猫を起こさないように
年: <span>2006年</span>
年: 2006年

甲虫の牢獄(1)

 「いや、サングラスを申し訳ない。よく目が強すぎると言われるものでして……人前では外さないことにしています。そもそもゲームに対する批評なんてのは、全くのナンセンスですね。だいたい、世の中の大半のものは批評に値しません。もちろん、政治だけは別ですよ。日々の生活と不可分であるという一点において、改善のための政治への意識的な言及は避けられません。より広義に考えるなら、世界に対する我々の取り組みはあらゆる場合において他人との折衝を含むので、政治的と言えますから。つまり、生活と不可分なものだけが、批評に値するんです。そうでないものは、批評なんていう言葉を尽くす前に、ただその場でただちにやめればいい。やめても死にませんからね。やめられます。考えれば、この”やめる”という選択肢を持たないものは、世の中にそれほど多くありませんよ。さっき言った政治と、なんだろうな、愛? いやいや、冗談です。文学も、音楽も、芸術も、すべて疑いなくやめることができます。やめても生活が続くものを批評するのは、意味がない。ゲームなんて、文学や音楽や芸術のうちの末席の、更に後ろのムシロ桟敷でしょう――いや、いや、それに従事している人間が実感でしゃべっているのだから、余計なご批評はごめんこうむりますよ!――つまり、私たちはそこを意識しなければならないのです。私たちの熱情が”やめる”という選択肢を常に含んでいる、ということをです。紙や電子によらず、様々の媒体からの言及や論評の物量が勘違いさせ、見えにくくさせているけれどもゲームというのは、本質的に人間の営為にとって不可分・不可欠足り得ないということです。――ただ」
 「ただ?」
 「その絶望から始めるならば、どこかに届く可能性はあるかもしれない。どこかとは、人のするすべての営為が人を対象にしている以上、その心に他なりません。人間の心には”核”があります。言い換えれば、その個人の生にとっての中心的な命題です。カネとか、名声とか、セックスとか、そういったものです。その至上命題を取り巻くように、すべての後天的、つまり経験による情報が蓄積されてゆきます。先ほど尋ねられましたが、簡単に説明すると私の創作手法とは個々人の持つ”核”に直接干渉することなのです。人間は、その命題を判断基準としてしか、世界を理解できませんから。例えば、電車の中で口論を始める二人の男女がいたとしましょう。それを見て、どういう説明を加えるかは全くあなたの持っている命題次第なのです。同じ車両に乗り合わせた人間の数だけの解釈が存在しうる。状況は常にあなたの外にあるわけですから、人生とは、あるいは物語とは、外的状況を自分自身や他人に対して『どう説明するか?』ということでしかありません。説明の段階であなたの持つ”核”による情報の取捨選択、置換が行われ、あなたの現実が完成するというわけです。私は一般の方よりは多少その操作に意識的で、こう表現することを許していただけるならば、長けているのです。最も感動的な物語を作ることのできる人間は、最も人間を残虐に踏みにじることのできる人間である、ということはあなた方の自衛のためにも覚えておいたほうがよろしいでしょう。……心の”核”の話をしました。個人の”核”を肯定する情報を与えればそれは安心となり、”核”をゆさぶる情報を与えればそれは不安となる。”核”の位置を変えればそれは啓蒙か洗脳となり、”核”を破壊すればそれは憎悪か発狂となる」
 「抽象的ですね。それに人間を、ひどく単純化しているように聞こえます」
 「百人が百人理解できるよう、お話しておりますので。具体的にどう行うかという方法になりますと、これはもう、誤解を恐れずに言うならば才能のお話でして、私と同質の才能を持つ人間にしか、本当の意味で分かち合うことはできないでしょう。ですから、単純化のそしりをあえて受けて、抽象的に続けることにします。具体的なその形については、ぜひ私どもの製品をご購入いただきたい。……私はね、宵待さん、最近全く新しい手法を発見したんですよ」
 「それはいったい、どのような?」
 「個人の中にある”核”を、全く別の”核”とそっくり入れ替えてしまうやり方です。それが個人の精神に及ぼす影響を言葉に表しますと、そう……革命、でしょうか」
 「少し話が飛躍しすぎているようで、私にはちょっと理解しにくいのですが」
 「難しいことは何も言っていませんよ。そして、これまでのお話と全く乖離したものでもありません。あなたは恐れているんですよ、自分の中にある革命を。それは確かにあなたの中にあるんですよ。革命とは、個人の心にしか起こりえないことなのですから。おびえることは何もない。単純なんです。毎朝右足から靴ひもを結ぶことを決めている男が、ある日ふと左足から靴ひもを結んでみようと思う。これさえも、革命と呼ぶことができます。革命とは、個人内に完結する明文化されない通念の再構築のことです。それはあまりにも簡単すぎて、もしかしたら道徳や倫理のようにひびくかもしれません。……実際、言葉にするのは、私は得意ではありませんもので。言葉はときに、状況を単純化しすぎますからね。つまり、私が言いたいのはこういうことです、宵待さん」
 「……」
 「『あなたは変わることができるかもしれない』」
  「……の宵待薫子さん、本名・山本啓子さんが今月二十五日未明、自宅のマンションで死亡しているのを発見された事件で警察は今日、死因を自殺と断定しました……」
 ラジオのニュースが、低いトーンで流れている。
 コンビニエンス・ストアは、とても記号的だ。店内のすべてのものが、極限まで意味を希釈されてそこに存在する。陰鬱なはずのニュースさえも、コンビニエンス・ストアという舞台を伴うと、妙に白々しく、薄っぺらにひびく。
 雑誌から顔を上げて、レジの方をうかがう。正確には、その後ろの壁にすえつけられた時計を。
 午前一時四十分過ぎ。
