新世紀エヴァンゲリオン14巻
二十年の歳月を経て、エヴァという巨大な虚構のアニメ版と漫画版の結論を分けた要素が、双方の作者に子どもがいるかいないかという事実にのみ由来しているのは、あまりに情けなく腹立たしい。この漫画版では、親子の葛藤を描くのに最も無難な落としどころを見つけており、個人的なトラウマで世界を破壊してはならないという当たり前の普遍性へ至ることに成功している。反対に、劇場版が制作責任者の個人的な生活実態をライブ感で写したがゆえに、前二作から生じていたはずの作品の自走性を完全に殺してしまい、主人公の子どもへ虐待のための虐待を繰り返す、擁護不能の異様なディストピアを露わにしたことは示唆的であろう。エヴァQは、まるで蟹工船みたいだ。創作者の個人的な状況を言うのは批評としてアンフェアだとは思うが、すべてのSF作品は人間原理を超えねばならないという私的な思い込みがどこかにあって、エヴァという作品の持つポテンシャルを己が生例えば、「幼年期の終わり」はSF史上に燦然と輝く傑作であり、もしこれより千年を人類が耐えたとして、作者から完全に切り離された神話として読み継がれることへ疑いはない。アーサー・C・クラークが子を持たず、同性愛者だったかもしれない事実は、「幼年期の終わり」の強度に何ら影響を与えない。活感情へと卑小化し、単なる私小説へと変じたことは決して看過されるべきではない。エヴァの新劇場版には、そうあって欲しかった。もし巻末のEXTRA STAGE(もちろん、nWoへのオマージュに違いない)なる掌編が、カラー原作のお墨付きを得た上で正史として扱われるならば、ループの否定という依怙地の結論をさらに強弁していることになる。それは石女の理論であり、純文学としての評価は期待できるかもしれないが、SFの所作とは何の連絡もない。人間理論を超越し、蟹工船のようではない続編を見ることこそが、いまの私の願いである。
月: 2014年11月
オール・ユー・ニード・イズ・キル
オール・ユー・ニード・イズ・キル
本邦の歴代SF作品すべてをならべてタイトルコンテストを行ったならば、ダントツの最下位は間違いなくこれだろう。中二病マックス、チラシの裏に書いておけ、発案者の正気を疑うレベルのダサさであり、この文字列が網膜に投射されるたび、これの音像が鼓膜をとらえるたび、我が全身は痙攣を抑えるように固くなり、正体の知れぬ恥ずかしさに身悶えを繰り返さねばならぬほどカッコ悪い。ちなみにタイトルコンテスト一位は「百億の昼と千億の夜」である。閑話休題。未見の諸氏は、「日本原作」みたいなキャッチコピーに愛国心を刺激されて小鼻をふくらませてはならぬ。21世紀にクレムリンを爆破することが最高にクールだと考えて、実際に主演映画で爆破してみせる(おそらくサイエントロジーからの啓示)ところの、ぼくたちの疾走するバカa.k.a.トム・クルーズによって、「日本原作」はミキサー大帝のするが如く粉々のミンチにされ、超人パワー=原作のトリックのみが分離して採用されているからだ。本作のトリックを、スペランカーからダークソウルにつながる系譜であるところの所謂「死に覚えゲー」と重ねて、ゲーム的リアリティの表現と読む向きもあるようだが、私はそれに賛成しない。このトリックの本質は時空ループという物語構造そのものであり、まどかマギカをまず言えばあまりに先人たちに失礼だろう、デザイアを代表とする本邦エロゲー業界の秘中の秘、一子相伝のタレなのである。幾度も同じグラフィックを使いまわすことに、初めて物語的な意味付けを与えたシナリオ構造が時空ループであり、低予算をしか持たないが長時間遊ばせないと評価につながらないという、当時のエロゲー業界特有の市場ニーズへ迎合していく中で生み出された、共有財産としての枠組みなのだ。個人的には特許取得可能なぐらいの大発明だと思う。