痛んだ傘を折りたたむのにてまどって、ちょっとぬれてしまう。舗装の悪い道路には、雨が何か所も水たまりを作っていて、いくども足をとられかけた。
その店は、目ぬき通りからすこし路地裏へ入ったところにあった。どぎつく明滅するネオンサインを水たまりが照りかえし、コーデリアはなんだか異国の地に迷いこんでしまったような気がして、かるいめまいをおぼえた。
やせぎすのからだをあずけるようにして重いスチールの扉を開けると、手すりのないひどく急な階段が地下へとつづいている。
せまいおどり場にあるさびた傘たてには、すでに傘が何本か入れられている。そのうちのひとつに、見おぼえがあった。「背の高い人用」と書かれた購入時のラベルがそのまま柄に貼られている。
コーデリアが、小鳥尻の誕生日に贈ったものだった。
小鳥尻は傘を持つことをきらっていた。どんな大ぶりでも、コートひとつで出かけていき、海の底を散歩してきたみたいになって帰ってくる。
「なんか雨にうたれてると、すこしだけ気もちが楽になるの」
なぜ傘を持たないのか、いちどたずねたことがある。さいしょ、小鳥尻はじっと黙ったままだった。その反応はとくだん珍しいことではなかったので、コーデリアもそれきり黙ったまま、つくろいものをはじめた。
ゆうに五分は経ったろうか、そう小鳥尻が答えたのである。
「どうして楽になるの?」
小鳥尻の両目が一瞬、遠くを見るようにさまよって、やさしくゆるんだ。
「私ね、子どものころ、悪いことをするとよくお母さんに家の外へ追いだされてね。そんなときはなぜか決まって雨が降ってたわ」
コーデリアはいちど、小鳥尻の母親に会ったことがある。
このたびは、うちの娘がたいへんなご迷惑をおかけしまして――
病室の敷居にきっちりとつま先をそろえ、定規をあてたような深いお辞儀をする姿をおぼえている。示談の話しあいにきたのらしかった。ぜんぶ両親が対応したので、コーデリアは二言三言を交わすきりだった。
印象は悪くなかった。すこしやせすぎのきらいはあったけれど、品のいい、知的な女性だったと思う。
いっしょに暮らすようになったさいしょのころ、小鳥尻が母親のことを悪しざまに言うのを何度か聞いたことがある。それはあまりに病室での印象とちがっていて、コーデリアが「冗談でしょう」とか「思いちがいじゃないの」とか相づちをうつうちに、いつしか小鳥尻は母親の話をもちださなくなった。
「雨の音ってやさしいでしょ。知ってる? 雨ってね、あったかいのよ。家のなかはうるさくて冷たくて、雨にうたれてるほうが、ずっとよかったわ」
コーデリアには、小鳥尻がなにを言っているのかわからなかった。それどころか、すこし意地わるく、「ちょっと悲劇ぶってるわ」と考えたりもした。
「でも、雨にぬれると風邪をひくでしょ。もう子どもじゃないんだから、雨の日は傘をさしてね。こんど、プレゼントしてあげるから」
コーデリアの言葉に、小鳥尻は悲しそうにほほえむきりだった。
玄関の傘が二本になり、この話題はそれきりとなった。
壁に手をつきながら、すべらないように一段一段をふみしめる。階段のつきたすぐ右手が、喫茶店のようになっていた。できるだけめだたないよう、すみのテーブルに腰をおろす。
すわったことにホッとすると、人心地がもどってくる。
コーデリアは、前かけにサンダルをつっかけているじぶんに気づいた。大またに前を行く背なかを見うしなわないようにするあまり、気がまわらなかった。はずかしさに顔があつくなる。
いすの背もたれは毛羽がたっていて、なにかの液体がかわいたようにゴワゴワしていた。手をふれたテーブルの表面はわずかにねばっている。いまさらながら、ひどく場ちがいなところにいる気がした。
口ひげをはやした小太りの店員が、水をもって近づいてくる。コーデリアは手ぐしに髪をなでつけた。
「ご注文は?」
あわてて前かけのかくしをさぐると、がまぐちに指がふれる。すっかり紙のくたびれたメニューをひらくと、よくわからないカタカナがならんでいた。アルコールのたぐいらしい。
「あの、ウーロン茶をください」
一週間分の食費と同じ値段だった。店員が失笑めいた鼻息をもらしたような気がして、コーデリアは思わずうつむいた。
それでも注文をすませてしまうと、居場所をえたような気もちになった。
まわりには、すでに何人かの客がすわっている。奥にひとつ高くなったところがあり、左右にカーテンのようなものが下げてあって、どうやらかんたんな舞台になっているらしい。
ウーロン茶がはこばれてくると照明がさらにしぼられ、カーテンのそでからだれかがあらわれた。かん高い声の、ふたり組の女性だった。
すぐにかけあいがはじまる。漫才のようだ。言葉が多すぎて、どんな内容なのかコーデリアの頭にはまったくはいってこなかった。あたりを見まわしても、客たちはだれも舞台を見ていない。どういうお店なのだろう。
