猫を起こさないように
月: <span>2015年1月</span>
月: 2015年1月

ジ・アクト・オブ・キリング


ジ・アクト・オブ・キリング


千人を手にかけたかつての殺人者を題材とすることが無謀だという声に、私は同意しない。このアメリカ人監督はむしろ、ドキュメンタリーという手法の、そしてアクト、「演じること」の持つ力の魔性を熟知した上で、アンワル・コンゴの精神を意図的に壊しにかかっているからだ。本作を見て思い出した作品が二つある。一つ目は、ドイツ映画の「エス」。我々はだれもが与えられた環境に応じて役割を演じているに過ぎず、個性や自己同一性と呼ばれるものは一種の幻想、揺れる大地の上のかりそめである。ゆえに演じるという行為、「ジ・アクト・オブ・アクティング」を通じて私たちはあらゆる人物になれるし、あらゆる心理を追体験することができる。二つ目は、邦画の「ゆきゆきて神軍」。このドキュメンタリーでカメラを向けられたことが主人公を躁的に狂わせていくのと対照的に、本作ではカメラを向けられた人物が演技を通じて正気を取り戻してしまい、罪悪感ゆえの絶望へと転がり落ちていく。私は、無辜の千人を殺したという事実を前にしてなお、彼に対して最後まで同情する立場を崩すことができなかった。同じ立場に置かれたら、たぶん、私たちのだれもが殺していたと思うからだ。ひとりの老人に殺される側の味わった恐怖と絶望を「主体的に」体験させる手法は、千人を殺すほどに残酷ではないというのだろうか。階段の踊り場に取り残された、かつての殺人に嘔吐するだれか。そして、数多くのANONYMOUSが並ぶ異様なエンドロール。監督が映画を通じて行う残虐は、アンワルの行った残虐に勝るとも劣らない。れこそが、世界にするアメリカの残虐の正体だと思う。知恵の実を食べたものが、知恵の実を食べなかったものに行う、悪魔の残虐である。

楽園追放


楽園追放


フルCGとのふれこみで視聴するも、ファーストインプレッションは劇場版・3Dカスタム少女。サイファイギークであるところの俺様はニヤニヤと小鼻をふくらませながら大いに楽しんだが、正月休みでついウッカリいっしょに見ることとなったそのような素養と耐性の薄い方々は、冒頭からわりとすぐに熟睡していた。「ロリィ」や「そういう趣味」など未成年への劣情を連想させるエロゲー的表現(一般人には異様に響くに違いなく、内心ヒヤッとした)が散見され、18禁版ではねっちりと描かれているのだろう「はじめての肉体」のもたらすはじめての排泄やはじめての性交を省いた全年齢版が、本作なのだと推察される。また、一つひとつの台詞が非常に長い上に堅い方の語彙を常に選択するため、かなり意識して聞かないとすぐに何を言っているのかわからなくなる。家人は寝た。この辺りもアニメというよりはテキスト主体のゲームに向けて書き起こされたようなシナリオで、やはり18禁のエロゲー版が存在するに違いない。そして、女子のパイロットが画面手前に向けて乗り出してくるカットとか、複数のミサイルが意志を持っているみたいに標的を追尾するカットとか、青空にロケットの噴煙が傾ぎながら登っていくカットとか、全体的に映像の既視感が強く、フルCGでなければ表現できない絵作りはまったく見られなかった。もしかすると、既存の表現をより低コストで達成できることを強調するための見本市的なねらいがあるのかもしれない。いずれにせよ、全編を通してギークなら確認するまでもないが、実は普遍性に乏しい前提を視聴の際に強要される感じがあり、家人は寝た。昔はものすごい数の時代劇が放映されていたのに今はテレビの片隅に追いやられてしまった、アニメも現在ものすごい数が放映されているがいずれ時代劇と同じ道をたどるだろう、みたいな記事だかつぶやきだかを以前に見かけたことがあったけれど、その理由を体現するような作品だった。うかつなことを言えば、ため息からものすごい反論が返ってきそうな面倒くさい感じが全編に漂っており、家人は寝た。あと、前情報からフロンティアセッターがガンダムやイデオンみたいな位置づけで活躍すると勝手に思いこんでいたので、ジムとザクが格闘するみたいなクライマックスの戦闘シーンにはガックリした。それと何より許せないのは、生物の進化と惑星の重力に対する科学的な考察が非常に甘いところである。そもそも十六歳はあんなおっぱいしてないし、あんなおっぱいをしてるのにゆれないのはSF考証ができてない証拠だし、ゆれないのにレオタードなんて一般人を遠ざけるデザインでしかないし、こんな3Dカスタム少女みたいなんだから、家人も寝たことだし、もっと激しくゆれればいいのにと思いました。