猫を起こさないように
月: <span>2014年3月</span>
月: 2014年3月

めんまへの手紙


めんまへの手紙


貴様らがあんまり泣ける泣けるうるさいから、さめだ小判氏のアナル・オブ・ザ・デッドの知識しかないテレビ版未見の俺様は、この度ようやく劇場版を試聴する機会を持った。前半のビルドアップは、キャラ名しか知らない身にとってかなり興味をそそられる展開だった。しかしながら、ストーリーの後半に進むにしたがって、幾度か小休止を挟まないと試聴を進めることは困難となった。西野カナの主題歌の時点でイヤな予感はあったが、ただでさえギトギトの豚骨ラーメンへ、食べる端から店主が柄杓で背脂を足してくるみたいな怒涛の泣かせ演出は、すれっからしの物語乞食の忍耐の閾値をさえ軽々と越えてきたからだ。この異様にプッシングな泣かせのやり口は、ゼロ年代前半に大流行したセカチュー系難病ものを彷彿とさせ(そう言えばセカチュー映画版も回想形式だった)、制作側がなぜアニメと親和性の低そうな西野カナをわざわざ主題歌にひっぱってきたのかだけは、とても腑に落ちた。ネットで評判のいい実写映画はその口コミと主観にズレが生じることはあまりないが、ことアニメとなるとネット評はまったく当てにならないとの自戒を新たにさせられた次第である。もちろん、セカチュー系の感動を求める層は常に一定数いるだろうし、今回の空振りをアニメであることを理由にするのはアンフェアかもしれない。今回の俺様はセックスに例えれば、前戯のあまりの執拗さに性器はひりつき、しまいに熱をもって痛みだし、挿入したかどうかのところで中折れとなって、射精に至ることはできなかった。日常的に物語に接さない一般層はここまでねちっこくやらないと泣けないのだろうが、徹頭徹尾くどい感動の演出に負けてしまって、乗せられようと努力はしたが、まったく入れなかったのだ。死んだ者の無念へ想いをはせることと、その理不尽な死へ生きる者がどう折り合いをつけるかというテーマは極めて今日的で素晴らしいと思うだけに、非常に残念である。個人的なことを言えば、子どもというのは直面した「死」を徹底的に封印するものである。それは忘却どころではなく、ちょうど心の一隅に虚の黒いスポットが生じるようなもので、そこへのあらゆる投げかけは一切が無効化されてしまう。不条理な死を経験した子どもが、こんなふうに多量の涙を流して大声で泣いて、きれいな弔いですべてを清算できれば、どれほど救われるだろうか。

ペルソナ4ザ・ゴールデン


ペルソナ4ザ・ゴールデン


ペルソナシリーズは罪までをプレイして、「これは私のためには作られていない」と感じ、ずっと遠ざかっていた。アイギスという名詞を提示されて「オーヤマ?」と返すくらいのペルソナ隠遁ぶりである。しかしながら、大きなプロジェクトを終えたばかりのスイーツな俺様は、がんばった自分へのご褒美として本作を本体ごと購入し、このたびプレイしてみた。結果、非常な感銘を受けた。西洋のゲームがひたすらに3Dを指向し、プレイアブル・ムービーとなっていったのに対し、本邦ネイティブのゲームはひたすらに2Dを指向し、プレイアブル・アニメーションとなっていったことは改めて指摘するまでもない。その意味で、ペルソナ4と真に並列して語られるべき相手は、実のところスカイリムである。洋の東西の文化比較として、これほどの好対照はなかなか見られないように思う。ギリシャ・ローマへ端を発した彫刻文化は本邦には根ざさず、鳥獣戯画や浮世絵が特異なオリジナルとして西洋を驚かせたまさにその瞬間から、両者は決定的に袂を分かち、スカイリムとペルソナ4へ向けて歩み出したのだ。大陸の広大さを享受した誰かは、神の御業を寸分も歪めずそのまま落とし込むことのできる3Dへと向かい、島国の狭さに生きて神を知らない誰かは、自らの理想と欲望をその歪みのままに落とし込める2Dへと向かった。ゲームとしての面白さはさて置くとして、スカイリムとペルソナ4は、それぞれの進化の終着点に鎮座する偉大なイコンであることは疑いがない。両者の市場規模はいまや著しく乖離し、傍目には勝負にさえなっていないのかもしれないが、なァに、我々は再び島国の内側に引きこもり、西洋の文化なんて知らなかったときのように、我々だけがその価値を知る宝としてこれを愛でればよい。ただひとつ、どうしても夢想することをやめられない。PC-FXが次世代機の覇権争いに勝利し、その後継機の世界同時発売のキラータイトルがペルソナ4であったような未来を。それはもしかすると、あり得たかもしれない並行宇宙のひとつだ。あと、日本のアニメ文化こそがこの作品を作ったみたいな言い方、違うよ! 「雫」プラス「ときメモ」、イコール「ペルソナ4」だよ! ノベルゲーとギャルゲーのケッコンカッコカリだよ!

