猫を起こさないように
日: <span>2008年6月11日</span>
日: 2008年6月11日

失われた時を求めて

 ネットワークがあらゆる情報を拡散させ、現実に新たな位相を加えたことにより、個は流動的で置換可能なものとなったという言説に、私は眉をひそめる。例えば台所に生息する黒い昆虫を見ただけで悲鳴をあげる婦女子が、それを指でつまんで口に放り込む事態が、新たな情報の流入により可能だと断言する輩はいまい。肉と時間軸を度外視せねば、個は流動できない。この場合の軸とは文化変容を招く十年の単位ではなく、百年を単位とする歴史的な時間を指す。
 私たちは、トラウマティックな個への外挿に操縦されるだけの存在である。私の言う操縦のイメージは電気的な厳密のコントロールではなく、操り人形の糸が持つようなルースさだ。自由意志を漠然と信じさせるほど制約は少ないが、それは明らかに我々の行動をある範囲と方向に収めている。
 亡くなった祖母がよく、「あの家は三代前の旦那が妻をひどくいじめ、虐待で得た障害を理由に里に帰したことがあって、そのせいで今でも係累の自殺が絶えないのだ」などと語ったものだが、この話は私には全くオカルトのようには響かなかった。トラウマにも満たないような精神的余波が、糸電話と同じ要領で現在の我々へ連絡をしているのである。若い世代ほどより流動的な個性を持つという仮説も、やはり空論である。
 養育者の側へ生活する限り、つまり最初のトラウマティックな外挿に近い場所にいる限り、私たちにつながる操り人形の糸はあまりに身体へ接近しているので、ほとんど自由な活動を持ち得ない状態にある。やがてそこを離れ年齢を重ねることは、すなわち操り人形の糸が長くなってゆくことを意味している。重なることは無くとも、精神の自由へ近似してゆくのである。肉を無視するのは、それが恐ろしいからだ。しかし、肉を無視して現実を評論する行為は、摩擦係数を無視してエンジンを設計する行為と酷似する。
 唐突に話は変わる。私たちは、ずっとひとりでやれと言われてきた。しかし、ひとりでやればただ狂わないだけで力を使う。だから、わずかな他人の関心によって最初の歪みが補正されることが、実は意外に重要だ。社会とか、そういう大きな名付けの枠組みを恨んでいるわけじゃない。ただ、生きることのすばらしさを運命づける熱気を与えられなかっただけだ。私たちの失敗を非難するときにだけ膨満するこの熱気は、充分絶望に足りる。そして、狂わなかった幸運に感謝したい。この偶然はきっと、我が身の歳月だけでは説明がつけられない類のものだ。