猫を起こさないように
年: <span>2015年</span>
年: 2015年

ブラッドボーン


ブラッドボーン


実はこの二ヶ月というもの、ひどい気鬱に悩まされていた。サブカル道を歩む者は、三十路でマッチョ願望にとり憑かれ、四十路で抑鬱状態に陥るという。どのくらいひどい状態だったかと言えば、雨戸を閉めて電気を消した部屋で、新作の映画やゲームを傍らに積み上げたまま手も触れず、かろうじて視認できるほど輝度を低減したモニターで延々とディアブロ2をプレイしていたぐらいだ。しかも、音が耳に障るという理由でスピーカーは外してあった。バーバリアン用にグリーフとフォーティテュードを完成させたところで、さすがにこのままキャラ数分のエニグマを作成するのはまずいと感じはじめた。革張りの社長椅子から腰を上げ、長らく2月だったカレンダーを3月にめくると、明日がブラッドボーンの発売日であることに気づいた。よろよろとゲーム専用シアターに向かい、プロジェクターの埃をはらって、アンプに通電する。0時を待ってダウンロードを行い、120インチのスクリーンにタイトルが映し出されたとたん、現実が消失した。疲労と空腹が再びこの身に意識を取り戻してはじめて、私は自分が血濡れの病み人として別世界を徘徊していたことを知ったのである。ファミコンを体験したことに後の人生を大きく規定された私が、成人して以来ずっと求めていたゲームは、正にこれだと思った。極限まで突き詰めた映像と音楽と操作性が織りなすこの没入感を貴様らにわかりやすく説明するなら、決して萎えない理想のペニスが挿入され続けるアヘ顔ダブルピースの24時間であり、美少女にがんばれがんばれと励まされずとも間断ない最高の射精が続く状態である。実はドラクエヒーローズもプレイしたのだが、あれっ、鬱じゃなかったの、ゲーム性はひとまず置くとして、大音量での再生をわずかも想定しない最悪のモノラル的音質に耐えられず、早々にクリアを断念した。よりアッパーな再生環境に耐えるという、プレステ4でリリースすることの意味を制作側が少しも理解しておらず、すぎやま先生とオケの面々に土下座して謝れよ、てめえらはいつまでもジャリ相手の携帯ゲーム作ってろよ、パズドラ死ねよ、と素直に感じることができた。あとシレンジャーなので、家人の携帯ゲーム機を無理やり奪って世界樹の迷宮も嫌々プレイしたが、おまえ、ぜんぜん鬱じゃないじゃん、品薄が高評価を一時的に形成することがあるというネット特有の現象を体験したことだけが収穫だった。引き算が本質のゲーム性に足し算し続けるという、無駄な努力の天然色見本とも言うべき的外れのつまらなさで、これまた早々にクリアを断念した。これら二つのクソゲーを紹介したことで何が言いたいかといえば、ブラッドボーンは映像と音楽とゲーム性の極めて高いレベルでの融合に成功しており、既存の映画ジャンルを超える新たな映像芸術の位置にまでゲームという存在を止揚した、ひとつの到達点であるということだ。とはいえ、100インチ以上のスクリーンと7.1チャンネル以上のサラウンド環境で復元された本作を体験できない者は、この革新が見えないまま、幼年期の始まりに気づかないまま、過去作との愚かな比較を繰り返すばかりだろう。ゲームをチープな暇つぶしへと追いやってしまったのは、我々が街角の売春婦にするようにその対価を値切り続けてきたことが原因だ。パトロンであったはずの我々が安く買わんがために、美女の価値をことさらに世間へ貶め続けてきた。この新たな映像芸術に対して、現在の10倍、いや100倍を支払うことに私は一瞬のためらいもない。さあ、全国津々浦々のファミコン世代よ、クリミナルかセレブリティかの二択世代よ、じつは高学歴の金満家たちよ、いまこそ我々にゲームを取り戻そう。これだけ豊かな体験を人生に与えうるゲームにより高い敬意を、より多くの金を払おうではないか。

セイビング・ミスター・バンクス


セイビング・ミスター・バンクス


「私たちはみんな、子どもの心を持っている」。創作の本質とは、与えられた呪いをいかにして普遍的な何かへと昇華できるかにある。男性向けフィクションにマザコンものが多いのに対して、女性向けフィクションにはファザコンものが少ない理由がわかった。人生の早い段階で父親を亡くし、理想化された父親像を否定する時期を経なかった少女だけが、ファザコンものの語り手となりえるのだ。存命の父親が理想化されたまま成人を迎えるケースもあろうが、そうした人々は創作を行う内的必然性を持たないと思われる。そして雑に言えば、どちらにも当てはまらない女性のうち、母親との関係が良好ではない者たちがボーイズラブに向うのだろう。話がだいぶそれたが、本作ではメアリー・ポピンズが父親との葛藤にのみ依拠した作品であるように語られてしまっているので、いい映画であることに間違いないが、同作品への思い入れが強ければ強いほど反発は大きくなるのではないかと思った。強い思い入れを持たないはずの私だったが、軽い気持ちで視聴を始めたところ突然の重たいボディーブローをくらうこととなった。娘の視点から描かれる夢見がちな一人の社会不適合者の肖像は、アル中の諸君をいたたまれなくさせること、うけあいである。

