猫を起こさないように
日: <span>2005年10月2日</span>
日: 2005年10月2日

生きながら萌えゲーに葬られ(5)

 「鰯の頭も信心からと先ほど言いましたが、物質に物質以上のものを読みとってする人間の没入こそが、神の始まりなのだとぼくは思うのです。そして、鰯の頭よりも人間の姿を模した偶像の方が感情移入しやすいのは自明のことで、偶像が存在すること自体が個人に対する期待値を大幅に下げ、没入力がより低い状態であっても、格段に神にアクセスしやすくなるわけです。かつてならば、神に没入することのできる層は極めて限られていたと言えましょう。それは教育や教養の多寡という意味合いもあるでしょうし、何より木彫りの仏像に込められた芸術性は、堅苦しい言葉がお好みでないのならば、その理解の要求度は、現在よりもはるかにハードルが高い位置にあったでしょうから。かつての神はずっと高邁で、多くの人間にはアクセスされないことをさえ、その意義の一部としていたと考えることができる。偶像崇拝を禁じる宗教も世界にはありますが、容易に神にアクセスしてしまうことを忌避した結果であるとぼくには思えてならない。それは神を容易な没入の対象へ、あるいは消費の対象へと貶めてしまうことを注意深く避けようとする態度なのです。わかりやすくしましょう。ぼくたちが文字を読む場合を考えてみて下さい。どのように文字を読むのか。文字で表現された事象を脳内に映像化することで、ぼくたちは意味の輪郭を把握することが可能となるし、その映像の細部を具体的な形へと近づけてゆく過程でぼくたちは理解を深化できる。つまり、脳内に神を自作することで初めて、人間は世界を理解することが可能になると言えるのです。だとすれば、偶像を脳外に作成することは、脳内への神の降臨を妨げる効果を発揮してしまうことになる。脳外に神を見れば脳内に神を作成せずとも、世界を理解できますから。ぼくたち萌えゲーおたくは神の外部投影を繰り返すあまり、神をいまや手軽な娯楽にまで引きずり下ろし、さらにその神性を劣化させている真っ最中なのではないでしょうか。いま現在、巷間に氾濫する萌えゲーの群れをご覧なさい。あそこに描かれている少女たちに感情移入するのに、もはやいかなる克己も信仰も必要ありません。脳内の神は、萌えゲーの少女たちが実在することにより死んだのです。彼女たちの存在そのものがブラックホールのように、ぼくたちの魂を具象化された神の重力渦へと吸引する。そして神の娯楽性にぼくたちはなお飽きたらず、凄まじい勢いで次々と神を生産しては消費し続けている。一ヶ月に発売される萌えゲーの総量とその登場人物の数を考えたことがありますか。ここ二十一世紀に至り、過去の先人たちが自身の積み重ねの先に予見した科学万能の時代の見かけを裏切るように、我々はそれとは全く逆のオカルティックな大発見、萌えゲーを作り出したことによって神の鉱脈を掘り当ててしまったのです。最近ぼくを脅えさせるのは、世界の神性にあらかじめ総量が定められているのだとしたら、という空恐ろしい想像です。神を湯水の如く消費することで世界そのものの、人間そのものの価値が貶められていっているのではないか。ぼくたちは萌えゲーをプレイすることで人間の意味を深く傷つけ、この世を神のいない荒野へと変化させていっているのではないか。止まぬ戦争、終わらぬ貧困は、ぼくたちの萌えゲー愛好のせいなのではないか――」
 朝の光が照らす廊下を歩きながらもう何度目だろう、上田保春は牛のように少年の言葉を反芻していた。匂い立つ自負と、たがにはまらぬ論理の飛躍、未熟な思いこみすら好ましく思える。自然、頬に笑みが浮かぶのを押さえることができない。昨晩の上田保春は目眩のするような気持ちで、次から次へと延々尽きぬ少年の告白を聞いたのだった。有島浩二と太田総司は、その奔流のような言葉に気づかぬふりで、ゲームやアルコールや、他人の中にあって自身の深淵だけをのぞき込む作業を繰り返していた。彼らの無関心の後ろで上田保春は若い恋人を持った初老の男性のように、少年の話にひたすら耳を傾けた。少年の言葉はひどくよく理解できた。理解しようとする姿勢に構えるまでもなく、まるで自分がそれを話しているかのように受け止めることができたのである。
