猫を起こさないように
月: <span>2014年8月</span>
月: 2014年8月

そして父になる


そして父になる


「でもそんなオヤジのマネ、せんでいいんとちゃうの」。うまい、そしてずるい。「氏より育ち」を肯定するための作品であることは、最初の設定を見た段階でわかっているようなものだ。映画畑の人間は例外なく左翼であり、戦後の民主主義、資本主義下の核家族を完膚無きまでに否定して、本邦の価値観を戦前へ回帰させようと手ぐすねひいている。女が中心の大家族こそが、例え貧しくとも子どもにとって最良の養育環境であり理想的な家族であるとどこかで信じているのだ。社会的アッパーとロウアー、育児に関心の無い父親と子ども中心の生活を送る父親、アッパーは血のつながらない母親を遠ざけ、ロウアーは血のつながらない父親を受け入れてひとつ屋根の下に生活する。同じ経済レベルで、片方がネグレクト、片方がDV家庭なら、監督の計画する結論に落としこむことは不可能だった。淡い演出の下に巧妙に隠されているが、まず結論ありき、まず監督の意図ありきの、極めて濃度の高い作品なのである。息子が歩いている道路へ主人公が自ら合流するところとか、スパイダーマンについて尋ねられて「へえ、知らなかった」と最後に答えるところとか、意味を与えられない台詞や構図、漫然と撮影されたシーンはひとつも存在しない。それはときにあざといレベルにまで達しており、監督が正しいと信じる価値観へ観客を強制的に誘導し続けるが、本編視聴中は筋立ての運びの見事さにそこへ批判的な意識をもたげる態度は完全に封じこめられ、物語へ深く同調させられてしまう。この作品は、半世紀ほど本邦を掻き回し続けてきた、ひとりの論客が死ねば存在が消滅するような、自分の父親との個人的なトラウマが主な理由のフェミニズム論壇をひねり潰し、イクメンなる奇ッ怪の造語を生み出した広告会社の作業チームが進歩的と信じる米国追随の家族イメージへ真っ向から打ちかかり、唐竹割りに路傍へ切り捨てているのだ。さらに、これだけの曲者ぞろいのビッグネームを集めておきながら、樹木希林のいつものしょうもないアドリブをのぞいて、だれ一人として監督の敷いたレールから外れず、彼の意志の内側へしっかりと収められている。テレビ局とか芸能プロダクションが挿入してくる物語へのクチバシを、監督が作品の前に仁王立ちして片ッ端からへし折っている。映画監督とは、作品に関わる内外のすべてを掌握し完全に支配する独裁者であらねばならぬ。「誰も知らない」はnWoオールタイムベストに君臨し続けている。そしていま、日々の生活に苦闘するだれかにとって、是枝作品以外に見るべき邦画は存在しないと断言できる。

大脱出


大脱出


大物アクションスター二人による、超豪華学芸会。筋肉にモノをいわせない理性的でほっそりしたシュワちゃんと、相変わらず口をへの字に曲げて下唇をつきだす演技しかできないスタローン。この二人が刑務所という閉鎖空間で、アクションによらない演技対決を行うというのだから、未視聴の向きにもどんな内容かは容易に想像できるだろう。この大物二人を配した時点で当たり前のことだが、脇役はまさに脇役としてしか存在できず、刑務所ものを面白くする魅力的なサブキャラクターにはわずかの尺を割く余地すらない。映画として面白くなる要素はあらかじめ徹底的に排除されており、まさに脱出不可能の絶望である。かろうじて想像できるのは現場スタッフに漂う異様な緊張感と、本邦で例えるなら渡哲也と高倉健の共演を実現させた監督の大はしゃぎだけだ。逃げられないのはついうっかり映画館に入ってしまった観客であり、映画の終了による閉鎖空間からの脱出をひたすら待つしかない。映画の進行と観客の状況をメタにリンクさせたなら凄まじい脚本と演出だが、私には二人の上腕二頭筋に触りまくる大はしゃぎの監督しか見えない。