魔界の滅亡
指輪物語を読む前、私の中でファンタジーの極北に位置していたのは、ドルアーガシリーズだった。「悪魔に魅せられし者」「魔宮の勇者たち」は、それこそ表紙が擦り切れるまで遊んだ。普通の文庫本の見かけで文字サイズも小さく、子供心にすごく大人の本を読んでいる感じがした。母親も普通の小説を読んでいると勘違いしていたようだ。(というのも以前、「ドルアーガの塔外伝」という明らかに児童向けの装丁のゲームブックを、ずっと手放さずに読んでいたからだ)。赤い背表紙を最高にカッコイイと思い、ブックカバーをかけようなんて少しも考えなかった。奥付の「東京創元社」という意味のわからない文字列も、ひどく謎めいて神秘的に感じられた。今でさえ私の中で、「東京」という単語の持つイメージは赤い背表紙の文庫本と、東京創元社の社名に紐付けられている。天辺の断ち切りの凹凸に指の腹を滑らせる感触が好きだったし、開いたページに鼻を突っこんでよく紙とインクのにおいを嗅いだものだ。ドルアーガシリーズ三部作の完結編は本当に待ち遠しく、当時は新刊の発売日を調べることさえしなかった(当然、ネットも無かった)から、学校帰りに毎日、駅前の書店へ自転車で通った。発売日のことを覚えている。平積みではなかったように思う。赤い背表紙に白抜きで「魔界の滅亡」と書いてあった。ドルアーガシリーズの併記は無かったにも関わらず、私はそれが待ち望んだ一冊であることがわかった。あの頃は誰が書いた本かなんて意識もしなかったのに、もしかすると鈴木直人の名前を覚えていたのかもしれない。手に取ると、ひどく分厚かった。表紙に描かれた巨大な悪魔と細身の騎士を見て、痺れるような高揚を味わった。私がこの悪魔を殺すことで、魔界は滅亡するのだ! 消費税はまだ導入されておらず、自販機のジュースが100円だった時代だ。小走りに駆け込んだレジで告げられたのは、680円。手持ちは600円ちょうど。「魔宮の勇者たち」が550円だったからだ。黙って本を元の棚へ戻すと、私は家へと急いだ。足りない分を取りに帰るためだ。家に着いたときには、もう5時を回っていただろうか。私の常にはめずらしく、母親の強い制止(ヒステリックな怒鳴り声の)をふりきって、再び書店へと向う。周囲はすでに薄暗く、街灯がともりはじめていた。あのドルアーガシリーズの完結編を手に入れられるという興奮と、親の言うことを聞かなかったことへの後悔と罪悪感、そして夜の街頭の様子への不安がないまぜになり、ある感覚の塊として自転車をこぐ膝頭の当たりから太ももの内側を伝って腰の方へ上がってきたのを覚えている。突如、全身をえもいわれぬ快感が訪れる。それは脳天からつま先までをしばし満たした後、眼前にテレビの砂嵐のようなチカチカとした残像を残して、消えた。いまふりかえれば、あれが私の精通だったのかもしれない。そうして手に入れた「魔界の滅亡」はやはり擦り切れるまで読まれ、未だに私の手元に置かれている。知識や経験ははるかに乏しく、感受性のみで世界を理解していた時代に、あらゆるアナログ的肉体感覚と直結したがゆえの至高のファンタジー、それが「魔界の滅亡」なのだ。その時代に享受した物語は、すべての外部評価をあらかじめ超えている。だから諸君は、諸君のすれっからしの批評眼にはつまらなく思える作品に出会っても、それに耽溺する誰かの嗜好を批判するべきではない。何歳の時にその物語を体験したかというのは、非常に大きなファクターだと思う。例えば、進撃の巨人で精通を迎える者も確実にいるだろうから。話を戻そう。当たり前のことだが、私は復刻版の装丁が好きではない。使われているフォントの違いや配色のセンスには、言及するまでもないだろう。何より、表紙の絵の構図が縦にせばめられているのが、ひどく気にくわない。オリジナルは騎士の右側にもっとスペースがあり、いよいよ悪魔を追い詰めている(左側、つまり過去へ)感じが伝わってきた。しかしながら、この本が復刻された事実に比べれば、それらは些細なことだ。作者も自虐的にあとがきで言及しているように、この本を手に取るのは旧版を知っている人たちだけなのかもしれない。けれど、30年近い時を経て復刻されたことは、この作品に対する多くの人の深い愛を証明してくれた(余談だが、アマゾンで「魔界の滅亡」を購入するのは不思議な感覚だった)。私もまちがいなく、この作品を愛した一人である。本当に、ありがとう。