猫を起こさないように
月: <span>2014年5月</span>
月: 2014年5月

エンダーのゲーム


エンダーのゲーム


発表から40年近く経つことが信じられないほど未だに新しい、もはやSFの古典と化した大傑作だけに、どう作ったところで原作原理主義者の脳内に蓄積された身勝手なイメージを超えられるわけはなく、不評にさらされることがあらかじめ決まっていた映像化である。しかしながら、正にその原作原理主義者の俺様は、この映画化は大成功であり、まぎれもない傑作だと断言する。視聴後に原作を読み返してみたのだが、相変わらずバーチャルゲーム内の情景描写は何度読んでもピンとこないし、バトルルームでの動きの説明も何度読んでも何がどうなってるのかよくわからない。当時は自分の理解力が低いせいかと読み飛ばしていたのだが、つまりはだれも見たことのない、だれも知らないものを描写するという点で新しすぎたのだと思う。あれから長い年月が経過し、例えば単に「デスク」とだけ表現されていたものが実はiPadのようなデバイスなのだとわかったり、現実の側がようやくこの弩級の想像力に追いついた感がある。40年を待たなければ、映像化は不可能だったのだ。本邦において海外SFの傑作は、その傑作度が高ければ高いほど、一般の認知がますます低くなる傾向にある。なぜなら、自分のネタ元として担保しておきたいあまり、作り手側があえてその喧伝を避けるからである。例えばエヴァンゲリオンは明らかにエンダーのゲームの影響下に作られたし、マクロスフロンティアは明らかにギャラクティカの影響下に作られている。そして、それらをはじめとした日本のアニメーションから本作でのデザイン全般が逆輸入的な影響を受けているのは、相互リスペクトが意図せぬ円環を成しているようで面白い。それにしても、本邦のSF愛好家ほど度量の狭い、偏屈きわまる存在はないだろう。いいものは自分たちのために秘し隠し、身内から出てきた新しいものは徹底的な粗探しをし、攻撃する。世間から一等低いものとして長く差別されてきたがゆえに、「理解されないこと」へ殊更に軸足を置いて、その純度だけを高め続けてきた。結果として、膨大な前提を踏まえなければ楽しむことのできない、センス・オブ・ワンダーとは真逆の袋小路へとたどり着いてしまっている。もっと知的ガードを下げて、衒学趣味は放り投げて、少々脇が甘かろうと誰にでも「理解される」物語を語る方向へと進むべきだったのに。海外におけるSFドラマの隆盛の理由は、被差別民がいっそうに己をやつすことで聖なる不可触へは“進まなかった”という、本邦とは真逆の一点に尽きる。ジャニタレの学生恋愛劇や結婚以前の腐女子へ媚びるドラマがテレビを席捲している事実へ、貴様らSF愛好家は客観的な批評を加える立場にはないことを理解せよ。センス・オブ・ワンダーを啓蒙する柔らかなSFをすべてフニャ子フニャ夫エフ先生に丸投げして、矮小なプライドの砦へ遁走し引きこもったこの数十年を貴様らは恥じるべきである。閑話休題。本作は原作を踏まえながらも、原作を知らない層に向けて制作されているように思う。そしてディズニーがこれを作ったということに、欧米でのSFなるものの位置づけと、その文化を次世代へ継承していくことへの意思を強く感じさせる。個人的には、エンダー役の少年に感銘を受けた。彼は、私の脳内に蓄積されていた身勝手なエンダーのイメージそのものであった。意図せず知的生命体のジェノサイドへ加担してしまった主人公の贖罪の物語、それは次作「死者の代弁者」で完結を見る。この傑作が間を置かず、続けて映画化されることを切に願う。え、死者の代弁者って絶版なの? 世界の皆様、身悶えするほどにお恥ずかしい……ご高覧あれ、これが本邦のサイエンス・フィクションの惨憺たる現状でございます……!!

