猫を起こさないように
日: <span>2009年12月4日</span>
日: 2009年12月4日

????

「塀の中から発言をする、というのは非常に象徴的でして」
 分厚いガラスの向こう側から、スピーカーを通じた声が響く。事前に予想していた感慨を何も持たないでいる自分に気がついた。男の声が含む一種の魔的な力を弱める効果はあるのかもしれない。
「評論家たちが取る立ち位置の、現実に対する効力感の欠如へ、風刺的にまとめて言及することができる点でね。時折、類似の事件に際して、思い出したように君のような人物が面会にやって来る。おそらく、言葉の足りない、論理の裏づけの希薄な反社会的行為というものに耐えられなくなって、おしゃべり好きな奇人へ、気のふれているなりの理由を解説して欲しいんだろうと思う。社会の堅牢さを維持するには、その構成員の過誤を一種の論理エラーとして捉えねば、矛盾として、つまりはそれを取り除けば正常な機能を取り戻せるという意味でのバグとして排除することが困難になるから」
 男の顔にはいくつかの青痣が浮かんでおり、薄い唇には切れた跡があった。視線に気づいたのか、奇妙に官能的な仕草で傷口をなぞる。
「うとまれるのには慣れているが、うとまれるときの度合いというのが、いつも尋常ではなくてね。昔からです」
 自嘲的に顔を歪めると、傷にさわったのか、眉をわずかにしかめた。男の背後には刑務官が直立しており、普段の生活では意識しない、非人格的な、ゆえに人間を斟酌しない公というものの圧力を私に思い出させた。
「いまや人々は、与えられた民主主義になじまず、望んだ社会主義を選択しようとしている」
 思考を読まれたような錯覚に驚いて、視線を戻す。
 色素の薄い瞳。向けられる両目の奥に、私はそれまで気づかなかった異様な光を察知した。
「現在を食い荒らすポピュリズムは、万人の未来を担保にしている。あらゆる特権は部屋の端から絨毯をめくるように剥奪されてゆき、それは同時に、目指すべき峰々と頂を喪失した登山家の絶望にも似て、未だ何も為さぬがゆえの希望を抱いた人たちへ迫る。己の能力に見合う専門性を突き詰めてゆくことから生じる称揚感は人間の向上に不可欠な要素だが、それさえも待ち受ける罵倒に著しく弱められることをあらかじめ予期せねばならない。より良くありたいという魂の本来が、低きへの同調圧力により否定される。これから始まる人たちに共通する不幸ですね。やがてビューロクラットたちへすべての特権は集約され――」
 そこで男は刑務官の方をちらりとうかがうと、わずかに声をひそめた。私は冷ややかに考える。ここでの会話はすべて記録されているはずだ。だとすれば、その行為は文字通りの芝居に過ぎない。
「――つのる不満の解消はバンドワゴンの方法を以って為される。つまり、社会の構成員一人ひとりが他の構成員たちによる一斉の攻撃対象である一時期を受容した、憎悪の持ち回りが始まるのです。憎悪は定常しません。憎悪にも、新鮮味が必要というわけです」
 男は、それがひどく面白い冗談であるとでもいうように、くすくすと笑った。
「そして、構成員のすべてが憎悪をリレーし終えたならば、他の民族、他の国家へと転移の先を拡大する。究極には、いくつかの民族ないし国家との、破滅や覇権を“賭けない”恒常的な戦争状態を作り出すことができれば――」
「オーウェルですね」
 思わず、口を挟んでいだ。呵成な、しかし一方通行の言葉に飲みこまれそうになったからだ。ここに至り、発言の内容というよりは、抑揚や声の調子こそがむしろ危険なのだと気づかされる。
 男は、気勢をそがれたような表情で、手のひらをこちらへ向けた。
「いや、すまない。ホラ吹きの、誇大妄想の習い性で、ついつい話が大きくなってしまう。もはや自分に関係ないものとして天下国家を論じるときの快感は、ちょっと何事にも変えがたいからね。語ることは伝えること、伝えることは教えること、そして、教えることは成すをあきらめることだと言う。君がわざわざ面会を求めてきた理由について、もっと配慮をするべきだった」
 言いながら、軽く頭を下げる。高まりつつあった先ほどの熱気は、嘘のように消えていた。感情の振幅よって受ける印象が全く変わってしまう。不思議な人物だ。
「では、単刀直入に君の聞きたい言葉を言おう。『現在、この国において、テロは非常に有効な手段だ』」
 今度は淡々とした言いぶりだったが、言葉の内容そのものが瞬時に私を縛りつけた。
