「でな、こないだの脱線事故ありましたやろ。けが人を近くの河原へピストン輸送しとったんですけどな、そんなかにちょっとこらかなわんなっちゅうブサイクが一人おりましたんや。そやけどそこはそれ、人命救助ですやん。ワイも我慢して座りこんどるのにちかづいて、ほなねえさんいくで言うてうしろから抱きかかえて持ちあげようとしたんですわ。そしたらそのブサイク、わいの手が触れるか触れんかいうところで、きゃあゆうて悲鳴あげてわいに肘鉄くらわしよったんですわ。わいもなんだかんだゆうて正義の味方であるまえにひとりの人間ですやん、カッとなってもうてな、『あほ、何ぬかしてけつかる。思い上がるんやないで。ワイにも好みがあるわ、誰がおまえみたいなずぼずぼまんこに欲情するかい。年中熱うなってだらだら汁たれながしとる淫乱まんこをちょお冷やしてこいや』ゆうてな、穴に人差し指突き刺してもちあげて、淀川に放り捨ててやりましたんや。案の定、突っ込んだ指の横からすきま風がびゅうびゅう吹いとりましたわ! ブシャ、ブシャシャシャシャ~ッ」
野卑な笑ひ声と共に純白のテエブルクロスへと唾液まみれの食物の欠片が撒き散らされる。唯一の照明で或るそれゞのテエブルに置かれたワイングラスの蝋燭が揺らめく。店の片隅から流れて来るジヤズの生演奏とあゐまつて、店内にはシツクなムウドが醸造されてゐる。パアやんの、何処か尋常の均衡を逸脱した笑ひ声は、店内の雰囲気と完全に不協和音を為してゐた。
私はげんなりとし、なんとなく食欲を失つてナイフとフォウクをそつと置ゐた。基より此の、鼻をすつぽりと覆つてしまふ逆さ洗面器をつけたまゝでは、殆ど食事を味わふこと等できなかつたのだが。私は組んだ掌に顎を乗せ、同じテエブルに座つてゐる面々を改めて眺めて見た。 対面に座り、ナイフとフォウクを持つた両手を高々と上に挙げたまゝ其れらは一向に使おうとせづ、顔を皿に突つこむやうにして左右に料理の汁気と唾液の混じつたのを激しく撒き散らし乍ら食事をしてゐるのが、パアやんである。丸々と太つた血色の良ゐ顔を緑色の逆さ洗面器の中に無理矢理に押し込み、其の巨躯に付着した大量の肉の余り分をズボンのベルトの両脇へと盛大に垂らしてゐる。養豚場の豚を新聞の風刺漫画風にカリカチユアライズすると正に之のやうになるかも知れぬ。
「なんや、食べませんのかいな。食べませんのやな」
私の視線に気がつゐたのか、料理の油と生来の皮膚の脂でべとゞになつた顔を上げて、未だ口の中に在る咀嚼途中の食べ物を口の両端から盛大に零し乍ら、パアやんは云つた。私は其の醜態を眼球が捉えぬやう其れとなく焦点を外しつゝ彼の顔に視線を遣り、うなづひた。
「食い物は粗末にするなゆうのがわいの家の代々の家訓ですねん。ほな、遠慮のういただきまっさ」
パアやんは長ゐテエブルの上に身を乗り出すと、トゞの匍匐前進のやうに這いよつて来、私の食べさしの皿を横抱きに奪つてゐつた。パアやんは自分の口腔に容量以上の物を纏めて押し込み、口を開ゐたまゝくちゃゝと咀嚼を開始する。
私は其れ以上見てゐられなくなつて、テエブルの左へと視線を移した。其処には果たして蜜柑色の逆さ洗面器を装着した巨大なエイプがゐた。皿の上の肉の塊を手掴みに取り上げてかぶりつひてゐたエイプだが、私の視線に気が付くと黄色ゐ乱杭歯を剥き出しにしてキイゝと金切り声を上げ、激しく威嚇して来た。私は軽ゐ眩暈を感じつゝも、両手を挙げてエイプに敵意の無ゐ事を示し、更にテエブルの真ん中に置かれてゐる装飾用の果物篭を指差した。エイプは忽ち其れに興味を抱き、肉の塊を後方へと放り投げると、テエブルへ昇つて果物篭からバナゝを取り上げた。
「ブシャ、ブシャシャシャシャ~ッ。チンポみたいでんな。ほら、そのバナナですわ、リーダーはん。チンポみたいやと思いまへんか」
