腰を真横へスライドさせる度に組み敷かれた田尻仁美がギャアギャアと、ちょうど生ゴミを漁るところへ石を投げられたカラスのように鳴きわめくので上田保春の欲情はいっこうに昂進せず、ただ勃起を維持するので精一杯だった。加えて普段からの不摂生により人並み以上に皮下脂肪と内臓脂肪をたくわえた腹で、射精に至るほど連続的なピストン運動を続けることは極めて困難と言えた。妄想世界で少女にする荒々しい、しかし手首の運動だけを伴った自慰から得るあの激しさを、全身を用いて局部に与え続けるのは至難の業である。そして羞恥から婉曲表現に頼ることを許して欲しいが、脈動する女性のヨグ・ソトホートの形状や状態によらず、適切な瞬間に適切な圧を男性に加えるのに自身の握り拳よりそれがふさわしかったことを彼は未だ経験したことがない。また、萌えゲー内の絶好の射精ポイントを求めて男性性を達成する瞬間を操作することに長けた上田保春は、自慰の激しさと相まってほとんど遅漏でさえあったので、自分が快楽の絶頂へ到達するためというよりはむしろただただ田尻仁美が早く果ててくれることだけを願って、運動部の兎跳びのごとき非科学的なこの苦行に耐えていたのだった。また、右利き用マウスを使用する上田保春の局部は左手で習慣的に強く握られ続けてきたため右方向に大きく湾曲しており、通常の膣を有する女性との媾合においてその体位は正常位とは名付けのみ異常さで、身体と身体が直交する有り様はほとんどカギ十字の様相を呈した。それがどういう作用だろうか田尻仁美にとっては性的に敏感な部分を強く刺激される結果になるらしく、先ほどからもう気の狂わんばかりの悲鳴を上げ続けている。こんなふうに性交を避けられない場合にいつも浮かぶのは、バイザー型のモニターを萌えゲーの画像が満載された自宅のパソコンに接続し、それらを閲覧しながら交接させてはくれないものだろうかという、当の女性が聞いたのならば瞋恚に鼻血を吹くような人道に外れた妄想だった。それさえ可能なら、現実の性交はもう少し悦びに満ちたものになるに違いないのだが! 上田保春は本当に心の底からそう感じているのであり、これを聞いて誰もが彼の性癖を異常だと糾弾するのに何の躊躇も必要あるまい。しかしそれにしても――上田保春はあえぎ声をあげつづける田尻仁美を冷静に観察しながら思う。もう少しあの萌えゲーの少女たちのように計算された繊細さをもって声をあげてはくれないものか。そう考えて再び、上田保春は自分をこの安宿に留めている理由に思い至り、勃起がたちまち萎えてゆこうとするのをくい止めるために決死のスライドを開始するのだった。田尻仁美が絶叫した。その悦楽の没我に歪曲する顔面を至近距離から眺めながら考える。――この女は、なんて藤川愛美に似ていないのだろう。上田保春が感慨に漏らした藤川愛美なる人物を簡単に説明するならば、彼の愛好する萌えゲーに登場するキャラクターであり、更に詳細を期すならば蛍光色の頭髪をした十八歳の小学生であると表現できるだろう。だが、この場面に至るためには少し時間を遡行する必要がある。
母からの電話を受けた翌日のこと、週末に備えて定時に職場を離れようとする金曜日の上田保春へ声をかけてきたのは、田尻仁美だった。今夜お暇ならご一緒願えませんか。上田さんにご相談したいことがあって。男性に対して何か効果を与えるのだろうと確信している素振りで上目づかいに彼を見つめながら、田尻仁美はこう切り出した。しかし、上田保春はご存じの通り並大抵の男性どころではなく、また彼の頭は全く別の思いによって占められていたので、その申し出に正直なところ「鬱陶しい」以上の感情を抱くことができなかった。お気に入りのアニメ声の君であるから、昨晩の母からの電話が無ければまた状況は違ったかもしれない。