猫を起こさないように
月: <span>2014年2月</span>
月: 2014年2月

マン・オブ・スティール


マン・オブ・スティール


スーパーマンが手錠をかけられ、取り調べを受ける予告編にすごく想像力を刺激されたので、視聴した。しかしながら確認できたのは、予告編を編集した誰かの素晴らしい手腕だけであった。あれっ、最近なんか予告編にすごいワクワクして試聴したら肩すかしを食った映画があったなー、なんだったかなーと思っていたら、エヴァQだった。名前のある数名の登場人物以外はすべて書割りの背景に過ぎず、派手にあちこち舞台が切り変わるにも関わらず、すごくミニマムで閉塞した感じを受ける。異星人の葛藤ばかりに焦点があり、守るべき世界が魅力的に描かれていないため、世界を守る大義は空転し、結果として観客のカタルシスが大幅に減じるという負の構造だ。あれっ、どこかでこんな構造の映画見たことあったなー、なんだったかなーと思っていたら、エヴァQだった。あとザック・スナイダーって、300の印象から絵画的な止め絵を美しく描く監督と思ってたんだけど、今回は画面がゴチャゴチャしている上にアクションが速すぎて、いま目の前で何が行われているのか非常にわかりづらい。CG技術としては凄いのかもしれないが、どの場面もまったく印象に残らない。そして、こういった素人感想にCG技術の専門家が鼻息荒く、「どれだけ大変かわかってないよ! おまえが作ってみろよ! 嫌なら見るなよ!」とか逆ギレのコメントをしそうだ。あれっ、なんか最近、そんな視聴者の感性を罵倒する映画あったよなー、なんだったかなーと思っていたら、エヴァQだった。前回のリブートであるスーパーマン・リターンズは、冒頭の野球場に至るシークエンスや、眼球で弾丸を弾き返すシーン(たぶん、範馬刃牙のゴキブリダッシュで指を折る回から強烈にインスパイアされた)など、彼のヒーローとしての象徴性や凄みをすっきりと効果的に表すことができていた。しかし今回は物語が進行すればするほどますます、CG技術の向上以外は新たな切り口が何も無いことを露呈していき、なぜ再リメイクに至ったのかが全くわからなくなっていく。もうマン・オブ・スティールはこのまま座礁させて、今こそスーパーマン・リターンズ・リブートをこそ制作するべきであろう。そろそろ地球の自転を逆回しにして時間を遡行し、恋人を蘇らせるあの名場面を最新のCG技術で見せていただきたい。あれっ、リブートを繰り返すくせに物語がぜんぜん前に進まなくてイライラするのって、最近何かで体験したよなー、なんだったかなーと思っていたら、エヴァQだった。それと主人公の外見も、これまでのスーパーマン像をわざと外してやるみたいな粗野な雰囲気で、まったく気に食わない。あれっ、最近なんか主人公のキャラデザインが前回までと違っていて気に食わなかった映画があったなー、なんだったかなーと思っていたら、エヴァQだった。感想を書いていて気づいたが、全体的に何から何までエヴァQだった。

スタートレック・イントゥ・ダークネス


スタートレック・イントゥ・ダークネス


なぜスタートレックがこんなにも胸にグッとくるのか考えてみた。もっとも権力を持った人間が、真っ先にもっとも危険な最前線へと向かう。彼の肉体と精神はジェダイの騎士どころではない、ふつうの人間のそれらに過ぎず、衆に秀でたものと言えば知恵と勇気と、たぶん幸運だけ。そして、どれだけ科学技術が進歩しようとも最終決戦の勝敗を決めるのは、己の拳にすべてを賭けた殴りあいである。これを現実に置き換えるならば、オペレーション・ネプチューン・スピアーの陣頭指揮を取る上半身裸のオバマが、「これはアメリカ国民の分!」などと叫びながら、同じく上半身裸のウサマッチョ・ビン・ラーディンの顔面をしたたかに殴りつけるみたいな感じだろう。あと、ベネディクト・カンバーバッチはいつ見てもオスのカマキリみたいな顔してんな、と思った。

グレート・ギャツビー


グレート・ギャツビー


学生時代に小説は読んだはずなのだが、修辞がくどいという印象だけ残っていて、物語として感銘を得たという記憶がない。名作と凡作、嗜好品と普及品を分けるのは「かそけき」差異であって、そのわずかな違いに大きな価値を認められる者にしか届かない。当時の私の鈍かったセンサーが、年齢を重ねることによって鋭敏になったとは言わない。配役から演出から、過剰なまでの(意図的な)下品さが、原作の「かそけき」部分を濃密に煮詰めた結果、私の鈍いセンサーにも届いたということだろう。ディカプリオ目当てでの試聴だったが、グレート・ギャツビーという物語を再発見できたことは大きな収穫だった。そして、ギャツビーの持つ虚像と実像の間を1,000m級のフリーフォールで往復させるギャップ萌えの手腕には、婦女子の股間も大洪水であろう。あと、人として成長できなかった者は神になるというのは、少女保護特区に通じるテーマだな、と思った。なかなかやるじゃないか、フィッツジェラルド君。それにしてもレオ様は、死ぬときは昔からいつも仰向けに水の中へ沈んでいくなあ、と思った。あとこの作品、邦画で言うとヘルター・スケルターよね。現実のディカプリオのキャラを主人公にオーバーラップして読ませる手法がそっくり。

ルーパー


ルーパー


SF版「ザ・バンク」。物語の前半、あれだけ丁寧に世界観をビルドアップしておきながら、そのすべてをことごとく放棄した後半のソープ・オペラ的展開に唖然とさせられる。ブルース・ウィリスをキャスティングしたせいで撮影途中に制作費が無くなって、外部からの資金を受け入れる代わりに監督が制作の主導権を手放したみたいな裏事情を読み取らざるを得ない。「(脂の浮いたデブが提示された脚本を斜め読みしながら)ライアンちゃんさあ、気持ちはわかるけどさあ、いまどきSFなんかじゃ客は入らないわけよ。この話に足りないのはヒロインじゃない? 昼は聖女で夜は娼婦な、銃を持った経産婦とのファックがみんな見たいのよ。そして、障害を持った子どもへの愛情と家族の絆! 観客が求めているのはズバリこれよ。ライアンちゃん、君もそろそろメジャーになりたい時期だろ? わかったら、明日までに脚本なおしといて。じゃ、エミリー、焼き肉(的な、アメリカでの何か)行こうか」。主人公が死亡した瞬間に場面が巻き戻るシーンや、時間旅行に絡めた拷問のアイデアには本当にワクワクさせられたし、ある段階まではループ物の佳作としてSF愛好家に細々と語り継がれる可能性すら秘めた作品だったのに、この資本主義のブタと売春婦めが(あなたの想像です)! あと、乖離した二つの物語の接ぎ木ぶりへの落胆、それが愛するSFであるがゆえの更なるひどい落胆、なんか体験したことあったなー、なんだったかなーと思ったら、エヴァQだった。