私は其れ以上見てゐられなくなつて、テエブルの右へと視線を移した。其処には。嗚呼、パア子よ。赤色の逆さ洗面器を装着した、華奢な少女が其処には居た。
私はパアやんとエイプに気取られぬやうにパア子の方へと手を伸ばし、そつと其の白魚のやうな小指に小指で触れた。パア子はびくりと身体を震はせると、私の目を瞬間、まつすぐに見た。だが直ぐに、逆さ洗面器の黄色ゐ隈どりから突き出した憂ひに曇る長ゐ睫毛を、そつと伏せてしまふ。嗚呼、パア子よ。君は昨日我々の間に訪れてしまつたインテメエトなムウドを怖れるやうに、酷くよそゝしく振る舞ふのだな。私のする執拗なパアタッチにみるゝ薔薇色に染まつてゐつた其のきめ細かな純白の肌。
私は態とナイフを床に落とすと、拾ゐに来るウエイタアを手で制してテエブルの下へと潜り込んだ。ナイフを拾う動作と共に、タキシイドの胸元から取り出した紙片をパア子のほつそりとした両脚の上へ置く。其処には私の、些か青臭くはあるが、今の彼女への情熱の凡てを込めたポエムがしたゝめられてゐる。私が再び席に腰を下ろすのと、パア子が紙片に気づくのは殆ど同時だつた。
「あ。このエテ公め、何してけつかる! それはわいのソーセージや、かえさんかいな!」
パアやんは大声を上げると、ガラスの水差しを持ち上げ、エイプの逆さ洗面器に覆われた脳頂へとしたゝかに打ち付けた。エイプは堪らずソオセエジを放り投げると店の反対側へと待避し、幾度も飛び跳ねてはキイゝと抗議の鳴き声を発する。
「まったく油断も隙もあったもんやないで。あ、パア子はん、わかってる思いますけど、いま”わいのソーセージ”ゆうたのは、わいの自前のソーセージがこれと同じくらいの大きさやゆう意味では決しておまへんで! ブシャ、ブシャシャシャシャ~ッ」
パア子は其れに小さく「えゝ」とだけ答へると、紙片を握りしめた掌を開かぬまゝトイレへと席を立つた。私は其の後ろ姿を凝と見つめる。嗚呼、パア子よ、私の愛しひ白百合よ。
其の時、私の彼女を見送る視線に特別な物が含まれてしまつたのか、何かを察したパアやんが此方へと大きく身を乗り出して来た。
「あかん、あかん。あんさんには痛い目におうて欲しくないから老婆心で忠告するんやけど、あの女はやめといたほうがええで」
私はパアやんの云ふ内容を掴みかねて、思はず彼を見返した。
「わかりまへんか。あんさんはどっかうぶなところがあるよってに。どうか、怒らんと聞いてや。あの女、な、……やというもっぱらの噂やで。わかりますかいな。だれとでも寝るんやそうや」
私の中で一瞬言語が崩壊し、其の意味を理解するのに数秒を要した。パアやんは女性に対する最大級の蔑称を口にしたのだつた。彼に其処だけ声を潜めるやうな、ゐさゝかの常識が備はつてゐたのは、僥倖で或ると云はねばならなゐだらう。
私は胸元からナプキンを引き抜くと、怒りを隠そうとせづに勢ゐ良く立ち上がつた。
「あ、怒りましたんかいな。怒りましたんやな。けど、ええ、わいは本当のことをゆうたんですからな。確かに忠告しましたからな!」
私はもう其の言葉を聞ゐてゐなかつた。クロオクに預けた空中浮揚外套をウエイタアより受け取ると、私は出口の扉へ手を掛けた。
「カバ夫とも、あのエテ公ともすでに寝たいう噂やで! 獣姦やがな! こらもう獣姦ですわ! まぁ、あの女が……ならわいはさしずめイージーライダーちゅうとこやけどね! どの女の腰にも簡単にまたがるんや! ゆうておくけどな、リーダー、今のは”いい自慰”とかかっとるんでっせ! ブシャ、ブシャシャシャシャ~ッ」
店の外に出て見上げると、星はネオンに掻き消され、月は厚ゐ雲の向かうに隠れてゐた。嗚呼、パア子、私の白百合よ。
突如、胸の目玉バツジが高らかに緊急の音を発した。私は其れを敢へて無視して手早くマナアモオオドに切り替へてしまふと、外套を羽織り空へと浮揚する。無性に月が見たくなつたからだ。
八月の国
ガッデムさん(1)
