96時間
アクションとしての爽快さに加え、「悪役をブッ殺す理由が万人にとって正当」という爽快さがたまりません。悪役はブッ殺されるほど悪いんだから同情なんか不要だし、オマエ、悪の組織が体現する社会矛盾なんて知りたくもねえんだよ! 娯楽でまで俺に説教すんじゃねえ!
日: 2010年3月20日
亜神の住処
虚構の高揚感に水をかける行為は、交尾中の犬に水をかける行為と同じなのだろう。物語の自走性を読み手の興味に合わせてわずかでも曲げることができれば、もう少し人も集まるだろうにとも思うが、同時にそうなればホームページで書く意味は無くなるだろうなとも感じる。少女保護特区の結論はあらかじめ用意されていた。さらに言うなら、「両親が見ていたのは、この光景だったのか」という一行を書きたいがための更新であった。
最近、文章芸術とはすべて、主人公の心に宿っていたようなDemigodの産物ではないかという気がしている。幼少期に楽園を得なかった人々は、その神の空席へ己自身を昇格させるのだ。そして、絵画芸術の半分と、音楽芸術のすべてはGodに由来している。もちろん、この偏見に「アマデウス」が影響を与えているとの指摘を退けない。
長い更新を終えるのはこれで三つ目だが、終盤へ向かうにつれていずれも似たような表現が顔を出し始め、結局はいつも同じ場所へとたどりつく。毎回、意識して違う展開を心がけているにも関わらずである。己を掘り下げる書き方をすると、どの穴からも精神的な課題という鉱脈へぶちあたるようだ。ただ今回、半歩先へ進んだと思えるのは、「壊された魂はどうふるまうか?」というモチーフから「なぜ魂は壊されなければならなかったのか?」へと主観の角度が若干の変化を見た点である。
壊された誰かが子を得て、その魂を壊さなかったとすれば、それは人の成し得る最も偉大な成果のひとつであると私は信じる。残念ながら、私には少女保護特区のエンドマークの向こうを見通す資格が与えられていない。だが、nWoを閲覧する諸君がこの偉大な課題を得たならば、少なくとも一人が君を応援していることを忘れないでくれ。
さて、いよいよ節を曲げて、己の課題とは何の関係もない、全くの絵空事を虚構として書かなければいけない季節が訪れたのかもしれない。以前冗談めかして触れたが、もしかすると萌え学園ファンタジーなどがその良き題材になるのやもしれぬ。もちろん、nWoはホームページとしてのインタラクティブ性を最重要視していることを諸君へ伝えておく。