「例えば、君は田舎路線の怠惰で不機嫌な駅員だ。ときどきの理不尽なクレームを除いては、微睡むように日々を過ごしている。今日もバケツを片手に、アンモニア臭のこびりついた駅構内のトイレで、乗客の小便や大便へモップをかける。経費削減の折、清掃業者も快速の止まらぬこんな小さな駅にはやってこない。この仕事が嫌で嫌でしょうがない君は、ある日、ネットで手に入れた毒――水溶性で、粘膜から吸収されるヤツだ――を密かにトイレットペーパーへと染み込ませる。声明があれば、なお効果的だ。一週間も経たないうちに、沿線すべての駅構内にあるトイレは使用禁止となり、君はときどきの理不尽なクレームを除いては、汚物処理から解放された日々を心安らかに過ごすことができる」
 馬鹿げ例えばなしだ。そう考えた瞬間だった。
「そう、馬鹿げた例えばなしだ」
 まただ。まるで私の思考を読んだかのように、男はうなづいた。
「何より、達成される結果のくだらなさと、己の社会生命を永久に失う危険性とが、全く釣りあっていない。この二つを釣りあわせる方法は、論理的に考えて二つだけだ。ひとつは、人生を投げうつほどの大義を、もたらされる結果に与えること。もうひとつは、個人の価値をもたらされる結果の矮小さにまで縮減すること。おや、我々の社会が抱える危機の正体がどうやら見えてきたな」
 男はいまや、間近で遭遇した草食獣を見る肉食獣が持つ確信で、ことさらにゆっくりと身を乗り出してみせた。
「個人の価値は、その内面的な膨張とは真逆のベクトルで、急速に消失の地点へと向かいつつある。一度その事実を何の虚飾もなく直視してしまえば、反社会的行為へ己を投げ出すのは、至極簡単な仕事になる。恋愛やアイドルや虚構やエロや、そんな安い充足さえ、やはり充足なのだという単純な人間心理に思い至らず、総じて何らかの規制へと向かう昨今の動きは、社会にとっての錆びついた安全装置を外そうとする試みに他ならない。やがて可視化した因果に青ざめることになるのだろうが、私にとってそれはまずまず素晴らしい、満足のできる結末のひとつと言えるだろうね」
 私の心中を直接に値踏みするかのように、色素の薄い両目が細められた。
「君はまだ、ふりをしている。理解できないふりを。メディアは『不条理な暴力に屈してはいけない』と言う。いずれも判で押したようにだ。しかし、言う者も聞く者も、実感など持ちはしない。なぜならそれは、台本に書いてある、反社会性に対する定型的な応答に過ぎないからだ。一線を越えてしまった者たちの切迫感や熱には及ぶべくもない。両者の関係性を人々に連想させないための冷却期間を置くほどには、この社会は賢明だが、現に首都の電気街で発生した事件は法改正にまでたどりついた。その実行犯の願いをかなえるが如く」
 私はそのとき、ある種の惑乱状態に陥っていたと思う。なぜなら男の言葉は、長らく私の脳髄を占拠していた妄想と合致してしまっていたから。
「乱立する新興メディアを含め、一億が放言する無秩序さの中で、誰も君の言うことに耳を傾けたりはしない。唯一、大勢から耳目を集めることができるのは、一定の歳月に耐えた能力者か、社会秩序の擾乱に繋がる規模の犯罪を行った者だけだ。もっとも、準備はしっかりとしておくことだ。与えられるのは、構成員の多数へ向けた発言のチャンス数回でしかない。だが、過剰に恐れる必要はない。個人的な経験から言えば、ほとんどのメディアはよりセンセーショナルな報道を求めるという点で、内容を吟味できるほど賢明であるならば、むしろ我々にとっては味方となりうる。必要なのは、一つの生と一つの主張との等価交換を是とする気概だけだ。本来、個人が微温的な安寧を拒否することは、簡単ではない。しかし、社会から十全に許容された人間が、私などの話をわざわざ聞きたいと考えるとは思えない。だとすれば、答えはすでに、君が独力でたどりつける場所にあるはずだ」
 男はゆっくりと片手を持ち上げると、私の胸元を指差した。適切な返答を思いつくことができず――何よりこの会話が記録されているのだという事実と、背後に控える刑務官とにひどくうろたえてしまい――面会時間を残したままコートを手に取ると、曖昧な暇乞いと共に私はあわただしく立ち上がった。
「もうないとは思うが――」
 ドアノブに手をかけたところで、背中に声がかけられる。
「また私を訪ねる気持ちになったら、次は何か甘いものを差し入れてくるとありがたい。最近どうにも、脳の働きが悪くなってね」
 ひどく面白い冗談を言った、とでもいうような忍び笑い。
「いや、つまらぬことでお引き留めだてをした。では、ごきげんよう、上田くん」