猫を起こさないように
nWo at mixi
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心機一転、がんばるよ!

「萌えということはそれ自体のオートマティズムがあるんだ。つまり、萌えとはじめに言い切っちゃうと、人間の体の動きというのは機械に変わっていくんだ。僕はそれをいつも感じるのは、たとえば、引き合いに出して悪いけれども、このあいだ某エロゲーをプレイしたんだ。作品の名前は言わないでおこう。僕は、初めの部分は感心したんですよね。ところが、ある部分からシナリオが離陸しちゃうんです、飛行場から。飛行場から離陸しちゃうと、あと機械の動きなんですよ。飛行場で油を入れて機械が動き出すでしょう、そこまではすごいんですよ。ところが、プロペラでも、ジェット機でもいいが、動き出したら、あと機械ですからね、ピューッとどこまでも高く上がるんです。だけどそれはシナリオじゃないんですよ。武器を持った小柄な少女がある日突然我が家に居候を始める。その少女が次第に主人公へ惚れる、ここまではいいんだ。しかし、登場した過去の恋人との間に、一度もセックスは無かったなんてことになっている。これはもうオートマティズム以外のなにものでもない」
「僕もオートマティックということはやっぱり、短い萌えで終わっちゃうと思うんだな」
「短い萌えで終わっちゃう。あれがこわいんだな」
「あれをやると、せっかく最初もっていった迷路が、空中上の一点から一点へ行く間の我慢ということになっちゃう」
「そうなんだ。セックスさせておくべきなんだ」
「それは例は別としてもね」
「そうするとどんなことを書いても、どんなショッキングなことを書いても、もうだめなんですね」
「それはだめだ。それはだから、ショッキングじゃないわけだ。オートマティックだったらショッキングじゃないですよね。あなたはそういう状況に異を唱えようとしてきたんだし、それを支持する層だって少なくなかったはずだと思うけど」
「でもね、つまり、否定するということに対する喝采というのは、僕は全部嫌いになったんだよ。つまり、ある人間がインターネット上で発言する、それはブログや掲示板が一番うまく証明しているが、巨大掲示板の2ちゃんねるかな、あそこで、板がいくつかあって、その中に書き込んで、政府攻撃とか、いろんな攻撃をやっているわけだ。それをみんな、のんびり見ているわけだよ。あらゆるラジカルな書き込みをするが、しかしそれはすぐみんな忘れちゃう。書き込んだものも、書き込んだことで安心している。そういうものを見ていると僕は、ことばというものが消費されていくものすごさみたいなものを、このごろ痛切に感じるな。自分のホームページもやっぱり、あれがビニール袋みたいに捨てられていくんだという感じがとってもするな」

十四日して、曰く

あれから二週間、私の周囲は完全に無音である。諸君の心境を想像するのは難くない。諸君の私への愛情が、沈黙を選ばせるしかないほど深いということを私は理解する。もし下手に声をかけて、苛烈極まる罵倒が返ってきたら、私を嫌ったり、拒絶したりすることを選ぶしかないと諸君は考えているのだろう。好きな人を好きでい続けるために、校舎の影からのぞき見て告白しないことを選ぶわけだ。馬鹿。そんな処女か童貞のような繊細さで、本当の意味で人を愛したりできるものか。例えば敬愛するロックスターのライブで、彼の観客席ダイブに骨折したとして、彼を告訴しようと思うだろうか。ギプスのはまった片手を振り振り、いかに彼がアナーキーでバイオレンスであったかを語り、その一端に触れえたことをむしろ誇りに思うはずだ。例えば敬愛するラップ歌手のライブで、彼の流麗な観客罵倒フリーラップの対象にされたとして、そのとき受けた精神的外傷を理由に彼を告訴しようと思うだろうか。心の傷によるチックに頬を痙攣させながら、彼がいかにレイシストでレイピストであったかを語り、その一端に触れえたことをむしろ誇りに思うはずだ。私の求める愛とは、全人格的な許容である。社会的な場に全人格をさらけだすことは難しい。しかし、nWoには拙かろうと醜かろうと、私のすべてが記述されている。その事実に諸君は戦慄し、アンプから引き抜かれたエレキギターの殴打に頬骨を破壊される歓喜に身を震わせるべきだ。以上。