週日の上田保春は現実から可能な限り萌えゲーを楽しむ時間を切り取るため求道者のように振る舞い、それが仕事の能率と結果としての評価を彼に与えていたのだが、萌えゲーに耽溺する豊潤な時間を翌日に約束された週末は、仕事以外で同僚と交流することにずいぶんと寛容な気持ちであることができたし、自宅の床から積みあげた萌えゲーの量が少ないような晩は自分から誰かを誘うことさえあった。もっとも、萌えゲーを堪能し尽くした日曜の夜にはこの物語の冒頭で見たように、萌えゲーおたくであることの罪悪感をも同時に味わいつくし、精神的に衰弱するほど疲れ果ててしまうことが常だった。上田保春の社会での活動はその意味で贖罪の行為に近く、彼の日常は罪を犯すことと贖うことを一週間というスパンで繰り返しており、ほとんど絶海の修道院に住む尼僧の日々と変わらぬと言えた。ともあれ全く便利な日本語、上田保春は主語と述語を曖昧にし、かつ語尾を濁して、それでも今夜はつきあう気持ちは無いということを田尻仁美に明示する。普段ならばあり得ないことだったろうが、なおも何か言いつのろうとするのをほとんど無視して鞄を取り上げ、その横を通り過ぎた。上田保春の抱く思いはあまりに重大だったので、この瞬間の田尻仁美は彼にとって物語の進行上に現れた障害物に過ぎなかった。要するに、無視する権利のようなものを身内に感じたのである。しかし、個人の抱く思いの重大さというものは、そこが現実である限り世界にはわずかの影響もなく、上田保春が感じたような権利は言ってみれば都合のいい虚構に脳を毒されたがゆえの錯覚でしかない。それを証拠に彼が田尻仁美を無いように扱えたのもそこまでだった。廊下を歩み去ろうとする上田保春の背中に彼女はこう声をかけたのである。「相談というのは、藤川愛美さんのことなんですが」
上田保春は驚愕した。意識が空白化し、全身が金縛りのように硬直する。鞄が指からすっぽ抜けて、よく磨かれた床を回転しながら滑ってゆく。思わず内面の動揺を表してしまったことを後悔するが、すべてはすでに遅かった。振り返れば、田尻仁美が明らかな優越を瞳に浮かべている。是非、上田さんと彼女のことをお話したいものですわ。その奇形な唇に勝ち誇った微笑みがゆっくりと形作られるのを彼は呆然と眺めた。一瞬のうちに攻守は逆転し、もはや否の返事は許されていなかった。
寒い大地を強制的に連行されるイメージで、悄然とつき従う上田保春。繁華街のざわめきを通り抜け薄暗い店内を案内された先は、まさにこういう誰にも聞かれたくない際の会談にはうってつけの個室だった。田尻仁美はこれから行われる脅迫行為を誰にも知られたくないはずだったし、上田保春はその脅迫材料を誰にも知られたくなかった。部屋の光源は卓上に置かれた硝子細工の内側に輝くキャンドルと、部屋の四隅の床からぼうっと浮かぶ間接照明だけだった。上田保春は肩幅の内側へ両腕をもみしぼるようにし、落ち着ける先が無いかのように視線をさまよわせた。田尻仁美は満足そうにその様子を眺めると、店員を呼ぶためのブザーを押した。このときの彼の行動は相手の優越を満足させるという一点において為されていたので、彼が特別このような機会に慣れていないというわけではなかった。上田保春は萌えゲー以外の嗜好を持たないがゆえに、この社会という場所ではあらゆる執着と欲望から切り離された完全な空虚であり、誰かの感情への共振でその杯を満たすことで、連日連夜彼が陵辱する萌えゲーの少女のように、相手の要求だけにぴったりと当てはまるオーダーメイド的人格を顕現させることができるのだった。もっとも萌えゲー愛好にたどりつくような上田保春にとって、相手の嗜虐をさそう人格が最も得意とするところだったのだが! その意味で皮肉にも田尻仁美との相性はぴったりであると言えた。