ゼロ・グラビティ


ゼロ・グラビティ


ようやくゼロ・グラビティ見たんだけど、ネットでの評判とか7部門受賞とか、さんざんハードル上がってたせいも大きいと思うんだけど、びっくりするほどおもしろくなかった。オープンウォーターとか、パラノーマル・アクティビティとか、ディセントとか、リミットとか、若手監督の低予算シュチュエーション映画と同じ路線の脚本なのに、なまじ映像に予算かかってるのがわかるもんだから、メリットだけ手放してどうすんだよって思った。もっと本当に無重力の暗闇を遊泳するだけで、地上との会話劇とかで90分持たすと思ってたら、宇宙ステーションとか家族のトラウマとか入ってきて、一気に冷めてしまった。昔のSFが好きなので、宇宙までくんだりきてヒューマンドラマとかトラウマ解消とかやる作品はぜんぶ消滅しろって思う。木星だかまで行っときながら「愛しあうことだけはやめられない」とかゆう寝ぼけた台詞の見開きにカッとなって、他に言うことねえのか、殺すぞって、単行本を老婆の処女膜のようにビリビリに引き裂いたあの怒りは、昨日のことのように鮮明に思い出すことができる。プラネテスや宇宙兄弟より、私がだんぜん度胸星の方を好きなのはそういう理由なのだった。へうげものが国営放送の大河ドラマに採用されれば、いい加減、先生も満足して宇宙に戻ってくると思うので、そろそろ国営放送は本気を出しなさい。

ランス9


ランス9


80年代後半から90年代前半にかけてが、和製ファンタジーの全盛期だったように思う。それらの物語は大きく二つに分けることができる。主人公を中心に異世界の歴史を編年記として描くものと、主人公が世界の成り立ち自体に深い関わりを持ち、その謎の解決とストーリーの展開がリンクするものだ。残念なことに、スレイヤーズ!はシリーズの半ばから世界の謎の深奥へは迫らないことを決めてしまった。現実の世界史の固有名詞を置き換えただけのような物語には、元より興味は無い。さて、ランスシリーズである。ヴァリスが会社ごと消滅し、ドラゴンナイトはエロゲーからの脱却に失敗して頓挫し、イースはいつしか物語ることを止めてアクションゲームとなり、英雄伝説はいつまでも同じ場所で牛歩とも言えない足踏みを続けている。そして、ただただ会社や作家が食べていくためだけの理由で、終わることを許されなくなった多くの物語たち。そんな中で、様々にプラットフォームを変えながら、ゲームジャンルにさえ囚われず、ただ一つの物語を物語るという一点のみをよすがに、ここまでたどりついた製作者の執念に敬意を覚える。このシリーズは主人公の造形を含めて、イースシリーズに対する極めて自覚的かつ露悪的なパロディとしてスタートしたと理解している。本家は複数の同一ナンバーやオンライン化など迷走を重ね、初期設定にあった大帝国とアドルの直接的な対立へ物語が至ることなど、もはや望むべくもない状態である。一方で、ランスシリーズはエロゲーという鬼子的出自を逆手にとった破天荒のストーリーテリングで、四半世紀をかけ、ついに一介の冒険者を大軍事帝国の革命へとたどりつかせた。私はこの事実に、胸を突くような哀切にも似た、深い感動を覚える。シミュレーションとしての出来を云々する向きもあるようだが、私にとってこのシリーズは、もはやゲームとして批評する段階を超えてしまっている。この作品は、年齢制限を伴った数あるゲーム群の一つどころではない、かつて市場のニーズを失い、世の片隅にガラクタとして放擲された、一つの物語類型の眩いばかりのよみがえりであり、最後の輝きなのだ。すべてのお膳立ては整った。次作ではいよいよ、世界がかくあるという謎にひとりの人間がどう立ち向かうかが描かれるだろう。多くの和製ファンタジーがそれぞれの理由で頓挫させてきた究極の命題へ、正面から向き合おうとしているのだ。それがどんな内容であろうとも、私はある時代の生き残りとして、この物語の最期を見届けたい。