 知性に優劣は存在しないのだということを、上田保春は実感する。偏差値で切り分けられていたあの学生時代には、思いつきもしなかったことだ。すべての人間の知性は、並列なのである。そして並列であるから、そのどれもが劣っておらず、間違ってもいない。あの少年と自分の知性は、おそらく質において非常に似通っているのだと思う。有島浩二と太田総司でさえ、同じ萌えゲー愛好を業としているのだから、似た部分を持っているには違いない。しかし、少年のようでは到底ありえなかった。社会の構成員の知性を横にすべて並べて、最も色合いの濃くなっている部分が世間と呼ばれるのだろうと上田保春は感じている。そして、人間の知性が階層ではなく並列である以上、どれだけ先鋭化しても難解な用語で彩ってみせても、多数決に勝利できない萌えゲーおたくたちは常に虐げられる側に回り続けるしかない。上田保春はそこまで考えて、萌えゲー肯定の言辞がその裏に抱えてしまっている虚しさへ天啓に近い説明を得た。自分から何かを発信しようと思う人間は、理解されたいという欲求からそれをするのである。理解されたい欲求とは、理解されなかった原体験によって発生するものであり、一般の人々は自ら発信しようなどと思わないのである。理解されたいという初源の欲求を十全に受け止められた健やかな人たちは、不特定多数に向けて継続的に個人の内面を表現しようなどという欲求は、全く持ち合わせていない。だから、インターネット上で萌えゲーを肯定する言辞を多く目にしたからと言って、それが陰気な市民権運動の前向きな成果、多数決での勝利へ向けた大きな前進であるなどとは、ゆめ思わないほうがいい。上田保春の思考はいよいよ演説めいてくる。発信を自制し続ける上田保春にとって、同類の無邪気な放言は許せないのだ。なるほど、ついに尻尾をつかんだと言わんばかりのそのしたり顔は、新聞やテレビという健全な人々のする発信を指さしてのものだったのか。廊下の窓からのぞいた先に見える歩道の鳩に剣呑な視線を向けながら、彼は架空の群衆をじろりと睨みつけてみせる。心の中にしかいない群衆はたちまち縮み上がって、野次を飛ばすのをやめてしまう。君たちは私が自律的と言ったのを聞いていなかったのか。壁が投げかけられたボールをはじき返すのに壁の主体性を論じる馬鹿者はいない。それは疑いようのない自明だからである。それらのメディアは人間社会そのものに依存しているだけであって、自律的な発信の欲求から主体的に成立しているわけではないことを考えてみたまえ。注意深く見ておればあらゆるメディアは、いつだって世界の破滅は今日から一歩先にあり、解決の方法は常に残されているという態度をとっているのがわかるだろう。彼らが、世界はすでにして破滅しているのだと宣言することは、完全にあり得ないと私には確信できる。なぜなら人間社会の存続と自分たちが同義であることを、すべてのメディア、自律的でない発信源たちは無意識のうちに自覚しているからだ。あの戦争を報道する大手紙の、破滅の一歩手前で足踏みをしているような連日の記事――新聞を読むのをやめたのは、その頃だったかもしれない――を見ただろう。状況は明らかに日々悪化していっているのに、現実に真摯であろうという姿勢からではなく、破滅の一歩手前を書いてしまえば自分自身を殺さないために、あとは永遠に足踏みをしているしかないのだ。人間が一人でも生き残っていることが、何万の死体の前で世界の破滅を否定する材料だと言うのなら、そんな認識こそ呪われてあれ。彼は自身の結論に満足したように、廊下でひとり大きくうなずいた。