魔界の滅亡


魔界の滅亡


指輪物語を読む前、私の中でファンタジーの極北に位置していたのは、ドルアーガシリーズだった。「悪魔に魅せられし者」「魔宮の勇者たち」は、それこそ表紙が擦り切れるまで遊んだ。普通の文庫本の見かけで文字サイズも小さく、子供心にすごく大人の本を読んでいる感じがした。母親も普通の小説を読んでいると勘違いしていたようだ。(というのも以前、「ドルアーガの塔外伝」という明らかに児童向けの装丁のゲームブックを、ずっと手放さずに読んでいたからだ)。赤い背表紙を最高にカッコイイと思い、ブックカバーをかけようなんて少しも考えなかった。奥付の「東京創元社」という意味のわからない文字列も、ひどく謎めいて神秘的に感じられた。今でさえ私の中で、「東京」という単語の持つイメージは赤い背表紙の文庫本と、東京創元社の社名に紐付けられている。天辺の断ち切りの凹凸に指の腹を滑らせる感触が好きだったし、開いたページに鼻を突っこんでよく紙とインクのにおいを嗅いだものだ。ドルアーガシリーズ三部作の完結編は本当に待ち遠しく、当時は新刊の発売日を調べることさえしなかった(当然、ネットも無かった)から、学校帰りに毎日、駅前の書店へ自転車で通った。発売日のことを覚えている。平積みではなかったように思う。赤い背表紙に白抜きで「魔界の滅亡」と書いてあった。ドルアーガシリーズの併記は無かったにも関わらず、私はそれが待ち望んだ一冊であることがわかった。あの頃は誰が書いた本かなんて意識もしなかったのに、もしかすると鈴木直人の名前を覚えていたのかもしれない。手に取ると、ひどく分厚かった。表紙に描かれた巨大な悪魔と細身の騎士を見て、痺れるような高揚を味わった。私がこの悪魔を殺すことで、魔界は滅亡するのだ! 消費税はまだ導入されておらず、自販機のジュースが100円だった時代だ。小走りに駆け込んだレジで告げられたのは、680円。手持ちは600円ちょうど。「魔宮の勇者たち」が550円だったからだ。黙って本を元の棚へ戻すと、私は家へと急いだ。足りない分を取りに帰るためだ。家に着いたときには、もう5時を回っていただろうか。私の常にはめずらしく、母親の強い制止(ヒステリックな怒鳴り声の)をふりきって、再び書店へと向う。周囲はすでに薄暗く、街灯がともりはじめていた。あのドルアーガシリーズの完結編を手に入れられるという興奮と、親の言うことを聞かなかったことへの後悔と罪悪感、そして夜の街頭の様子への不安がないまぜになり、ある感覚の塊として自転車をこぐ膝頭の当たりから太ももの内側を伝って腰の方へ上がってきたのを覚えている。突如、全身をえもいわれぬ快感が訪れる。それは脳天からつま先までをしばし満たした後、眼前にテレビの砂嵐のようなチカチカとした残像を残して、消えた。いまふりかえれば、あれが私の精通だったのかもしれない。そうして手に入れた「魔界の滅亡」はやはり擦り切れるまで読まれ、未だに私の手元に置かれている。知識や経験ははるかに乏しく、感受性のみで世界を理解していた時代に、あらゆるアナログ的肉体感覚と直結したがゆえの至高のファンタジー、それが「魔界の滅亡」なのだ。その時代に享受した物語は、すべての外部評価をあらかじめ超えている。だから諸君は、諸君のすれっからしの批評眼にはつまらなく思える作品に出会っても、それに耽溺する誰かの嗜好を批判するべきではない。何歳の時にその物語を体験したかというのは、非常に大きなファクターだと思う。例えば、進撃の巨人で精通を迎える者も確実にいるだろうから。話を戻そう。当たり前のことだが、私は復刻版の装丁が好きではない。使われているフォントの違いや配色のセンスには、言及するまでもないだろう。何より、表紙の絵の構図が縦にせばめられているのが、ひどく気にくわない。オリジナルは騎士の右側にもっとスペースがあり、いよいよ悪魔を追い詰めている(左側、つまり過去へ)感じが伝わってきた。しかしながら、この本が復刻された事実に比べれば、それらは些細なことだ。作者も自虐的にあとがきで言及しているように、この本を手に取るのは旧版を知っている人たちだけなのかもしれない。けれど、30年近い時を経て復刻されたことは、この作品に対する多くの人の深い愛を証明してくれた(余談だが、アマゾンで「魔界の滅亡」を購入するのは不思議な感覚だった)。私もまちがいなく、この作品を愛した一人である。本当に、ありがとう。