だから、この後に記述される上田保春の言動にはむしろ田尻仁美の内面が照射されていると捉えた方が、より正確に状況を把握できることだろう。屠殺場で眉間に単銃を撃ち込まれるのを待つ牛のように、じっと黙りこむ相手を気にもとめず、田尻仁美は手慣れた様子で注文を済ませると取りだした煙草にやくざな仕草で火をつけた。その動作は自分の行動に対する疑いを一片も感じさせないほど滑らかで、まるで獲物を追い込む肉食獣の舌なめずりのように上田保春の目に映った。実際その通りだったのだろう。田尻仁美は煙草を吸いたいからというより、許可なく煙草に火をつけることで自分が優越した立場にいるということを知らせるためにそうしたのである。上田保春は敵のテリトリーに誘い込まれ、完全にイニシアチブを握られてしまったのだ。何か言おうと彼が唇をわずかに開いたその瞬間に、田尻仁美は滑るような動作でハンドバッグに手を差し入れると、一枚の葉書を取りだした。「これ、たぶん見覚えあると思うんですけど」
人差し指と中指で挟んだ葉書をキャンドルの上にかざしてみせる。そこに萌えゲー制作会社の名前が印字されているのをはっきりと読みとることができた。定規で「行」の上に二重線が引かれ、見慣れた神経な細い筆跡で「御中」と訂正がしてある。住所・氏名の欄には果たして「上田保春」と書かれていた。萌えゲーおたくの無意識は常にすべてをご破算にしたい欲求を孕んでいると彼は恐れ続けてきたが、まさにその予感は当たっていたのである。思い返せばこれまで胸元へ差し込む現実を和らげようと、飲めぬアルコールを無理に流し込んだ夜がいくつかあった。青い血の貴種が人外の獣と同じ局部を持っていることを放言できぬ床屋の鬱積と同じように、声に出せぬ思いが消えてゆくことは決してない。それは忘れたように思っても意識の裏側に隠れていて、やがて腐り、醗酵し、平衡感覚を奪ってゆき、ついには発症するのだ。上田保春はネット上の匿名巨大掲示板にさえ、当局の萌えゲーおたく追跡を半ば本気で恐れるあまり書き込みをしたことは無かった。そんな彼の無意識は宿主にただ正気を保たせるために、アルコールの力を借りて強すぎる抑圧を緩和し、脳髄の外へ残してはならぬはずの歪んだ情念を、二次元に描かれた少女を心の底から愛しているのだというその叫びを、アンケート葉書の裏へびっしりと書き込ませたのだった。いったん吐き出しさえすれば満足するのは脳髄であろうと陰嚢であろうと同じことで、朝起きて葉書が見あたらないことを彼はそれほど深刻には捉えなかった。どこか家具の隙間にでも滑り込んだに違いない、引っ越しのときには見つかるだろうなどと軽く考えたきり、完全に忘れてしまっていた。隣人に萌えゲー愛好を察知される寸前を引っ越し時期に決めている上田保春だが、どれだけ用心していても思わぬ瞬間というのはある。一度などは、会社の設備点検の影響で臨時の休みとなった平日に自室でくつろいでいたところ、突然大家がドアの鍵を開けて入ってきたことがあった。そのとき大家の視界に映ったものは昨今のニュースに見慣れた、既視感と危機感を同時に伴う映像だったに違いあるまい。午後を奔走し、翌日、上田保春は会社に有給休暇を申請すると引っ越しをした。敷金は戻ってこなかった。大家は、「あんな部屋の使い方されちゃねえ」と言った。つまり、敷金が返却されない理由は壁一面に貼られた萌えゲーのポスターなのだった。上田保春が管理権を越えた蛮行の数々を訴えようと思わぬのは、萌えゲー愛好を知られたおたくに世間の同情など集まろうはずがないからである。引っ越しの当日、ガスの元栓を閉めても閉めぬと常に告げる上田保春の衰弱した意識が、一度階下まで降りた彼を空になったはずの部屋へと戻らせた。