ドラゴンズクラウン
まだノーマルをクリアしたばかりだが、久しぶりの正統的な横スクロールアクションにワクワクと胸を踊らせている。しかしながら、いま感じている高い評価がはたしてゲームの内容に向けられたのものなのかどうか、世代的に郷愁がはるかに勝ってしまっていて、自分では判断できないでいる。このゲームを楽しんでいる現在というよりは過去の感情の追体験が半分くらいになっていて、ちょうどファイナルファイトとかゴールデンアックスとかD&Dとかの筐体を旅先の旅館のゲームコーナーで見つけて、ついプレイしてしまうときの気分に近いのかもしれない。古びたゲームコーナーの持つ情動のタイムマシン機能が、私にとってのドラゴンズクラウンなのだ。世界三大ジャクソンが「マイケル・ジャクソン」「ピーター・ジャクソン」「スティーブ・ジャクソン」であることは論を俟たないが、まず「ソーサリー!」ノリのテキスト、イラスト、アルファベット三文字魔法にグッと来る。キャラ選択画面でディアブロ2を思い出し、衛兵には「スタァップ!」と呼び止められ、仲間が死ぬと「CONTINUE?」の表記が出て、道中の遺骨は「膝に矢を受けて」しまっている。ちりばめられた小ネタが、どれもいちいちグッと来る。本当にゲームの好きな誰かが、本当にゲームが好きで作ってる感じがひしひしと伝わってくる。80年代の子どもたちにとってはるか夢の未来であったはずの21世紀が色あせた現在、すべてのトレンドに敢然と背を向け、あえて横スクロールアクションを製作しようと考えたその執念、もしくは愛情に深い感動の念を禁じ得ない。最近のゲームキッズにとっては、画面がゴチャゴチャして何をやってるかわからないのかもしれないし、キャラの動きも不自然なのかもしれないし、アクション性もそれほど高くないのかもしれないし、アイテムのために少ないステージの周回を繰り返すだけの作業ゲーなのかもしれない。しかし、オッサンたちにとって、これはとても大切なゲームだ。タバコ臭いゲームコーナーの一角で、コンパネに飲みかけのビールを置いて、甘くなったレバーとボタンを叩きながら、懐かしくて、でももう戻れなくて、涙ににじむ10カウントの画面へ連コインする、そんな記憶のゲームなのだ。サーバー側に管理されたデータ、エミュレーターでいつでもプレイできるレトロゲー。そうじゃないんだ、そうじゃなかったんだ。あと半世紀もすれば、ゲームコーナーの記憶ごと、ゆるいコンパネの手触りごと、データ的に寸分たがわぬはずのエミュレーションでは決して再現できないあのゲームたちは、オッサンたちと共に世界から永久に消滅するだろう。それは、白人たちに追われたインディアンのような必然なのだ。そう、「おれたちは滅びてゆくのかもしれない」。
月: 2013年7月
HK
HK
周辺の状況を含めて、全体に漂う内輪受けの感じに、すごいモゾモゾした。ほとんど悪ふざけのアドリブが「オッケー! ××チャン、サイコー!」とか言われて、そのまま現場で採用されてる感じ。映画批評サイトの感想とか大手ネット通販のレビューとかで、3名ぐらいの評価者が5点満点中4点をつけてる感じ。爆笑に両手を打ち鳴らしながら、「オイオイ、なんでコレ、ブルーレイ版ださないの!」とか書き込んでるその感じに、なぜかかつてのテキストサイト周辺のアングラノリがフラッシュバックして、悶絶した。「なに言ってんの、小鳥猊下こそがアルファブロガーでしょ!!」みたいな大騒ぎのファンを「いいから、もうオマエ黙れよ、殺すぞ」って赤面しながら後ろから小声でたしなめてるような感じ。アタシ、恥ずかしい!