すぐ目の前のテーブルに、若い男がひとりですわっている。ゲーム機なのか携帯電話なのかよくわからないもので、アニメを見ていた。画面の中では、馬に乗った制服姿の少女が刀をふりまわしている。場面が変わるたび、ちがった色の光が横がおにうつりこむ。
なんだかコーデリアは、ひどく正しくない、ふつうではないことが行われているような気がした。
まばらな拍手に、はっと我へかえる。ふたり組の女性は大きく一礼して、舞台のそでへとひっこんでいった。
入れかわりに、セーターに巻きスカートの女性が、グラスとビンを片手でひっつかみ、小さなテーブルをひきひきあらわれる。
とたん、コーデリアの心臓ははねあがり、あたまの芯にはしゃきっとしたものがもどってきた。小鳥尻だ。
すでにひどく酔っているようで、足もとはふらつき、目は赤く充血している。
「飲めば飲むほどおもしろく、ってわけにはいかないけど、しらふでできる芸でもないのよね」
卓上にグラスを置き、こはく色の液体をそそぐ。
「とりあえず、きょうの出会いに乾杯」
客たちへむけてグラスをかかげると、いっきにあおった。とたんせきこんで、ほとんどを床にこぼしてしまう。長身をおりまげてせきこみ続けるようすに、コーデリアはそばへかけよりたい衝動にかられる。
やがて口もとをぬぐいながら、
「それじゃあ、はじめましょうか」
小鳥尻が巻きスカートをはぎとり、客席へと投げる。それはだれにも触れられることなく床に落ちた。肌色のタイツには、股間のところに亀の子タワシがはりつけられていた。
「わたしのタワシ、気持ちいーでー、わたしのタワシ、気持ちいーでー」
芸をはじめたとたん、酔いに正体をうしなっていた小鳥尻の声がぴんと張った。家でのぼそぼそと聞きとりにくい話し方とはまったく違っていて、コーデリアはファンとして観客席にいた昔を思い出して、胸がつまるような気もちになった。
「なーなー、わたしのタワシ、気持ちいーでー、わたしのタワシ、気持ちいーでー」
がにまたで上半身をそらせ、いくどもタワシをこすりあげる。やはりだれも舞台を見ようとはしない。ただひとり、目の前のテーブルの若い男だけが、アニメから目を離し、食い入るように小鳥尻を見つめていた。
「うるせえぞ!」
さけび声とともに、客席から舞台へグラスがとぶ。酔っぱらい相手の舞台には、よくあることなのだろう。
けれどこのとき、運の悪いことにそのグラスは小鳥尻のこめかみを直撃した。たまらず長身を折りまげ、卓に手をつく。こめかみを押さえた手のすきまから赤いものがしたたり、小鳥尻の両目はむきだしの、凄惨なものをたたえていた。
思わず、コーデリアは席を蹴って立ちあがった。椅子の背もたれが床にたたきつけられて、大きな音をたてる。まわりの客から、いぶかしげな視線が向けられた。
「いってーなー、おい! いってーなー、おい!」
ことさらな大声が、みなの視線を舞台へともどす。小鳥尻は背中で床をそうじするみたいなオーバーアクションでおどけて、のたうちまわっていた。その表情は、すでに芸人のそれにもどっている。
観客から笑い声があがる。たちの悪い笑い声だった。
コーデリアはもう見ていられなくなって、狭い階段をかけあがるようにして店を出た。
「傘、忘れてるわよ」
看板のネオンが消えると、背の高い人かげが細い路地から出てくる。傘をさしだすコーデリアを肩ごしにちらりと見ると、そのまま何も言わず歩きだす。
「ねえ、傷はだいじょうぶなの」
うしろをついていきながら、声をかける。小鳥尻は、猫背に首をうめるように両肩をもちあげて、話しかけられるのをこばんでいる。コーデリアは一瞬、ひどく悲しくなった。しかしすぐにそれは、むかむかとした怒りにとってかわられた。
「こんなに心配してるのに、その態度はなによ!」
じぶんでもびっくりするほど大きな声だった。
その剣幕におどろいたのか、小鳥尻は足をとめてふりかえる。こめかみにはガーゼが雑にはりつけてあった。
「仕事のときはくるなって言ったじゃない。それに、あんなのいつものことだから、心配なんていらないわ」
先ほどの舞台とは別人のように、ぼそぼそとした言いわけだった。それがますます、コーデリアをいらだたせる。
「わたしをなんだと思ってるのよ! 猫のせわ係じゃないんだから! わたしにだって、心配する権利くらいあるんだから! こわいんだからね! わたし、怒ったらこわいんだから!」
むちゃくちゃを言っているなと思ったが、もうとまらなかった。
体はおおきいくせに、小鳥尻にはひどく気のよわいところがある。このときもうろたえたふうにコーデリアから目をそらして、「これはわたしのことだから」とつぶやいた。「ぜんぶ、わたしひとりで証明しなくちゃいけないのよ」