扉を開くと、大家が壁に塩をぶつけている真っ最中だった。悟られぬようそっと元のように扉を閉める上田保春。陪審員制度の導入に彼が危機感を覚えるのは、例え訴状の内容がどのようなものであれ、萌えゲーおたくはすべての裁判で敗訴を避けられないだろうからである。少々話がそれたが、萌えゲーおたくがこんな形で露見することを上田保春は想像すらしたことが無かった。田尻仁美の掲げる葉書は実のところ、残業で郵送できず持ち帰った仕事の封筒といっしょに彼自身が投函してしまっていたのだったが、それはこんな形での破滅を想定した行為では無論なかった。いったいいくつの偶然が重なればいま置かれているこの状況へと至るのか、もはや見当もつかない。物語の成就を偶然に多く頼る萌えゲーをモニターの前で罵倒し続けてきた上田保春は、それが人間の意識では計測することの出来ない何かの総称であることを知らない。この世界に潜む偶然を極力排除しようとする姿勢に科学文明の基があることに思い至らず、まさにいまその無知と罵倒によって彼は復讐されつつあるのだった。もちろん、上田保春だけを責められたものではない。少年の言葉ではないが、人は意味づけできない偶然よりも、どれほど貧弱であれ常に自身の解釈を優先して採択するものなのだから。しかし、なぜ田尻仁美がこの葉書を持っているのか。口を半開きにした上田保春が葉書から視線を外したのを見て、彼女はすべてわかっているといったふうにうなずき、声にされないその疑問へ厳かに回答を与えた。「藤川愛美の声を当てているの、私なんですよ。気づきませんでしたか」
そうして両拳を口元に持っていってポーズを作ると、二三度わざとらしく目をしばたかせた後、田尻仁美は「あたし、お兄ちゃんが欲しいの」と言った。それは本当に、藤川愛美そっくりの声だった! 上田保春はまず目眩を感じ、次に手元にあるグラスを田尻仁美の顔面に投げつけたいような気持ちに駆られた。猫をモチーフにした国民的有名漫画キャラの声優が、料理番組で子ども相手に声の芸を披露し、ハンバーグの種を投げつけられるのを偶然テレビで見たことがあったが、上田保春の気持ちはまさにそのときの子どもが抱いただろうものと同じであった。つまり、大切な何かを冒涜されたと感じたのである。彼の抱いた感情はいたって真面目なものだったし、傷つけられた思いはきっとあの子どもと同じような純真さにあふれていたが、何をおいても彼の信仰の対象は性交のためだけに、更に言えば男性の勃起を満足させるためだけに彫刻された萌えゲーのキャラクターだったので、自分の感情の真剣さを理解させるため全身全霊で反論しようとも、軽蔑の鼻息ひとつで充分にすべての試みは吹き飛んでしまうだろう。上田保春の脳内で十二人の怒れる陪審員が陪審席に立ち上がり、立てた親指を下に向けながら、「死刑」を連呼するのが聞こえる。それは子ども時代に抱いた無力感に似ていた。例えば夏中をかけて集めた大量の蝉の殻を父に捨てられたときの感じ。相手の側が圧倒的に力を持っているので、言葉に託した取り替えのきかないほど重大なはずの感情が全く無化されてしまう、あの感じ。田尻仁美の話すところによれば、学生時代に所属していたアニメ同好会の後輩の一人がアダルトゲームの制作会社を経営しており――上田保春が葉書を送付した会社だ――、数年前まだ同人サークル規模だったときに安価な声優の一人としてゲーム音声の録音に呼ばれたとのことだった。何人分も声色を変えて一日あえいで、五千円ですよ。これが結構、未だに売れてるみたいで、わかってれば私、買い取りじゃなくてもう少しお金もらえるようにしたんですけど。ほとんどドサ回りの演歌歌手、あるいは弱小プロの売れないアイドルのような調子だ。