猫を起こさないように
月: <span>2010年7月</span>
月: 2010年7月

ゼロの焦点


ゼロの焦点


主に洋画と海外SFで青春を空費したところの小生は、日本人の記述する原作など当然未読である。「松本清張=赤いシリーズの胸やけ+社会情勢に根ざす動機」、げぃか、おぼえた。しかしながら、現代に松本清張の存在できない理由がわかったことは収穫である。ミステリーはトリックよりも犯人の動機がいかに多くの共感を呼ぶかが最も重要だと考えるが、万人にとって有効な「社会的動機」はもはや本邦には存在しないことがそれだ。戦後という時代背景が不幸を大文字化していたがゆえの松本清張であり、例えば君とぼくが抱くところの、魂の深奥を二次元につかまれながら同時にその事実を深く恥じる感覚など下の世代には理解できないだろうし、さも大文字の不幸であるかのようにマスコミが喧伝するところの、安い賃金と不安定な雇用で飼い殺されている君とぼくなども、実のところ上の世代にとっては対岸の火事を眺めて、せいぜい火元の無用心を囁きあうくらいの内容に過ぎず、それらを動機とした犯罪には多くの非難か失笑が返ってくるだけである。現代の不幸の正体とは、各人の抱く不幸が世代で切り分けられているがゆえに、総体としてとらえた場合、少数の共感をしか得られたように思えないという、体感の欠如なのだ。おそらく次の松本清張が生まれるのは、多数決で勝利できる不幸が本邦に現出したときであり、もしそれが戦争でないとするならば、宇宙人の襲来くらい思いつかないなあと、主に洋画と海外SFで青春を空費したところの小生は夢想するのであった。あと、ヒロスエ、だいこん、げぃか、おぼえた。

プロミス


プロミス


「B.Z.が帰れば、友だちになれたこともきっと忘れてしまうんだ」。約束が反故にされることが悲しいのではない。悲しいのは、二度と癒えないと信じたあの痛みさえ、時がもたらす忘却を前にして、水のように消えてしまうこと。二年後の映像が、ひどく胸に迫った。大人になることは、世界という命題に関与しなくなることだと、否応に教えてくれるから。

かいじゅうたちのいるところ


かいじゅうたちのいるところ


大人の頭で考えた、子どもが楽しいと思うこと。大人の頭で考えた、子どもに聞いて欲しいこと。そして、その説教を子どもには見えない物語の裏へ隠しおおせたと信じる傲慢。これらすべてが作者の意図を踏みにじり、原作の持つ普遍性を制作サイドの自尊心という矮小なサイズへ貶めている。

借りぐらしのアリエッティ


借りぐらしのアリエッティ


久しぶりに「思想性無し」「政治性無し」のジブリが描くボーイ・ミーツ・ガール。観客は、豊かな美術と多彩なアニメーションに支えられたシンプル極まるストーリーを追いかけて、爽やかな余韻と読後感だけを手に入れることのできる佳作――ぼくも、みんなと同じくそう思っていたのです、あの恐怖の瞬間が訪れるまでは。「地球の人口67億」「君たちは滅びゆく種族」――突如、その場面までほとんどキャラ造形がのっぺらぼうだった少年が、ストーリーラインから完全に外れた意味不明の供述を繰り返しはじめたのです。そう、それはまるで、御大が少年に憑依したかの如くでした。お化け屋敷の吊るしコンニャクが首筋に入ったような不意打ちを食ったぼくは、思いがけぬ真夏の納涼にぞっとして、最後までひとり、劇場の隅でぶるぶる震えていた。こわい、メッセージ性、こわいよう。

リベリオン


リベリオン


インターネットではB級がもてはやされる傾向にある。なぜならA級を褒めたところで自分の手柄にはならないし、何よりnWo自身がその生きた証明であるように、インターネットにしか居場所のない誰かはA級をうらやむB級そのものであるから。あと、とりあえず、1984年→ゼン-ガン→マトリックス→ガン-カタ→ザ・ウォーカーという自由連想を記載しておく。

パラノーマル・アクティビティ


パラノーマル・アクティビティ


スピルバーグ大絶賛のふれこみにワクワクしながら視聴を開始したが、なにこのブレアウィッチ・プロジェクト。あと、ひとつのネタを延々と引っ張りに引っ張って、最後に肩すかしのオチを持ってくる構成になんか既視感あるなあと思ってたら、浦沢直樹だった。それと、女優の顔になんか既視感あるなあと思ってたら、トゥーリオだった。

キャピタリズム


キャピタリズム


ドキュメンタリーの悲しいところですが、現実の方がすでに先へ動いてしまいました。ただ、民衆が歩んだオバマ政権誕生への足跡として視聴すれば、充分に感動的です。少なくとも私は目頭が熱くなりました。資本主義の否定にキリスト教を持ち出すあたりも、ずるくてうまい。あと、他国の産業を戦争で破壊した結果、その空隙へ滑りこむ形で米国の好況があったという下りには、目から鱗が落ちた。

GOAL!


GOAL!


世間の雰囲気に便乗してアクセス数を稼ぐことを悪と断罪できるほど、この小鳥万太郎、若くない。いいか、2と3は見るなよ! ぜったいに、見るなよ!

怒りのハントウ

 尊厳の否定が怒りの本質である。本来の対象に向かうことを禁じられた場合、その怒りは消滅することなく内奥へと溜まってゆく。「子は親を産めない」を旨とする儒教の本質は、親を子の怒りから防御する点にある。かの国にて突如として怒りを激発させる症状が病名を与えられるほど一般的なのは、この帰結を考えれば至極当然である。解消されない怒りが本来の対象以外へ向かった場合、それのもたらす結果は苛烈かつ破壊的なものとなる。他人に向かった場合は殺人へと至り、己に向かえばそれは自死となる。そしてある種の芸術は、怒りを昇華させることによって為される。だが、彼は死んだ。彼は己の生業において、怒りを昇華できなかったのだ; Quod Erat Demonstrandum

 さて、以上の散文で私は何を証明したのか。妙齢の婦女子が熱狂する/したドラマ群が芸術ではないことを証明したのである。
 なぜ突然、かようなエントリーを行ったのかと諸君はいぶかっているだろう。かの君の“家族団欒”とやらの、十数秒の映像を偶然目にしたからである。カメラが回る中、父親が「まだお祖母ちゃんのオッパイを触っているよね?」とかの君に尋ね、一瞬の氷ついたような沈黙の後、かの君がした弁明に家族は爆笑する。親子関係についての話題を提供するときのテレビの常だが、まるで美談のようなナレーションを伴っていた。まったく、冗談じゃない。この映像から読み取れる事実はふたつ、父親が屈辱を与えることによって支配を行う人物だったことと、母親が我が子との接触を避けるほどに冷淡だったということだ。マスコミ全般がする合法殺人幇助の雰囲気は、いつも私を窒息寸前に追い込む。ただ、真実を呼吸させてくれ。