酔っぱらって曰く

 シュレッダーの「クズを捨てて下さい」という指示に、「どこにもクズなんていないッ!」と絶叫して落涙するほど不安定な私だが、高天原勃津矢を更新した。勘違いされる向きも多かろうので、あえて言うべきではないことを言う。私は今回の一連の更新でエロゲーを攻撃しているわけでは、決してない。私が抱き続けてきたホームページ運営への虚しさをそのまま記述しては芸が無いので、みなさんがより食いつきやすい題材へその感情を仮託しているだけのことである。エロゲー業界に恨みがあるわけではなく、実際「シナリオを書いてみませんか」とメールをくれた君もいたくらいなので、むしろ彼らからの破格の評価に感謝したいくらいの気持ちなのだ。もっとも、「構想を膨らませて下さい」との指示を最後に、その君からの音信は4年ほど途絶えているのだが!

 さて、高天原勃津矢ですが、これで終わりじゃないぞよ。もうちょっとだけ続くんじゃ。なんとなれば私はこの物語の中にまだ”幸福”を描いていないからである。我利我利亡者の諸君に、次の更新の一部を提示することで、予告とかえたい。
 ”明日からは何をしよう。ああ、明日が待ち遠しい! 明日のことを考えるだけで胸がわくわくする。この感覚こそが、自由な人間の喜びなのだ”
 ショーシャンクの字幕をパクッたみたいだって? バカヤロウ、インスパイアと言いなおせ!

反省して、曰く

前回は酔っぱらってお見苦しいところを見せてしまった。反省している。正直、放置されてばかりで辛いのだ。誰かが「攻撃されている」と感じるような文章ばかり書かなければいいのだろうが、誰も攻撃されていると感じないような文章など書きたくない。私は孤独を選ぼう。

さて、高天原の最終話その2を更新した。これで一応の完結と思って頂きたい。物語の語り手にだけ限って言えば、今回の更新はハッピーエンドと読むこともできよう。結局はおたく的なやり方を肯定するしか、この世界でハッピーになる手段は無いのではないかと思う。もちろんこれは現在の気分なので、今後の永続的な結論では当然無い。諸君のご意見をお待ちするところである。充分に今回の苦労に見合うだけの感想が得られたと感じた段階で、予告通り「少女保護特区」に着手したい。これもあとは書くだけというところに来ているが、実際のところそのための時間をどう捻出するかが焦点となろう。諸君からの積極的な助力を期待する。なんとなれば、私のホームページは諸君の愛によって成立しているからである。本気だ。

お気づきのことと思うが、高天原勃津矢と上田保春のシリーズは相補的に読むことが出来る。お試し頂きたい。

お久しぶり!

