現の本質と言えるよ! もう20年、この非モテ童貞ロリコン野郎が作るものを見てきているけれど、加齢によるセカイ系からの離脱がまったく見られないのは、わたせせいぞう的マンネリズムの崇高さをもはや読み取るべき域に達しているのかもしれないな! 映像的には第1作目から執拗なエヴァ・フォロワーで、なぜそこでこの構図、なぜいまこの画なのかという問いに対する答えはすべて、「庵野秀明が、エヴァの中で最高にカッコイイ使い方をしていたから」なんだよね! 隕石が落ちて村が消えるときの描写とか既視感が強すぎて、見てられないくらいだよ! そして、オイィ! 毎年8月15日に旧エヴァ劇場版を見返し、おそらく来年からは3月11日にシン・ゴジラを見返すことになるだろう俺様に向かって、手のひらアップの演出を多用するんじゃねーよ! もう精液がトッピングされているようにしか見えねーんだよ! あとさあ、あちこちにオンナの若さ(あるいは幼さ)に過大な価値をつけくわえる中年のオッサンがチラチラ見え隠れして、気色悪くて集中できねーんだよ! ふつうの女児は自分の唾液が売れるなんてブルセラ的発想は持たねーし、ババアは「私が“少女”の頃は」なんて回想はしねーんだよ! とは言いながら、生本番をいかに避けるかのSFトリックを考案し続け、映像的には一貫してエヴァ・フォロワーのカントクだが、本作のラストシーンでは陰茎の先端が大陰唇へわずかに触れていたことは間違いない! 最後の最後で作品タイトルを男女にハモらせることで醸成される作りごと感、クリエイターの自意識臭にノックアウトされながらも、その前進だけは認めてあげようじゃないの、ええ? 以上、アベックどものすすり泣きが広がる劇場で、ひとり苦虫を噛み潰した表情で、眉間のシワだけが中年だったゴスロリ少女の俺様が述べる手前勝手の感想だった。もうッ、アタシに聞くのが悪いんだからね!

クリード


クリード


前回のファイナルから相当度の自己模倣が行われていたものの、あくまでロッキー・バルボア個人の物語であったため、作品テーマそのものがぶれることは無かった。しかし本作では、新人ボクサーの話をしたいのか、引退したボクサーの話をしたいのか、最後までどっちつかずのまま進行していく。過去作の名曲をフレーズのみで引用し、頑なにフルコーラスを流そうとしないことを考えれば、おそらく制作者のつもりは前者なのだろうが、オールド・ファンは射精直前の寸止めを幾度も食らった気分に陥り、イライラは募るばかり。そしてポッと出の新キャラが偉そうに愛する旧キャラをディスる様は、そう、まるでエバー・キューにおいて桃色タラコ唇がシンジさんを見下す様を想起させ、小生の怒りのボルテージは否応に高まるのであった。父親の名前を借りたのではない、自らの能力を証明するというテーマは、いまさらオリジナルの新規ボクシング映画を売る自信が無いという制作者の怯懦により、完全に裏切られている。さらに言えば、主人公が金持ちのホワイトカラーとか、恋人の難聴設定とか、ロッキーが癌になるとか、いくらでも刈り込める不要な枝葉が多すぎ、全体のバランスはグダグダである。あとさあ、試合に負けて勝負に勝ったっていうの、もうエエから。主人公のレガシーとやらの継承にテーマがあるなら、物語の必然として勝たせるべきちゃうん。ロッキー方向に日和っとるから、作品の自走性を信頼できずに自己模倣になるねん。ホンマ、けったくそ悪いわ。

