猫を起こさないように
年: <span>2014年</span>
年: 2014年

エンダーのゲーム


エンダーのゲーム


発表から40年近く経つことが信じられないほど未だに新しい、もはやSFの古典と化した大傑作だけに、どう作ったところで原作原理主義者の脳内に蓄積された身勝手なイメージを超えられるわけはなく、不評にさらされることがあらかじめ決まっていた映像化である。しかしながら、正にその原作原理主義者の俺様は、この映画化は大成功であり、まぎれもない傑作だと断言する。視聴後に原作を読み返してみたのだが、相変わらずバーチャルゲーム内の情景描写は何度読んでもピンとこないし、バトルルームでの動きの説明も何度読んでも何がどうなってるのかよくわからない。当時は自分の理解力が低いせいかと読み飛ばしていたのだが、つまりはだれも見たことのない、だれも知らないものを描写するという点で新しすぎたのだと思う。あれから長い年月が経過し、例えば単に「デスク」とだけ表現されていたものが実はiPadのようなデバイスなのだとわかったり、現実の側がようやくこの弩級の想像力に追いついた感がある。40年を待たなければ、映像化は不可能だったのだ。本邦において海外SFの傑作は、その傑作度が高ければ高いほど、一般の認知がますます低くなる傾向にある。なぜなら、自分のネタ元として担保しておきたいあまり、作り手側があえてその喧伝を避けるからである。例えばエヴァンゲリオンは明らかにエンダーのゲームの影響下に作られたし、マクロスフロンティアは明らかにギャラクティカの影響下に作られている。そして、それらをはじめとした日本のアニメーションから本作でのデザイン全般が逆輸入的な影響を受けているのは、相互リスペクトが意図せぬ円環を成しているようで面白い。それにしても、本邦のSF愛好家ほど度量の狭い、偏屈きわまる存在はないだろう。いいものは自分たちのために秘し隠し、身内から出てきた新しいものは徹底的な粗探しをし、攻撃する。世間から一等低いものとして長く差別されてきたがゆえに、「理解されないこと」へ殊更に軸足を置いて、その純度だけを高め続けてきた。結果として、膨大な前提を踏まえなければ楽しむことのできない、センス・オブ・ワンダーとは真逆の袋小路へとたどり着いてしまっている。もっと知的ガードを下げて、衒学趣味は放り投げて、少々脇が甘かろうと誰にでも「理解される」物語を語る方向へと進むべきだったのに。海外におけるSFドラマの隆盛の理由は、被差別民がいっそうに己をやつすことで聖なる不可触へは“進まなかった”という、本邦とは真逆の一点に尽きる。ジャニタレの学生恋愛劇や結婚以前の腐女子へ媚びるドラマがテレビを席捲している事実へ、貴様らSF愛好家は客観的な批評を加える立場にはないことを理解せよ。センス・オブ・ワンダーを啓蒙する柔らかなSFをすべてフニャ子フニャ夫エフ先生に丸投げして、矮小なプライドの砦へ遁走し引きこもったこの数十年を貴様らは恥じるべきである。閑話休題。本作は原作を踏まえながらも、原作を知らない層に向けて制作されているように思う。そしてディズニーがこれを作ったということに、欧米でのSFなるものの位置づけと、その文化を次世代へ継承していくことへの意思を強く感じさせる。個人的には、エンダー役の少年に感銘を受けた。彼は、私の脳内に蓄積されていた身勝手なエンダーのイメージそのものであった。意図せず知的生命体のジェノサイドへ加担してしまった主人公の贖罪の物語、それは次作「死者の代弁者」で完結を見る。この傑作が間を置かず、続けて映画化されることを切に願う。え、死者の代弁者って絶版なの? 世界の皆様、身悶えするほどにお恥ずかしい……ご高覧あれ、これが本邦のサイエンス・フィクションの惨憺たる現状でございます……!!

