レ・ミゼラブル
久々のサシャ・バロン・コーエン出演作ということで期待に胸を膨らませながら視聴を開始したが、結果としてロリコンのおっさんが二時間半、めそめそ歌ってるだけの映画でガックリした。それにしてもフランスはいつの時代も極左の権化みたいな国で、年寄りは生きにくいだろうな、と思った。
年: 2013年
真・女神転生4
真・女神転生4
多くの人間にとっての人生は、両親の与えた初源の規律に忠実であるか、それに逆らって徹底的な抗戦を行うか、この二者択一のいずれを選んだかによって決められているように思う。すなわち、すべてが既知の繰り返しである穏やかな鬱を生きるか、身内に宿った規律ごと己を破壊し続ける苛烈な躁を生きるかの選択であり、西洋の神と悪魔の概念は結局のところ、人のするこれらのふるまいへの物語的な理由づけに過ぎない。一神教の世界では、かつての神と同化するか、それを否定して逆位相の新たな神――かつての神からは悪魔と呼ばれる――になるかしか選択肢が与えられておらず、ゆえにどこまで生きても彼らに救いは存在しない。そんな無限地獄の対立構造に第三の道を与えたのが、真•女神転生シリーズ(3はのぞく)なのだ。養育者を無謬の存在として高く高く捧げていけば、それはやがて神の高みへと達してしまう。かつての神を否定しないまま対等の存在としてそれに並立し、二柱の神々がもし並立できるのならば、神はやがて人となり得ることを示した。神と悪魔よりも高い位相に「人」を位置づけるというこの思想は、現代が罹患した多くの問題に解決の道を与えてくれる。天才の閃きによる無意識の到達だとしても、これはゲームというメディアを通じてしか提起し得ないメッセージであり、多神教の背景を持つ本邦だけに生み出すことがゆるされた救済の物語、西洋文明への巨大なジンテーゼとして未だにそびえ続けている。真•女神転生(3はのぞく)はまさにJRPGの精髄としてその極北に位置しており、このシリーズを生むためだけに日本のロールプレイングゲームはその存在があったのだと言っても、決して過言だとは思わない。閑話休題。全体的な昭和の雰囲気に、ずっとファミコンのゲームをしている気分だった。日曜の午後、陽光差し込む団地の窓から布団を叩く音が聞こえる中で、微睡むようにゲームをしていたあの頃が、もしかすると私の人生において最も幸福に近かったのかもしれない。
アルゴ
アルゴ
政治的な受賞との批判を聞いていたので、シリアナみたいな映画を想像していたら、現実を舞台にしながらも徹頭徹尾のエンターテイメント路線でびっくりした。外野が勘ぐるほど、このご時勢に中東を題材としたことはさして重要ではないと思う。おそらく監督をもっとも引きつけたのは、幼い頃に愛したB級フィクション、一等低いものとみなされていたSF映画が、現実の最も深刻な問題を実際に解決へと導いたという構図そのものではないか。それは例えば我々にとって、半島北部のアブダクションをエロゲーや萌えアニメの制作が解決へ導いたぐらいの、センス・オブ・ワンダーに満ちたモチーフだったに違いない。虚構を愛するものは、いつだってそれが現実に勝ることを夢見ているのだから。
トラブル・ウィズ・ザ・カーブ
トラブル・ウィズ・ザ・カーブ
父娘の典型的なトラウマ劇にベースボールで風味づけをし、終盤は怒涛のご都合展開。偶然モーテルの前でキャッチボールをしている超高校級の投手には、悪い意味で度肝を抜かれた。クリント・イーストウッドをわざわざ俳優へ引っ張り戻してまで撮る意味のある内容かと言えば、はなはだ疑問に感じざるを得ない。しかしながら宣伝効果だけは抜群であり、彼をキャスティングできたことが監督の最大の手腕と言えよう。それにしても、またもや珍妙な邦題である。有難い舶来の活動写真をアホな大衆にも届きやすいよう咀嚼して、啓蒙のために下賜するみたいな大時代の広報体質から、配給会社とその周辺が抜け出せていないんだろうな、と思った。
ダヴィンチ・コード
ダヴィンチ・コード