 カウンターに肘をついて、口を半開きにぼんやりとしている店員の姿が一瞬視界に入る。ぼくはあわてて視線を雑誌へと戻した。接客マニュアルに沿っていないときの店員は、その表情や仕草に記号性を逸脱したものを発散しすぎている。店員の浮かべていた表情の裏にある様々なものへの想像が、せき止めきれないダムの水のようにぼくを圧殺しないうちに、ぼくは再び週刊誌の記事の記号性に没入しようと試みる。
 ゴシップ記事の持つ、毎週固有名詞を取り替えただけのような同一さに、ぼくは記号に守られた安らぎを覚える。一通りその週刊誌に目を通し終えると、ラックからまた別の週刊誌を取り出す。書いてある内容は何も変わらない。だが、同一であることを確認するために、ぼくは別の週刊誌を取り上げる。
 さっき時計を見たのが午前一時四十分だったから、いまは午前二時くらいだろうか。夜明けまであと三時間と少しだ。あと三時間、この作業を続ければいい。
 日付が変わってから寝床を這いだして、両親が食卓に置いた五百円硬貨を手に、歩いて近所のコンビニエンス・ストアへ向かう。そこで夜明けまでの時間をつぶし、朝食用のパンと牛乳を買って帰宅する。そして自室で日付が変わるまで眠り、またコンビニエンス・ストアへ向かう。
 その反復が、ぼくの持つパターンだった。
 もうどのくらい太陽を見ていないのか、もうどのくらいこの生活を続けているのか、自分でも判然としない。なぜ、こうなってしまったのかもわからない。何か巨大な力が、ぼくをここへすえつけているのではないかと思うことがある。だが、そんな言葉はぼく以外の誰への説明にもならないだろう。
 この生活で二番目に苦痛なのは店を出るとき、パンと牛乳を購入するのに店員の前へ立たなくてはならないことだ。
 一番目に苦痛なのは、卓上にいつも置かれている五百円硬貨を取り上げるのに逡巡する瞬間だ。その一瞬間をぼくは永遠に迷い、そしていつも敗北する。
 店のドアが開いた。
 ぼくは習い性のようになった脅えで、雑誌ごしにそちらへちらりと視線をやる。
 いつものあの男だ。有名量販店のジャージに木のサンダルをつっかけて、髪はオールバック、そしておかしなことにサングラスを、老眼ででもあるかのようにいつも鼻眼鏡にしている。
 ぼくは内心、ほっとする。いつもの時間にいつもの人間がやってくるのは、とても記号的で安定したパターンだ。このあと男はぼくときっかり二人分の間を空けて立ち、漫画雑誌をいくつか立ち読みして、いつもと同じ銘柄の缶コーヒーを一本買って、そう、三十分ほどで出ていくだろう。ぼくは、芸能人の不倫のスキャンダル記事に目を落とし、再び没頭しようとした。だが――
 男が、ぼくの横に一人分の間を空けて立った。
 ぼくは身体をこわばらせる。腹の底に重たいような緊張が生まれ、サッと全身に汗が吹く。
 それは、意味のある距離だ。ぼくはなるべく不自然にならないように週刊誌をラックに戻すと、別の雑誌を選んでいるふりで、男との間に二人分の距離を作ろうとする。
 男は雑誌から――それはオートバイ雑誌だった――目を上げないまま、唐突に言った。
 「ここ数ヶ月の観察からの判断でしかないんだが」
 その言葉は、明らかにぼくへ向けられていた。店内に他に人影は無く、男の位置はレジの店員からも離れすぎているからだ。
 ぼくに向けられた、しかしマニュアルではない言葉を聞くのは、いったい何ヶ月ぶりなのだろう。いや、もしかすると何年ぶり、なのかもしれない。
 ぼくは麻痺したように、その場から動けなくなった。
 「君の生活は、記号とパターン反復の脅迫に支配されているようだ。だが、同時に救済を求めてもいる」
 もう半歩、男から離れることができれば、男の声は聞こえなくなったろう。それほどにかすかな、ほとんどつぶやきのような声だったのだ。けれど、ぼくは完全に呪縛されていた。その言葉にぼくのパターンは破壊され、その言葉に抗するのには、ぼくの中は記号で満たされすぎていた。
 「言葉が致命的じゃないことにおびえているんだろう。自分も、他人も、すべての言葉が」
 待ってくれ、ぼくは心で叫ぶ。言葉なんて、全部記号じゃないのか。ぼくの人生に発する言葉は、すべて記号で足りた。実際、友人も、教師も、両親も、誰もぼくに記号以外の言葉をしゃべらなかった。
 『オレタチ、トモダチジャナイカ』『オマエノコト、シンパイシテルンダゾ』『ホントウハ、デキルコナンデス、ホントウハ』
 思い返す陳腐さに、みぞおちが氷のように冷える。だとすれば、記号にも憎悪をかきたてる力はあったのか。
 それらの言葉は――そう、まるで週刊誌のゴシップ記事のようだ。
 「君はつまり、もっともあり得ない場所に補償を求めていたんだ」
 ぼくはぎこちなく振り返って、男の方を見た。
 男が雑誌から顔を上げて、こちらを見る。
 「君は、革命を信じるか」
 革命は、ない。
 問いの唐突さにうろたえるよりも先に、答えが浮かんだ。遠い海を隔てた外国で、巨大なビルが倒壊しようとも、ぼくの生は革命しなかった。世界の中で物事の位置は、もはやどうしようもないほどにそれぞれの場所へ定まりすぎてしまっている。卓上におかれたペン立てのように、ぼくには物事の定められたその固有の位置が見える。たとえ、偶発的なパターンの乱れによって床へ転がり落ちたとしても、ペン立てはすぐにまた卓上の固有の位置へと戻されるのだ。
 ぼく自身の手によって。
 夜の窓の外を軍靴が通り過ぎてゆくような革命は、もはやこの世界にはあり得ない。
 「君はテロルはあり得ても、革命はあり得ないと考えているんだろう」
 その通りだ。ぼくの定まらなささえ、あらかじめ定められてしまっている。卓上のペン立てが固有の位置を失うためには、ペン立てそのものを破壊するしかない。
 ぼくは発する言葉を知らず、凝と黙り込む。
 男は少し困ったようにアゴをさすった。
 「言葉にするのは、得手じゃないな。多くの場合、言葉は状況を単純化しすぎるね。しかし、ただひとつだけ言えるのは……」
 男はサングラスを外して、ぼくの目をのぞきこんだ。