そしてやはり、上田保春のデスクに萌えゲーの雑誌を置いたのは田尻仁美だったのである。出演した萌えゲーの紹介記事が掲載されているのを、その後輩が律儀に郵送してくれたのだそうだ。藤川愛美への熱烈な愛情がしたためられた、ファンからのアンケート葉書を同封して。これを聞くに至って、上田保春には何か巨大な意志が自分を破滅させようと画策したのだとしか思えなくなる。アンケート葉書に書かれた名前を見て田尻仁美は最初、同姓同名の別人ではないかと考えたが、経理部の社員名簿を繰るうちに真相へたどりついたのだった。そう言えば、いくつか思い当たるフシはありましたよね。その言葉は誰にでも可能な結果論に過ぎなかったが、それでも上田保春の自尊心を傷つけるのには充分な効果を発揮した。完全に萌えゲーおたくを隠し続けることが、彼の自己定義の一つだったのだから。気がつけば眼前には料理が運ばれてきており、田尻仁美は手酌のアルコールにひどく酔っているようだった。上田さんが誰にもなびかないのは社の外に彼女がいるからだってみんな噂してましたけど、まさかこういうのが好きだなんて思ってもみなかったわ。そう言うと田尻仁美は、藤川愛美が初めての性交時に頬を赤らめるときのように、再び両拳を口元へ持っていき――あたし、お兄ちゃんの欲しいの。料理の上へ眼を伏せたままその声を聞いた上田保春は、股間にかすかな勃起を感じた。相手の顔さえみなければ、それは彼の愛する藤川愛美だった。田尻仁美という現実の肉を得たせいで彼の内側に死んでいきつつある少女を想って、彼は気づかれぬようひっそりと落涙した。架空のキャラクターぐらいに何を泣くことがあるのかという嘲りの響きは、もはや上田保春にとって実験室のマウスへ定期的に流される死なない程度の電流のように、抗議に首をもたげるのも億劫な、通り過ぎるのを待つ何かに過ぎない。なぜ電流が流されるのかは知らない。その意味を知っているのは神か悪魔か、上田保春で実験をしている存在だけだ。この世は地獄だ――彼はそう感じたが、彼の感じる地獄を共有できる相手は見渡したところでどこにもいなかった。
田尻仁美は上田保春の沈黙をどうとらえたものだろうか卓上に手を伸ばして来、彼の手にそっと重ねた。彼女の手は熱を伴って、ほとんど焼けるように上田保春には感じられた。拒絶する素振りが無いのに調子を得て、田尻仁美はゆっくりと手の甲を愛撫し始める。人肌のぬくもり。上田保春は自分の意識とは完全に乖離しているにも関わらず、身体を切実に促すような感覚が胸の内に生まれるのを冷静に観察した。萌えゲーおたくとは肉体よりも頭脳での世界理解が先行してしまった人たちを指すのかも知れない。知的レベルの高さは問題にならず、人肌に触れるとか、人間的営為の当たり前の素朴さに簡単に降伏してしまう。このときの上田保春も例外ではなかった。強く拒絶を表すこともできたはずだが、それをしなかったのだ。生物としての本来的な部分が渇いており、その渇きに水を注いでくれるのならばどのような相手であれ、他の事象に対する内省を度外視した高い論理性や、それほどまで強くては自分以外の存在を少しでも容認できまいと思えるほど先鋭化した批判精神もみるまに吹き飛んで、たちまち腹を見せて完全な恭順を示してしまうのだ。その滑稽さを避けるためには、贅を尽くした釈尊が赤子を踏みつけて出家したように、肉を得てから知に至らねばならぬ。これを順番ぐらいのことと軽視してはいけない。愛していると言ってから交接すれば結婚だが、交接してから愛していると言えば犯罪である。普段は高慢な女性がその裏に男性へ屈従する弱い気質を隠しているからこそ彼女の罵倒を楽しめるのであって、普段穏やかな笑顔で微笑みかける女性がその裏に自分のことを生理的に心底嫌いぬいている事実を隠しているならば、それは現実そのものでしかない。