猫を起こさないように
月: <span>2013年2月</span>
月: 2013年2月

惨殺半島赤目村


惨殺半島赤目村


山奥の廃村にトラウマを持ち、横溝正史と江戸川乱歩とファミコン探偵倶楽部に思春期の感受性を略取された身にとって、ド真ん中の直球ストライクである。私の愛好した3つの作品群に共通するのは執拗なまでの”過剰”であるが、本作もやはり過剰さに満ち満ちている。人物造形や舞台設定だけでも行き過ぎなところへ、さらには主人公が突然サイコメトってしまうのだから、屋を架した屋上が轟音と共に瓦解していくスペクタクルに、もはや直立したまま失禁する以外の選択肢はない。早くに余生へ突入した私の命を永らえさせる作品は、もはやハンターハンターとワシントンだけになっていたが、赤目村の完結までは生きる努力をすることをここに誓おう。なに、最高のノベルゲーを教えてくださいだと? そんなもの、うしろに立つ少女に決まっておろうが!

崖っぷちの男


崖っぷちの男


文字通りのクリフハンガー。一時間半強できれいに伏線を回収して、後味スカッと面白い。やっぱ映画はこうじゃなくちゃな! それにしてもエド・ハリスってみんなが抱いてる、銃と金融で世界を牛耳る悪いアメリカ白人の典型例だよな! そして本当の黒幕はグリフィス四重奏(2回目)を聞きながら、手錠で後ろ手に拘束されたエド・ハリスのビキニパンツに100ドル札をねじ込んで、庶民のガス抜き目的で低所得者層が支配者層をやっつけるこの映画を作らせたに違いないんだ! くそっ、なんて悪い奴らなんだ、イギリス貴族の連中め!

ヘルタースケルター


ヘルタースケルター


原作好きの小鳥尻ゲイカとしては、いつか見ずばなるまいと思っていた。で、今日見た。ジャック・ブラックのファンが彼の顔芸だけで内容を度外視した二時間を楽しめるのに対して、沢尻エリカのファンが彼女の肉体だけで内容を度外視した二時間を楽しめる映画に仕上がっていた。もちろん原作の持つ凄みを越えるものではないし、おそらくハナから原作を越えようと制作しているわけでもないだろうが、多用されるプロモーション・ビデオ的な映像が全体を冗長にしている嫌いこそあれ、実写化としてこれ以上を望むのは難しいのではないか。現在の本邦を見回して、沢尻エリカほどりりこと近似値を取る存在はいないからだ。演技ができるわけでもない、歌がうまいわけでもない、ただ若さと美貌だけが芸能界に彼女の居場所がある理由だ。ただ以降はこれらの持ち物を手放していくしかない時期に、りりこ役にキャスティングされたことが、沢尻エリカのドキュメンタリー的要素を作品に加えている。確かに、ほうぼうで指摘されるように、演技ができていない。怒りと傲慢と、そしてたぶん無邪気さが彼女の地金で、それ以外の感情を演じなければならないとき、シーンが虚構として成立しないレベルだ。特に物語の後半、りりこの崩壊を描く部分では、もはや原作とは遠く離れた別物になってしまっている。しかしながら、若さと美貌しか寄りどころを持たない誰かの空っぽさは、皮肉にも演技ができないことで痛いほど表現されており、原作とは全く別物でありながら、沢尻エリカという人物そのものが放つメッセージ性にまで昇華されている。未視聴の諸君へのアドバイスするとしたら、沢尻エリカのファンなら必ず見るべきだし、原作ファンであっても原作を下敷きにした二次創作的派生作品だと自分に言い聞かせることを前提として、やはり見る価値がある。あと、全国で一割にも満たないだろうアホみたいなギャルどもを、さも女子高生の主体であり本流みたいにフィクションで描くのは、「制服少女たちの選択」ぐらいからずっと変わんないなー、と思った。いったん与えられた社会学的メッセージが、二十年くらい誰にも更新されていない感じ。

リンダリンダリンダ


リンダリンダリンダ


リアル版「けいおん!」。学校という場は、あらゆる人々が必ず経なければならないため、あらゆる愛憎がそこへ集積する。ゆえに、だれもが学校を舞台にした物語を語り得るし、学校を舞台にしたあらゆる物語はその拙劣に関わらず、人々の感情を揺り動かす。通過点ゆえのエンドマークの置けなさが、そのままドラマとなるからだ。最も汚れなき時代に、己を最も清らかさから遠いと感じる心性をこそ、青春と呼ぶのだろう。

プロメテウス


プロメテウス


『しかし、誰もが親の死を望むものではありませんか?』『私は違ったわ』。ストーリー展開のトンデモを指摘する低評価が多く見られますが、いいですか、これはSF作品ではありません。リドリー・スコット作品です。「このモビルスーツからはオマンコの臭いがしない」で有名な某監督と同じく、あらゆる台詞、あらゆる場面、あらゆるデザインが個人の妄念と情念に由来していると考えましょう。すべては必然なのです。あと、SF作品としての既視感を指摘する声があるようですが、いいですか、ブレードランナーとエイリアンはリドリー・スコットが作りました。これらから派生した多くの亜種・亜流を回収して再集約する試みがプロメテウスであって、某国のように起源を曲げた発言をしてはいけません。私たちが見てきたあらゆるSF的映像は、リドリー・スコットの影響下にあるのです。有象無象のコピー作品群とは異なった、本家の圧倒的なセンスの良さを感じとりましょう。それと、開始後すぐに物語最大の謎が明かされて拍子抜け、みたいな批判が散見されますが、あのね、それは配給会社が宣伝文句として投げかけているホワットであって、この映画の問いの本質はホワイなんです。だいたい、リドリー・スコット監督という時点で、映画館に入る前からホワットの問いはすでに答えが割れてるみたいなものでしょう。そうですね、この映画を視聴すべき層へピンポイントで届かせるには、きっとタイトルを“エイリアン・ゼロ”とかにすれば――おおっと! あぶない、あぶない! あやうく重大なネタバレをするところでした! 「その名を聞けば無条件で視聴し、視聴前から批評を越えている」数少ない監督の一人なのでこれ以上は語りませんが、ひとつだけ。親を憎むクリエイターが、親を憎まない人物を主人公にする。多くの物語の本質はそこにあるのかな、と思いました。