 それは思い返すに、ぞっとするような一瞬だった。
 「『君は変わることができるかもしれない』」
 ぞっとするような、甘美な。
 男はぼくへと一歩を踏み出し、最後の距離を詰めた。
 そして、ぼくの手に何かを握らせながら、重大な秘密を告白するように、耳元へささやく。
 「俺といっしょに、世界を革命しないか」
 ぼくは呆然と立ちつくしていたらしい。店内へ差し込む朝陽のまぶしさに、我に返る。
 時計を見ると、七時を回っていた。
 気がついて、手に握っているものに目をやる。汗でよれよれになっていたが、それは確かに名刺だった。メールアドレスと名前だけが書かれた、簡素な名刺。
 そこには、こう書かれていた。
 高天原勃津矢、と。

慟哭ゲー

 「しかしわたしを信ずるこの小さな者を一人でも罪にいざなう者は、大きな挽臼を頚にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかにその人の仕合わせである」(マルコ 9:42)
 この物語に登場する人物も、”エロゲー”そのものも、言うまでもなくフィクションである。
 しかしながら、広くおたく文化の成立に影響した諸事情を考慮に入れるなら、この物語の主人公のような人物がわが社会に存在することはひとつも不思議でないし、むしろ当然なくらいである。私はつい最近の時代に特徴的であったタイプのひとつを、ふつうよりは判然とした形で、公衆の面前に引き出してみたかった。つまりこれは、いまなおその余命を保っている一世代の代表者なのである。”慟哭ゲー”と題されたこの断章で、この人物は自己紹介をかねて自身の”泣きゲー”への見解を披瀝するとともに、かかる人物がわれわれの前に現れた、いや、現れざるを得なかった理由を明らかにすることを望んでいるように見える。続く断章では、彼の人生が引き起こした若干の事件について、この人物の本来の意味での物語が語られることになろう。
 物語はわが社会において、ある規模の都市にはお互いの個性を全く判別できないほど似通って立ち並び、わが社会の持つ固有の性質を前世代から切り離して均一化する要因ともなっている雑居ビルの一室から始まる。諸君の眼前にはワープロ完熟紙にプリントアウトされたため、歳月に消えかけた”企画室”の文字が貼り付けられた扉が見えることだろう。その扉を押し開け、中へ入ってみることにしよう。部屋の中はもうもうたる煙草の煙で、机上に置かれた灰皿には吸い殻が山のようになってあふれており、無意識のリドリー・スコット的効果を醸成している。
 次第に眼前の煙がはれてゆくと、長机を取り囲むように座した数人の男がシルエットから目に見える実在へと浮かび上がってきた。彼らの前に広げられているカラフルな資料を見れば、そこには健康な精神を持つものならばぎょっとして後ずさりしてしまうような、一種異様な女性の絵図が確認できるだろう。どんな文化人類学者もその出自を探り出すことは不可能に思われるほとんど蛍光色の頭髪、顔面の三分の二ほどを占有する巨大な眼球、そして遺伝病を真っ先に想起させるほど巨大なゴムマリ状の胸がアイザック・ニュートンを嘲笑するかのように水平ないしは水平より少し上向きの角度でカタパルト然とせり出している。絵図中の女性が着用している衣類は、どうやら高校の制服で同一の所属を表しているようなのだが、三~二十頭身の容姿で立ち並ぶ女性たちは、その同一性への説得力を致命的に欠いており、もはや同じ種の系から発生したことすら極めて疑わしいありさまである。
 ここで健全な、おたくではない諸兄に説明を加えておかねばなるまい。冒頭において私が述べた”エロゲー”とは、極限にまで先鋭化した前衛芸術的デザインの奇形女性とモニター上で架空のセックスを行ったり行わなかったりする、一種のデジタル的フリークス・ショウである。現在のわが社会において二十代~三十代の男性が空想上とはいいながら奇形の女性に欲情し、ときには積極的にまぐわうことさえ妄想するというこの悪魔的嗜好を持つ可能性は、極めて高いと言わねばならない。ときに地上の物理法則に逆らってまで自身の欲情を体現させたいと願うその突出した異常性は、諸兄がいま冒頭で見たような絵図でもって何の論証も必要ないほどに明確に裏打ちされていると言えよう。背筋のうそ寒くなるようなこの現実こそ、私が高天原勃津矢と名乗るエロゲー制作者をこの物語に登場させようと考えた理由のひとつである。
 さて、再び室内へと視線を戻そう。机の向こうにはホワイトボードが置かれており、そこには”ビジュアルノベル”、”泣きゲー”と殴り書きに書かれている。煩雑にするつもりはないのだが、ここでまた若干の説明が必要ではないかと思う。なぜならこの最初の断章は、おたくたちに向かって書かれているというよりはむしろ、健全な精神を持った諸兄におたくたちの精神生活の有り様をまず理解して頂き、結果わが社会が潜在的に抱えることになってしまっている危機への理解を促すことが目的だからである。
 ”エロゲー”とはその名前が示すように、モニター上の絵図という条件つきではあるが、主に男性を対象としたエロスを含むゲーム群のことである。
 では、”ビジュアルノベル”とは何か。それは”エロゲー”からゲームの要素を取り除いたものである。「映画から映像を取り除くような暴挙ではないか!」と声を上げる諸兄の様子が目に浮かぶようだ。しかし、どれだけ本質が歪曲された劣化コピー商品であろうともその外装に別の名前をつけ必要とするものがいるならば、わが社会において全く非難されるところではないのである。諸兄の魂を削るような、自己を社会へと認知させ続けるためだけにしている毎日の作業を振り返れば、私の言うところは少しは理解されるのではないだろうか。この節操の無さが、つまり思想のなさが、わが社会の抱える危機の一端であるとの洞察も可能だろうが、それはここで語られるべき内容ではない。
 さて、ならば”泣きゲー”とは何か。それは”エロゲー”からエロスの要素を取り除いたものである。諸兄がすっかり混乱するさまが目に見えるようだ。まあ、まあ、待って欲しい。この断章を理解するのに必要な前提はこれですべて話し終えた。
