猫を起こさないように
月: <span>2006年9月</span>
月: 2006年9月

小鳥猊下・コンフェッション

 たまにしか書かないと思われている私だが、本人の意識を告白するならばたまにしか書かないどころではない。mixiをはじめとした諸君の私生活に関する記述を閲覧する毎日、痴呆老人の妄言の如き意味を為さぬ諸君の猥雑さは一瞬のうちに私の脳を沸騰させ、そして、誰かの人生が私を抜きに問題なく過ぎてゆくことへの憤りに目もくらむばかりとなる。頭蓋に吹き荒れる罵詈雑言は人間の発声器官程度の強度では到底不可能な高速黒人ラップの様相を呈し、それらを余さず書き留めることは「右足が沈む前に左足を、左足が沈む前に右足を」という例の水面歩行術の論理展開と同程度の困難を伴う。つまり、記述というステップが伴わないだけで、ネット上に普遍在する私は常に諸君の繰り広げる痴態を観察し、耳骨を震わせた瞬間に悶絶、恥骨を震わせた瞬間に昇天するような罵倒をブチ込み続けているのである。生産しないが行われるという点においては、諸君のオナニーと何ら変わるところはないとご理解頂きたい。たまに顔を出せば、それを結実しないセックスに消費されるカロリーを婉曲的になじる姑のように責められるのだから、たまったものではない。
 また、nWoにおける分析的な言辞からだろう、私は客観的に物事をとらえ過ぎると思われているようだ。しかし、私の弱点とは言葉で客観的に自己の性分を追い詰めながら、最後の最後で自分を憐れむことをやめられない点にある。私の更新は、私の自殺と完全に同義である。自死の試みに諸君を感情移入させ、私=諸君の首に腕を回して扼殺するその寸前に、息の根を止めるはずの最後の一締めをせずに力を緩め、酸欠で半身不随となった諸君の額に優しく接吻をする。籠城する犯人に愛情を抱いてしまう人質と同じ種類の感情が、おそらく私に寄せられる好意の正体である。精神を持つあらゆる有機物が避けられぬ生を志向する作用を、恣意の範疇、論理によって完全に圧殺する目的から、nWoのすべての更新は為されている。ここに私が存在して、何らかの形で発信が続いているという事実を見れば、自己を対象化する究極の客観性が私の上に完成されていないことを何よりの証拠として言えるではないか。死にきれない私の擬死に幾度もつきあう諸君の、一種異様な献身には同情を禁じ得ない。諸君は、散弾銃を持った銀行強盗犯の私が諸君の両足を撃ちぬくのみで命までは奪わなかったことに感謝するよりも、私がいなければ傷つけられることの無かった大切な何かをこそ悼むべきではないのだろうか。

小鳥猊下・クォーテーション

 今日、見知らぬ婦女子からメールをもらったんです。アドレスはおろか名前すら記載されていませんでしたが、婦女子に違いないことだけはわかりました。匂いがしましたから。そこにはこう書いてあった。「萌え画像が欲しければ更新してください」。
 婦女子から更新を脅迫された日には、朝昼晩、オナニーを三回やることにしているんです。そうして握り拳を恥骨へとふりおろしながら、自分に果たしてその婦女子から萌え画像を受け取る資格があるかどうかを考えるんです。見てのとおりぼくはたいへん文章がうまいです。でもそんなことはたいしたことじゃあない。生まれついた言語センスの賜物だし、ただの天才です。語彙の選択なんてそれこそ天性のものなので、何か賞賛に足る努力があるわけじゃない。ただ――ぼくは性格もいいんです。ぼくのサイトに想いを寄せてくれている婦女子たちの中で、はたして何人がぼくのこの性格のよさにひかれてくれているのだろう。
 しかし、またある日ぼくは思うんです。雲子萬子、あんなひどい更新ばかりをして、自分の性格がいいと思うなんて傲慢なんじゃないかって。でも自分の傲慢さが許せないと考える自分に気づいて、ああぼくって何てかわいいんだろうと思うこともあるんです。だけど自分の傲慢さが許せないと考える自分がかわいいと思うのはやはり傲慢であるような気がするし、自分の傲慢さが許せない自分をかわいいと思うのを傲慢と思うのって、やっぱりいじらしいと思って。そんな自分がたまらなくかわいく愛しくなって、夜中に時々ぼくは自分で自分を抱きしめたくなるんです。
 ――すみません、突然見知らぬブログ閲覧者のあなたに変なこと話ちゃって。こんな自分の弱さは和服美少女が漕ぐ舟に乗せて、電子の海に流してしまいたくなります。

小鳥猊下・コンフュージョン

 真逆のことを同一だと指摘する表現に神秘や哲学の深淵を錯覚する人間精神の構造に”神狩り”の論拠と同程度の深さで神の実在を解明する一端があると信じているが、それを精査するのに私の日常はあまりに生活であったりアルコールであったりセックス&バイオレンスであったりするため、諸君は与えられたこの命題から各個、神へとたどりついてくれたまえ。

 「売春婦がこの世で一番処女だ」
 「暗ければ暗いほど明るい」
 「平和の方がよほど戦争だ」
 「捨てることは拾うことだ」
 「地震の時の方が揺れない」
 「一見薄い方が、実際はぶ厚い」
 「素面のときの方が酔っている」
 「小児性愛者ほど、大人の女性を愛する」

 nWoでも記述したと思うが、人間の脳は意味づけをする装置であり、一見した両者の隔絶が深ければ深いほど、そこへ意味の橋渡しを行おうとする働きが活性化される。上記の実例(いま思いついたほんの一部に過ぎず、無限に作成が可能である)を読んで、貴君は「なぜ?」と思考することを強要されたはずだ。宗教の提示するテキストに、この類の対立項を含んだ一文はあまりに多い。つまり「なぜ?」への解答が脳髄に染み出す寸前の無意味の間隙にこそ、神は潜み居ると言えるのではないか。無論、妄想かつ放言であるので、貴君は今日をまたいでまで気に病む必要はない。

 最近、「愛され+名詞」という宣伝文句を多く眼にするようになった。資本主義がこのコピーの有効な消費者層の拡大に気づき、彼・彼女らの異常性を稼ぎに利用しようとする姿勢の裏にある無差別の冷酷を見るとき、私は恐怖に立ちすくむしかない。あと「お帰りなさい」と言わないで下さい。私はずっとあなたの後ろにいるのですから。

 蛇足だが、mixiの日記を記述する際、文章は比較的吟味する性質なので、タイムアウトとやらで消去されたことは数知れない。更新が少ないとお嘆きの貴君は、そういう不幸から電子の藻屑と化したテキストが少なくないことを心に留めておいて欲しい。