ほんの一ヶ月半ほど更新しなかったら、見事なほどマイミクという名付けの他人たちがここを訪れなくなった。現金なものである。慇懃無礼という言葉がこれほど辞書的な定義そのままにぴったりと当てはまる行為も他にあるまい。たまに迷いこむ新規の来訪者には、狂人が下半身を露出して繁みから飛び出すが如く必ず踏み返しをするが、今のは下の毛の「ブッシュ」と奇襲の「アンブッシュ」で韻を踏んだ高度なギャグだが、誰ひとり私に話しかけようとすらしない。これだけ娯楽のあふれる中でnWoにのみ執着を与え続けるのも逆に奇妙と言えるかもしれないな、などと発言することで久しぶりの日記更新におずおずと薄ら笑顔でやってきた諸君の罪悪感をのぞいてやろうという気持ちは、残念ながら毛頭無い。先ほどのブッシュつながりからこの毛頭は陰毛の先端部と解釈するのが妥当と思われるが、私は相対化された愛情などいらないのだ。最近、全く虚仮にされることが多い。この場所の存在意義をそのまま否定するような土足で一方的に上がり込んで声かけすら無い不躾なやり方、契約の不履行に対する異議申し立てにほんの事務的な返答すら無い軽視に満ちたやり方、通り過ぎる者の一時的な関心だけを引きながらいないもののように扱われる、まるで私は見せ物小屋の檻の中の奇形のようだ。実のところ次回更新も完成しているが、アップロードする気になれないのは、際限の無い底なし沼へ投棄することへの空しさが何より大きい。苦しみの無い場所で安閑と読む物語は、例えその物語がどのようなものであれ、ハッピーエンドにしかなりえないのではないかという気が、最近はする。インターネットに耽溺できる君や私は、生き物として全く不幸どころではない。どれだけ不幸を描いても、ここではすべてが幸福のうちに受け止められる。現在の私の気持ちを端的に言うとするなら、「あまりに反応が無いので強く後頭部から殴ったら、その場に倒れ伏して動かなくなってしまった」誰かを見るときの青ざめた感じである。決して刃物で刺したつもりはなかったということだけ、最後に付け加えておく。

いよいよ一日の来訪者が100を切った。これが50を切れば私は長年(といっても七年程度だが)胸に秘めていたことを実行に移したい。もっとも、それが引き起こす結果はおそらく君の人生を少しも揺るがすようではないだろうと確信できるのだが。

小鳥猊下・リハビリテーション

 変則的な夏期休暇に縦縞のステテコ一丁で乳首から生えた、率直に形容して“陰毛”しか当てはまる語彙を人類は持たない毛を引きつねじりつして過ごす、平和の負の部分をビジュアル的に余すところなく体現したあの気だるい午後、赤と青のまだらタイツ男が帰還する例の活劇を見に出かけた。非常に繊細で隅々まで配慮されたシナリオに、タイツ男の抱える深い葛藤を改めて痛感させられる結果となった。断定せぬ曖昧な姿勢と、状況の限定による本質の回避が活劇全体の基調となり、見る者は否応なくタイツ男の苦悩をそのまま彼が体現する某国家の苦悩へと読み替える見方を強要されてゆく。某国家であることは確かながら、具体的にどこなのかを特定させない違和感に満ちた街並みに、この活劇があの二つのビルの倒壊する前なのか後なのかさえ、はっきりと言うことができない。懐かしい敵役の「ローマ帝国は道、大英帝国は船、アメリカは核爆弾……」という長口上は、三段階目の論理飛躍にひやりとした瞬間、最後の台詞の尺を短縮することでやんわりと収束する。致命的な部分に踏み込めないのだ。タイツ男は迫り来る大小の厄災を次から次へ食い止めるのみで、例えその元凶が手の届く範囲にいようとも、先制攻撃を行うことを禁じられている。悪漢たちがどんなに殴り蹴ろうとも、決してタイツ男は自ら拳をふりあげることはしない。あまりにも明快な暗示。かつての声高なポリシー、”American way”は”Put it in a right direction.”と控えめに換言され、劇中の少年との関係はすべてほのめかしに終始し、一語すら“その事実”が明示されることはない。契約の国の言葉はいかにささいな内容であれ、我々が思う以上に誓約し束縛するからか。いや、まだ弱い。結婚を前提とせぬ男女の婚姻に対する宗教的嫌悪に配慮しているのだ。なんというデリケートさだろう! そして、「紛争やテロが各地で頻発するこの時代に、たった一個のスーパーパワーの存在が意味を持つことができるのか?」という必然の問いには、物語上の技巧を駆使して限定付きの回答がかろうじて与えられる。タイツ男が体現するものに想像を及ばせれば、回答は「意味がある」以外にあり得ないのは自明である。その“正答”を肯定するために「誰一人として死なせない」、「ただし、彼の能力にできる範囲で」という大前提の下に、すべての災害は意図的にプログラムされる。押し寄せる高波、地の奥底から響く鳴動、しかしそれは観客の心拍数を高めるための小道具に過ぎない。我々はすでに現実に数多くの破滅を見てきてしまっている。我々が見てきたようには、大地は裂けもしなければ盛り上がりもせず、ビルは倒壊にほど遠い地点で窓ガラスを控えめに割るのみである。タイツ男は落下する看板を受けとめ、ただ一箇所から迫り来る炎を吹き消す。それだけで決定的な破局は尻すぼみに収束する。回答が与えられる。タイツ男は世界に必要だと。無論、良心的な観客からの喝采は得られない。しかし、今作における最大の回避はそこではない。「現在この世界で、いったい誰と戦うのか?」という当然の帰結に対するものである。タイツ男は体現し、象徴している。だからこそ彼は、円月刀の刺突を大胸筋でねじ曲げて、大量のプルトニウムを地下貯蔵するモスクを岩盤ごと宇宙空間に放り投げてしまうことは、暗黙の要請から許されないのだ。彼の敵が“旧作から引き継がれたSF的設定”となったのも、シナリオを吟味し尽くした上の結果ではなく、徹底的に選択肢を奪われた末の残骸であるに過ぎない。自らが体現するものの中身から、戦う相手を指名することの許されぬ永遠のチャンピオンは虚構の中でのみ安心してピンチを味わい、その全能のパワーを行使することができる。もし万が一、次回作が制作されるとするなら、私の興味の焦点は一つしかない。
 「いったい、この世界で誰を“敵”と名指しするのか?」