 今まさに、行われている議論にたまりかねたといったふうに一人の男が立ち上がり、会議用の長机を手のひらで激しく一撃した。いよいよ、彼にバトンを渡すことにしよう。
 オールバックにサングラス、有名量販店のジャージに痩せ型の長身を包み、木のサンダルをつっかけているこの男こそ、高天原勃津矢である。
 「てめえら、いつまでもふやけたことちんたら言ってんじゃねえ! ビジュアルノベルだと? 映画と小説を足して三以上の数字で割った、安かろう悪かろう、薄利多売の廉価商品じゃねえか! 他のメディアの存在を前提にしないと成立しないような情けないお目こぼしに、説教強盗の図々しさで横文字の名前をつけたあの知的強姦みてえな真似を俺にやれってのか! 泣きゲーだと? 男が泣くのは昔からおぎゃあと生まれたときと、親が死んだときだけって決まってんだよ! それ以外のことで涙を流すという男児最大級の屈辱を、座敷牢に閉じこめられたボウフラ白痴よろしく、『ああン、泣けました』やら、『ううン、感動しました』やら、自己啓発セミナーの告白合戦みてえに、いちいちやつらがネット上で報告し合うあのおかま踊りを、おまえら見てえってのか! エロ広告の『私、複数の男たちにほしいままにされながらも、感じてしまったんです』みてえな、男のご都合に満ちた女性性への蔑視軽視と同じ価値内容の放言を、やつらがネット上の巨大掲示板へゆぅるいゆぅるい軟便のように垂れ流すさまを、おまえら本当に心の底から見たいって言ってんのか、ええ!」
 ちょうど高天原の差し向かいに座っていたスーツ姿の男が、あきれたように肩をすくめてみせる。
 一見すれば諸兄の側の代表者であるようなこの男が諸兄へ共感を与えないのは、”社会性のコスチュームプレイ”としか形容できないほど、内面と外面のギャップが彼の醸成する雰囲気にあらわれてしまっているからである。仮にこの男が諸兄と同じ朝の満員電車に乗り込んでいたとして、諸兄は決してこの男を自分たちの仲間と見間違えることはないだろう。
 これもまた、おたくの一つのバリエーションなのである。おたく産業に深く踏み込んだまま年齢を重ね、おたくと断定されることを忌避しながらもおたくであることをやめられない屈折が、彼の心に刻まれた烙印を外見へと表出しているのだ。以後、彼のことはスーツと呼称することにしたい。特定の名で呼びかけることは彼の役割である消極的な狂言回し、あるいは凡庸な背景としての埋没性に背くからである。
 「高天原さん、”泣きゲー”はもはや時代の潮流ですよ。その流れに乗らなければ作品は売れない。作品が売れなきゃ、我々はおまんまの喰いあげだ。時代の提供する大枠に乗りながら、かつその中でお客様を満足させるオリジナリティを提供することが、プロの仕事なんじゃないですか?」
 スーツをにらみつけながら、高天原は唇の端をめくりあげて歯を剥いた。鼻の頭に皺をよせた彼は、猛獣さながらである。スーツと高天原を分けるものがあるとするなら、屈折を経ないで瞬間的に表出するこの激情だろう。
 しかし、にらみ合いになる直前にスーツの方がおどおどと視線を外してしまう。スーツには他人を論評し、自己を対象化する客観性はあっても、他人を屈服させための有無を言わせぬ傲然たる主観が無い。一方で、高天原はその主観だけを持っている。
 未だ激情を底流させたまま、表面だけは押さえた声音で高天原は反駁する。
 「気取ってんじゃねえよ。エロゲーのシナリオぐらいが提供する”泣き”程度の低い感情的カタルシスで癒されたと感じること自体、あの批評家気取りのおたく様共がいかに無感動な鬱屈した日常を空費してきていらっしゃるかの証明じゃねえのか? 食い逃げ程度の軽犯罪をスパイスにきかせた、文字通りの女子供のする――女で、子供だよ!――ボウフラ踊りにふにゃふにゃ泣いて、それにオナニー以上のカタルシスを感じちまうってのは、こりゃ異常な出来事なんじゃねえのか? 俺たちが腐心を重ねて、やつらの小心なチンポをおびえさせないようなレベルにぎりぎりまで希釈して、”男の中にある理想の女性性の象徴”というエロ広告程度の実在感をしか与えていないキャラクターを見てもなお、射精するよりむしろ泣きたいってのは、おたく様共がいかにそのお大事な精神をボウフラみてえな低いレベルでの問題に拘泥させていらっしゃる、根性なしのふぬけの精薄であるかという証明じゃねえのか? これまで俺たちの作ってきたもんは、言わせりゃ確かにクソだったが、少なくともチンポをたっぷりと射精させるという、エロゲーの至上目的だけは裏切らなかったはずだ。だが、いま世間に出回ってるような”射精しないためのエロゲー”ってのはいったい何なんだ? 自己存在の証明そのものを裏切って、それはまだエロゲーなのか? エロゲーのシナリオは、シナリオなんてそんなごたいそうなもんじゃねえ、チンポを射精へと導くためのくすぐりであって、それ以上でもそれ以下でもなかったはずだろ? わざと射精を外すことで、むしろ射精への欲求をいや増すといった逆説的方法論はあったろうが、でもやっぱり最後には射精させたんだぜ? 濃厚な精子がポンプのように押し出されて激しく尿道を通過し、快楽が脳の底を痺れさせる、それはこれ以上無いほどはっきりとした男の真実じゃねえか。俺たちはいつその射精を裏切ってもいいようなご大層な芸術家になったってんだ? ”射精しないためのエロゲー”、それは、エロゲーの持つドグマそのものの明確な退行じゃねえのか? おたく様共の中での感情の問題のレベルが、射精をする以前へとどんどん退行していってるんじゃねえのか? 思春期の中高生の精子をどれだけ多くしぼりとれるかがエロゲーの誇りだったが、エロゲーで射精せずに泣きたがる現代のおたく様共の抱えている心の何かは、あまりにびっくりするほど幼すぎて、勃起したチンポを右手にグラビア本を左手に射精の対象を探して迷う、あの段階にすらまだ達してないみてえじゃねえか。