猫を起こさないように
月: <span>2010年8月</span>
月: 2010年8月

インセプション


インセプション


結論から言えば、本編の主要な映像をコラージュした配給会社による予告編がいちばん面白かった。君は「何度も見る価値がある映画」という評論筋のふれこみに騙されてはいけない。なぜなら、物語が難解なのではなく、設定が難解であるに過ぎないからだ。以下の括弧内は読み飛ばしてもらって全く問題無いが、「ゲメレ星人の右脇の下から伸びているのは我々で言うところの生殖器である。彼らは我々のようには、その露出を躊躇しない。なぜならそれは、文化的役割を持つ第三肢と考えられているからである。重力方向に対してそれを垂直に三十度捻りながら性交を行えば快楽目的の情事となり、三十五度を越えて捻った場合は本来の目的、すなわち純粋な生殖の合意となる。ただし、ゲメレの母星における重力は直下へ向かうが、その衛星においては天頂へ向かうことを念頭に置かねばならない。さらに、150日周期で母星と衛生の重力方向が入れ替わることは、触れるまでもない常識である」と同程度に混みいった設定を開始直後から一時間足らずで叩き込まれ、後に訪れるトリックの衝撃と物語の感動がその設定の理解度に大きく依拠するという作り方になっており、SFとミステリーの融合はギャグにしかならないというのは、改めて真理であると気付かされた次第である。それと、「マトリックス以来の新しい映像表現」って、ほんとに北米メディアが言ったの? 英語で記述されてる第三世界の掲示板から適当に拾って極東メディアが翻訳したんじゃないの? ウォシャウスキー兄弟つながりで言えば、ザ・ウォーカーがたちまち上映終了になって、あちこちインセプションだらけになったのもすごく気持ち悪い。つまり、ケン・ワタナベの出演こそが本邦における高い評価の理由なんじゃないの? なんとなれば、我々は学校で、職場で、ネットで、あるいは家庭でさえ、愛国心を検閲される社会に生活しており、 抑圧されたその感情は常に出口を求めているため、いったんそれが見つかれば高圧で噴出するのである。例えば、芸術とか、スポーツとか、もしかして差別とかね。あと、「最後にコマが倒れるシーンをフィルムに入れなかったのは、深いよね」としたり顔で語る学生カップルの男の方、ちょっとこっち来い。直々にチョウパンいれてやるから。

シャーロック・ホームズ


シャーロック・ホームズ


今更ホームズをやろうというのだから、何か尋常ではない切り口を発見したのだろうと思っていたら、やっぱり尋常ではなかった。原作のマイナーな要素を切りだして造形したキャラクターが、いずれも立ちまくっている。しかしながら極東在住のおたく諸氏の抱く感想は、その大勢が「不二子」ないし「勇次郎」へと帰着するに違いない。シリーズ化希望。

新しいnWo、始まるよ!

 子どもの絶望だけが真の絶望であると少女保護特区で喝破したところの俺様だが、近々に発生した例の陰鬱な児童遺棄事件の顛末を想像するとき、なぜかその映像が新井英樹の絵柄で生々しく脳裏に再生され、ひどく気の塞ぐ日々である。灯りのない暗い部屋で、食事も与えられないまま、届かぬ悲鳴を上げ続けるのはいかばかりの絶望か。かたや、アクセスの無いネットの片隅で、感想も与えられないまま、届かぬ更新を続けることの、衣食足りた惨めさは、はたして余人の同情や憐憫に値するだろうか。
 四方を妄想の敵に囲まれたnWoの乾坤一擲、少女保護特区は、いまこの文面を閲覧している諸君の一人ひとりが直接関与した加害者として知っているように、凄惨極まるネグレクト、黙殺のうちに幕を閉じた。ネット大道芸人のあげる悲鳴の切実さは、モノラル・スピーカーに濾し取られた雑音へと変じ、nWoのURLを通り過ぎる人々はそれへ一顧だに、一瞥だにくれようとしなかったのである。極めて優しい俺様は、それがネット世界に長く生息した人々の習い性であることもまた、理解している。ここでは、心に何かさざ波が生じたとして、その衝動を誰かへ手を伸ばす正の閾値まで高めることは困難だし、もし不快を感じたとしてさえ、ただ強めにマウスをクリックしてブラウザのタブを閉じさえすれば、晩飯がまずくならない程度には充分に胸がすくからだ。
 だが、俺様が言いたいのは一般論ではない。少女保護特区であり、nWoである。ホームページという擬似メディアの無力さを改めて確認させられる今回の顛末に、アルコール性の健忘症でずいぶんとならした俺様も、さすがに同じアプローチのままでは本当にアクセス数ゼロのネット無縁仏と化してしまうと危惧し始めた。いよいよ、全く異なる芸風を開拓することによって、緘黙症の諸君のみならず、新しい客層を積極的に求めねばならない季節が訪れたということだ。
 しかしそうなれば、十年をかけてnWoが提示してきた世界観が破棄されることに対して裏切られた気持ちを抱き、悪し様な声高に、あるいはひっそりと去ってゆく者たちが生まれることも、また必定であろう。少なくともこの文面を閲覧している諸君には、たいへん心優しい俺様が、諸君の繊細極まる心へ徒に流血を求めたとの誤解は与えたくない。交わされた虚しい約束や、通りすぎていった愛のささやきが、ついに“萌え萌え学園ファンタジー”へと集積することをあらかじめ心得て欲しいのだ。
 どうやら一部の諸君には、俺様の意図するところが正確に伝わっていないようだ。抽象的な文言を論理として脳内へ構築することが困難な、表情筋の退化した、鳩の如き表情を浮かべている君へ、よりわかりやすい映像を与えよう。君の立たされている場所は、両方の側頭部が著しく後退した宇宙人の王子の俺様が白手袋の握りこぶしを眼前に誇示しながら、「どうなっても知らんぞー!!」と君に向けて絶叫しているくらいの危地なのである。
 まだ、間に合う。諸君は思いのたけを俺様へ進言してよい。しかし、言葉を捧げるための流麗な文体を模索するあまり、一昼夜をかけるうちにちんちんまんまんへ手が伸び、すべてどうでもよくなってしまう例の作業を経る必要はない。考えてみたまえ。王の問いへいらえを返すのに、まず己が王であらねばと苦悩する臣下がどこにいようか。問いは単純である。“萌え萌え学園ファンタジー”を次回更新とするべきかどうか。肯定か否定のみで、求める内容として全く過不足はない。幸福な未来のために、俺様はいましばらく時間をかけようではないか。

 あと、今回の話題と全然関係ないし、全然気にしてもいないんだけど、え、もしかして、今年もコミケ近いの? ヤだ、アタシったら、コミケがそんな近いなんてちっとも知らなかったー、いやーん、って思った。

Dr.パルナサスの鏡


Dr.パルナサスの鏡


故ヒース・レジャーを取り巻く友情とか、テリー・ギリアムの不幸体質とか、周辺状況を楽しむ作品だと思った。原題でもある博士の想像力の世界に、視聴前期待していた精神病すれすれの妄想とか気狂いの夢みたいなブッ飛び方は見られず、どれも妙に理に落ちる感じだった。韜晦が深みを生む監督の作風からすれば、こういう題材選びは逆に底が割れてしまう感じがして良くないのになあ、と無責任に考えた。