ファースト・コンタクト
心弱るとき、誰の関心も自分の上に無いのだと感じるとき、この世界にたった一人だという当たり前の事実にすら涙こぼれるとき、かつて自分を鼓舞してくれた何かへすがるように還ることがある。
年: 2010年
NWO EXISTS IN DIRECTION Q. (エヌダブユオウはQ方向に居る)
黒人大統領が火星有人飛行を宣言したことにより「度胸星」がいよいよ現代の預言書であることが明らかとなり、2030年に超立方体の異星人と人類とのファーストコンタクトが確定的になった。その全人類的な高揚を伴なうイベント進行の裏で、nWoが便所か安宿の壁面へ経血でなすられた何かであることもまた、ひっそりと証明されたのだった。秒単位でチェックするメールや掲示板はいっこうにエロ系スパム以外の反応を返さず、しばしモニターの前で呆然となった私は、直接に感想を述べるのをはばかる奥ゆかしい層が、この広大なネットのどこかで春画や議論を交わしているかもしれぬと思い立った。そして現存するすべての検索エンジンを駆使したが、「少女保護特区(7)において一人称を徹底的に排除していることが、(9)における“予”から“私”への自我変容の効果をより劇的にしていますね」など、当たり前に予測されて然るべき論評は一つも見つからなかった。足かけ2年ほど、時々の全身全霊を傾注して行われた更新群が、この現代社会の膨大さの前に何の反応も引き起こさず、実質上、完全に消滅したのである。正に、一度も、どこにも存在することを許されなかった、真の意味での非実在青少年と言えよう。nWoを更新する動機がどこにあるかと問われれば、保存された幼児的全能感による自我肥大に由来するのであり、それは無条件の肯定や承認が無ければたちまちしぼんでしまう類の根拠である。いったん縮小した自我が再び更新可能になるまで回復するには、父母を欠いたネット孤児の私にとって、ただひたすら与えられた屈辱と絶望が忘却の彼方に去るのを待つしかない。更新は間遠になり、酒量が増えるのも道理である。この下りは、目の据わったマッチ売りの少女が酒瓶を傾けるイメージで想像して欲しい。まあ、相も変わらずの愚痴だが、愚痴を書けるほどには自尊心を回復してきたと考えてくれたまえ。ここ数週間というもの、全人類から無視を決め込まれた哀れな少女の精神状態は、それはもう悲惨極まるものだったのだから。
カポーティ
カポーティ
カポーティとニーチェって、精神の崩壊までいっちゃう決定的な瞬間を体験した点で共通してると思ってんだけど、トラウマから汲むって怖いよなあ。突き詰めすぎても人格を破綻するし、解消しすぎても書けなくなるんだからさあ。正気のまま論理的に壊れていくって、すごいしんどいよなあ。少女保護特区の冒頭でも引用してるけどさあ、おれ、「冷血」に出てくるおばさんの発言が好きでさあ、永遠の話をしてから鼻をかむ話をするくだりって、なんかすごい女そのものっていうかさあ、人生みたいな感じがすんだよね。誰も指摘してくれないから言うけどさあ、少女保護特区も永遠の話をしてから鼻をかむって構成にしてあるんだぜ。あと、まだ「冷血」読んでない人は、この映画を見てからのほうがグッとくると思った。
サンシャイン・クリーニング
サンシャイン・クリーニング
どぎつくもあざとい設定の組み方や、とっちらかった伏線を全く回収しようとしないシナリオに肯定的な印象を持てるかどうかが評価の分水嶺になるだろう。私が「リトル・ミス~」を愛していることは、すでに諸君へ伝わっていることと思う。物語の始まりと終わりで主人公の立ち位置や世界観が大きく変わったことを実感できるのが良い物語の条件だ。この映画において、主人公の客観的状況は開始時点より悪化したままで終わるのだが、にも関わらず爽やかですらある“読後感”を視聴者に与えている。君の人生の一部を物語として切り出して提示することを想像して欲しい。きっとエンドマークの位置が全体の印象を決定するだろう。この物語では、人間関係でままある錯覚の瞬間にそれを持ってきた。感情剥き出しの大喧嘩の後に互いの関係が深まったと感ずるような、祈りにも似たあの錯覚だ。それは日常という偉大な復元力を前にして、気づけばいつもすっかり元通りに、何も無かったのと同じに戻ってしまう。本作の主人公もエンドロールを越えた先で、まるで何も無かったかのようになんとかしのいでやっていくだろう。だがそれでも、何も無かったよりはずっといいのだ。だから、私はこの映画を肯定したい。
亜神の住処
虚構の高揚感に水をかける行為は、交尾中の犬に水をかける行為と同じなのだろう。物語の自走性を読み手の興味に合わせてわずかでも曲げることができれば、もう少し人も集まるだろうにとも思うが、同時にそうなればホームページで書く意味は無くなるだろうなとも感じる。少女保護特区の結論はあらかじめ用意されていた。さらに言うなら、「両親が見ていたのは、この光景だったのか」という一行を書きたいがための更新であった。
最近、文章芸術とはすべて、主人公の心に宿っていたようなDemigodの産物ではないかという気がしている。幼少期に楽園を得なかった人々は、その神の空席へ己自身を昇格させるのだ。そして、絵画芸術の半分と、音楽芸術のすべてはGodに由来している。もちろん、この偏見に「アマデウス」が影響を与えているとの指摘を退けない。
長い更新を終えるのはこれで三つ目だが、終盤へ向かうにつれていずれも似たような表現が顔を出し始め、結局はいつも同じ場所へとたどりつく。毎回、意識して違う展開を心がけているにも関わらずである。己を掘り下げる書き方をすると、どの穴からも精神的な課題という鉱脈へぶちあたるようだ。ただ今回、半歩先へ進んだと思えるのは、「壊された魂はどうふるまうか?」というモチーフから「なぜ魂は壊されなければならなかったのか?」へと主観の角度が若干の変化を見た点である。
壊された誰かが子を得て、その魂を壊さなかったとすれば、それは人の成し得る最も偉大な成果のひとつであると私は信じる。残念ながら、私には少女保護特区のエンドマークの向こうを見通す資格が与えられていない。だが、nWoを閲覧する諸君がこの偉大な課題を得たならば、少なくとも一人が君を応援していることを忘れないでくれ。
さて、いよいよ節を曲げて、己の課題とは何の関係もない、全くの絵空事を虚構として書かなければいけない季節が訪れたのかもしれない。以前冗談めかして触れたが、もしかすると萌え学園ファンタジーなどがその良き題材になるのやもしれぬ。もちろん、nWoはホームページとしてのインタラクティブ性を最重要視していることを諸君へ伝えておく。