猫を起こさないように
日: <span>2007年4月26日</span>
日: 2007年4月26日

虚皇日記

 http://newworldorder.jp/archives/cat4.shtml#a000039

 紫の靄を局所にまとわせた全裸の男が上半身を30度ほど傾け、両手で空中にある特定部位をまさぐるような仕草を続けている。周囲には半ば瓦解したエンタシス式の柱廊があり、男の足下には物乞いのためだろうか、薄汚れた青い逆さ洗面器が転がっている。全身から汗を飛び散らせながら空中にある特定部位をまさぐる作業を続ける全裸の男だが、周囲は完全な無音であり、ときおり柱と柱の間を風が吹き抜ける音がするのみである。男、顎の高さに掲げた右手を勢いよく腰まで振り切る。その謎の素振りが終わるか終わらないかのうち、男、唇をひょっとこのように突き出して「ぎゅわーん」と効果音らしい音声を口にする。余韻を楽しむかのように全身をぶるぶると痙攣させるが、周囲はやはり無音である。長い空白の後、ちょうど投手のするワインドアップの要領で肩口にかかっていたらしい何かを取り外すと、男、腰の引けたパントマイムで近くの柱にそれを立てかける。男、洗面器を前にしてガニ股の空気椅子を始める。膝に乗せた腕で顎を支え鷹揚な表情を作ろうとするが、その試みは傍目にも完全に失敗している。
 「本日この瞬間、我は“虚皇”を襲名する。この世のあらゆる有に対するアンチ、人類の敵、生命の敵、でも少女の味方、それが我という実存である。死でさえも我の協力者ではない。死は生の一部であり、我の望むのは無、死でさえも意味を喪失する完全な無である。その意味で、時間だけが我の唯一の味方である。我と共に歩みたい者はただ一言、我に宣言せよ。捧げる、と」
 小鼻を膨らませて、男、足を組もうとするが、片足で空気椅子を続けられるわけもなく、背中の方向へ盛大に転倒する。固いもの同士がぶつかりあう鈍い音が響く。男、両手両足を大の字に伸ばしたまま、動かなくなる。両足の間からは紫の靄がのぞいている。
 男、首だけを起こす。
 「これで終わりじゃないぞよ。まだもうちっとだけ続くんじゃ」
 男、首を元の位置に戻す。全裸の大の字を俯瞰から映すカメラが遠ざかり、女性ボーカルが低い声で歌う外国語の歌詞が流れ始める。
 画面が暗転する。

ガッデムさん(2)

 「いやァ、うれしわァ。私、子どもの頃からずうッとガッデムさんのファンやってん」
 「さよか。そら、おおきに」
 「主題歌かて、まだそらで歌えますよ。非道ォー、せぇんしィ、ガぁッデムぅ、ガぁッデム、君よォー、パシれー」
 「自分、看護士のくせして相部屋で大声だしなや。向かいのベッドのニイちゃん、にらんどるで」
 「あの人は誰に対してもあんなふうなんですよォ。ここだけの話、ガッデムさんの前にもふたり、オバアチャンが入っとったんやけど、ふたりともなんや気味悪いゆうて部屋かわってますねん」
 「ぶるぶるぶるぶるッ。なら、ワシは三人目かいな」
 「まァ、ガッデムさんは戦争にも行ったことあるロボットやし、だいじょうぶかなァ、おもて」
 「じぶん、傷くつわ、それ。鋼鉄の中身は繊細なハートでできとんねんで」
 「またまたァ。これ、入院のための書類やからサインだけしてもらえますか」
 「えらい細かい字やなァ。老眼で読まれへんわ。それにしても向かいのニイちゃん、顔色も目つきもだいぶ悪いで。なんで外科病棟なんかに入院しとるんや。ぱッと見ィ、どっこもイワしてへんけど」
 「本人は精神病やゆうて信じてるみたいやけど、先生の見立ては大腸炎ですわ。切るかもしらんからここに入れてるんやて」
 「へえ」
 「なんでも地元で有名な髪結いのオバアチャンが身内におって、テレビにも出たことあるらしいねんけど、そのオバアチャンがなんかするたび親戚中ふりまわされるねんて。こんどの都知事選にも出馬するゆうて、だいぶ親族会議でもめたらしいわ」
 「そら、美談どころの話やあらへんな。しかし自分、ひとの個人情報をあんまベラベラしゃべらんほうがええんとちゃうか。最近どないもこないもうるさいで」
 「なに水くさいことゆうてんのん。ガッデムさんはどんな年とっても私のアイドルやさかい、特別やがな。ほら、早うサインしてしもてや」
 「君がずっと邪魔しとんのやがな。ハラ撃たれてからこっち、どうにも手に力が入らんのや……ほれみい、せかすから書き損じてしもたやないか」
 「歯ァ、食いしばれ。そんな書き損じ修正してやる」
 「アラ、この子くちきいたわ。めずらしなァ。やっぱりガッデムさんの人柄ゆうか、人徳やねえ」
 「あほ、もうただの中年ロボットや。あちこちボロッとるわ」
 「冴えてはるわー、ガッデムさん」
 「ニイちゃん、わざわざすまんな……おっと、いま自分、服に白いのついたで。はよとらな」
 「わかるまい。戦争を遊びにしている者には、この俺の体を通してでる力が」
 「どう見たって修正液やがな。なんや、はやりのプチ右翼かいな」
 「ガッデムさん、着替えの装甲もってきましたよ」
 「何から何まで迷惑かけるなァ。おっと、このアクセラレーターはもらわれへんゆうたやないか」
 「ぼくの気持ちやから。黙って紙袋にしまっといてくださいよ、ガッデムさん」
 「あらッ。もしかしてこの人」
 「ほれ、サインでけたで。自分おるとややこしいから、仕事もどれや。さっきからナースコール鳴りっぱなしやで。隣のベッドのオッサン、土気色やないか」
 「もうッ、女心がわからないんだから。何かあったらぜったい私を指名してや」
 「キャバクラちゃうねんど。もう呼ばへんわ」
 「あッ、コイツ、ガッデムさんのいとことコンビ組んでたヤツですやん」
 「ホンマかいな。そら気づかんかったわ」
 「そや、間違いないわ。髪ピンク色に染めたごっついオバハンをヤクザと取り合いして、それから蒸発してしもてたんですわ」
 「や、ヤクザやて」
 「ガッデムさんをねろうとる組とは関係ありませんよ。すごい黄色のストライプのスーツ着て、ふはははは、ゆうて笑うインテリ風のヤクザやったさかい」
 「おどかすなや。あれからワシ、ドアとか開くたびにビクッてなるねん」
 「病院の中は安全ですやろ。コイツもホンマはそのクチで逃げこんどるんとちゃいますか」
 「自分、その袖口のてんてん、どないしてん」
 「これは、あの、なんでもあらしまへんわ」
 「ワシを病院にかつぎこむときに付いた血ィやな。ホンマ、自分にはいろいろと悪いことやったわ」
 「なにゆうてますのん、ガッデムさんはぼくのために腕もげたことありますやん。こんなん、なんでもあらへん」
 「大きな星がついたり消えたりしている」
 「うわ、なんやいきなり。あほが、修正液で服の染みが消えるかいな。後ろにも目ェつけとけ、われ」
 「男の証明を手に入れたかったんだ」
 「意味がわからんで。頭おかしなっとんのか」
 「いや、案外見かけより狡猾なヤツかもしれへんで。ヤクザに訴えられたときのこと考えて、今からあほのふりしとんのや」