ゼロ・グラビティ


ゼロ・グラビティ


ようやくゼロ・グラビティ見たんだけど、ネットでの評判とか7部門受賞とか、さんざんハードル上がってたせいも大きいと思うんだけど、びっくりするほどおもしろくなかった。オープンウォーターとか、パラノーマル・アクティビティとか、ディセントとか、リミットとか、若手監督の低予算シュチュエーション映画と同じ路線の脚本なのに、なまじ映像に予算かかってるのがわかるもんだから、メリットだけ手放してどうすんだよって思った。もっと本当に無重力の暗闇を遊泳するだけで、地上との会話劇とかで90分持たすと思ってたら、宇宙ステーションとか家族のトラウマとか入ってきて、一気に冷めてしまった。昔のSFが好きなので、宇宙までくんだりきてヒューマンドラマとかトラウマ解消とかやる作品はぜんぶ消滅しろって思う。木星だかまで行っときながら「愛しあうことだけはやめられない」とかゆう寝ぼけた台詞の見開きにカッとなって、他に言うことねえのか、殺すぞって、単行本を老婆の処女膜のようにビリビリに引き裂いたあの怒りは、昨日のことのように鮮明に思い出すことができる。プラネテスや宇宙兄弟より、私がだんぜん度胸星の方を好きなのはそういう理由なのだった。へうげものが国営放送の大河ドラマに採用されれば、いい加減、先生も満足して宇宙に戻ってくると思うので、そろそろ国営放送は本気を出しなさい。

ランス9


ランス9


80年代後半から90年代前半にかけてが、和製ファンタジーの全盛期だったように思う。それらの物語は大きく二つに分けることができる。主人公を中心に異世界の歴史を編年記として描くものと、主人公が世界の成り立ち自体に深い関わりを持ち、その謎の解決とストーリーの展開がリンクするものだ。残念なことに、スレイヤーズ!はシリーズの半ばから世界の謎の深奥へは迫らないことを決めてしまった。現実の世界史の固有名詞を置き換えただけのような物語には、元より興味は無い。さて、ランスシリーズである。ヴァリスが会社ごと消滅し、ドラゴンナイトはエロゲーからの脱却に失敗して頓挫し、イースはいつしか物語ることを止めてアクションゲームとなり、英雄伝説はいつまでも同じ場所で牛歩とも言えない足踏みを続けている。そして、ただただ会社や作家が食べていくためだけの理由で、終わることを許されなくなった多くの物語たち。そんな中で、様々にプラットフォームを変えながら、ゲームジャンルにさえ囚われず、ただ一つの物語を物語るという一点のみをよすがに、ここまでたどりついた製作者の執念に敬意を覚える。このシリーズは主人公の造形を含めて、イースシリーズに対する極めて自覚的かつ露悪的なパロディとしてスタートしたと理解している。本家は複数の同一ナンバーやオンライン化など迷走を重ね、初期設定にあった大帝国とアドルの直接的な対立へ物語が至ることなど、もはや望むべくもない状態である。一方で、ランスシリーズはエロゲーという鬼子的出自を逆手にとった破天荒のストーリーテリングで、四半世紀をかけ、ついに一介の冒険者を大軍事帝国の革命へとたどりつかせた。私はこの事実に、胸を突くような哀切にも似た、深い感動を覚える。シミュレーションとしての出来を云々する向きもあるようだが、私にとってこのシリーズは、もはやゲームとして批評する段階を超えてしまっている。この作品は、年齢制限を伴った数あるゲーム群の一つどころではない、かつて市場のニーズを失い、世の片隅にガラクタとして放擲された、一つの物語類型の眩いばかりのよみがえりであり、最後の輝きなのだ。すべてのお膳立ては整った。次作ではいよいよ、世界がかくあるという謎にひとりの人間がどう立ち向かうかが描かれるだろう。多くの和製ファンタジーがそれぞれの理由で頓挫させてきた究極の命題へ、正面から向き合おうとしているのだ。それがどんな内容であろうとも、私はある時代の生き残りとして、この物語の最期を見届けたい。

