ルーパー
SF版「ザ・バンク」。物語の前半、あれだけ丁寧に世界観をビルドアップしておきながら、そのすべてをことごとく放棄した後半のソープ・オペラ的展開に唖然とさせられる。ブルース・ウィリスをキャスティングしたせいで撮影途中に制作費が無くなって、外部からの資金を受け入れる代わりに監督が制作の主導権を手放したみたいな裏事情を読み取らざるを得ない。「(脂の浮いたデブが提示された脚本を斜め読みしながら)ライアンちゃんさあ、気持ちはわかるけどさあ、いまどきSFなんかじゃ客は入らないわけよ。この話に足りないのはヒロインじゃない? 昼は聖女で夜は娼婦な、銃を持った経産婦とのファックがみんな見たいのよ。そして、障害を持った子どもへの愛情と家族の絆! 観客が求めているのはズバリこれよ。ライアンちゃん、君もそろそろメジャーになりたい時期だろ? わかったら、明日までに脚本なおしといて。じゃ、エミリー、焼き肉(的な、アメリカでの何か)行こうか」。主人公が死亡した瞬間に場面が巻き戻るシーンや、時間旅行に絡めた拷問のアイデアには本当にワクワクさせられたし、ある段階まではループ物の佳作としてSF愛好家に細々と語り継がれる可能性すら秘めた作品だったのに、この資本主義のブタと売春婦めが(あなたの想像です)! あと、乖離した二つの物語の接ぎ木ぶりへの落胆、それが愛するSFであるがゆえの更なるひどい落胆、なんか体験したことあったなー、なんだったかなーと思ったら、エヴァQだった。
年: 2014年
河童のクゥと夏休み
河童のクゥと夏休み
ルパンを作った後の宮﨑駿と、クレしんを作った後の原恵一。作り続ける強度という意味で何が二人を分けたかと言えば、アニメーション技術を追求するか、作品のテーマ性を追求するかの一点であろう。結局のところ、「自然礼賛」と「人間賛歌」を語ってしまえば、つまり「生きることへの肯定」という究極の命題を語ってしまえば、我々はあとは何も語る必要が無く、その上で座して死を待つのでなければ、死そのものを語ること、すなわち宗教と近接した、普遍性とは真逆の方向へと向かわざるをを得なくなる。つまり、宮﨑駿は子を成しながらも「人類滅亡しろ」と心の底から唱えるからこそ、未だ作り続けているのであり、原恵一は子を成す前から「人間って、素晴らしい」と気づいたからこそ、もう作ることへ執着する必要が無くなってしまったのである。これはつまり、MMGF!後のよい大人のnWoにも似た、初期動機の消失と言えるだろう。あと、作品への思い入れが強すぎて、それぞれのシーンがわずかずつ冗長になって、作品全体を不必要に長くしているなあ、と感じた。それと、もし宮﨑駿が娘を授かっていたら、作ることへの初期動機は消滅していただろうなあ、と思った。