猫を起こさないように
日: <span>2006年1月11日</span>
日: 2006年1月11日

甲虫の牢獄(3)

 高天原が指定した集合場所は、郊外の無人駅前にある空き地だった。
 実際には、人気の少ない真昼の電車に三十分ほど揺られていただけのことだったが、無人駅のホームに足をつけたとき、ぼくは身も心も疲労困憊の極に達していた。パターンから離れた場所で、ぼくはすべての瞬間を決断し続けなければならなかったのだから。
 小休止のつもりでホームの鉄柵に身を預け、それがここをいつ離れるかについての決断をぼくに迫っているのに気づき、ほとんど絶望的な気持ちになった。
 振り返れば、見下ろした先に目的地と思しき空き地が見える。そこにはすでにいくつかの人影がある。
 ぼくは動揺を感じた。高天原が声をかけたのがぼくひとりではないという可能性に、思い至っておくべきだった。
 自分の中に生まれた感情に促されて、鉄柵から身をもぎはなした。よろよろと駅の改札口まで歩いていく。他に選択肢は無かった。ぼくは夢遊病者のように見えたことだろう。家を出て以来、ぼくは感情の乗り物のようだ。感情が衝動を刺激し、身体を遠隔操作している。
 改札出口の階段を下りると、道路を渡る。ほとんど脅えるようにして、ぼくは空き地へと足を踏み入れた。
 そこにいる人々はお互いに無関係であるかのように距離をあけて立っており、外見からは高天原に関係する人物なのかどうか、判断がつかなかった。
 見られていることを意識しながら、彼らの前を横切って空き地の隅へと歩いてゆく。荷物を地面に下ろすと視線を向ける先に難渋し、こういう際の習い性として自分のつま先を見つめることにした。
 やがて値踏みが終わったのか、向けられていた視線が途切れるのを感じる。ぼくは塹壕からのぞくようにわずかに顔を持ち上げると、上目遣いでそこにいる人々を観察する。
 人数は、ぼくを含めてちょうど八人。服装や年齢に統一したものは全く感じられない。向こうもぼくを見て同じように考えていることだろう。ぼくは順に見回しながら、違和感を覚えて視線を戻す。
 果たしてそこには、制服姿の少女が立っていた。
 手入れの行き届いたぴかぴかに光る革靴、ワンポイントの入った白のソックス、ほとんどその白と変わらぬ細いふくらはぎ、襞の入った紺色のスカート、上着の左胸には校章だろうか、何かの植物をあしらったロゴマークが縫いつけられている。肩口に切りそろえられた黒い髪が白い襟にわずかにかかる。ふちの細い眼鏡、意志の強そうな太い眉。
 突然、少女がこちらへ顔を向けた。一瞬、正面からその目をのぞきこんでしまう。
 黒く深い、澄んだ大きな瞳。
 あわてて視線をそらす。
 ぼくのこれまでの人生がすべてが非難されているかのような、いたたまれなさが膝頭からわき上がる。慣れ親しんだその感覚を全身を固くしてやり過ごす。
 しばらくして顔を上げると、彼女はもうこちらに背中を向けており、空き地の入り口をただ見つめていた。
 両手を軽く握り、背筋を伸ばして立つ明確な意志を持った後ろ姿。
 その人生は、ぼくのものとは真逆の要素ばかりでできあがっているのに違いなかった。ぼくが持つことを拒否したものが、すべて少女の中にあるような気がしたのだ。
 どのくらい時間が経ったのか。
 周囲を照らす陽光の色合いに翳りが含まれ始めた頃――
 大型のワゴン車が空き地へと侵入してきたかと思うと、乱暴に砂埃をあげて停車した。
 助手席から、ロングコートにサングラスの男が、サンダル履きで降りてくる。コートの下には、不釣り合いにジャージがのぞいている。見間違いようもなく、高天原勃津矢だった。
 ドアを閉めると、コートのポケットに両手を突っ込んだまま、高天原は空き地の中央へと歩を進めた。そして、何かの合図ででもあるかのように軽く右手を上げる。集まった人々はお互いに牽制をあらわにし、顔を見合わせた。
 何のためらいもなく一歩を踏み出したのは他の誰でもない、あの少女だった。それに促されるようにして男たちは、ぞろぞろと高天原の周りへ蝟集する。
 ぼくは、少女の横に立った。彼女の頭はぼくの肩の下にあり、ずいぶんと小柄なことがわかった。彼女の意志が、彼女を実際より大きく見せるのかもしれない。わずかに流れる風が、甘い匂いをぼくの鼻腔へと運んできた。局部に不意の昂まりを感じぼくが顔を赤くするのと、高天原が話し出すのは同時だった。