 余談だが、某監督の息子が制作した某戦記も見た。婉曲表現を許して欲しいが、私はピュアウォーター某のナニもアレしたいほどの原理主義者なので、自分語りだけにとどまることのできる外殻のみを書く。この活劇の中で発生する感情はすべて言葉によってトリガーされている。心の一番深い部分の動きが、行為や体験によってでなく、言葉によって引き起こされている。私もそうだ。そこに共感した。より正確に言えば、同じ病の患者が持つ憐れみ、負の連帯を感じたのだ。「重要な場面が人物の台詞だけで展開する」、「言葉じゃなくて主人公の行動で説得力を持たせて欲しい」。たぶん、それは私たちの中には無い。

小鳥猊下・コンフュージョン

 真逆のことを同一だと指摘する表現に神秘や哲学の深淵を錯覚する人間精神の構造に”神狩り”の論拠と同程度の深さで神の実在を解明する一端があると信じているが、それを精査するのに私の日常はあまりに生活であったりアルコールであったりセックス&バイオレンスであったりするため、諸君は与えられたこの命題から各個、神へとたどりついてくれたまえ。

 「売春婦がこの世で一番処女だ」
 「暗ければ暗いほど明るい」
 「平和の方がよほど戦争だ」
 「捨てることは拾うことだ」
 「地震の時の方が揺れない」
 「一見薄い方が、実際はぶ厚い」
 「素面のときの方が酔っている」
 「小児性愛者ほど、大人の女性を愛する」

 nWoでも記述したと思うが、人間の脳は意味づけをする装置であり、一見した両者の隔絶が深ければ深いほど、そこへ意味の橋渡しを行おうとする働きが活性化される。上記の実例(いま思いついたほんの一部に過ぎず、無限に作成が可能である)を読んで、貴君は「なぜ?」と思考することを強要されたはずだ。宗教の提示するテキストに、この類の対立項を含んだ一文はあまりに多い。つまり「なぜ?」への解答が脳髄に染み出す寸前の無意味の間隙にこそ、神は潜み居ると言えるのではないか。無論、妄想かつ放言であるので、貴君は今日をまたいでまで気に病む必要はない。