 発信する必要性を問いかけられてさえ、きょとんとした顔で小首を傾げたり、気味の悪いものを見た表情で歩み去る人々が世界の大多数を占めている事実を萌えゲーおたくはまず認識するべきなのだ。どれだけ声を張り上げたところでその発言は世間から不可視だし、偶然目を留めてもらったところで発信を必要としない人々には理解できないテーマに満ち満ちている。その意味で自分たちが多数決に勝利することは不可能なのだと上田保春は痛感する。萌えゲーおたくとは現代社会において、思想犯のマイルドな別称なのだ。世界のほとんどの場所を支配する発信を必要としない健全な人々は、ただ自信に満ちて行動する。圧倒的な人海戦術、絶望的な波状攻撃によって萌えゲーおたくは疲弊し、圧殺され、散り散りに逃走する背後を撃ち抜かれ、各個撃破されてゆくのだ。ビールを飲みながら出た腹をさすって人気球団の監督の采配をテレビの前で野次ってみせることと、神と偶像と萌えゲーの間にある関連と暗示に洞察を展開することとは、その価値において全く違いがない。上田保春は悲しんだ。いつものような自虐の快楽を得るための自己憐憫ではなく、未だ知性や言葉の有効性に疑いのない、あの少年が持つ痛ましい無垢のために悲しんだのである。
 少年が気づかなければならないのは、我々の心をふるわせる生き方や物語が我々以外の誰をも感動させることはないという事実なのだ。事実は真実の敵である、とドン・キホーテの如く宣言するというのなら、それを延長した究極の先は白昼に下半身を露出して街中を闊歩する道へとつながってしまっていることを自覚するべきであろう。我々はみな、社会の虜囚であるのだから。軽躁的な萌えゲーおたくたちに反論と理論武装を許すほど杜撰で、いつでもあと一歩のところで社会のくびきから彼らを逃れさせてしまう、あの不可解な生理的嫌悪を基調とした論には言及せずに説明しようではないか。上田保春は心の中にいる少年に向かって語りかけ始めた。物語とは、あるいは人生とは、0から始まって1へと向かう力学、エネルギーそのものを指している。たとえ最終的に1へと届くことがかなわなくとも、彼のエネルギーが1を指向したという事実そのものが、人の心をふるわせるのである。より善良な、より崇高な存在でありたいという希求がこの力学の本質的な正体だが、0であることに拘泥する物語であったとしても、それは0であるまま一生を終える大半の人々の関心と、ときに内省を度外視した同情を買うことができるし、0からマイナス1へと転落する物語であっても、その不幸が0から始まるがゆえに、人々に自分がそうであったとしてもおかしくない可能性に思い至らせ、悲しみを誘うことができる。翻って我々はどうか。我々は、マイナス1から人生と物語を開始するのである。萌えゲーおたくとは、マイナス1から0を、マイナス1そのものを、あるいはさらに以下を指向する人々の名前である。我々が決死の取り組みによって0へと身体を引き上げたところで、それは施設で更正を果たした元犯罪者が、「あんなに犯罪性向に満ちあふれていた私が、いまではもう真人間になりました」と隣人に菓子折を手渡しながら告げるのと同じことで、そのわざわざする宣言は偏見を助長し、警戒心をあおる以外の役目を持ちそうにない。犯罪者になぞらえてほしくないと言うのなら二次元性愛を克服し、現実の女性に興奮できるようになったことをわざわざ誰かに告げようと思うだろうか。また、「弱者を罵倒したり、理由なく殴りつけたり、突発性の激情で刺したりすることでしか世界との関係性を維持できない者の悲哀」という設定に君は感動を覚えるのかもしれないが、SF的展開にでも紛らわしてしまわない限り、それは誰もが目を背けたい明確な異常でしかない。マイナス1がマイナス1であることに拘泥したとして、それは犯罪者が更正しない、犯罪をやめそうにないというだけのことだし、マイナス1からそれ以下への転落を考えたとて、「強盗傷害に致死が加わりました」ぐらいのニュアンスでしか響かないだろう。本来、我々とそうでない人々の物語は客観的に等価値のはずなのだ。移動のエネルギーはどちらも1であるのだから。しかし、マイナスの基点を持って生まれてきたこと――それは他者を容認し、社会を形成できぬほど弱いという意味でもある――、そして多数決に勝利できぬことが萌えゲーおたくを永遠に流浪させる。