おたく様共は、バゼドー氏病の眼球を持った平面キャラが情緒たっぷりのボウフラ踊りを踊るのを見てふにゃふにゃ泣くだけで、チンポをおっ立てようとすらしねえ! 俺は誇りをもって自分のことを、思春期の青臭いチンポを射精させる勃起商売と言ってきたものだったが、あの頃そこにはまだ何か人がましいものがあった。だがいまあるのは、男の野生を否応なく自覚させるあの明確な快楽を拒絶して、感情を外科手術よろしく遠隔操作するような、うすら寒い気味悪さだけじゃねえか! いまのエロゲーは、近親間での婚姻を繰り返して、そのムラの住人でなければ誰もついていけないような先鋭化の果てに繁殖力を失い、ついには濃くなりすぎた血に気が違って、内部から崩壊してゆくその途上にあるんじゃねえのか? 多くの異常者と、少しの犯罪者と、ひとつかみの同業者を生み出して、マイナスの螺旋方向に永遠に退行しつつ、お互いの姿をコピーしあうことで無限の相似へ近づいていき、どんどん縮小再生産を繰り返すだけのエロゲーに、いったいどんな未来があるってんだよ! おまんまの喰いあげだっておまえさっき言ったな? おまんま以上の何かをな」
 高天原はいったん言葉を切り、会議室にいる全員をぐるり睥睨した。誰も彼の奔流のような言葉を遮ることができないでいる。さきほどのスーツの発言ですら、会議の方向性を明確な意志で誘導しようとしてのものではない。ただ、個人的な違和感を表出しただけだ。おたくの言動は、すべて違和感の表出に過ぎない。
 立てた親指で自分の胸を激しく指しながら、高天原は叫ぶ。
 「ここに喰わせてやらなきゃ、人間は本当の意味では生きていけねえんだよ! それが”泣き”なんて低いレベルの感情じゃねえことだけは確かだ! 日常生活の鬱屈から来る心のひずみに、ちょっとしたキックバックを与えて正常に戻す程度の、お手軽な癒しとしての機能しか持たない”泣き”どころではなく、何かは知らず、人間存在の深淵に触れたんだっていう、あの魂の底の底を揺さぶる深いおののきがすべての人間には必要なんだよ! これ以上泣きゲーやら何やら、クソくだらねえことを俺の前で繰り返すなら、もうエロゲーなんざやめちまえ! ……なァ、おまえらなんでわざわざエロゲーなんか作ってんの? 相対的なライバルのいなさから、他のモノ作りより低いレベルでも、自分のプライドを傷つけないまま、噴飯ものの猿芝居に教祖よろしく安住してられるってのが、案外本当のところだったりしてな。ハハハ……。俺? 俺か……」
 言いながら、わずかに相好を崩す。会議室内に帯電していた緊張がわずかにゆるんだ。まさにその瞬間の効果をねらったかのように、高天原は倍する激烈さで長机をこぶしで殴りつけた。
 「エロに決まってんだろうが! テレクラのティッシュのアオリがおッ立つって思や、俺は間違いなくそれを書くし、鬱陶しい純文みてえな老女との背徳がおッ立つって思や、俺は迷わずそれを書く! なぜならそれが最高におッ立つからだ! 『おい、見ろよ、俺のエロはやつらのとは違って、こんなに反り返るほどにおッ立つぜ、どうだ、おまえらすげえだろう』、その気概がなくて何のエロゲーなんだよ! 漫画や! 小説や! 音楽や! アニメや! 映画や! 芸術や! そんな自分がたどりつかなかった他の創造物への復讐がやりてえなら、もうエロゲーやめちまえ! エロ以外の感性で、もうこれ以上俺のエロゲーをわずらわすんじゃねえ! さっさとこんな会社辞めて、週三日コンビニでバイトして、残りは泣きゲーで泣いてろ! すっきりした脳味噌を溜まった精子がムラムラさせるだろうが、なァに、薄暗い部屋でキーボードにめそめそ落涙して幼女も誘拐するおたく様共みてえに、下半身と脳味噌を切り離したオナニー以前のボウフラ愛撫で、便器に射精すりゃいいじゃねえか!」
 真っ赤な顔でスーツが立ち上がった。おたくとは、自身の嗜好への侮辱に何よりも敏感な者たちである。彼を立ち上がらせたのは、高天原への対抗意識ではなく、やはりかきたてられた個人的な違和感に過ぎない。
 「射精、射精、射精! あんた異常だよ! ここは企画会議の場なんだぞ! あんたの独演会でもなければ、手前勝手な観念を語る場所でもないんだ! 『作品を批判するには作品を持ってしろ』、かつてのあんたの言葉だよ。いまよりずっと売れてた頃のな。昔の威光でののしり叫ぶ以上の、時代の確実な潮流に対抗し得るアンチを、そうでなきゃ、まったく別の次元の何かを、いまのあんたが提出できるっていうのか?」
 「おうよ。ようやくわかりやすくなってきたじゃねえか」
 高天原はキャスターのついたホワイトボードを片手でぐいと引き寄せた。歯で外したマジックのキャップを床に吐き捨て、教師よろしく後ろ手にホワイトボードへ書き込みながら、高天原は説明を開始する。
 「いま現在エロゲーには、アドベンチャーやらRPGやらのゲームジャンルを越えたところに、三つの大枠が存在すると俺は考える。ひとつ”純愛ゲー”。ひとつ”陵辱ゲー”。ひとつ”泣きゲー”。”泣き”と”純愛”の違いはヤるときに使ってるチンポの質の違いで分類することができる。すなわち、そのチンポが男の本能と直結しているかどうか、だ。この意味で、”泣き”は新興勢力として台頭をみせてきたが、無視できないその影響力を除くならば、”純愛”カテゴリの虚ろな影、単なる劣化コピーに過ぎないと言うことができるだろう」
 スーツが白けを演出するために散漫な拍手をしてみせた。すでに存在する何かに批評を加えることでしか自己を主張できない、おたくの有り様のひとつである。
 「すばらしい。もうエロゲー作りなんてやくざな仕事は辞めて、どこか専門学校の講師にでも転職なさったらどうです?」
 だが、誰も同調しようとはしない。高天原は気にとめたふうもない。
 「”泣き”と”純愛”の区分の曖昧さに比べ、”純愛”と”陵辱”は明確に別の物としてそれぞれ存在を保ってきた。例え、ひとつのゲームの中にそれら二つの軸が盛り込まれているようにみえても、それは、一つの主観が”純愛”と”陵辱”の二つの領域を行き来するというニュアンスでしかなかった。わかりやすく言うなら、ひとりの女を優しくヤるか、苛めながらヤるか、その違いでしかなかった」