ブームが去ってからしかヒット作に触れられない、重篤の高二病罹患者がようやく本作を視聴した。二千年の継続を全く実感させない、サリカ法をガン無視したまさかのヒロイン=キリスト末裔認定に「やったッ!! さすがアメリカさん! 万世一系の皇統を戴くおれたちには決して真似できないことを平然とやってのけるッ! そこにシビれる! あこがれるゥ!」とは叫ばずに、ただあきれかえった。また、ヒロインの弟を死亡させる原作改変に「はい今死んだ、今キリストの血脈完全に死んだよ!」とは叫ばずに、ただあきれかえった。同一の染色体をどこまで過去へ遡及できるかという単純に生物学的な問題へ、政治やフェミニズムを絡めて貶そうとする心根に、ただあきれかえった。
ファンタスティック・ミスター・フォックス
ファンタスティック・ミスター・フォックス
本邦のサブカルチャーが提供するフィクションは、母親から精神的な虐待を受けた美少女を主人公へ依存させるか、父親から性的な虐待を受けた美少年を主人公へ依存させるかの、いずれかへと大分される。必要なのは依存者の持つトラウマ描写のみで、主人公の成長に触れる必要は全くない。意識的にせよ無意識的にせよ、世俗の本流から外れることを選んだ誰かは、疑いなく生育の過程で負った精神的外傷にそれを強いられている。そして、自らの傷をセックスの対象へと投射し続ける作業に創作と名付けて金銭を得られるほどに、我が国のサブカルチャーの裾野は広い。ダージリン急行のときにも書いたが、ウェス・アンダーソンは宗教でも心理学でもないアプローチから救済の物語を紡ぎだす。己のトラウマから汲まないフィクションが持つ強靭さに、私はもう、ただただ恥じ入るばかりである。
ディクテーター
ディクテーター
年を重ねるほどに気難しくなり、人類全般へ共通するお涙頂戴に弱くはなれど、こと笑いに関しては徹底的に不感症になっていく。それが横隔膜を痙攣させての、久しぶりの大笑いである。笑いというのは突き詰めるほどに文化的な差異の部分へ面白さを依拠するようになるといつか書いたが、正にその極北に位置する、極端に受け手を選ぶ作品だとは思う。しかしながら、アメリカ社会の抱えるあらゆるタブーへ片ッ端から無差別に触れていきつつも、最後にはハリウッド的恋愛映画のフォーマットへ落としこむという構成には、嫉妬さえ感じる。この類のコメディを見るたびに思うのは、なぜ本邦の芸人が誰一人としてこの境地に至らないのかということである。本邦はタブーの多さでいうならば米国に負けずとも劣らないのだから、大陸や半島や琉球やメディアを揶揄したこれと同じレベルのフィクションが、芸人サイドより上梓されて然るべきなのだ。現状はと言えば、世間に認められないことを恐れ、権威に無視されることを恐れ、芸人たちは市民感情やお上品な芸術へすりよることに汲々とするばかりだ。サシャ・バロン・コーエンの無冠は、誰もが目をそむけたい事実をつきつけ、その結果生じる大衆の無視や罵倒を恐れない信念の証明であり、彼はその事実によってすでに戴冠していると言える。ことコメディアンに関して、本邦は米国に百年の後塵を拝していよう。真実を語る政治家が身の危険を吐露し、当の芸人はお軽い映画で政治家を志向する。本当に情けなく、くちおしい。
桐島、部活やめるってよ
桐島、部活やめるってよ
この映画のクオリティの高さを担保する最大の要素は、その風貌を見た瞬間に彼らがスクールカーストのどこに位置しているかがわかるという、キャスティングの完璧さだろう。その完璧なキャスティングを下敷きに、スクールカーストのあらゆる層に対して冷徹なまでに中立的にカメラを向けた映像が、息を飲むほどの完全さを保った構成で一糸乱れず進行していく。しかし、それが最後の最後で大きく崩れてしまうのは、リア充と呼ばれる人間たちよりも実はおたくたちの方が充実しているんだよという、かすかなほのめかしを行なってしまったせいだろう。何でもできるがゆえに何も選べないスーパーマンが、カメラを向けられたことで自分の中にある空虚に気がつく。その気づきは、同じスーパーマンでありながらひとつを選ぶことのできた誰かの崩壊を前提としていた。