「なんや、なんやねん、おまえ。何見とんねん。見んなや。こっち見んなや」
「あの、人違いやったらほんますいませんやけど、もしかしてガッデムさんとちゃいますか」
「あ…ああ? なんで、なんで知ってんねん。わしは確かにガッデムやけど」
「ほら、ぼくですわ。おぼえてまへんやろか。あの頃とは髪型とか変えてもうたからなぁ。おぼえてまへんやろか」
「ああ、思い出したで。なんや、自分やったんかいな。それやったらいつまでもじっと見てんと、はよそう言えや。変なとこ見られてもうたがな」
「あっ、そんなん、ガッデムさん、ぼくが火ィつけますわ」
「すまんの」
「ゴールデンバットでっか。ええ香りや。なつかしいですなぁ。なんやいっぺんに昔に戻ったみたいですわ」
「感傷を言いな。もう戻れへんのや」
「わかってますわ。わかってます」
「ところで自分、いま何してんねん。まだロボット乗ってんのか」
「いや、もうやめてひさしいですわ。いまは、なんや言うのはずかしいねんけど、技術屋やってまんのや」
「ほぉ。そりゃ、親父さんと同じやな」
「そうですねん。あんだけ親父のこと嫌うてたはずやのに、因果なことですわ」
「誰にもわからんもんや。で、どんなんつくってんのや」
「はぁ、アクセラレーターちゅうてわかりますやろか。簡単に言うたら、ロボットの性能をあげる装置みたいなもんですわ」
「へぇ、すごいやんけ」
「でも最近は変な客が多てこまりますわ。こないだもなんかうちの製品が壊れとるゆうて電話してきやったんですわ。あんま腹立ったんでどなりつけてやったら、『いいんですか、この電話録音してますよ』言うてけつかるねん」
「えらいことや。どうしてん」
「しょせんよくあるキチガイの電話や。企業ゴロのまねごとや。二度とこないな電話してこんようにさんざん脅したあと、叩き切ったりましたわ」
「最近はなんかえらいみんな過敏になっとるから注意しいや、自分」
「ぼく、あんなんゆるせませんねん。立場もわきまえんと鬼の首とったみたいに電話してきて、そんなんいろいろ造っとるほうがえらいに決まってますやないか。享楽乞食の、利便乞食の物乞いや」
「自分、あんま乞食乞食言いなや」
「あっ、すんません。つい感情的になってもうて。そうや。これ今度ぼくがつくった試作品ですねん。試作品ゆうても、今度の会議で製品化されることがほとんど決まっとるんですけどな。ガッデムさん、つこてみませんか。今の五倍ははよなりまっせ」
「そんなん買う金があったらわしワンカップ買うわ」
「何言うてますのん。ぼくがガッデムさんから金とるわけないやないですか。水くさいなぁ。ぼく、ガッデムさんにはほんまいろいろお世話になりましたから。モニターっちゅうことでどうかもらってくれまへんやろか。ぼくの顔を立てる思て」
「いらんわ。わしもう引退して長いねん。ただのポンコツや。連邦の白いの言うて恐れられとったあの頃とは話がちゃうわ」
「そんな悲しいこと言わんとって下さいよ。ぼくにとってガッデムさんは青春そのものなんや。おぼえてますか、ふたりで対抗組織の宇宙本部に出入りに行ったときのこと。あのときのガッデムさんはほんま輝いとった」
「ああ、そんなこともあったかいな。ちょお待てよ。よぉ考えたら自分、あのときわしのこと置いてったやんけ。わし、首もげてヒィヒィゆうとったのに」
「あれは、あの、あとでちゃんとむかえに来ましたやんか。古いことですわ。ほんま昔のことですわ」
「調子のええやっちゃ。いまやから言うけどな、自分とコンビ解消したんは自分のそんなとこが気にくわんかったからやで」
「すんません、あのときはほんま気持ちが高ぶっとって、ガッデムさんのことを置いてくなんてどうかしとったんですわ。でも、これだけは言わせて下さい、あれからいろんなんとコンビ組みましたけど、やっぱりガッデムさんが最高でしたわ。ほんまにそう思てますんや」