 スーツがなげやりに、指先でコツコツと机を叩き始める。
 「で? このエロゲー創作理論講座はどこに落ちるんですか、高天原さん」
 「待てよ。ここからが本題だ。エロゲーがこのやり方を踏襲してきたのは、人の持つ、まさに文字通りの快楽原則に外れないためだった。業界の基盤の脆弱な黎明期の、継続的な固定客を獲得しなければ、エロゲーを作り出す土壌そのものがあり得なくなってしまう当時、それは仕方のない必然だったとも言える。ただでさえ、少しの刺激にもまるでそれがこの世のおしまいみてえに動揺して、ぶぅぶぅ泣き叫ぶ近視眼の子豚ちゃんたちが相手なんだからな。しかし、いまやエロゲー産業は形あるものとして確かにこの世に姿を現した。俺たちがここに座っているいま、なお飽くことなく拡大し続けながらな。いや、肥大し続けていると言い換えたほうがより適切かもしれん。そして、あの輝かしい進取は失われた。それが無くても、放っておけば勝手にカネが流れるシステムが完成したからだ。すべての人の作り出すシステムは、カネを流すための灌漑を形成するまでがひとつのピークだ。それ以後は例外なく、ゆるやかな疲弊と衰弱の途をたどる。俺はいまここに、この閉塞したエロゲー業界に、”純愛”と”陵辱”の結婚、ないし融合が生み出すまったく新しいジャンルの創設を提唱する。題して」
 高天原は会議室の人間たちに背を向けると、ホワイトボードの中央にゆっくりとその言葉を書いた。向き直ると、そこに大きくルビをふる。 「”慟哭(なき)ゲー”……!」
 一瞬、虚をつかれたようにスーツが惚けた表情を浮かべる。だがすぐに立ち直ると、動揺を表してしまったことを恥じるように、大声でまくしたてる。
 「は、そんなのは漢字を変えただけじゃないか! さんざんあれだけののしっておきながら、ビジュアルノベルの例よろしく、ジャンルの名前だけを作って、それに踊らされている。言葉の表面的な革命性に酔いながら、その実そこに安住してるんだよ、あんたは!」
 「では、詳しく説明しよう。この”慟哭ゲー”においては、二つの主観が同じ軸線上で 別々にひとつの対象を”純愛”し、”陵辱”するが、プレイヤーが体験できるのはそのうちのひとつ、”純愛”主観だけとなる」
 「意味がわからん、全く意味がわからんよ! あんたはわざと言葉の抽象度を高めて、みんなを煙に巻こうとしてるんだ」
 「うるせえな、しゃべらせろよ。おい、ちょっと黙らせてくれ」
 高天原をねつい視線で見上げていた他の男たちが立ち上がり、スーツを取り囲むと、その両腕を鶏の羽根ででもあるかのように後ろへとひねり上げて、床へと押し倒した。スーツが奇しくも看破してしまっていたように、この場所は高天原の独演会の他ではなかったのだ。
 「お、おまえたち、自分のやってることがわかって」
 言い終わる前に、スーツの頬に平手がとぶ。スーツは突然の暴力にとたんに青ざめて、口を閉じてしまう。おたくの小心は、暴力を前にするとき沈黙を選ぶ以外にない。
 高天原は、満足そうに組み敷かれたスーツを見下ろしながら、悠然と彼の講義を再開した。
 「さて、肝心のゲーム内容だ。あらかじめ言っておくと、俺が新たに作り出すこのジャンルに追随者は現れない。我々はこの新しいジャンルを作り上げ、そして作り上げたという事実がジャンルそのものの解体を意味することになる。”慟哭ゲー”の物語の前半部分には、”泣きゲー”の文法を踏襲する。”泣きゲー”が現在持っている仕組みを”慟哭ゲー”の仕組みによって反転させるために、高い次元での完璧な擬態を行う。いや、擬態どころではない、”泣きゲー”の最高傑作を見せてやるんだ。似ていることは、ほんのわずかの違いをも否応なくひきたてるからな。では、このジャンルの本質を、物語の筋をざっと追うことで理解していただこう。主人公は何の取り柄もない、嫌悪すべき醜さよりもむしろ無価値な凡庸さに身を沈めることで自分を守ることを選ぶ類の、ごくありふれた青年だ。自分の努力によらず、例えば初期の物語設定に助けられたりして、気がつけば主人公はヒロインの前にすえられている。作為ではなく、運命のように、それが俺たちに必要とされる手腕だ。主人公からの自発的な働きかけは皆無であるにも関わらず、処女にはあり得ない商売女の媚びと馴れ馴れしさでヒロインは急速に接近し、主人公を包み、そして癒す。主人公は――つまりそこにつながるおたく共のことなんだが――ついぞ現実世界では味わったことのない理解される快楽に心を弛緩させ、だらしなく半開きに開いた口で、最初の涙を流す。ここまでは、完全に”泣きゲー”のやり方を追い、この後の”泣きゲー”的展開に、おたく共が何かの疑問を差し挟む余地が無いよう完璧に運ばねばならぬ。お互いの存在を、不可欠だが決して負担にはならぬ甘露な空気のように体験する主人公とヒロイン。入念に、罠へと追い込むように、主人公に生まれる苛立ちや悲しみや怒りさえもが、ヒロインの実在感を増すように、そしてそのそれぞれが過ぎ去ったとき、すべては幸福な陽光の記憶へと昇華するように、あらゆる時間は描写されなければならぬ。俺たちの提供する虚構という名前の蟻地獄に引き返せないほどに踏み込ませ、かつヒロインが確かにそこへ”いる”ことをおたく共に塵ほども疑わせてはならぬ。……運命の夜を語ろう。それは世界そのものの意味が反転する夜だ。嘔吐を耐えながら、奴らの悪臭放つ精神を最上の技巧で愛撫し続けてやってきた、俺たちの復讐の夜だ。深夜の逢い引きのさなか、主人公とヒロインは何者かの襲撃を受ける。棍棒のようなもので後頭部を一撃され、昏倒する主人公。ヒロインの悲鳴。暗転する場面。主人公の意識が戻ると、そこは窓のない、剥きだしのコンクリート壁に四方を囲まれた部屋だ。高い天井からは裸の電球がひとつぶらさがっている。だが、それの投げかけるおぼろな光は、部屋の隅々をまでを照らすには全く充分ではない。床の上にうごめく何か、主人公の認識ははじめそれを巨大な蜘蛛だととらえる。目をこらす主人公。闇に目が慣れるにしたがって、次第に輪郭を明らかにするその巨大な蜘蛛。モニター越しにただそうしてきたように、ここで主人公のできる選択肢は”見る”しかない。主人公は”見る”んだ、こちらを見返す、人間性を切り取られた、暗闇の底ににぶく光る、動物的な両目を。主人公は”見る”んだ、長い石段の向こうの闇にほの白く浮かび上がる神社の全容を”見る”ときのような形容を越えたおののきで、自分以外の男に組み敷かれ、性器を赤黒く二つに割られたヒロインの姿を!」