あのシーンが何者にもなれないことを自覚しながら充足している誰かと、何者になるかを選択できずに満たされない誰かの対比というのは理解する。けれど、撮影側が少し溜飲を下げている感じが伝わってきてしまうのがよくない。この映画に激賞が多く見られるのも、結局、エインターテイメント界隈へ漂着するのはスクールカーストの最下層にいた者たちで、やはりラストシーンに溜飲を下げたというのが大きいんじゃないのと、勘ぐってしまう。かつて自分が被差別側にいた身分制度があったけど、それは時限的なものに過ぎなくて、そこでの優劣なんて何の根拠もないんだよ、という裏メッセージに全力で同調することでかつての復讐に代えているというか。でも、まあ、ちょっと強くおたく礼賛臭のしたラストをまぜっかえしたくなったからのコメントであり、全体としては誰もが見るべき素晴らしい青春群像劇に仕上がっています。冒頭のキャスティングを含めて、大マスコミの大資本が制作に絡まなかったことが、この作品が傑作になるのを許したのでしょう。日本アカデミー賞なんていう、正気を疑うネーミングの田吾作賞は、この映画の素晴らしさに何も付け加えることができません。河原芸人のクリエイティブを権威様が札束で横ツラ叩いて追認してやってるみたいな構図には、さすがに少しイラッとしますけど。
桐島、追記するってよ。つらつらとネトーサフィーンするに、桐島を頂点としたスクールカーストの崩壊という見方が結構多いのに驚く。これこそ、スクールカーストの最底辺にいた誰かの願望、あるいは勃起不全を抱えた中年の妄言ではないか。まず、スクールカーストが何かを定義しよう。それは洋の東西を問わず、最も卵子の数が多く最も精子の量が多い時代の、セックスアピールを絶対基準としたヒエラルキーのことだ。作中、映画部の面々は言動ぎこちなく、空気の読めない存在として描かれる。セックスを求める本能が達成されないことに薄々気づいており、それを理性で抑圧しようとしているからだろう。象徴的なのは、神木君の演じる映画部の部員が廊下を走るシーンである。物語の後半で、バスケ部の部員たちが屋上へと走るシーンと比べてみて欲しい。自分の身体を自分のものとして使えていない感じが、痛いほど伝わってくる。これが本当に演技だとするなら、彼は素晴らしい俳優だと思う。セックスという未知に挑むに際して、スポーツができるとか身体をうまく使えるとかいうのは男女双方にとって非常に重要なことで、ゆえにこの年代は「言葉を必要としない、しなやかなけものたち」が作中での台詞通り「セックスしまくり」なのである。つまり屋上での騒擾を契機に、映画部の面々が帰宅部のスーパーマンと同じほどセックスの機会に恵まれるようにならなければ、スクールカーストが崩壊したとはとても言えないのである。スクールカーストの頂点たちはこの映画を見た後、「なんか、なんも解決してなくない?」「そんなことよりおれ、腹減ったよ。焼肉でもいこうぜ」「えー、なんかエロいこと考えてるでしょー」などとやりとりし、永久に自分たちが見た内容を忘れてしまうだろう。この映画に意味付けをするのは、やはりスクールカーストの底辺たちだけであり、橋本愛の意味ありげな視線に虚しい希望を生きながらえさせながら、ツイッターに長文の感想を投稿したりするのである。
戦場のピアニスト
戦場のピアニスト
もし我々がシュピルマンと同じ立場に置かれたら、何を感じるだろうか。きっと死ではなく、生を感じるだろう。それこそが、私と君の抱える病理の正体だ。半年毎に更新される新作アニメに狂騒し続けながら、電子データの少女画像売買に一喜一憂し続けながら、それらが決定的に終わる瞬間をどこかで求めている。高天原勃起津矢の言葉を一部、以下に引用しておきたい。『私の作り出してきたものが所属する文化は、精神の死を前提としていない。だが、肉体は死ぬ。君の苦しみの正体はそこにある。だから、死を選ぶことは間違いではない。死を生涯の前提としない文化に所属する以上、いつどこで精神を終えるかを選択することは、全く個人の決断によっている』