キャピタリズム
ドキュメンタリーの悲しいところですが、現実の方がすでに先へ動いてしまいました。ただ、民衆が歩んだオバマ政権誕生への足跡として視聴すれば、充分に感動的です。少なくとも私は目頭が熱くなりました。資本主義の否定にキリスト教を持ち出すあたりも、ずるくてうまい。あと、他国の産業を戦争で破壊した結果、その空隙へ滑りこむ形で米国の好況があったという下りには、目から鱗が落ちた。
日: 2010年7月2日
怒りのハントウ
尊厳の否定が怒りの本質である。本来の対象に向かうことを禁じられた場合、その怒りは消滅することなく内奥へと溜まってゆく。「子は親を産めない」を旨とする儒教の本質は、親を子の怒りから防御する点にある。かの国にて突如として怒りを激発させる症状が病名を与えられるほど一般的なのは、この帰結を考えれば至極当然である。解消されない怒りが本来の対象以外へ向かった場合、それのもたらす結果は苛烈かつ破壊的なものとなる。他人に向かった場合は殺人へと至り、己に向かえばそれは自死となる。そしてある種の芸術は、怒りを昇華させることによって為される。だが、彼は死んだ。彼は己の生業において、怒りを昇華できなかったのだ; Quod Erat Demonstrandum
さて、以上の散文で私は何を証明したのか。妙齢の婦女子が熱狂する/したドラマ群が芸術ではないことを証明したのである。
なぜ突然、かようなエントリーを行ったのかと諸君はいぶかっているだろう。かの君の“家族団欒”とやらの、十数秒の映像を偶然目にしたからである。カメラが回る中、父親が「まだお祖母ちゃんのオッパイを触っているよね?」とかの君に尋ね、一瞬の氷ついたような沈黙の後、かの君がした弁明に家族は爆笑する。親子関係についての話題を提供するときのテレビの常だが、まるで美談のようなナレーションを伴っていた。まったく、冗談じゃない。この映像から読み取れる事実はふたつ、父親が屈辱を与えることによって支配を行う人物だったことと、母親が我が子との接触を避けるほどに冷淡だったということだ。マスコミ全般がする合法殺人幇助の雰囲気は、いつも私を窒息寸前に追い込む。ただ、真実を呼吸させてくれ。