ダークソウル2


ダークソウル2


前作はプレイを進めるうち、全エリアが立体的に鳥瞰されたマップが頭の中に構築され、その精緻に組まれた有機的つながりに強い感動を覚えたものだ。ひるがえって本作は、すべての篝火からお手軽に相互移動できることもあって、エリアとエリアが平面的に分断されているように感じられ、スペランカーかロードランナーのように短い面をトライ・アンド・エラーで順にクリアしている気分になる。また、これまでのようにステージ全体をギミックとして使って戦うボスが一体もおらず、その攻略法も時計回りでリーチの長い攻撃を繰り返すことに終始するせいか全体的に印象に残らない。武器・防具は数あれど、強化方式がひどく簡素化され、加えてテキストフレイバーも非常に淡白になり、お気に入りを選ぶというよりはデータ上の強弱だけで使用の判断をしている感じが強かった。細かいところで言えば効果音の付け方が不自然で、サラウンドで聞くと草の鳴り方など特に足下の環境音が気になってしょうがない。モンスターハンターが初代から2に移行したときにも感じたことだが、独自の世界観とその雰囲気を包括的な体験として楽しむ方向性から、対人を強く意識したアクションゲームへと大幅に舵が切られたように思う。昔から作家性を感じるゲームがすごく好きで、このシリーズが正にそれだったのに、ディレクターの変更に伴って作家性の部分がすっぱりと切り捨てられ、「作り込まれた良質なアクションゲーム」の位置へと、個人的には格下げされてしまった。そして、何より強く感じるのは、ああ、自分はデモンズソウルと初代ダークソウルがこんなにも好きだったんだという喪失の悲しみである。とは言え、四月のクソ忙しい中、睡眠時間を削って2キャラ作って合わせて3周して、その間にコントローラーを3つ破壊したので、ゲームとしてはすごく堪能したと言える。ダークソウルではなくキングスフィールドの新作だと思えば、フロムソフトウェア好きには大納得の仕上がりと言えよう。しかしながら、本作にとって最も楽しい季節は、全くの未知をオンラインの薄いつながりで攻略していく最初の一週間であり、早くもその黄金期は過ぎ去ってしまった。スカイリムのMODみたいに、ファンが新しいエリアを自作し、追加し続けるような動きがPC版であるといいなと思った。

めんまへの手紙


めんまへの手紙


貴様らがあんまり泣ける泣けるうるさいから、さめだ小判氏のアナル・オブ・ザ・デッドの知識しかないテレビ版未見の俺様は、この度ようやく劇場版を試聴する機会を持った。前半のビルドアップは、キャラ名しか知らない身にとってかなり興味をそそられる展開だった。しかしながら、ストーリーの後半に進むにしたがって、幾度か小休止を挟まないと試聴を進めることは困難となった。西野カナの主題歌の時点でイヤな予感はあったが、ただでさえギトギトの豚骨ラーメンへ、食べる端から店主が柄杓で背脂を足してくるみたいな怒涛の泣かせ演出は、すれっからしの物語乞食の忍耐の閾値をさえ軽々と越えてきたからだ。この異様にプッシングな泣かせのやり口は、ゼロ年代前半に大流行したセカチュー系難病ものを彷彿とさせ(そう言えばセカチュー映画版も回想形式だった)、制作側がなぜアニメと親和性の低そうな西野カナをわざわざ主題歌にひっぱってきたのかだけは、とても腑に落ちた。ネットで評判のいい実写映画はその口コミと主観にズレが生じることはあまりないが、ことアニメとなるとネット評はまったく当てにならないとの自戒を新たにさせられた次第である。もちろん、セカチュー系の感動を求める層は常に一定数いるだろうし、今回の空振りをアニメであることを理由にするのはアンフェアかもしれない。今回の俺様はセックスに例えれば、前戯のあまりの執拗さに性器はひりつき、しまいに熱をもって痛みだし、挿入したかどうかのところで中折れとなって、射精に至ることはできなかった。日常的に物語に接さない一般層はここまでねちっこくやらないと泣けないのだろうが、徹頭徹尾くどい感動の演出に負けてしまって、乗せられようと努力はしたが、まったく入れなかったのだ。死んだ者の無念へ想いをはせることと、その理不尽な死へ生きる者がどう折り合いをつけるかというテーマは極めて今日的で素晴らしいと思うだけに、非常に残念である。個人的なことを言えば、子どもというのは直面した「死」を徹底的に封印するものである。それは忘却どころではなく、ちょうど心の一隅に虚の黒いスポットが生じるようなもので、そこへのあらゆる投げかけは一切が無効化されてしまう。不条理な死を経験した子どもが、こんなふうに多量の涙を流して大声で泣いて、きれいな弔いですべてを清算できれば、どれほど救われるだろうか。