 「キチガイ、このキチガイめ!」
 鼻血を吹いて、組み敷かれたままのスーツが激しく身をよじって、高天原につかみかかろうとする。だがおたくの運動能力は、後ろから髪をつかんで引き戻され、床へしたたかに打ち付けられる結果をしかもたらさない。スーツの額が裂け、鮮血がリノリウムの床の上に散った。高天原はほとんど陶酔しており、それに気づいた様子もない。
 「突然ヒロインが絶叫する、それははじけるような絶叫だ、主人公の両手足は古びた椅子に縛りつけられている、魂の一番やわらかい部分を引き裂くその悲鳴に、耳をふさぐこともままならぬ。モニター越しに座するおたく共は、ほとんど無意識のうちに自分の常態となっていた”見る”行為の無力と残酷を、そこで初めて意識させられるんだよ! ヒロインを陵辱する男は、肉による明らかな実在感を除けば、ほとんど無人格にさえ見える、荒々しい武者のような大男だ。不定期に、日に幾度も繰り返される陵辱、絶叫、絶叫、絶叫! だが、状況はある日変化を迎える。人間がたくさんいるから、地獄はこの世界では長続きしないんだ。いつもと変わらぬように見える怠惰な陵辱、もう何日続いているのかもわからぬ緩慢な絶叫。だが、待て、そこにはいま幾分の媚びが含まれてはいなかっただろうか? ここに閉じこめられて以来、ヒロインが主人公へ向けていたある明確な意識が薄れてゆく、なぜなら主人公はただ”見る”ためだけにそこにいる物体にすぎないことを、ヒロインはやがて知るからだ。それまで石のように固く見えたヒロインの腰がうねり、わずかに円を描いたかと思うと、主人公の眼前で突如溶けるように肉であることを取り戻す。男は動きを止める。ヒロインの視線が初めて、男の視線をつかまえる。男は意想外の理知的な声で、命令するものの確かさで言う。ヒロインがうなずく。交わされた言葉は主人公には届かない。だが、ヒロインの肉が何よりも雄弁にその契約の内容を物語る。精神の不落を信奉していた主人公、すなわちおたく共はここで二度目の涙を流す。この涙は、いまや最初の涙と全く意味を反転している。それこそが、おたく共の体験してきた”泣き”とは絶望的なまでに性質を異にした、悲嘆の底の底に触れたと思うとき生じる、あの、理知や言語をはるかに超越した魂の根源が発するノイズ、慟哭だよ! 心の襞の襞まですくいとって、あますところなく愛撫するように自分を理解してくれていたはずの無二のヒロインが、その完全な理解をポジからネガへと裏返すように、ののしり、わめき、容赦も呵責もなく、おそろしいばかりの的確さでおたく共の心を引き裂いてゆく。ただ、何の精神性も持たない野獣との性交を哀願するためだけにだ! 肉が精神の高潔を裏切るさまを、その残虐な心変わりをおたく共は主人公を通じてあますところなく体験する。”純愛”と”陵辱”、彼らは全く別の主観だが、また奇妙な相似をも持っていた。射精と愛情を別のところに置きたいがあまりに切り離した下半身の欲情が身体を離れ、別の現実の形へと凝ったようなその”陵辱”が、”純愛”へと命令を下し、誰にも触れられたくないあの小昏い心の部分を、裸電球の照らす現実という名前の明るみの下に引きずり出して、粉々に破砕する。ヒロインを助け出すゲーム的手段はまったく存在しない。なぜなら、おたく共は最初、そのおたくらしい怠惰と無気力と甘えと自己中心的な繊細さをヒロイン、すなわちゲームの提示する虚構に包まれ、涙を流し、癒されるが、同時に自分たちのまったく同じ特質によって今度は現実に復讐されなければならないからだ。これは従来のゲームのバッドエンドどころじゃなくて、ただそういうふうに流れる現実の卑劣と矮小が眼前に実行されているに過ぎない。それを証拠に、物語はここでは終わらない。激しく肉と肉の打つかる不可思議の音曲に満たされていたその部屋は、ある朝終わりを迎える。男が姿を消したのだ。解放される主人公とヒロイン。その解放は唐突だ。なぜならそれは他ならぬ、おたく共の精神的自慰の手伝いをさせられてきた俺たちからの直接の復讐であり、何ら物語的効果をねらったものではないからだ。しかし、その作為的で投げやりな放逐は、かえって現実がする様相とひどく似てしまう――」
 言葉を切った高天原の表情は、サングラスの奥に一瞬悲しみをさえはらんで見えた。しかし、彼はただ言葉を求められる存在であり、それに気づく者はここには誰もいない。
 「”慟哭”後の、主人公とヒロインの生はあますところなく彫刻する。もはや虚ろな目で、自分のことを見なくなったヒロイン。希望という名前の絶望にすがるように、病院からヒロインを連れて街を出る主人公。おたく的引きこもりの果て、社会の豊かさのお目こぼしで無視されていただけのことを積極的な自分からの拒絶と勘違いしていた甘えと傲慢さを自覚し、社会性もそれを覆す才能も無い無価値な自己の等身大を見せつけられ、二人で生きてゆくためには、しかし社会の隙間に潜り込んでカネを得なくてはならぬ。四畳半のアパートで日がな一日股間をまさぐり猥褻な言葉をつぶやき続ける最も低劣な肉としてのヒロイン、必死の労働のすえに買いあたえる食料は部屋の片隅に手をつけられないまま静かに腐ってゆく。発覚するヒロインの受胎、だがそれは自分の子ではありえない。これまでの怠惰からくる日々の労働の相対的な苛烈さと、入浴を拒絶するヒロインの性器から漂う悪臭に、主人公は勃起も射精もできない身体になってしまっていたからだ。