肉というのは象徴的にはこの世を二分した際のこちら側の本質であるが、こと男性においては下世話なほどに手っ取り早く女性という形を取る場合が多いようである。ただ知から始めてしまったがゆえにその知の偉大さや研鑽にも関わらず、後に肉に陥落してしまう喜劇的な滑稽さを呈するのは例外なく男性である。釈尊が仏敵魔羅に幻惑されなかったのは、充分に肉を知っており、それに飽いていたからに他ならないと上田保春は思う。そして、賢明な誰もが見ないふりで目を伏せてくれているのにわざわざ歩み寄って腕をつかみ「あの感性が私に欠けていたものだ」だとか、「知に携わる者が肉を言ってはならぬ」であるとか、問いもせぬのに聞かせてくる段へ至っては何をか言わんやである。女性は男性個人にとっての救済になることはあっても、世界と同義では無い。つまり、当人以外を救うには全く効果を為さないという当たり前さに、順番を違えただけ盲目になってしまうのだ。上田保春は田尻仁美に触れられた際の心の動きを自覚し、漠然とそんなふうな分析の言葉で追ったが、それは内から出て内へ還るだけの、一瞬浮かんでは永遠に消えてしまう類の思考の泡沫に過ぎなかった。
田尻仁美が欲情に渇いた唇を、煙草の常習で茶色く染まった舌先で湿すのが見えた。その唇はいまや濡れ濡れと輝き、上半身と下半身を直結するあの暗喩を持ち出すまでもなく、欲情しているのだった。田尻仁美は上田保春に欲情しているのだろうか。いや、彼女はこの状況に欲情しているのだ。自分好みの面相をしたフェミニンな男子を脅迫し、追いつめ、屈服せしめるという現在の状況そのものが、彼女を欲情させているのだった。だとすれば、彼に与えられた役割はただひとつである。気弱げに睫毛を伏せて、膝に握ったこぶしに視線を落としながら、かすれた声をしぼるようにして、「それで、田尻さんはいったいぼくにどうしろとおっしゃるんですか」と上田保春は言った。我が意を得たりと、田尻仁美の両目が爛々と肉食獣の輝きを浮かべる。ああ、生命! 田尻仁美の有り様はまさに生命の営みそのものではないか! 彼女のような生命力が無ければ、きっと人類はゆっくりと滅びてゆくに違いないのだ。それとは真逆に、自分はただ清潔でありたいのだろう。生きることのみっともなさや、みじめさや、不潔さとはすべて遠いところにありたいと願っているのだ。田尻仁美は全く正しい。しかし、上田保春の中の生き物の部分は誰かの肌を触れたいと切望しているのに、生命の、否定的な意味ではない不潔さを目の当たりにして嘔吐に近い感情をもまた禁じ得ないでいる。自分が誰かから本当に好かれるなどということはあり得なかった。過去、上田保春と関係を持つに至った女性たちは、彼のあまりの没交渉ぶりに――性交が少ないという意味ではない――自然と離れていったものだった。社会的な場でのつきあいから私的な関わりへと移行するにつれて、上田保春は母からの電話に受話器をかかげてうなだれるあの上田保春となり、つまり、役割を満たされない彼は完全な空虚でしかなかったので、どの女性もそこへ注ぎ続けるほど自己愛から離れて、あるいは傲慢に響かないように言い換えるならば、献身的ではあれなかった。そしてようやく獲物を手に入れた田尻仁美の歓喜にも関わらず、上田保春にはもう事の顛末がわかっている。この一夜にしたところで、過去と全く同じ経過をたどるに違いなかった。――ああ。上田保春の胸に感慨が去来する。身体の中にある動物から離れて、自分は聖者でありたいのだろう。この世の汚れからすべて離れて、自分は聖者でありたいのだろう。