ジ・アクト・オブ・キリング


ジ・アクト・オブ・キリング


千人を手にかけたかつての殺人者を題材とすることが無謀だという声に、私は同意しない。このアメリカ人監督はむしろ、ドキュメンタリーという手法の、そしてアクト、「演じること」の持つ力の魔性を熟知した上で、アンワル・コンゴの精神を意図的に壊しにかかっているからだ。本作を見て思い出した作品が二つある。一つ目は、ドイツ映画の「エス」。我々はだれもが与えられた環境に応じて役割を演じているに過ぎず、個性や自己同一性と呼ばれるものは一種の幻想、揺れる大地の上のかりそめである。ゆえに演じるという行為、「ジ・アクト・オブ・アクティング」を通じて私たちはあらゆる人物になれるし、あらゆる心理を追体験することができる。二つ目は、邦画の「ゆきゆきて神軍」。このドキュメンタリーでカメラを向けられたことが主人公を躁的に狂わせていくのと対照的に、本作ではカメラを向けられた人物が演技を通じて正気を取り戻してしまい、罪悪感ゆえの絶望へと転がり落ちていく。私は、無辜の千人を殺したという事実を前にしてなお、彼に対して最後まで同情する立場を崩すことができなかった。同じ立場に置かれたら、たぶん、私たちのだれもが殺していたと思うからだ。ひとりの老人に殺される側の味わった恐怖と絶望を「主体的に」体験させる手法は、千人を殺すほどに残酷ではないというのだろうか。階段の踊り場に取り残された、かつての殺人に嘔吐するだれか。そして、数多くのANONYMOUSが並ぶ異様なエンドロール。監督が映画を通じて行う残虐は、アンワルの行った残虐に勝るとも劣らない。れこそが、世界にするアメリカの残虐の正体だと思う。知恵の実を食べたものが、知恵の実を食べなかったものに行う、悪魔の残虐である。

楽園追放


楽園追放


フルCGとのふれこみで視聴するも、ファーストインプレッションは劇場版・3Dカスタム少女。サイファイギークであるところの俺様はニヤニヤと小鼻をふくらませながら大いに楽しんだが、正月休みでついウッカリいっしょに見ることとなったそのような素養と耐性の薄い方々は、冒頭からわりとすぐに熟睡していた。「ロリィ」や「そういう趣味」など未成年への劣情を連想させるエロゲー的表現(一般人には異様に響くに違いなく、内心ヒヤッとした)が散見され、18禁版ではねっちりと描かれているのだろう「はじめての肉体」のもたらすはじめての排泄やはじめての性交を省いた全年齢版が、本作なのだと推察される。また、一つひとつの台詞が非常に長い上に堅い方の語彙を常に選択するため、かなり意識して聞かないとすぐに何を言っているのかわからなくなる。家人は寝た。この辺りもアニメというよりはテキスト主体のゲームに向けて書き起こされたようなシナリオで、やはり18禁のエロゲー版が存在するに違いない。そして、女子のパイロットが画面手前に向けて乗り出してくるカットとか、複数のミサイルが意志を持っているみたいに標的を追尾するカットとか、青空にロケットの噴煙が傾ぎながら登っていくカットとか、全体的に映像の既視感が強く、フルCGでなければ表現できない絵作りはまったく見られなかった。もしかすると、既存の表現をより低コストで達成できることを強調するための見本市的なねらいがあるのかもしれない。いずれにせよ、全編を通してギークなら確認するまでもないが、実は普遍性に乏しい前提を視聴の際に強要される感じがあり、家人は寝た。昔はものすごい数の時代劇が放映されていたのに今はテレビの片隅に追いやられてしまった、アニメも現在ものすごい数が放映されているがいずれ時代劇と同じ道をたどるだろう、みたいな記事だかつぶやきだかを以前に見かけたことがあったけれど、その理由を体現するような作品だった。うかつなことを言えば、ため息からものすごい反論が返ってきそうな面倒くさい感じが全編に漂っており、家人は寝た。あと、前情報からフロンティアセッターがガンダムやイデオンみたいな位置づけで活躍すると勝手に思いこんでいたので、ジムとザクが格闘するみたいなクライマックスの戦闘シーンにはガックリした。それと何より許せないのは、生物の進化と惑星の重力に対する科学的な考察が非常に甘いところである。そもそも十六歳はあんなおっぱいしてないし、あんなおっぱいをしてるのにゆれないのはSF考証ができてない証拠だし、ゆれないのにレオタードなんて一般人を遠ざけるデザインでしかないし、こんな3Dカスタム少女みたいなんだから、家人も寝たことだし、もっと激しくゆれればいいのにと思いました。