主人公は三度目の涙を流す。他人の射精を憎悪し、自身は射精できず、泣く。これは”泣きゲー”への間接的な批判だ。歳月は流れ、やがて主人公は自分が軽蔑していた両親と同じ年齢になり、カードも作れないような社会的地位のまま、働けども働けどもカネは溜まらず、ヒロインは精神を回復せず、その外見はどんどんしわぶかく醜くなってゆき、学齢期を迎えた子どもは外では苛められ、家ではかつて自分が親をののしったのとそっくりの口調で自分をののしり、やはりカネは溜まらず、ある日自らの出生の秘密を知った子どもは狂わんばかりに暴れ回ったあと、出奔する。同じ夜、台所の包丁が一本無くなっているのを主人公は発見した……。カタルシスは存在しない。これはおたく共が裏切り続けてきた現実からの復讐の物語であり、現実は作られた物語どころではなく、そこに”泣き”のカタルシスは存在しえないことをおたく共は知らなければならない。解放されたのちの主人公の、あらゆる状況に対する行動選択肢の中には常に”見捨てる”がある。主人公が”見捨て”た瞬間にゲームは終了し、二度とプレイすることはできなくなる。現実とは、幸福さえをも反芻することの許されない冷徹な不可逆と同義であることを、おたく共は知らなければならない。日常の底に、自分自身に始末をつけて人生を”やめる”という選択肢が常に眼前へつきつけられていることを意識しながら、常に”やめる”ことを選ばないからこそ、人間は尊くあれるのだということを、おたく共は知らなければならない。この物語のテーマは”懊悩する愛情の究極”だ。際限なく社会的価値・人格的意味をそぎ落としてゆき、人はどこまで煉獄のような愛の継続に耐えることができるのか? 宣伝コピーはこうだ、『地獄はあるよ、日常の狭間にあるよ』。しわに埋もれた穏やかな様子の縁側の老婆が、突然頬にとまった蚊を激しく打ち殺す瞬間のような地獄が、日常を鮮やかに変質させる。だが、地獄さえも人間の前では長続きすることができない。そして、地獄が続かないのなら、愛を続ける他はない」
 高天原は窓際へと歩いてゆき、そのうちのひとつを開け放った。澱んだ空気が冷たい外気に置き換えられてゆく。外ではすでに、ビルの作り出す峰へ都会の遅い朝日が昇り始めていた。
 窓の外へ向けて、高天原が絶叫する。
 「そうさ、おれはおたく共のあげる魂の底の底からの悲鳴が聞きてえんだよ! 自分だけは決して傷つかない場所で、エロゲーに仮託された人の尊厳や人格を消費し、不潔な銀蠅のように作られた愛情を繰り返す、人類史上最も低劣な人買いどもめ、恥じ入るがいい! そして、愛情の一回性とその不滅に”慟哭”しろ!」
 室内で行われている騒動に全く興味がないといったふうで長机の端に坐っていた小太りの男が、ノートパソコンから視線を上げないまま初めて口を開いた。
 「高天原さん、”慟哭ゲー”を可能にするための、”二度とプレイできなくさせる”という技術上の問題については、最新の外付け小型ハードディスクをメディアに使い、プラスチック爆弾と着火装置を内側に閉じこめることで解決するでしょう。ロシアルートからの技術の漏洩を利用できます」
 話しながらも、その手は撫でるようにキーを打つことを止めない。
 高天原が、朝日を背に受けてゆっくりと振り返った。その口元にはほとんど優しいと形容できる微笑が浮かんでいる。
 「相変わらず頼れるじゃねえか。よし、おまえらはシナリオ書きを探せ。若手の、女の肉を知らないヤツをだ。そういう男の幻想の中で、女は最も純粋で汚れなく、美しくあれることを俺は知っている。だが、”慟哭”後の世界は俺が書く。これは、”素人童貞”と書いて”ぼくらのピュア”とルビをふるシナリオ書きどもが持つ程度の情念では、荷が勝ちすぎる。後の追随者を許さず、作品がジャンルそのものになるには、ニジンスキーのような荒々しくも精緻な完全さが必要だからな。……うちとの関連は全く消して、新しく会社を作れ。うちの持つブランドのイメージは、この作品の受けるだろう純粋な評価をかえって阻害する。できるだけ事前にバイアスを作りたくない」
 高天原の言葉を受けて、徹夜明けで脂の浮いた顔に目だけは異様に輝かせながら、男たちは会議室を出てゆく。小太りの男がノートパソコンを小脇に禿げ上がった頭頂部へ手をやりながら退場すると、もはや朝の光で満たされた会議室に高天原とスーツだけが残された。
 Yシャツの袖で鼻血を拭いながら、スーツがよろよろと立ち上がる。
 「めちゃくちゃだ……なにもかも……あんた、いったいこれから何を始める気なんだ」
 朝日が逆光になり、スーツの側から高天原の表情はうかがえない。
 「聞いてなかったのか? すべてのおたくたちに、悲鳴をあげさせてやるのさ」

謹賀新年

なんとなくめくった漫画雑誌の初詣シーンに「世界中が平和でありますように!!」と大ゴマで書かれていてのけぞった。人差し指を第二関節まで鼻腔に埋めて、精神を完全に弛緩させていたところに、穏やかな微笑みを浮かべて涅槃に大合掌する一家の痴態がブチ込まれたものだから、その衝撃たるや甚大なものがあった。例えるなら、『満員電車で吊革に身をもたせてうとうとしていたところ、違和感に目を覚ましたら肛門に根元まで見知らぬ男根が埋まっていました』といった感じだろうか。いま世間を見回して、どの創作物がこの台詞を作中に登場させ、強度を失わないでいることができるだろう。驚愕である。批判しているのではない。無論、褒めているのでもない。あまりの非現実的な出来事に、ひどく動揺しているのだ。新年早々からこんな気弱な独白で諸君を心配させる、少女のように小心で無垢な私を許して欲しい。そんな私の今年の抱負は、「もっと善良に」「もっと愛を」である。「もっと更新を」とは言わない。

昨年、マイミク登録をさせて頂きながら、二名がここを去られた。その際、一名からは連絡があり、一名からは無かった。私が原因ではないかと悔やんでいる。どうぞ知り合いの方が見ていらしたら、私からの謝罪をお伝え願いたい。

言い忘れた。あけましておめでとう。