ネオン街の安宿にチェックインし、背後に防音仕様の重い扉が閉まる音を聞く。ネクタイを引き抜き、ワイシャツの第二ボタンまでを外した状態でベッドの前に逡巡する上田保春へ、田尻仁美はまさに文字通り襲いかかってきた。そのときの彼女は本当に、何の比喩でもなく肉食獣そのものであり、飛びかかってくる彼女を眺めながら、逃げられない距離でライオンと遭遇してしまったときのインパラのように、運命を――あるいは不運を――受け入れる澄んだ瞳で彼は立ちつくすしかなかった。ベッドの上に押し倒され、奇形によじれた唇を重ねられる。女性は男性をレイプできないというのは、嘘だ。弱気な男性が筋力に訴えることができないような脅迫を用意しさえすれば、女性は男性の性を生贄の屈辱と共に思う存分むさぼり、蹂躙することができる。女性器が刺激に応じて本人の意思に関係なく濡れるように、男性器も刺激されれば本人の意思とは関係なくただ勃起する。例えば日曜の午後、プレイする萌えゲーが無いような際に文字通り手慰みにする手慰みを考えれば、それは明らかだ。頭の中では別の考え事に没頭しながら、手首の刺激だけで射精に至ることは極めて容易だからである。愛していないからエレクチオンしないといったふうな劇的展開は劇画内でしかあり得ず、物理刺激が最大の性交要因でないとすれば知性を発展させる長い長い道程の途上で大半の雄猿たちは童貞のまま果て――この場合童貞であるからして、「果て」のコノテーションは「死ぬ」でしかない――、間違いなく人類は滅亡し、今日の萌えゲー隆盛は無かっただろう。愛情とは滑走路の誘導灯のようなもので、それが無くともランディングは不可能ではない。ベッドの上でそうこう考えるうち、こじ開けるように田尻仁美の舌が上田保春の口腔に割り込んで来、彼の舌を、唾液を、むさぼるように吸い上げる。上田保春は田尻仁美の内蔵の臭いを感じ、喉の奥に嘔吐を覚えた。現実と萌えゲー少女の間にある違いを考えたとき、それは臭いではないかと上田保春は思う。例えば、唾の渇いた臭いは最悪だ。特にこういう接吻などの際に他人の唾の渇いた臭いを口腔から鼻腔へ感じるとき、上田保春の中にある現実へ干渉しようとする積極性、女性との交接の場合には相手を征服しようという精神的昂揚はすべて萎え果ててしまう。例えどれだけ映画やアニメや萌えゲーが進歩しようと、これらを並列に並べる段階で上田保春の精神はかなり深くおたくという病に冒されていると言えるが、臭いだけはきっと再現されるまい。それは現実そのものであり、どんなにある虚構が現実に似た迫真性を持っていると称揚されようとも、現実そのものであっては心からの没入などあり得ないのである。脳内に神を自作することで人間は世界を理解すると言った誰かがいたが――上田保春の無意識は現実にあるささいな情報を拾い集めることで彼を守る予言視のような役目を果たしており、この瞬間にその誰かのことを具体的に識域に持ち出すことはなかった――、脳というフィルタを通じて現実の真の様相を希釈することでしか、現実をある一種の虚構として判断し、体験することでしか、人間は世界を理解できないように作られている。だから、省略の妙味によって映画やアニメや萌えゲーへの没入は存在し得るのだから、これ以上の迫真性をそれらが持たされてしまうことが無いよう上田保春は切実に祈るのだ。そしてその理屈で言えば、現実の女性と性交するよりもアダルトビデオを見ながらの自慰の方が素晴らしく、アダルトビデオを見ながらの自慰よりも萌えゲーの少女を見ながらの自慰の方が間違いなく素晴らしい。上田保春は真の意味での萌えゲー愛好家であったので、萌えゲーに登場する少女たちが現実に存在したらと切望することはない。現実に存在する彼女たちからは何らかの臭いがするに違いないからである。