「わかった、わかった。泣きなや自分。中年男が泣いても目に汚いだけやわ」
「すんません、ほんますんません。あ、こりゃハンカチ。えろうすんません。ところでガッデムさんはいま何してますのや」
「いろいろや。今の時代ただ喰うていこ思てもたいへんやわ。求人情報誌見てもハローワーク行ってもわしみたいなんが応募でけるのはひとつもあらへん」
「そら、ガッデムさんはロボットですさかいな」
「まぁ、そうやねんけどな。ところで自分、羽毛ふとん欲しないか」
「羽毛ふとんですか」
「そりゃもう天国みたいな極上の寝心地やで。ゆうてみれば、ガッデムグッドな品物やね。ほんまやったら五十はすんねんけど、昔のよしみやし四十五でええわ。そこの角のリヤカーに乗してあんねんけど、取ってこぉか」
「いや、遠慮しときますわ。じつは先月五人目が生まれましてな、うちピィピィですねん」
「なんや自分、結婚しとったんかいな。初耳やわ」
「ガッデムさんと別れてからのことですさかいに」
「あ、わかったで。あのいれあげとったインド人の娘やろ。わしあれだけやめとけゆうたのに」
「ちゃいますわ。あの娘はガッデムさんが先に喰うてもうて、ボテ腹かかえて鉄道自殺しましたやん」
「そうやったかいな。そないなことあったかいな」
「調子のええ物忘れですわ。いまやから言うけど、ぼくガッデムさんのそんなとこが昔から鼻についとったんや」
「さよか。そやったらお互いさまやな」
「そうですわ。ぼくたちのコンビは解消するべくして解消したんですわ」
「もう戻れへんのかいな」
「もう戻れませんわ」
「誰の上にも時は流れるのやな。わし、もう行くわ。これから寒うなるし、自分身体に気ィつけや」
「ぼくはせまいけど家あるし、ガッデムさんこそもう年なんやから」
「あほぬかせ。わしはロボットやぞ。おまえくらいに心配されたらおしまいやわ。それに羽毛ふとんもたくさんあるしな」
「ぼくたち、また会えますやろか」
「そんなんわからんわ。会うようになっとったら会うやろ。ほな、これで本当にお別れや。達者でな」
「ガッデムさんこそ」
「ぱぁんぱぁん」
「ああっ。ガッデムさん、ガッデムさぁん」
「あつ、いた、痛いわ。何がどうなってんねん。あいた、痛いわ。ちょお洒落ならんで、これ。痛い、痛い」
「いまの拳銃持った男は誰ですねんや。なんぞ恨み買った覚えはありまへんのか」
「知らん、知らん。痛、痛い、ごっつう痛いわ」
「ほら、動いたらあきませんよ。えらいこっちゃ、タマが腹を貫通してるわ。なんかで止血せな、止血。血ィ? 血ィやて? ガッデムさん、あんたまさかほんまはロボットと」
「待て、それ以上口にしたらあかん。ええか、どんなに親しい関係で、どんなに明らかに思えることでも、もうお互いに感づいとるやろなゆうようなことでも、いったんそれを口に出してしもたらもうその関係は終わりやゆう言葉はあるんや。だから、それ以上口にしたらあかん」
「わかったわ、ガッデムさん、わかったからもうしゃべらんといてや。救急車呼ぶからここで動いたらあかんで。じっとしとるんやんで」
「あほ、言われんでも動かれへんわ」
パアマン(2)
「わかってまんのかいな! あんさんひとりの勝手な行動のせいでうちら全員が迷惑するんやで!」
激昂したパアやんがテエブルを拳で一撃する。私の前に置ゐてあつたグラスが跳ね上がり、重心を失つてくるゝと回転した。
店内の視線の気配が一斉に此方へと集中する。私はかうゐふとき、本当にどうしてゐゝのかわからなくなつてしまふ。相手の感情の鋭さが私の現実と大きくずれて、重ならなひのだ。パアやんはグラスの氷をぼりゞと噛み砕き乍ら続ける。噛むとゐふ動作で攻撃性を発散してゐるのだらう、と私は自分が全く当事者で無ゐやうに呆と考へた。
「自覚が無いんやな。リーダーとしての自覚が無いんや。あんさんには昔からそないなところがあったわ。ぜぇんