猫を起こさないように
年: <span>2010年</span>
年: 2010年

かいじゅうたちのいるところ


かいじゅうたちのいるところ


大人の頭で考えた、子どもが楽しいと思うこと。大人の頭で考えた、子どもに聞いて欲しいこと。そして、その説教を子どもには見えない物語の裏へ隠しおおせたと信じる傲慢。これらすべてが作者の意図を踏みにじり、原作の持つ普遍性を制作サイドの自尊心という矮小なサイズへ貶めている。

借りぐらしのアリエッティ


借りぐらしのアリエッティ


久しぶりに「思想性無し」「政治性無し」のジブリが描くボーイ・ミーツ・ガール。観客は、豊かな美術と多彩なアニメーションに支えられたシンプル極まるストーリーを追いかけて、爽やかな余韻と読後感だけを手に入れることのできる佳作――ぼくも、みんなと同じくそう思っていたのです、あの恐怖の瞬間が訪れるまでは。「地球の人口67億」「君たちは滅びゆく種族」――突如、その場面までほとんどキャラ造形がのっぺらぼうだった少年が、ストーリーラインから完全に外れた意味不明の供述を繰り返しはじめたのです。そう、それはまるで、御大が少年に憑依したかの如くでした。お化け屋敷の吊るしコンニャクが首筋に入ったような不意打ちを食ったぼくは、思いがけぬ真夏の納涼にぞっとして、最後までひとり、劇場の隅でぶるぶる震えていた。こわい、メッセージ性、こわいよう。

リベリオン


リベリオン


インターネットではB級がもてはやされる傾向にある。なぜならA級を褒めたところで自分の手柄にはならないし、何よりnWo自身がその生きた証明であるように、インターネットにしか居場所のない誰かはA級をうらやむB級そのものであるから。あと、とりあえず、1984年→ゼン-ガン→マトリックス→ガン-カタ→ザ・ウォーカーという自由連想を記載しておく。

パラノーマル・アクティビティ


パラノーマル・アクティビティ


スピルバーグ大絶賛のふれこみにワクワクしながら視聴を開始したが、なにこのブレアウィッチ・プロジェクト。あと、ひとつのネタを延々と引っ張りに引っ張って、最後に肩すかしのオチを持ってくる構成になんか既視感あるなあと思ってたら、浦沢直樹だった。それと、女優の顔になんか既視感あるなあと思ってたら、トゥーリオだった。

キャピタリズム


キャピタリズム


ドキュメンタリーの悲しいところですが、現実の方がすでに先へ動いてしまいました。ただ、民衆が歩んだオバマ政権誕生への足跡として視聴すれば、充分に感動的です。少なくとも私は目頭が熱くなりました。資本主義の否定にキリスト教を持ち出すあたりも、ずるくてうまい。あと、他国の産業を戦争で破壊した結果、その空隙へ滑りこむ形で米国の好況があったという下りには、目から鱗が落ちた。

GOAL!


GOAL!


世間の雰囲気に便乗してアクセス数を稼ぐことを悪と断罪できるほど、この小鳥万太郎、若くない。いいか、2と3は見るなよ! ぜったいに、見るなよ!

怒りのハントウ

 尊厳の否定が怒りの本質である。本来の対象に向かうことを禁じられた場合、その怒りは消滅することなく内奥へと溜まってゆく。「子は親を産めない」を旨とする儒教の本質は、親を子の怒りから防御する点にある。かの国にて突如として怒りを激発させる症状が病名を与えられるほど一般的なのは、この帰結を考えれば至極当然である。解消されない怒りが本来の対象以外へ向かった場合、それのもたらす結果は苛烈かつ破壊的なものとなる。他人に向かった場合は殺人へと至り、己に向かえばそれは自死となる。そしてある種の芸術は、怒りを昇華させることによって為される。だが、彼は死んだ。彼は己の生業において、怒りを昇華できなかったのだ; Quod Erat Demonstrandum

 さて、以上の散文で私は何を証明したのか。妙齢の婦女子が熱狂する/したドラマ群が芸術ではないことを証明したのである。
 なぜ突然、かようなエントリーを行ったのかと諸君はいぶかっているだろう。かの君の“家族団欒”とやらの、十数秒の映像を偶然目にしたからである。カメラが回る中、父親が「まだお祖母ちゃんのオッパイを触っているよね?」とかの君に尋ね、一瞬の氷ついたような沈黙の後、かの君がした弁明に家族は爆笑する。親子関係についての話題を提供するときのテレビの常だが、まるで美談のようなナレーションを伴っていた。まったく、冗談じゃない。この映像から読み取れる事実はふたつ、父親が屈辱を与えることによって支配を行う人物だったことと、母親が我が子との接触を避けるほどに冷淡だったということだ。マスコミ全般がする合法殺人幇助の雰囲気は、いつも私を窒息寸前に追い込む。ただ、真実を呼吸させてくれ。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破


ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破


今作ではいい具合に演出からセックスが抜けているので、馬齢を経た身にはたいへん気持ちいい。セックスが抜けているのに気持ちいいというこの矛盾を可能にする7日で8回の視聴ッ! その凄絶な克己の果てに、旧作で幾度となく繰り返された「他人の恐怖」は、人間同士というよりはむしろ男性から女性への恐怖であったのだと気づかされた次第である。あとね、司令と副司令のシーンでぜんぶ副司令から台詞が始まってて、たぶん今回は副司令が上位者ないし黒幕なんだろうなって思ったの。なんかすごい、意識的なガーゴイル声だし。

イングロリアス・バスターズ


イングロリアス・バスターズ


第1章は頭髪が抜けるくらい面白かったが、その後はMr.ビーンがカンヌで残虐に大暴れしてるみたいな感じで残念だった。もちろん、タランティーノというだけで期待のハードルが上がる人間の感想であることを諸君は念頭に置かねばならない。