そうだ、少年はその事実を知らなくてはならない。上田保春は宙空をにらみながら笑みを浮かべる。彼を笑ませるのは、あなたが想像するような教育的観点からする少年への優しさや愛情では無くて、ついに存分に蹂躙することのできる相手を見つけたという小昏い感情である。また男子間肛門性愛に執着を感じるあなたの深読みを裏切って真に申し訳ないが、それは肉体的な接触においてではなかった。知性は互いに近い位置に無い場合、認識を噛みあわせることが難しい。それはまるで違う次元にいる人間同士のように触れあうことが適わず、どれだけ言葉を尽くそうとも、逆に言葉を尽くせば尽くすほど、相互理解から遠ざかるのであった。上田保春と本当の意味で言葉を交えることのできた相手は彼の三十数年の人生を遡って思い起こしても、片手で充分に足りてしまう。言葉を増やせば増やすほど、相手が離れてゆくことを上田保春は知っている。いま彼の中にあるのは二つに欠けた片割れを見つけたという喜びと、四つ相撲に組んだ相手を完膚無きまでに蹂躙できる力を自分が持っていることへの痛いほどの自覚であり、先ほどの笑みはそれゆえであった。少年をずたずたに論破してその心を屈服で満たす妄想に、上田保春はほとんど快感すら覚えた。まだいまならば少年を圧倒的にうち負かすことができる。いつか少年は上田保春がうち負かせないほど巨大に成長するだろう。それは疑いがない。しかし、完全に手に負えなくなるその寸前に、少年を歯牙に捕らえることを彼は夢想する。それはきっと、えもいわれぬ素晴らしい充足感に違いない。そら、抵抗するのを止めてしまえ。君を甘噛みしているこの犬歯の鋭さを、顎の筋肉の強靱さを直視するんだ。さあ、反論するのを止めてしまえ。言葉は常に多数決で決定すると教えたばかりじゃないか。言葉そのものが正しかったり、間違っていたりすることはないということを認めてしまえ。そうすれば、枝葉にあえてこだわった自己擁護の裏返しの反論もついには萎えはてるはずだ。さあ、さっさと白旗をあげて、腹を見せて私に全面降伏するんだ……
 視線を感じて顔を上げると、向かいから歩いてきた経理課の田尻仁美が微笑を浮かべて会釈をするところだった。少年を痛めつけることに夢中だった上田保春は、ほとんどうろたえるような心持ちになって、慌ててそれに会釈を返す。イニシアチブを握り続けることで萌えゲーおたく同定を避け続ける上田保春にとって、ほとんど失態と呼べるできごとであった。もしやいまの瞬間、萌えゲーおたく特有の何かを外部に向けて発散していたのではないか。田尻仁美の微笑の理由は、そこにあるのではないか。彼はほとんど恐慌に陥りそうになる。ご覧になってきた通り、上田保春には一種の夢想癖と演説癖があったが、一般社会の中でそうした妄想に浸りきってしまうほど危険なことはない。萌えゲーおたくの自然体は、普通の人々にとっては不自然の極みである。人間の形を保ち続ける意志を放棄すれば、萌えゲーおたくはたちまち忌むべき肉塊へと堕してしまうのだから。自身の油断に舌打ちをしながら、課のデスクへと向かう。思えば田尻仁美とのできごとは、何かを暗示していたのかもしれない。科学的には迷信のように響いたとして、意味づけで現実を補強し、時に悪意も補強する上田保春にとって、その二つは何か非常に強い関連を持っているように感じられたのだ。はじめデスクの上にそれを見たとき、彼にはそれが何なのかはっきりと認識できなかった。なぜなら、職場とそれが同時に発生する瞬間は、これまでのサラリーマン生活の中で一度も無かったからである。絶望とは一瞬に心を黒く塗りつぶしてしまう性質のものではない。肌の冷たさに気づき、頬を張り、身体をゆさぶって、胸元に耳を当て――そうやって高まってゆくがゆえに、絶望は真に人間の魂にとって致命的になり得るのだ。