 「どうやら一人の欠員もなく、そろっているようだ。改めて自己紹介をさせてもらおう。高天原勃津矢だ。エロゲーを作り始めて、長い。この中には私のことを知っているものも、知らないものもいるだろう。私の作品をプレイしたことがないものも当然いるはずだ」
 軽い笑い声が上がった。高天原を知らないものがここにいるはずがない、といった意味の笑いだったのだと思う。
 少女だけが笑わなかった。
 「だが、私はそんなことには関係なく君たちを選んだ。私が君たちを選んだのは、君たちが私の必要とする才能のうちで、それぞれ最高のものを持っているからだ」
 高天原は全員の目を順番に見ながら、言った。
 ぼくは身震いする。それは遠く忘れかけていた、懐かしい感覚だった。誰かが、他の誰かではない自分の存在を求めてくれている。肯定されることは、こんなにも心の奥底を痺れさせる快感だったのか。ぼくは目頭が熱くなっていくのを安い感傷だと恥じたが、その熱さが止まることはなかった。
 「狭いこの業界のことだ、お互いを見知っている者もいるかもしれない。けれどそれは、胸にしまっておいて欲しい。私はまったく一から、この場所から君たちの関係を始めて欲しいと思っている。それは、今回の作品に必要なことだ。これから一年間、私は君たちを拘束する。同じ家で寝泊まりし、寝食と仕事をともにするのだ。私はそこで、独裁者のように振る舞うだろう。生活に必要となるもの、君たちの個人的な嗜好品などは、すべてこちらで準備しよう。君たちの持つ才能への支払いとは全く別でだ。この条件を呑んでくれそうな人間を集めたつもりだが、もちろん、この場で辞退してもらっても構わない。代わりの準備はしてある」
 そこまで言うと、高天原は沈黙する。
 才能を認めると言いながら、代わりはいると告げる。高天原は的確にぼくの感情をゆさぶって、彼が意図しているのだろう結果へと誘導してゆく。ぼくに求められているものが何なのかはわからなかったが、高天原の言葉を聞いただけで、この場を立ち去る選択肢は無くなっていた。
 ぼくに代わりがいるのは知っている。この世界のほとんどの場所で、ぼくの代わりはいるだろう。しかし、それは観念的な理解に過ぎなかった。目の前でぼくの代わりが高天原に肩を抱かれて歩み去っていくのを見て、ぼくはそれに耐えることができるのか。ここに残るためなら、あそこへ戻らないためなら、ぼくはそいつを殺しさえできるだろう。
 ぎょっとして、もう一度その言葉を心の中で繰り返す。それが嘘ではなく、どうでもいい何かに冷えてもいないのを知って、ぼくは驚いた。抱いた意志が一瞬ののちに拡散してしまうだけではなく、積み上がることもあるのだという事実に驚いたのだ。
 誰も身じろぎひとつしない。場を覆う緊張感が、次第に高まっていくのがわかる。
 少女は何を感じているのだろう。隣に立つ彼女の様子をぼくは横目でうかがった。唇を引き結び、その大きな瞳でまばたきもせずに高天原をにらみつけている。
 たっぷり五分ほども経過しただろうか。ひとりとしてその場から動こうとしないのを見て、高天原はうなずいた。
 「これで私はひとつ、革命へのハードルをクリアしたというわけだ」
 高天原が相好を崩す。その人なつっこい微笑みは、先ほどの緊張感を生み出していたのと同じ人物であるとは思えない。安堵の空気が流れるのがわかった。そして、ぼくたちに向けて頭を下げる。
 「君たちの決断に対して、礼を言わせて欲しい」
 意外な言葉。しかし再び顔を上げたとき、彼の顔から微笑みは消えていた。
 「君たちの過去を見て私は君たちを選んだが、これから向かう場所でさらに君たちの過去が重要になるとは考えていない。いまから、自分の思う好きな名前を名乗ってくれ。ペンネームやハンドルネームのようなものだ。本名以外ならば、どんなものでも構わない。君たちの関係を、いまこの瞬間から新たに始めるためだ」
 高天原に促され、誰もが淀みなく名前を述べていく。外国の人名を名乗る者や、何かのキャラクターと思しき名前を言う者、数字を羅列する者さえいた。
 ぼくの全身から汗が吹き、冷えた。
