猫を起こさないように
日: <span>2006年3月5日</span>
日: 2006年3月5日

甲虫の牢獄(7)

 影が長くなり、振り返った室内の空気は茜色に染まっている。ここに来るまで空気に色があるなんて、知りもしなかった。
 高天原が卓袱台の上で丹念にぼくのノートを繰っている。ぼくは怖いような気がして、彼がそうするのを見ないよう縁側に腰掛けて外を眺めていた。庭に自生する植物の葉に、蝉の幼虫がうごめいている。
 ふと視線をあげた先に、灰色のワゴン車が停車するのが見えた。小太りの男が頭頂部に手をやりながら、わずかに跳ねるような足取りで道を下ってくる。彼はいつものように土間へと入っては行かずに、そのまま縁側へ歩み寄ってくると、ぼくの隣に座った。こういう際にかける言葉を知らず、ぼくは目を見ないまま首をわずかに上下させて会釈の真似事をした。
 小太りの男は肩越しに振り返って高天原の姿を確認すると、胸元から煙草を取りだして火をつけた。この家の中で、煙草を吸う唯一の人物だった。
 「どこまで彼を理解してここにいるのかは、知らない」
 細く煙を吹き出しながら、小太りの男は呟いた。それはほとんど独白に近いようなトーンだったので、ぼくは相づちをうったものかどうか逡巡する。
 「高天原の動機とは、自らが存在するために生まれいづることを許されなかった者への贖罪であり――」
 しかし、ぼくの迷いなどお構いなしに言葉は続けられた。
 「普遍へと至る唯一無二の方策であるはずの自らの絶望が、彼の所属するジャンルの馬鹿げた包括性、あるいは倫理無視の内側に一切の過不足無く受け止められてしまうという苛立ちである。つまり、本質的にrebellionが不可能であるという苛立ち」
 吸い差しを庭に向けてはじくと、ぼくの返答を待たないまま小太りの男は立ち上がり、土間へと消えていった。
 ぼくはその背中を見送ると、再び室内を振り返る。
 室内の空気と同じ色に染まる高天原の横顔。このまま彼が読み終わらなければいい。
 しかし、やがて最後のページに到達した高天原はノートを閉じ、顔を上げた。ぼくは言われたわけでもないのに彼の前へと歩いていき、正座をする。
 高天原はサングラスを外して、ぼくの目を正面から見た。
 それはまるで、ここにいるぼくではなくて、これまでぼくが通り過ぎてきた人生のすべての瞬間をすべて眺めているようだった。いままで、誰もぼくをそんなふうに見たことはなかった。ぼくの上に訪れる誰かの関心は、路傍の石への興味に過ぎなかった。誰からも省みられないようにふるまうことこそが、ぼくの自己定義だった。
 高天原は、しばらくそうやってぼくを見つめてから、ふっとため息をついた。
 永遠に思える沈黙の後で切り出された言葉は、ぼくをすっかり動転させるに充分なものだった。
 「君を連れてきたのは、失敗だったかもしれない」
 みぞおちに重たい塊が生まれた。墜落するような感覚が膝を走った。
 高天原を失望させてしまった、と思った。何を選ぶこともできなかったぼくは、期待させなければ失望させることもないだろうと考えてきた。そんな無意識の防衛が、高天原の期待を裏切ってしまったのか。
 高天原は、ほとんど悲しそうにさえ見えた。
 「君を見ていると、決心がにぶる。人は誰かを前にしてしまうと、憎しみだけを続けることはできないんだろう。どんなに憎んでいても、いつかは愛が誕生して、誕生した愛は永遠に続いていく。人の中には再生する力がある。例えば大切な人を傷つけ殺す悪鬼への憎しみさえ、いつか愛に変わっていってしまうのではないかと私は恐れてきた。私の生を決定しているのは、そんな破格の愛情なのではないか。私はずっと、誰も赦したくないと思っているのに。私は私のために、君をそっとしておいた方がよかったのかもしれない」
 ぼくは本当に心からの誠実さで、高天原の求めるものに応えようとした。
 だが、それはかなわなかった。喉元に痛みが溜まるのを感じる。
 「君の書いたこのシナリオに、私はひどく感銘を受けている。予想以上のものだ」
 言葉の意味が浸透するための空白。
 関節をつなぎとめている何かが一度に消失するような脱力。
 このときぼくは、高天原が伝えようとしているものの中身を理解しようともせずに、自分の勘違いが覆されたことにただ安堵を感じていた。