なので、例の魔法少女ものに古参の業界人が複雑な視線を向けるのは、なんとなくわかる気がする。推察するに、閉じた業界の中小企業で共用していた製品の製法をある日突然、国外の大企業が特許申請して、結果莫大な利益を上げていくのを見る感じだろう。法的にはなんら反駁の余地はないが、「えッ、そんなのアリ?」みたいな道徳的義憤を禁じえず、困惑して互いに顔を見合わせているような、そんな空気を当時は感じたものである。話がそれた。この時空のループが長く日本の専売特許であったのは、やはり西洋との宗教観の違いが大きいように思う。仏教における輪廻転生とは、その最終的な段階で輪廻の束縛を離れ涅槃に至り、高次の存在へと解脱することを目的とする。繰り返しのうちに全てのストーリーラインを体験し、トゥルーエンドに至って物語が終焉を迎えるというループ構造は、こういった本邦の死生観ととても良く合致している。エロゲー発であることが大きな理由だろう、本邦においてこの物語類型がすべて少女への恋着を中心に回転していくのに対して、本作では世界の現状を改変することの方に軸足がある。指揮官として戻ってきた主人公による大反攻を予感させる、エンディングの底抜けな明るさがそれを象徴しているように感じた。すべての責任を男性が引受け、少女は死なないし、不幸にもならない。この違いは先の大戦においての現実に対する双方の姿勢を正確に写しとっており、時空ループという一つの物語類型を通じて、諸賢は二つの文化に関する深い洞察を得ることができるだろう。
アメイジング・スパイダーマン2
アメイジング・スパイダーマン2
サム・ライミ版の3と同じく全体的に非常にとっちらかった印象で、わざわざ前三作を無かったことにしてまでリブートした理由はますますわからない。主人公の俳優も相変わらず粗野な見た目で、スパイダーマンというヒーローが抱える苦悩を表現するには不適格だと言わざるを得ない。個人的にサイダーハウス・ルールが大好きなせいもあるが、トビー・マグワイアはピーターの繊細さを表すのにぴったりの配役だったように思う。ヒロインも特に印象に残らない平凡なブロンド不細工で、我らがモンスター女優・キルスティン・ダンスト(ひと睨みで童貞どもを失禁させるあのド迫力!)と比肩するべくもない。近年のヒーロー物の常として、本作も現在の世界情勢とリンクして正義と悪の立ち位置を読ませようとするのだが、愛が憎しみに転じる瞬間に少しだけ引きこまれたものの、その後はご存知、いつものアメコミ展開だった。さらに物語の中盤で恋人を追いかけてロンドンに行くことを決意する場面では、正義による救済の恣意性を露呈するに至るが、おそらくロマンス優先の描写でそこに何の批評的視点も含まれていないことが失望へ拍車をかける。特殊な視聴の仕方だとは思うが、たぶん私は、例えばイスラム国の台頭に対する何らかのアンサーを求めていたのだと思う。しかし、スパイダーマンの能力を持った兵士が仮に現実に存在したとして、世界は決して救済されないことを皆が知ってしまった。そこへ暴力を解放することを非難されない悪、打倒するべき形のある一個の悪を切実に求めるアメリカ的妄想を形にしたのが、そして、取り除けば確実に世界が良くなる何かというファンタジーを描いたのが、今回のスパイダーマンなのだ。「世界の片隅でラジオを聞いている人々」に言及した黒人大統領、それが政治的な覚悟からではなく、スピーチライターの文学的感傷を受けてのものであったことを我々が知った今、米国のブロンドが美麗なCGとスローモーションの果てにひとり死んだところで、観客たちは同情を感じることはないだろう。ある個人に生まれた憎悪が、やがてより大きな場で争いの火種へと転じる。正義の視点を保つ限り不可視の、悪の生じるダイナミズムをこそ描かなければ、彼の国はどんなヒーローを銀幕上で活躍させようと、もはや虚しいばかりである。