帝政ローマの下水道を思わせる石組みの莫大な空間を、一艘のいかだが流されてゆく。空間はわずかに傾斜しており、行き先は黒く霞んで見えない。
いかだの中央には和装の老婆が正座をしている。いずこからともなく老婆を中心に照らすスポットライト状の明かりが、唯一の光源である。
――蛆虫、飯粒、塵芥、蛆虫、飯粒、塵芥……
老婆、喪失した歯に窄まった口をもごもごと動かし、何事かを呟いている。形容するならば、男声と女声によるホーミーを思わせる声色である。だが、空間を満たす「ごーっ」という水音に、ほとんど掻き消されている。
老婆、突如括目して喉をそらし、絶叫する。
――蛆虫!
――おまえは道化だ。
老婆の左後方から、声がする。背後に誰か立っているようだが、年恰好や性別は判然としない。この暗闇に、両脚をシルエットとして確認するのがやっとである。
老婆が再び絶叫する。莫大な空間を己の音声のみで満たそうとしているのか。それは絶望的なまでに滑稽な試みであった。
――飯粒!
シルエットがみじろぎするように、わずか立ち位置を変える。
――おまえは人間ではない。
老婆の右後方から、声がする。投げられた言葉へ呼応するように、老婆の喉元から鳩尾にかけて刃物で切り開いたような裂け目が生じる。内側から、発光する極彩色のビー玉が次々に零れ落ちる。かちかちと音を立てながらはずむと、いかだの進行方向とは逆に転がってゆく。だが、背後の人影へもたどりつかないうちに、みるみる褪色し、形象を喪失し、灰色の粉となって風に吹き散らされる。
――塵芥!
――おまえは善人だ。
失笑のような気配を残して、背後の人影は消えた。老婆は気づかない。あるいは、知らないのか。その音声はますます高まってゆくが、伝達は生じない。
ゆえに、意味もまた生じない。
老婆の胸元からは、発光する極彩色のビー玉が零れ落ち続けている。もはや明らかに、老婆自身の容積を超える量である。
帝政ローマの下水道を思わせる石組みの莫大な空間を、一艘のいかだが流されてゆく。空間はわずかに傾斜しており、流れの行き先は見えない。老婆を中心に照らすスポットライト状の明かりは、いまや切れかけた電球のように不快なタイミングで明滅を繰り返している。
――蛆虫、飯粒、塵芥、蛆虫、飯粒、塵芥……
水の流れは、わずかに速まってゆくようである。「ごーっ」という水音は、もはや耳を聾せんばかりだ。
瀑布が近づいているのか。すべてを呑みこむ、あの瀑布が。