 最近、「愛され+名詞」という宣伝文句を多く眼にするようになった。資本主義がこのコピーの有効な消費者層の拡大に気づき、彼・彼女らの異常性を稼ぎに利用しようとする姿勢の裏にある無差別の冷酷を見るとき、私は恐怖に立ちすくむしかない。あと「お帰りなさい」と言わないで下さい。私はずっとあなたの後ろにいるのですから。

 蛇足だが、mixiの日記を記述する際、文章は比較的吟味する性質なので、タイムアウトとやらで消去されたことは数知れない。更新が少ないとお嘆きの貴君は、そういう不幸から電子の藻屑と化したテキストが少なくないことを心に留めておいて欲しい。

小鳥猊下・クォーテーション

 今日、見知らぬ婦女子からメールをもらったんです。アドレスはおろか名前すら記載されていませんでしたが、婦女子に違いないことだけはわかりました。匂いがしましたから。そこにはこう書いてあった。「萌え画像が欲しければ更新してください」。
 婦女子から更新を脅迫された日には、朝昼晩、オナニーを三回やることにしているんです。そうして握り拳を恥骨へとふりおろしながら、自分に果たしてその婦女子から萌え画像を受け取る資格があるかどうかを考えるんです。見てのとおりぼくはたいへん文章がうまいです。でもそんなことはたいしたことじゃあない。生まれついた言語センスの賜物だし、ただの天才です。語彙の選択なんてそれこそ天性のものなので、何か賞賛に足る努力があるわけじゃない。ただ――ぼくは性格もいいんです。ぼくのサイトに想いを寄せてくれている婦女子たちの中で、はたして何人がぼくのこの性格のよさにひかれてくれているのだろう。
 しかし、またある日ぼくは思うんです。雲子萬子、あんなひどい更新ばかりをして、自分の性格がいいと思うなんて傲慢なんじゃないかって。でも自分の傲慢さが許せないと考える自分に気づいて、ああぼくって何てかわいいんだろうと思うこともあるんです。だけど自分の傲慢さが許せないと考える自分がかわいいと思うのはやはり傲慢であるような気がするし、自分の傲慢さが許せない自分をかわいいと思うのを傲慢と思うのって、やっぱりいじらしいと思って。そんな自分がたまらなくかわいく愛しくなって、夜中に時々ぼくは自分で自分を抱きしめたくなるんです。
 ――すみません、突然見知らぬブログ閲覧者のあなたに変なこと話ちゃって。こんな自分の弱さは和服美少女が漕ぐ舟に乗せて、電子の海に流してしまいたくなります。