ペルソナ4ザ・ゴールデン


ペルソナ4ザ・ゴールデン


ペルソナシリーズは罪までをプレイして、「これは私のためには作られていない」と感じ、ずっと遠ざかっていた。アイギスという名詞を提示されて「オーヤマ?」と返すくらいのペルソナ隠遁ぶりである。しかしながら、大きなプロジェクトを終えたばかりのスイーツな俺様は、がんばった自分へのご褒美として本作を本体ごと購入し、このたびプレイしてみた。結果、非常な感銘を受けた。西洋のゲームがひたすらに3Dを指向し、プレイアブル・ムービーとなっていったのに対し、本邦ネイティブのゲームはひたすらに2Dを指向し、プレイアブル・アニメーションとなっていったことは改めて指摘するまでもない。その意味で、ペルソナ4と真に並列して語られるべき相手は、実のところスカイリムである。洋の東西の文化比較として、これほどの好対照はなかなか見られないように思う。ギリシャ・ローマへ端を発した彫刻文化は本邦には根ざさず、鳥獣戯画や浮世絵が特異なオリジナルとして西洋を驚かせたまさにその瞬間から、両者は決定的に袂を分かち、スカイリムとペルソナ4へ向けて歩み出したのだ。大陸の広大さを享受した誰かは、神の御業を寸分も歪めずそのまま落とし込むことのできる3Dへと向かい、島国の狭さに生きて神を知らない誰かは、自らの理想と欲望をその歪みのままに落とし込める2Dへと向かった。ゲームとしての面白さはさて置くとして、スカイリムとペルソナ4は、それぞれの進化の終着点に鎮座する偉大なイコンであることは疑いがない。両者の市場規模はいまや著しく乖離し、傍目には勝負にさえなっていないのかもしれないが、なァに、我々は再び島国の内側に引きこもり、西洋の文化なんて知らなかったときのように、我々だけがその価値を知る宝としてこれを愛でればよい。ただひとつ、どうしても夢想することをやめられない。PC-FXが次世代機の覇権争いに勝利し、その後継機の世界同時発売のキラータイトルがペルソナ4であったような未来を。それはもしかすると、あり得たかもしれない並行宇宙のひとつだ。あと、日本のアニメ文化こそがこの作品を作ったみたいな言い方、違うよ! 「雫」プラス「ときメモ」、イコール「ペルソナ4」だよ! ノベルゲーとギャルゲーのケッコンカッコカリだよ!