現実に存在するということは何かを殺すということで、殺せば少女たちは食べざるを得なくなり、食べてしまえば内蔵からは臭いがするだろう。例えメロンパンを愛好するといったような愛らしい設定に頼み極力内蔵から臭いがしないようにし向けたとして、食べてしまった少女たちは排泄をせざるを得ず、そうなれば少女たちの使った便器からは臭いがするに違いない。萌えゲーの少女たちが現実にいて欲しいと願うこと、それは窓辺のジャーに仮面を保存するようなすべての孤独な人々が避けられない人恋しさのすり替えに過ぎず、上田保春はそれがわかっているから、萌えゲーの少女たちにはただ画面の中から微笑みかけ続けて欲しいと願うのである。それはまた、彼が現実へ留まり続けたいという祈りとも言えた。
しかし、こんなふうに想像することもある。明日に祝日か日曜日をひかえた深夜、窓の外の雨音を聞きながらパソコンのモニターだけが光源の薄暗い部屋で、下半身を剥きだしにしたまま自慰にいそしむ自分。ほとばしりをぬぐい取ったティッシュを別のティッシュで丹念に包む作業の途中で、ふと背後に気配を感じる。振り返ると、そこには暗闇に発光するように、萌えゲーの少女が立っているのだ。おそらく上田保春という意識はその瞬間に終わりを迎えることができるだろう。自分の描いたキャラクターが迎えに来たのを振り払って逃げた漫画家のように、上田保春の意識は現実に留まり続けるという意志の継続によって成立している。もし、現実に萌えゲーの少女を見ることができたのなら、彼は自己定義を完全に崩壊させられ、終わることができるだろう。人の内罰性は、罪責感を終わらせることができるという一点において、時に自己の消滅を快楽に転じることがある。かろうじて正気を保った上田保春の現在はその想像に、うしろに立つ萌え少女にホラー映画と同等の恐怖を感じるが、しかしそこには快楽も同時に潜んでいた。
田尻仁美の寝息が聞こえる。シーツの下に上下する、萌えゲーの少女のようでは全くない、生命力に満ちあふれた分厚い両肩を上田保春はまるで無感動に眺めた。それはただの物体に過ぎなかった。――私はこれを愛せない。視線を戻し、初めて見る天井を眺めながら、上田保春は人と触れながら人と触れられぬあの孤独を感じた。田尻仁美のせいではなかった。これが別の誰かであっても、やはり彼の感じる孤独は同じものだっただろう。腐っているのは、結局自分の脳髄だけ。ただ本当に、それだけ。その究極のはずの感慨へ思いめぐらすとき、しかし彼の心は少しも真理を得た気持ちがしない。この世にはまだ底があり、それは自分に対して永遠に秘匿されているのではないか。彼の推測は実のところ正しかったのだが、萌えゲーおたくの脳細胞はなぜだろうか、もしかするとそれの運ぶ外的情報因子を絶やさないために、この世の底を垣間見せることは無いのやも知れぬ。枕元の時計は深夜二時を指していたが、どうやらもう眠れそうにもなかった。十代の頃にはこんな夜がいくつもあった。だから、あの頃のように上田保春はじっと待つことにした。床に脱ぎ捨てられた背広の内ポケットから携帯電話を取りだして、着信の履歴をぼんやりと閲覧する。大量のスパムの中にあの少年からの着信を確認するが、それはメールではなく通話によるものだった。こみ上げる寂しさが上田保春にリダイヤルの操作を促すが、少年が電話を取ることはついになかった。音を立てないようにそっと携帯電話を畳むと、ふと部屋の入り口に気配を感じたような気がして、上田保春は半身を起こす。しかし夜目をこらしても、そこには誰もいなかった。再びベッドに身を横たえると、やはりそこに何かの気配が残っているように感じた。そう、もしかすると上田保春はずっと待っているのかも知れない。少女が現実に現れる瞬間を――自分が壊れるその瞬間を。