猫を起こさないように
月: <span>2012年8月</span>
月: 2012年8月

範馬刃牙


範馬刃牙


父性の本質は暴力だとどこかで書いたが、父親から行使される暴力の本質とは、無謬性ではないか。つまり、問答無用でぶん殴り、その正しさの証明が必要ないことだ。一方で、母親との関係はどこまでつきつめても、感情に落とし込まれる。父親がその父性を完遂するには、より強い暴力に負けないことが必要だ。多くの誤解を恐れずあえて言うと、昨今は父親が息子を問答無用にボコれば、即座に児童保護施設や警察がとんできかねない。家庭外の権力に屈した瞬間、あるいは長じた息子に殴り返された瞬間、父性は終わりを迎える。もしかすると人類史上、例えば狩猟を中心とした社会などでは、敗北しない父性が存在した可能性はあるだろう。しかしながら現代において父親とは、あらかじめその過ちを誰かに証明されるために存在する何かなのだ。ざっと最終回の感想を確認したところ、否定的なものがほとんどだった。わたしはこの結末を肯定する。あえて敗北を描かないことで、父性を描ききったからだ。

新少林寺


新少林寺


すごく久しぶりに中国映画を見たのだが、自分の中にアジアの物語文法が強く残っていることがわかって驚いた。考えてみれば、年代的にはちょうどキョンシーやらジャッキー・チェンやらが大流行した頃に少年時代を過ごし、その亜流を含めて山ほどアジア映画を見てきたのだから、当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。ひらたく言えば、感動した。ダークナイト・ライジングよりも、はるかにグッときた。いまから言うことは私を含め、ヒエラルキーの大部分を構成する人々を慰撫するためのステレオタイプだとわかっている。そして、あらかじめ設定した期待値を超えるかどうかが映画の評価につながる自分の傾向を自覚してもいる。新少林寺を見たときの気持ちは「雨に濡れながら捨て猫にミルクをやる不良少年」を見たときのそれと同等であり、ダークナイト・ライジングを見たときの気持ちは「夜中に裏山で捨て犬にエアガンの試し撃ちをする優等生」を見たときのそれと同等である。ヒエラルキーの頂点を形成する優等生諸君には申し訳ない例えだった。しかしながら、「数百年を経た寺社仏閣に躊躇なく大砲を打ち込む紅毛人をゲリラ作戦で奇襲して惨殺するアジア人」を見たときの気持ちは、不良少年も優等生も私に同様であろうと思う。ローマにとってのシルクロードの例えを持ち出すまでもなく、西洋には人類史の黎明期に刷り込まれた東洋への劣等感が内在している。差別意識とは、すべからく恐怖心に由来するのだから。

BIUTIFUL


BIUTIFUL


『幸せにしてやりたいと思っている。でも、その方法がわからないんだ』。太陽と、鏡と、霊媒と。死者の声は聞こえても、生者とどう向きあえばいいのか、わからない。一個の死に向けて、収束しようとしない世界。それは逆説的に、あらゆる生命が平等であることを証明している。ようやく、イニャリトゥが日常の舞台に戻ってきました。基本的にいつも結末を投げっぱなしの監督ですが、その個性が今回は物語のテーマと絡みあって素晴らしい効果をあげています。私は本作こそが、氏の最高傑作であることを疑いません。けれど残念なことに、本邦ではバベルほどに視聴されないのは必定です。なぜなら前作をみなさんがご覧になったのは、ケン・ワタナベが中核的な役割を演じたノーラン監督のインセプションと同じく、菊地うん子? まん子、でしたっけ? 名前はよく覚えていませんが、自国の俳優が出演しているという事実が主たる理由だったでしょう。あらゆるマーケティングや作品の出来そのものさえも押しのけて、自国の俳優が出演しているかどうかが、外国映画の最大の広報になるお国柄です。これじゃ、近隣諸国の愛国的な所作を笑えません。BIUTIFUL、みんな見てね、アジアからは中国人しか出てないけどね、ホモのね。

ドラゴンクエスト10


ドラゴンクエスト10


正直、全然期待してなかった。発売の時期的にディアブロ3をヘビー(社畜なりの)にプレイしていると思っていたので、アマゾンで予約注文こそしたものの、届くまでその存在をすっかり忘れていた。ちょうどディアブロ3に行き詰まりを感じていたこともあり、ほとんど気の迷いみたいにWiiの埃をはらってインストールしてみたところ、気がつけば週末通して30時間くらいプレイしていた。自分でもびっくりした。MMOなのにオフゲーっぽい雰囲気で、シナリオを追うだけならソロでも大丈夫なバランス。底意地の悪い楽しみ方だが、ビッグタイトルが閾値を下げたゆえに流入した、従来のネットゲーにいなかった層のふるまいを見ているだけでも相当に面白い。無料期間が終わればこういう奇矯な人々はガクッと減るだろうので、立ち上げ時期限定の状況だとは思う。そしてやはりと言うべきか、全体的に同社のFF11を徹底的に研究している感じがあって、そのコアな部分への意識した逆張りで、カジュアルなオンラインゲームを作ろうとする姿勢が見えて好ましい。公式サイトの冒険者の広場や3DSでのすれちがい通信プログラムの配信など、MMOなのにプレイヤーを外へ外へと誘導していく感じも新しい。FF11なんてもう怖くて触れない(時間的に)といった社畜の諸君にも、接続への脅迫なしに楽しめる仕上がりである。グラフィックは確かにアレだが、じっさい触ってみれば、ゲームにとってそれは三の次くらいだと納得できるだろう。本邦の企業体はとかく改革を叫びがちだが、その実質はほとんど革命に近い。過去をすべて棄却して、ゼロからの土台に何かを築こうとする姿勢だ。伝統や踏襲が検証なしに悪とみなされ、新しいアイデアは新規に議論されたという事実のみが重視され、その自己陶酔感の中でこれまた検証の薄いままに実施されていく。かくして、名と外殻のみを同じうする異形が世に顕現するのである。例えば、現在のファイナルファンタジーはもはや異形と化している。ディアブロ3も、たぶんそうなんだろう。必要なのは不易の部分を見極めることであり、今作ではオンライン化という最大の流行を前にして、その他すべてを変えないという決断が成されている点がすばらしいのだ。え、国民的ビッグタイトルだから、だれも進言できないだけじゃないかって? なるほど、確かにそうかもしれない。しかし、得られた結果がプラスならば、何の問題も無いではないか。とかく自信の無いヤツほど、転職やら何やら、ウロウロと意味もなく現状を変えたがるものだ。我らがホーリー遊児の、確たる才能に裏付けられた安定感を見よ。明確な意志ではなく、喪失した自信が薄っぺらな変化を加速させている本邦で、その変わらなさは力強い輝きを放っている。もちろん、薄毛的な意味ではないよ。