魔界の滅亡


魔界の滅亡


指輪物語を読む前、私の中でファンタジーの極北に位置していたのは、ドルアーガシリーズだった。「悪魔に魅せられし者」「魔宮の勇者たち」は、それこそ表紙が擦り切れるまで遊んだ。普通の文庫本の見かけで文字サイズも小さく、子供心にすごく大人の本を読んでいる感じがした。母親も普通の小説を読んでいると勘違いしていたようだ。(というのも以前、「ドルアーガの塔外伝」という明らかに児童向けの装丁のゲームブックを、ずっと手放さずに読んでいたからだ)。赤い背表紙を最高にカッコイイと思い、ブックカバーをかけようなんて少しも考えなかった。奥付の「東京創元社」という意味のわからない文字列も、ひどく謎めいて神秘的に感じられた。今でさえ私の中で、「東京」という単語の持つイメージは赤い背表紙の文庫本と、東京創元社の社名に紐付けられている。天辺の断ち切りの凹凸に指の腹を滑らせる感触が好きだったし、開いたページに鼻を突っこんでよく紙とインクのにおいを嗅いだものだ。ドルアーガシリーズ三部作の完結編は本当に待ち遠しく、当時は新刊の発売日を調べることさえしなかった(当然、ネットも無かった)から、学校帰りに毎日、駅前の書店へ自転車で通った。発売日のことを覚えている。平積みではなかったように思う。赤い背表紙に白抜きで「魔界の滅亡」と書いてあった。ドルアーガシリーズの併記は無かったにも関わらず、私はそれが待ち望んだ一冊であることがわかった。あの頃は誰が書いた本かなんて意識もしなかったのに、もしかすると鈴木直人の名前を覚えていたのかもしれない。手に取ると、ひどく分厚かった。表紙に描かれた巨大な悪魔と細身の騎士を見て、痺れるような高揚を味わった。私がこの悪魔を殺すことで、魔界は滅亡するのだ! 消費税はまだ導入されておらず、自販機のジュースが100円だった時代だ。小走りに駆け込んだレジで告げられたのは、680円。手持ちは600円ちょうど。「魔宮の勇者たち」が550円だったからだ。黙って本を元の棚へ戻すと、私は家へと急いだ。足りない分を取りに帰るためだ。家に着いたときには、もう5時を回っていただろうか。私の常にはめずらしく、母親の強い制止(ヒステリックな怒鳴り声の)をふりきって、再び書店へと向う。周囲はすでに薄暗く、街灯がともりはじめていた。あのドルアーガシリーズの完結編を手に入れられるという興奮と、親の言うことを聞かなかったことへの後悔と罪悪感、そして夜の街頭の様子への不安がないまぜになり、ある感覚の塊として自転車をこぐ膝頭の当たりから太ももの内側を伝って腰の方へ上がってきたのを覚えている。突如、全身をえもいわれぬ快感が訪れる。それは脳天からつま先までをしばし満たした後、眼前にテレビの砂嵐のようなチカチカとした残像を残して、消えた。いまふりかえれば、あれが私の精通だったのかもしれない。そうして手に入れた「魔界の滅亡」はやはり擦り切れるまで読まれ、未だに私の手元に置かれている。知識や経験ははるかに乏しく、感受性のみで世界を理解していた時代に、あらゆるアナログ的肉体感覚と直結したがゆえの至高のファンタジー、それが「魔界の滅亡」なのだ。その時代に享受した物語は、すべての外部評価をあらかじめ超えている。だから諸君は、諸君のすれっからしの批評眼にはつまらなく思える作品に出会っても、それに耽溺する誰かの嗜好を批判するべきではない。何歳の時にその物語を体験したかというのは、非常に大きなファクターだと思う。例えば、進撃の巨人で精通を迎える者も確実にいるだろうから。話を戻そう。当たり前のことだが、私は復刻版の装丁が好きではない。使われているフォントの違いや配色のセンスには、言及するまでもないだろう。何より、表紙の絵の構図が縦にせばめられているのが、ひどく気にくわない。オリジナルは騎士の右側にもっとスペースがあり、いよいよ悪魔を追い詰めている(左側、つまり過去へ)感じが伝わってきた。しかしながら、この本が復刻された事実に比べれば、それらは些細なことだ。作者も自虐的にあとがきで言及しているように、この本を手に取るのは旧版を知っている人たちだけなのかもしれない。けれど、30年近い時を経て復刻されたことは、この作品に対する多くの人の深い愛を証明してくれた(余談だが、アマゾンで「魔界の滅亡」を購入するのは不思議な感覚だった)。私もまちがいなく、この作品を愛した一人である。本当に、ありがとう。