 そこにいたのは、萌えゲーの少女だった。全く無縁な場所で突如恍惚の表情以外を知らない萌えゲーの少女を見るときの衝撃は、実際に体験したものでなくてはなかなか理解しにくいだろう。自分の趣味に合致する定期刊行誌を書店で見つけない方がよほど困難な、すべてのニッチという名前の隙間は埋め尽くされたように思われる昨今、やはり萌えゲーを購入する特殊成人層に対する専門誌というものは存在するのだが、上田保春のデスクの上に鎮座していたのはまさにその雑誌だった。購入するゲームを検討するための単なる情報誌だろうと、萌えゲーおたくでない向きは推測するのかもしれないが、ノンノン、そんな生まれたての子鹿のような愛らしさどころでは済まないのである。萌えゲーおたくたちは掲載された新作ゲームの画像を見ながらことさら気むずかしい表情でためすがめすページを繰って、自慰にふけるのである。自慰行為によってどれだけの快楽をそれぞれの新作ゲームが約束してくれるのかを吟味して、そうして購入の是非を亀頭に問うのである。商業を目的に立つ女性へ「まず試させて下さい。支払いの是非はその後で私が判断します」と笑顔で持ちかけるような異常の倫理無視、破格の厚顔無恥が、萌えゲーおたくを一般の人々からますます遠い存在にしていると断言することに、もはやあなたは何の躊躇も感じないはずだ。快楽の絶頂間際にしか見られないような理性を手放す寸前の表情でこちらを見つめてくる少女の非現実さに、上田保春は目眩を通り越してほとんど卒倒しそうになる。最もありうべからざるものが、最もありうべからざる場所に存在しているのだ。萌えゲーを愛好しない向きにもわかりやすく例えるなら、職場や学校の机の上に山盛りの大便が盛られているようなものである。大便よりもはるかに通常ではないという点において、萌えゲーの少女はさらに危険だった。誰もが大便を排泄するが、誰もが萌えゲーを愛好するわけではないからである。不幸中の幸いと言うべきか、上田保春は始業時間よりもだいぶ余裕をもって出勤するたちだったので、未だ周囲に人影は薄かった。すでに誰かが見てしまっている可能性もあったが、いまは眼前にあるこの危険物をどのように穏便に処理するかを考えねばならない。選択肢はいくつかある。一つ、萌えゲーを全く知らないふりをして「あれえ、なんだこれは」などと素頓狂な大声をあげてみせ、周囲にこの雑誌と自分の無関係さを強調する。ぶっちゃけありえない。まず何よりもこのひどい動悸の下で、自然な演技が可能だとは思えない。失敗の許されないミッションに、一か八かの賭を選択することは避けるべきだろう。二つ、雑誌に書類を重ねて自然な動作で鞄にしまい込む。GAME OVER。この場をしのぐには、最もリスクの少なそうな選択肢に見えるが、騙されてはいけない。その雑誌が入った鞄を一日中持ち歩かなければならないのだぞ。ついうっかり営業先で書類と共にテーブルの上へ並べたりしてごらんなさい。君の社会生命は完膚無きまでに、不可逆に抹殺されるだろう。これが自分を陥れようとする誰かの策略だったとしたならば、その誰かはただ鞄の中にある雑誌を何気ない素振りで指摘するだけでよい。爆薬入りの錠剤を呑み込むのと同義だ。しかも、起爆リモコンは相手の手の内にある。三つ、共用のごみ箱へ放り込む。それだ! 少女を身辺から遠ざけてしまえば、すこぶるよろしい。見れば委託の清掃会社従業員が順にごみ箱の中身をさらっているところである。上田保春はひどい動悸の中、常とは意味の違う生唾を飲んで雑誌を取り上げると、コールタールの海を泳ぐような抵抗感で空気中を進み、ついにそれをごみ箱へと落とし込むことに成功した。すさまじい疲労から虚脱状態で背もたれに身を預けると、頭に浮かぶのはいったい誰が自分を陥れようとしてこんな罠をしかけたのかという疑問だった。罠とは限るまい。知っているのだというサインを示したかっただけかもしれないではないか。いや、そんな生やさしいものではない。友好の印でないことだけは断言できる。こっそり肩を叩いて囁くのではなく、こんな致命傷になりかねないような手段を取る相手だ、断言できるに決まっている。これは間違いなく悪意である。しかしいったい誰が、何のために。