小鳥猊下・コンフェッション

 たまにしか書かないと思われている私だが、本人の意識を告白するならばたまにしか書かないどころではない。mixiをはじめとした諸君の私生活に関する記述を閲覧する毎日、痴呆老人の妄言の如き意味を為さぬ諸君の猥雑さは一瞬のうちに私の脳を沸騰させ、そして、誰かの人生が私を抜きに問題なく過ぎてゆくことへの憤りに目もくらむばかりとなる。頭蓋に吹き荒れる罵詈雑言は人間の発声器官程度の強度では到底不可能な高速黒人ラップの様相を呈し、それらを余さず書き留めることは「右足が沈む前に左足を、左足が沈む前に右足を」という例の水面歩行術の論理展開と同程度の困難を伴う。つまり、記述というステップが伴わないだけで、ネット上に普遍在する私は常に諸君の繰り広げる痴態を観察し、耳骨を震わせた瞬間に悶絶、恥骨を震わせた瞬間に昇天するような罵倒をブチ込み続けているのである。生産しないが行われるという点においては、諸君のオナニーと何ら変わるところはないとご理解頂きたい。たまに顔を出せば、それを結実しないセックスに消費されるカロリーを婉曲的になじる姑のように責められるのだから、たまったものではない。
 また、nWoにおける分析的な言辞からだろう、私は客観的に物事をとらえ過ぎると思われているようだ。しかし、私の弱点とは言葉で客観的に自己の性分を追い詰めながら、最後の最後で自分を憐れむことをやめられない点にある。私の更新は、私の自殺と完全に同義である。自死の試みに諸君を感情移入させ、私=諸君の首に腕を回して扼殺するその寸前に、息の根を止めるはずの最後の一締めをせずに力を緩め、酸欠で半身不随となった諸君の額に優しく接吻をする。籠城する犯人に愛情を抱いてしまう人質と同じ種類の感情が、おそらく私に寄せられる好意の正体である。精神を持つあらゆる有機物が避けられぬ生を志向する作用を、恣意の範疇、論理によって完全に圧殺する目的から、nWoのすべての更新は為されている。ここに私が存在して、何らかの形で発信が続いているという事実を見れば、自己を対象化する究極の客観性が私の上に完成されていないことを何よりの証拠として言えるではないか。死にきれない私の擬死に幾度もつきあう諸君の、一種異様な献身には同情を禁じ得ない。諸君は、散弾銃を持った銀行強盗犯の私が諸君の両足を撃ちぬくのみで命までは奪わなかったことに感謝するよりも、私がいなければ傷つけられることの無かった大切な何かをこそ悼むべきではないのだろうか。

小鳥猊下・リアライゼーション

 DiabloIIというゲームを断続的にかれこれ5年くらいプレイしている。ウィザードリィ式の、キャラ育成とアイテム収集がキモのオンラインRPGである。オンラインでありながら30分ほどで区切りがつくので、寝る前に少し遊ぶのに最適だ。常に一人でプレイする。ネットに接続しないキャラクターを作成することもできるが、常にオンラインでプレイするキャラクターを選ぶ。これはやはり心のどこかに寂しさを感じている証拠だろう。ゲーム内のアイテム資産がある程度になると、途端に興が冷めてプレイを止めてしまう。このゲームは一定期間のアクセスが無い場合、キャラクターがサーバーから自動的に消去される仕組みになっている。しばらくぶりの接続ですべてのキャラクターが集めた資産ごと消去されてしまったことがわかると、私の心はもぞもぞと落ち着かなくなり、また一からプレイを再開してしまうのだ。そんなときいつも、エヴァンゲリオン劇場版の砂場のシーンを思い出す。砂山を作っては壊し、作ってはまた砂山を壊す。何かを強く求める気持ちはあるが、手に入れたものを維持することがどうにも難しい。きっと、私の抱くこの曖昧な感じも、幼児期の体験で説明がついてしまうのだ。つまり、何かが壊れている。そして、壊れている自分をまるで壊れていない人のように見せかけるのが、最近のお気にいりである。相手や状況に対してわずかでも余裕を、あるいは優越を持てれば、見せかけるのは至極簡単な作業だ。しかし、壊れてない人のように振る舞うとき、色川武大の小説にある「大勢の前で難詰されて絶句する」瞬間が脳裏をよぎることもある。壊れた自分を否応に衆人環視へさらされ、皆がその残骸を指さして行われた詐欺行為を難詰し、私はもういつものように装うことができなくなって、ただ絶句したまま立ちつくす。その様をありありと想像できる。絶句することを待っているのか、恐れているのか、すべての情感は歳月のうちに渾然となって、もはやどちらとも言うことはできない。
 エヴァンゲリオンが再び劇場作品として制作されるという報を聞き、劇場の座席で失望していない自分を想像することができないでいる。あの記憶は人生の最も繊細だった一時期と重なり、ある部分では抜きがたく癒着しているので、いまの私が以上の感慨を得られるはずがないと疑うのである。それは、私自身がすでに何かを真実受け入れるための「時期を逸している」ことへの自覚と同義なのかもしれない。