マン・オブ・スティール


マン・オブ・スティール


スーパーマンが手錠をかけられ、取り調べを受ける予告編にすごく想像力を刺激されたので、視聴した。しかしながら確認できたのは、予告編を編集した誰かの素晴らしい手腕だけであった。あれっ、最近なんか予告編にすごいワクワクして試聴したら肩すかしを食った映画があったなー、なんだったかなーと思っていたら、エヴァQだった。名前のある数名の登場人物以外はすべて書割りの背景に過ぎず、派手にあちこち舞台が切り変わるにも関わらず、すごくミニマムで閉塞した感じを受ける。異星人の葛藤ばかりに焦点があり、守るべき世界が魅力的に描かれていないため、世界を守る大義は空転し、結果として観客のカタルシスが大幅に減じるという負の構造だ。あれっ、どこかでこんな構造の映画見たことあったなー、なんだったかなーと思っていたら、エヴァQだった。あとザック・スナイダーって、300の印象から絵画的な止め絵を美しく描く監督と思ってたんだけど、今回は画面がゴチャゴチャしている上にアクションが速すぎて、いま目の前で何が行われているのか非常にわかりづらい。CG技術としては凄いのかもしれないが、どの場面もまったく印象に残らない。そして、こういった素人感想にCG技術の専門家が鼻息荒く、「どれだけ大変かわかってないよ! おまえが作ってみろよ! 嫌なら見るなよ!」とか逆ギレのコメントをしそうだ。あれっ、なんか最近、そんな視聴者の感性を罵倒する映画あったよなー、なんだったかなーと思っていたら、エヴァQだった。前回のリブートであるスーパーマン・リターンズは、冒頭の野球場に至るシークエンスや、眼球で弾丸を弾き返すシーン(たぶん、範馬刃牙のゴキブリダッシュで指を折る回から強烈にインスパイアされた)など、彼のヒーローとしての象徴性や凄みをすっきりと効果的に表すことができていた。しかし今回は物語が進行すればするほどますます、CG技術の向上以外は新たな切り口が何も無いことを露呈していき、なぜ再リメイクに至ったのかが全くわからなくなっていく。もうマン・オブ・スティールはこのまま座礁させて、今こそスーパーマン・リターンズ・リブートをこそ制作するべきであろう。そろそろ地球の自転を逆回しにして時間を遡行し、恋人を蘇らせるあの名場面を最新のCG技術で見せていただきたい。あれっ、リブートを繰り返すくせに物語がぜんぜん前に進まなくてイライラするのって、最近何かで体験したよなー、なんだったかなーと思っていたら、エヴァQだった。それと主人公の外見も、これまでのスーパーマン像をわざと外してやるみたいな粗野な雰囲気で、まったく気に食わない。あれっ、最近なんか主人公のキャラデザインが前回までと違っていて気に食わなかった映画があったなー、なんだったかなーと思っていたら、エヴァQだった。感想を書いていて気づいたが、全体的に何から何までエヴァQだった。

スタートレック・イントゥ・ダークネス


スタートレック・イントゥ・ダークネス


なぜスタートレックがこんなにも胸にグッとくるのか考えてみた。もっとも権力を持った人間が、真っ先にもっとも危険な最前線へと向かう。彼の肉体と精神はジェダイの騎士どころではない、ふつうの人間のそれらに過ぎず、衆に秀でたものと言えば知恵と勇気と、たぶん幸運だけ。そして、どれだけ科学技術が進歩しようとも最終決戦の勝敗を決めるのは、己の拳にすべてを賭けた殴りあいである。これを現実に置き換えるならば、オペレーション・ネプチューン・スピアーの陣頭指揮を取る上半身裸のオバマが、「これはアメリカ国民の分!」などと叫びながら、同じく上半身裸のウサマッチョ・ビン・ラーディンの顔面をしたたかに殴りつけるみたいな感じだろう。あと、ベネディクト・カンバーバッチはいつ見てもオスのカマキリみたいな顔してんな、と思った。

グレート・ギャツビー


グレート・ギャツビー


学生時代に小説は読んだはずなのだが、修辞がくどいという印象だけ残っていて、物語として感銘を得たという記憶がない。名作と凡作、嗜好品と普及品を分けるのは「かそけき」差異であって、そのわずかな違いに大きな価値を認められる者にしか届かない。当時の私の鈍かったセンサーが、年齢を重ねることによって鋭敏になったとは言わない。配役から演出から、過剰なまでの(意図的な)下品さが、原作の「かそけき」部分を濃密に煮詰めた結果、私の鈍いセンサーにも届いたということだろう。ディカプリオ目当てでの試聴だったが、グレート・ギャツビーという物語を再発見できたことは大きな収穫だった。そして、ギャツビーの持つ虚像と実像の間を1,000m級のフリーフォールで往復させるギャップ萌えの手腕には、婦女子の股間も大洪水であろう。あと、人として成長できなかった者は神になるというのは、少女保護特区に通じるテーマだな、と思った。なかなかやるじゃないか、フィッツジェラルド君。それにしてもレオ様は、死ぬときは昔からいつも仰向けに水の中へ沈んでいくなあ、と思った。あとこの作品、邦画で言うとヘルター・スケルターよね。現実のディカプリオのキャラを主人公にオーバーラップして読ませる手法がそっくり。