「だれに証明するのよ! なにを証明したいのよ! だれも見てない舞台で、みんなわすれた芸をして、どうやって証明できるのよ!」
小鳥尻が大またに近よってきて、手をふりあげた。これだけ言われれば、そうするしかないのはわかっていた。山のように大きくてまっ黒なものがおおいかぶさってくる。
わたしは逃げない。逃げてたまるもんか。
コーデリアは小鳥尻を受けとめるように、両手をいっぱいに広げた。いつかまえにもこんなことがあった、と考えながら。
のけぞるあまり、ふんばった足がぬれた地面にすべった。
ネオンにふちどられた空が見えたかと思うと、すぐにあたりはまっくらになった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
目をあけるとコーデリアのかたわらに、ぬれるのもかまわずすわりこんで、小鳥尻がすすり泣いていた。
「私、きょうね、本当はね、すごくうれしかったの。はじめて、家族が舞台を見にきてくれたから」
体には力がはいらず、頭のうしろは割れるように痛んだ。小鳥尻を心配させまいと、コーデリアはなんとかあいづちをうつ。
「昔、なんども行ったじゃないの」
「あれはファンとしてでしょ!」
口をとがらせるようすがひどく幼く見え、コーデリアの胸はしめつけられるように苦しくなった。視界がじわりとにじむ。
「どっか痛むの?」
具合のわるい親を心配するときの子どものような、あどけない表情。コーデリアはなぜか、カッコウの托卵のはなしを思いだした。
「ううん、だいじょうぶよ。ねえ、さっきの話、くわしく聞かせてくれる? だれに証明したかったの?」
恋人どうしのはずなのに、対等ではない気がしていた。ずっと一方通行なかんじがしていた。それはきっと、小鳥尻の想いが、親を求める子の想いと同じものだったからだ。
のどの奥にうまれた氷のような嗚咽のかたまりを飲みくだすと、コーデリアはやさしくたずねた。
小鳥尻は視線をさまよわせて、しばらく考えるそぶりをみせた。
「やっぱり、パパ、かな」
「お父さん?」
意外な答えだった。父親のことを聞くのは、これがはじめてかもしれない。
「うん。わたしのパパ、すごいのよ。……の社長でね」
だれでも聞いたことのある、少し大きな会社の名前だった。
小鳥尻はどこか浮世ばなれしていて、芸人なのに、生活によごれた感じがなかった。良くも悪くも、お金に頓着がない。それは裕福な家庭に育ったことが理由なのかもしれないと、コーデリアは思った。
「小さいころからずっと、パパのこと、自慢だったなあ。でもね、わたし、勘当されちゃったの」
小鳥尻の口もとが、泣くのをがまんする子どもみたいに、への字にまがった。
「お母さんが、わたしがこうなのは、こころの病気のせいだって。育て方とかじゃなくて、病気なのが悪いんだって。プロだから、わかるんだって。わたしのことでパパとケンカするとき、いつもそう言ってた。病気なんかじゃないのに」
頭は熱いのに、手足が冷えてきて、みぞおちのあたりには吐き気があった。小鳥尻は気づいたふうもない。
「プロって、なんのプロ?」
かろうじて、そううながす。わたしはいつでも聞き役だわ、とコーデリアは思った。
「私のお母さん、こころのお医者さんだったの。パパと結婚してから、働くのはやめたみたいだけど。じぶんの生まれた家はケッソンカテイだったって、いつも言ってた。ねえ、知ってる? そういう壊れた家庭にそだつと、子どものころの失敗をとりかえそうとして、大きくなってからも同じ環境を作ろうとするんだって。絶対にうまくいかない人間関係を、のぞんで作ろうとするんだって」
ああ――
小鳥尻は、いまじぶんが話していることがどういう意味なのか、わかっているのだろうか。
「わたしずっとヘンだなって。子どもだったから、言葉にできなかったけど、病気の人が病気の人の病気をみるってすごいヘンだなあ、って思ってた。お医者さんになるために病気になるみたいで、すごいヘン」
小鳥尻の母親はきっと、成功しないことに成功したのだ。呪いを、次へと手わたして。
「わかったわ。お母さんの言ってたことがまちがいだったって、お父さんに証明したいのね」
「そうそう!」
うまく伝えられない話を大人が先回りしてくれたときの子どものような、とびきりの笑顔だった。
「ねえ」
「なあに?」
コーデリアはあらためて、この一方通行な関係を悲しく思いながら、言った。
「これだけは信じてほしいの。わたしはあなたを本当に助けたいと思っている。しあわせになってほしいと思っている」
小鳥尻をまっすぐに見つめる。
「わたしは、あなたのことが好き。でもね、すこしだけ、つかれちゃった」
まぶたを閉じると、とたんに全身が重くなって、背中から地面にすいこまれるような感じがした。小鳥尻の泣き声が遠のいていくのを心地よく思うじぶんにぞっとしながら、コーデリアは意識を手ばなした。