猫を起こさないように
月: <span>2006年10月</span>
月: 2006年10月

小鳥猊下・リアライゼーション

 DiabloIIというゲームを断続的にかれこれ5年くらいプレイしている。ウィザードリィ式の、キャラ育成とアイテム収集がキモのオンラインRPGである。オンラインでありながら30分ほどで区切りがつくので、寝る前に少し遊ぶのに最適だ。常に一人でプレイする。ネットに接続しないキャラクターを作成することもできるが、常にオンラインでプレイするキャラクターを選ぶ。これはやはり心のどこかに寂しさを感じている証拠だろう。ゲーム内のアイテム資産がある程度になると、途端に興が冷めてプレイを止めてしまう。このゲームは一定期間のアクセスが無い場合、キャラクターがサーバーから自動的に消去される仕組みになっている。しばらくぶりの接続ですべてのキャラクターが集めた資産ごと消去されてしまったことがわかると、私の心はもぞもぞと落ち着かなくなり、また一からプレイを再開してしまうのだ。そんなときいつも、エヴァンゲリオン劇場版の砂場のシーンを思い出す。砂山を作っては壊し、作ってはまた砂山を壊す。何かを強く求める気持ちはあるが、手に入れたものを維持することがどうにも難しい。きっと、私の抱くこの曖昧な感じも、幼児期の体験で説明がついてしまうのだ。つまり、何かが壊れている。そして、壊れている自分をまるで壊れていない人のように見せかけるのが、最近のお気にいりである。相手や状況に対してわずかでも余裕を、あるいは優越を持てれば、見せかけるのは至極簡単な作業だ。しかし、壊れてない人のように振る舞うとき、色川武大の小説にある「大勢の前で難詰されて絶句する」瞬間が脳裏をよぎることもある。壊れた自分を否応に衆人環視へさらされ、皆がその残骸を指さして行われた詐欺行為を難詰し、私はもういつものように装うことができなくなって、ただ絶句したまま立ちつくす。その様をありありと想像できる。絶句することを待っているのか、恐れているのか、すべての情感は歳月のうちに渾然となって、もはやどちらとも言うことはできない。
 エヴァンゲリオンが再び劇場作品として制作されるという報を聞き、劇場の座席で失望していない自分を想像することができないでいる。あの記憶は人生の最も繊細だった一時期と重なり、ある部分では抜きがたく癒着しているので、いまの私が以上の感慨を得られるはずがないと疑うのである。それは、私自身がすでに何かを真実受け入れるための「時期を逸している」ことへの自覚と同義なのかもしれない。