 「君の世界は、とてもきれいだ。それは君だけの中で、一切が完結している。永遠の保留のきれいさだ。私は割り切れないものをどれだけ忘却せず、黒か白かの厳格なパターンに当てはめもせず心に保持することができるかが、世界をはかるものさしになると思ってきたが、それは私が現実を常に確定させたい人間だったからなんだろう。何ひとつとして確定したもののない君のこの話を読んで、私は自分をはじめて外側から客観的に眺めることができた。不思議なことだ。……君の書く”波紋”という考え方、実は私にはとてもよくわかる」
 高天原は、ぼくがノートに書いた言葉を口にした。
 水面に広がる波紋は弱い力だが、水面に浮かぶものたちは例外なくその影響の下にある。ぼくに日常を反復させる、目に見えないあの力のことだ。
 「この世界全体を支配している何かは確かにあって、それは神と呼ぶほどには意志がなく、私たちを圧倒はしない。自由意志というのは、思考のための方便だとずっと思ってきた。私たちの生は、あらかじめ何かに規定されてしまっているのだから。”波紋”という言葉は、心を澄まさなければ感じないですむほどのその弱い違和感を指すのに、とてもしっくりくる。ただ思うのは――」
 高天原は、ぼくの目をのぞきこんだ。
 「君は実のところ完全に充足していて、何を足し引きする必要もないんだろう。君は幼児のように無垢で、乙女のように処女で、そして天使のように拒絶している。私はこのきれいなものを壊してまで、自分の仕事をするべきなんだろうか」
 高天原はそこまで言うと、少し黙った。
 その言葉の意味するところはわからなかった。ぼくは、きっとぼくのシナリオがまずいので手を入れるべきかどうか迷っているのだろう、と考えた。高天原は、ぼくに何かを伝えようとしていたのに。
 「私は多少なりとも、君の世代に責任を感じていたつもりだった。歴史上の偉人と同じレベルの微細に至る感受性と思考回路を与えられ、私たちの内省の無いそろばん勘定に異常な性癖を開拓され、この世で一番貴重な魂を持った人買いの仲間たちが、永遠に向けて立ち往生をしている様子に、だよ」
 言いながら、高天原の目の底に怒りのようなものが浮かぶ。
 「君が”汚れた世界”と表現している場所は、本当は少しも汚れてなどはいない。君たちが、あまりに清潔すぎるだけなんだ。食肉目的の無菌室の豚のように、世界という残酷さの前に一方的な被害者として饗される運命なんだよ、君たちは!」
 高天原が卓袱台を手のひらで一撃する。ぼくは突然の激情にふるえあがった。
 だが、見たと思った高天原の怒りは、次の瞬間には消えてしまっていた。
 指でまぶたを押さえながら、高天原が言う。
 「……すまない。憎まなければ、私は動けなくなってしまうような気がする」
 ぼくは意味もわからないまま、あなたが謝る必要はない、といったふうなことをもごもごと答えた。
 「私が荷担しなければ、まだ何かが違ったのかもしれないと思い続けてきた。たくさんの人間を最上の技巧で、本人たちがそれと気がつかないままに不倶にしてきた。二度と復帰のかなわない場所へ陥れてきた。この世で一番重い罪、情状酌量の余地がない罪は、赤ん坊を殺すことだと思う。未来を殺すから、という意味ではないよ。赤ん坊たちの中にある、世界に対する無条件の、無上の信頼を裏切るからだ。私がやってきた仕事は、たぶん同じことだった。でもそれは、私があえて目を向けなかったところで、こんな小さなきれいものに結実していた」
 高天原は、庭に目をやった。
 「果たして、君たちは変わることができるんだろうか。心を枉げられて、君たちはなお生きてゆくことを選択するだろうか。君たちの世界はきれいだ。閉じているからこそ、君たちの世界はきれいだ。しかしそれが無理矢理に外へと開かざるを得なくなったとき、君たちの世界はまだきれいでいられるだろうか。私はもしかしたら、それが知りたいだけなのかもしれない」
 高天原の声は、ほとんどつぶやきのようだった。
 「私はこの世で最も卑劣な人間だ。私はいつだって、無邪気な扇動者どころではなかった。私は自分の意図が誰かの人格の上へどういう結果を結ぶか常に正確に把握していていながら、自分を制約することは一切無かった。私の罪は誰よりも重い。だから、誰からの同情の余地も、理解の余地もないようにすべてを運ばなくてはならない」
 サングラスをはめると、高天原はゆっくりと立ち上がる。
 「私はもう一度、憎むことから始めよう」