コクリコ坂から
なんだろう、宮崎駿を失った後、ジブリはその遺産の管財人として生きるので無ければ、新たな当主を否応に担がなければならないはずのに、すべてにわたって全く結集できていない感じがする。ゲド戦記は原作者とファンの双方を激怒させるほどにクソだったが、少なくとも監督の個人的な反骨、父親を超えようという意志だけは感じることができた。今回はそれさえ失われている。作品選定の段階で、父親には認められたい、観客には自分を父親と重ねて見て欲しいという前回より退行した意志をしか感じない。監督の年齢から考えて、この作品の舞台設定に己の表現を重ねたい何の動機があるのかも全く不明だ。残された者の生活のためにスタジオを残す、それは充分に尊いことだと私は思う。
月: 2013年1月
アベンジャーズ
アベンジャーズ
「スーパー!」の理解を深めるために併せて見るべき、同時上映の前半部分、前座的な大作と言える。この集大成のために作られた様々のマーベル・ヒーロー映画のおいしいところを、ロバート・ダウニーJrのキャラクターがすべて持っていってしまっており、アイアンマン番外編と称した方がしっくりくる仕上がりだった。冒頭で巨大空母が宙を舞うシーンを見て、なんか既視感あるなー、なんだったかなーと考えていたらエヴァQだった。気づいた途端、ボロボロと涙がこぼれてきて、どれほどひどく爆破されても傷ひとつつかない(CGだから?)、墜落する素振りすら見せないヴンダーに比べて、なんて作劇上の緊張感があるんだろうって、やっぱりこの国のフィクションはハリウッドには絶対に勝てないんだって、悲しくなったの。
スーパー!
スーパー!
この年末年始に様々なジャンルの積み映画を鑑賞したが、本作のあまりのスーパーぶりに他はすべて吹き飛んでしまった。最初のうちは「ああ、キックアスね」などと斜に構えたナメた態度をとっていたのが、終盤には自然と居住まいを正していた。米国の掲げる正義、信念と狂気の相関、ヒーローの存在意義、善悪の境界など、ひとつのストーリーラインへ様々のアナロジーが多層的に重ねられ、現代世界をいったん俯瞰する甘いフォーカスから、後半のクライマックスで一気に焦点を絞り込むという力技には、まさに度肝を抜かれた。最後の場面での「俺を殺して世界が変わるとでも思っているのか!」「殺してみなければわからない!」というやりとりは、主役の怪演とあいまって、強いメッセージとなって迫ってくる。どれほど科学が進歩しようと、どれほどネットが我々をつなげようと、死だけは不可逆の個別的な事象であり続ける。我々は誰かの生を生きることはできても、誰かの死を死ぬことはできない。フセインの殺害も、ビンラーディンの殺害も、米国の望むように世界を変えはしなかったが、やはりこの主人公と同じく「殺してみなければわからない!」と絶叫しながら殺したのだ。どんな小さな死でさえ、人には制御しえないという一点から世界の変化につながる可能性を常に孕んでいる。だから当て物のように、宝くじと同じ期待で、彼らの生命を奪った。話がだいぶそれたが、私の言葉くらいではこの大傑作の実相を伝えきれない。nWoオールタイムベスト入りを果たした本作の凄みを、君自身の目で確かめて欲しい。あと、平たい胸族a.k.a.エレン・ペイジがちょう可愛い。ボルティーのキチガイっぷりに萌えるのは、アホの子を愛でる我々オトナの嗜みと言えるだろう。
HUNTER×HUNTER 32
HUNTER×HUNTER 32
個人的に近年の本作は、すごく作者のライブ感覚が反映されているように感じており、特に蟻編では人体欠損や心理の過剰な描写から、積極的に作品と主人公を壊しにかかってるようで、自傷めいたその雰囲気に息を詰める思いでいた。どこかで作者がシナリオ作法を語っているのを読んだことがある。登場人物たちとの対話を通じてプロットを組んでいくらしい。ある状況に置かれたときに、登場人物が何を感じどうふるまうかがわかれば、その化学反応で物語が組み上がるというわけだ。裏を返せば、どうすれば最も残酷に各キャラクターを壊せるかを知っているということでもある。蟻編では創作者イコール神の力を存分に発揮して、主人公の肉体と精神を完全に破壊し尽くした。いかなる方法でも彼に刻まれた傷を完全にはとりのぞけず、以後の物語の進行に深刻な影響を及ぼすと思われた。その状況を受けての今回の選挙編だが、私は震災の影響下に描かれた作品であると強く感じた。蟻編での悪意――言い換えれば、作者の気分――に晒されていないキャラクターが作中で行う演説は、主人公と被災者をオーバーラップさせた作者からの懺悔と謝罪のようにも読める。そして、世の埒外にある癒しと死者の復活というふたつの奇跡をもって、不可逆に壊されたはずの主人公の肉体と精神は蟻編以前の状態へと巻き戻された。もし震災が無かったなら、この顛末は全く違ったようになっていたのではないかと想像する。蟻編とは、少年漫画的作劇からすべての要素においてひとつずつ位相をズラした批判であり、主人公の持つ純粋さと信念に対してさえ、それが適応されていた。己の持ち物では避けえぬ世界の残酷さと自身の無力を知ったとき、少年が壊れることは必定だった。けれど、そんな当たり前の敗北を、我々の誰もが体験してきた敗北を、だれが少年漫画というジャンルで目にしたいだろう? もしかしたら現実に負けない信念や純粋さがあるのではないかという祈りが、いまを生きる少年と、かつて少年だった大人たちにとって、理不尽な喪失を乗り越えていくために必要なのだと思う。ハンターハンターはこの選挙編の後、たぶん普通の少年漫画になるだろう。震災が、ハンターハンターを普通の少年漫画に戻すのだ。しかしその内容がどのようなものであれ、蟻編と選挙編を経たからこそ、我々が縁側の老人の背中に無為を感じないような、経てきたがゆえの重さを加えるに違いない。その行方を見届けるために、私は信念とも純粋さとも遠い場所で、なんとか死なずにやっていこうと思う。