クラウド・アトラス
クラウド・アトラス
“My life is far beyond imitations of me.”監督の好きなモチーフと撮りたい場面をてんこ盛りにブチこんだ、超絶・寄せ鍋映画。6つの物語が同時進行する3時間を混乱なくスッキリと試聴できるのは、編集の巧さゆえか。ぜんぜん話は変わるけど、おれ最近さあ、スカイリムにダウロードコンテンツが3つも追加されてるのに気づいて、またぼつぼつプレイしてんのね。このゲーム、MODっていう有志の追加プログラムがあって、ゲームの中身をいろいろ好きにいじれんだけど、あんまやりすぎるとCTD、クラッシュ・トゥ・デスクトップつって、クライアントごと落ちるようになったりするの。あとプレイ時間が累積してくと、これまたセーブデータにゴミみたいのが溜まっちゃって、ゲームが遅くなったり止まったり、しまいには起動しなくなったりすんの。おれ最近、年くってきて特に思うんだけどさあ、なんかこれまでの経験からゴミみたいのが体の奥底に溜まってきてて、ひとつひとつは無視できるくらい小さいんだけど、MODの残りカスみたくそれが全体を鈍らせていってる感じ、あるんだよね。ああ、これが溜まってって、おれもいつかCTDすんだなってなんとなく思うわけ。でも、スカイリムと違ってクリーンインストールとかニューデータでスタートとかできないからさ、まさにファミコン世代への上からの批判に追いつかれはじめてるって感じなの。で、クラウド・アトラスだけど、CGとかVFXとかバンバン使って、同じ俳優の肌の色や性別まで変えたりして、魂の平等と輪廻を描いてんだけど、マトリックスの監督がいつのまにか性転換しててさ、じぶんの経験からたどりついた思想とかを反映してるんだろうなって考えさせる仕上がりなわけ。自分の悪行を反省したら転生で魂が次第に浄化されて、ついには善玉になるみたいなやつで、ぶっちゃけ、すごい仏教的な世界観なんだけど、おれ、ぜんぜんそれにノれなかったっていうか、うさんくさいなって思ったのよ。たぶんキリスト教の枠組みがガチガチにある国の人だから、そっから外れた東洋的な考え方に救済されるっていうか、ホッとさせられる部分、あったと思うんだよね。でもさ、キリスト教的な復活も仏教的な輪廻も、どっちも同じくらい救いとしてはうさんくせえなあって思っちゃう。スカイリムと同じで、ニューゲームで始めてもデータのゴミが積み重なって汚れてって、クラッシュしたあとに全体へ吸収されてまた生まれ変わるって、そんなの繰り返したって汚れが濃縮し続けるだけじゃん。この映画じゃ行為としての悪が明確に定義されてんだけど、悪ってのはもともと自然界には存在しなくって、つまるところ人と人との関係性において生じる何かを指してるんだから、人間が人間である限り、悪の概念は消滅しないのよ。だったら幼年期の終わりとかエヴァみたく人の形態を捨てるか、ワールドイズマインとか女神転生4のバッドエンドみたく人なるものを消滅させるってのが、救済っていうならいちばんしっくりくるような気がする。これに対してキリスト教の復活はいまの意識の継続を願うわけだから、輪廻のほうがずっと上等な気はするけど、つきつめるとどっちもどっちだよね。どの宗教でも死への解釈が輪廻と転生に分かれるのは、自我の消滅に恐怖が伴う文化なのかどうかってのが、その理由として大きいんだろうなあ。岩と砂漠の中で死ぬのと、水と森の中で死ぬのとでは、やっぱ死の受容に対する理屈づけって変わる気がする。個人的にはさ、たぶん意識は消えるだろうと思ってるけど、身体を構成する分子とかまでは消えようがないから、別のかたちで何かの中では続いていくんだろうなとは感じる。でもそれって、あんまりにも物語じゃなさすぎるよね。どっかで書いたけど、世界で最初の物語って、老いた生者が若い生者に語る死の意味づけだったと思うんだよね。いまの自我を保ったまま、天国で72人の処女とヤリまくるとかって物語、身もフタもなくて笑っちゃうけど、すごい人間らしいじゃない?とりとめもなく話したけど、クラウド・アトラス、SF好きならぜひ見ておくべきでしょう。いろいろ考えさせられます。あと、りんこ、演技が見られるようになったな、もうこれまでみたいにまんことかうんことか呼べないな、と思ってたら、あれ、りんこじゃないの?
ザ・ラスト・オブ・アス
ザ・ラスト・オブ・アス
プレイできる「ウォーキング・デッド」あるいは「28週後…」。世界とは、本質的に無意味の集合である。すべての存在は神の視座において、おしなべて意味を持つことができない。人生とは、ある一つの主観がその無意味の集合に対して、順に意味を与えていく過程である。そして世界のすべてを敵に回しても構わない存在を、いつか人は避けがたく手に入れてしまう。彼は、彼女を見つけてしまった。
真・女神転生4
真・女神転生4
多くの人間にとっての人生は、両親の与えた初源の規律に忠実であるか、それに逆らって徹底的な抗戦を行うか、この二者択一のいずれを選んだかによって決められているように思う。すなわち、すべてが既知の繰り返しである穏やかな鬱を生きるか、身内に宿った規律ごと己を破壊し続ける苛烈な躁を生きるかの選択であり、西洋の神と悪魔の概念は結局のところ、人のするこれらのふるまいへの物語的な理由づけに過ぎない。一神教の世界では、かつての神と同化するか、それを否定して逆位相の新たな神――かつての神からは悪魔と呼ばれる――になるかしか選択肢が与えられておらず、ゆえにどこまで生きても彼らに救いは存在しない。そんな無限地獄の対立構造に第三の道を与えたのが、真•女神転生シリーズ(3はのぞく)なのだ。養育者を無謬の存在として高く高く捧げていけば、それはやがて神の高みへと達してしまう。かつての神を否定しないまま対等の存在としてそれに並立し、二柱の神々がもし並立できるのならば、神はやがて人となり得ることを示した。神と悪魔よりも高い位相に「人」を位置づけるというこの思想は、現代が罹患した多くの問題に解決の道を与えてくれる。天才の閃きによる無意識の到達だとしても、これはゲームというメディアを通じてしか提起し得ないメッセージであり、多神教の背景を持つ本邦だけに生み出すことがゆるされた救済の物語、西洋文明への巨大なジンテーゼとして未だにそびえ続けている。真•女神転生(3はのぞく)はまさにJRPGの精髄としてその極北に位置しており、このシリーズを生むためだけに日本のロールプレイングゲームはその存在があったのだと言っても、決して過言だとは思わない。閑話休題。全体的な昭和の雰囲気に、ずっとファミコンのゲームをしている気分だった。日曜の午後、陽光差し込む団地の窓から布団を叩く音が聞こえる中で、微睡むようにゲームをしていたあの頃が、もしかすると私の人生において最も幸福に近かったのかもしれない。