 いまの自分は真実の自分ではないと思ってきたにも関わらず、ぼくに何か別の明確な自己イメージがあるわけではなかった。自分の名前を自分で決定する。それは自己定義と同じことだ。自己定義を意識的に放棄し続けてきたことが、ぼくのいまにつながっている。ぼくに何か言えるわけがない。
 だが、その逡巡が現実に何らかの影響を持つことはなく、やがて順番は回ってきた。
 何かを言わねばと、口の中でもごもごと舌を動かすが、それが言葉になって外へ出てゆくことは、ついに無かった。
 「決められないんだな」
 高天原には、ぼくの沈黙の意味がわかっているのだろう。きっと、ぼく自身よりも正しく。
 「では、君の名前は――」
 一昔前に人気のあったアニメの主人公の名前が告げられた。皆の口元に失笑が浮かんだような気がして、ぼくは顔を赤らめてうつむいた。他人の中にいるとき、ぼくの位置は否応なく他人の存在によって定められてしまう。ぼくは薄っぺらに相対化され、相対化された自分を見てぼくは無力感に思考を停止するしか無くなる。けれど、しばらく考えることをやめさえすれば、いつもその屈辱は忘却が連れ去ってくれた。
 視界の端に少女のスカートの襞が揺れるのが見えた。彼女はきっと、他人に規定されたりはしないだろう。両手を軽く握り、背筋を伸ばして立つ明確な意志を持ったその姿。少女は、親指の先を軽く噛んで、逡巡するようだった。その白い頬は内からこみあげる感情に紅潮して、暗くなりゆく大気の中で、淡く輝いているように見えた。
 「私の名前は、元山宵子です」
 よく通る、強い声だった。ぼくとはまるで正反対に、他人に何かを伝えようとする意志に満ちていた。自分の言葉が、他人にとって意味をなさないのかもしれないという疑念を一欠片も含まない、それゆえに美しい声だった。
 「そうか、君は元山宵子と名乗るのか」
 高天原が、ひどく真面目な調子で言った。
 「言い忘れていたが、元山君には週五日の通いで働いてもらうことになっている。未成年を監禁するわけにはいかない。現実の常識はエロゲーと多少違うからね」
 笑い声が上がる。やはり、少女だけが笑わなかった。
 「では、行こうか」
 高天原は身をひるがえすと、ワゴン車の助手席へと乗り込んだ。
 ぼくたちも後へと続く。運転席には頭頂部のはげあがった小太りの男が座っており、黙ったままぼくたちをバックミラー越しに一瞥した。
 ぼくの隣に少女が――元山宵子が座った。
 彼女は、ぼくの方を向いて軽く会釈をした。
 小さなおとがいが上下に揺れる。
 深い瞳の底にある、ふしぎなかぎろい。
 耳朶に血液が集まってゆくのを感じて、ぼくは窓の外を眺めるふりで、元山宵子から顔をそむけた。背後に砂埃を巻き上げながら、車が発進する。
 駅前にはかろうじてコンビニエンス・ストアに、カラオケ屋、学生用のアパートなどがあったが、しばらく走ると、同じ県下とは思えないほど田舎びた風景が広がり始めた。
 道路の両脇には田んぼが広がり、その向こうに民家が、その先に山のつらなりが、山の輪郭の上には電線が見えた。
 車内の全員が、なんとなく黙り込んでいる。高天原の言葉を待っていたのかもしれないが、それ以上に不安もあったろう。
 やがて車は大きく左折して幹線道路をそれると、山の中へと進んでいった。ほとんど一車線しか無い細い道路が、螺旋状に山を巻いている。ときどきやってくる対向車に、舗装の無い草むらへと待避しながら、ぼくたちを乗せたワゴン車は次第に高みへと登っていった。
 カーブを曲がるたびに、横に座る元山宵子の柔らかい感触が、ぼくの半身に押しつけられた。ぼくは両足をきつく閉じて、できるだけそれを意識しないように努力する。
 山道を登っていくにつれて白いもやが深まってゆく。白いもやは、通り抜けてきた山の底へ溜まってゆくようだ。
 ぼくは不思議な既視感にとらわれる。
 白いもやを抜けるとそこには――
 山肌の傾斜へ張りつくようにして段々畑が広がっており、いくつかの民家が点在しているのが見えた。
 やがてワゴン車は道路の片隅に停車した。そこから、土を踏み固めただけの細い下り坂が、一軒のわらぶき屋根の家の前庭へと続いている。
 高天原は指さして、言った。
 「諸君、あれがこれから一年を過ごすことになる、我が家だ」