シン・ゴジラ


シン・ゴジラ


西日の差す四畳半の自室の辺縁をぐるぐる周回しながらする、齧歯類と猛禽類しか登場せぬポケットモンスター・ゴー(毛唐語で“CHINPOイッちゃう!”ぐらいの意)にも飽いたので、貴様ら大騒ぎのシン・ゴジラとやらをアイ・マックス(毛唐語で“AIが止まらない!”ぐらいの意)で視聴してきた。貴様らもご承知おきの通り、本邦の悲劇を気楽な創作に流用したエバー・キューなる凄絶の冒瀆を世に問うたあげく、それへの非難から逃れるためのファッション鬱で周囲の同情さえ買おうとしたカントク(cunt-Q)を所謂絶許(いわゆるぜつゆる、小粋なジャパニーズラップの一種)だった小生である。鑑賞前は1メートルはあろうかというリーゼントに2メートルはあろうかという長ランで、前の席でブヒブヒゆうおたくの背もたれに両脚を投げ出し、粗探しでクソミソにけなしてやろうとの構えであった。しかしながら2時間後には、背筋をすっくと伸ばしたゴスロリ美少女が真剣な眼差しでそこに正座していたのである。前の席のおたくは別の意味でブヒブヒゆっていたので、一瞬だけヤンキー姿にもどってチョウパンしておいた。もう公開から1週間も経過しておるので、おそらくどこかですでに語られてしまっている内容かも知れぬ。しかし、だれが言うかが問題となる時代であるので、屋上屋を架すを承知で予のお気持ちを貴様らに述べたい。ゴジラというキャラクターの本質とは、無意識の奥底でつながる我々全員の足元を浸す水のような、民族的とさえ言える恐怖とその共有である。先の戦争において死と破壊を共有した人々にとって、初代はひとつの映画を越えた滅びの追体験となった。我々は先の震災による国難をすべからく(皆を意味するエヴァ語)共有するがゆえに、今作において初代を視聴した人々がどのようにゴジラを眺めたかをついに知ることができたのだ。また、本作では冒頭より連続する会議場面が出色の仕上りである。その面白さは本作のテーマを補強しており、否応にカメラの中心に置かれる主人公格への物語補正を弱め、登場人物たちの扱いに一種の公平性を担保する機能を果たしている。いまは亡き小鳥猊下の名同人誌「MMGF!」に、この構造の類似を指摘しておきたい。かつて、同作者がノーラン監督のダークナイトとその続編、ライジズに対して述べていたことは、エヴァQとシン・ゴジラの関係性にも当てはまるだろう。震災の悲劇を皮相的に流用したエヴァQに対して、今作はゴジラという舞台装置を、明確な意志をもって利用することで、本邦の抱え続けている長い国難を描き切った。エヴァQでの批判がシン・ゴジラにつながった事実は前者のファンにとって非常に苦々しいが、私はここに監督の真摯な反省を見る。また、無人在来線爆弾など終盤のCGの不出来を批判する声があるようだが、それは制作側の意図を汲むことができていない。現実の重さを虚構の軽さの側に引き寄せるというメタ的な方法でしか、ゴジラという厄災に対する勝利を日本に与えることができなかったのである。しかしながら、次の国難を望むことは決して無いと言いながら、ゴジラがその時代が抱える恐怖の象徴として都度、復活し続けるメタ的な可能性の土壌が生まれたことに関しては、たいへん喜ばしい。そして、シン・ゴジラを経たシン・エヴァンゲリオンにおいて、生みの親から長く放置されたあの少年が、ついにはトラウマ電車を降りることをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。皆様の理解を得られることを、切に願っています。
シン・ゴジラ追記。まだ2回しか見ておらぬ不熱心なカントク(Cunt-Q)ファンだが、浮かれ騒ぐ交尾犬の貴様らにバケツで水をぶっかけ(Bukkake)ておきたい。東日本大震災に感情をゆさぶられ、クリエイターとしてこの国難を作品に反映させねばならぬと奮い立ち、自らに引き出しの無い、現実に依拠した完全なオリジナルをぶちあげたがゆえの大失敗作、エバー・キューが無ければ、シン・ゴジラの成功は存在せぬ。「自らの感情」と「オリジナルへの色気」を完全に廃し、彼の本来である「編集の執拗さ」と「コピーのリファイン」へ徹したからこそ、シン・ゴジラは空前絶後の大傑作となったのだ。頼みにならない己の主観、独創性のつまらなさ、この2つのマイナスがかけ算となり、プラスへと転じたのである。エンターテイメント作家でありながら、すべての作品に私小説的な動機が内在するところがカントクの魅力であり、シン・ゴジラを絶賛する貴様らは、エバー・キューを4回も劇場で見た俺様の偏愛にこそ、まずひざまずくべきである。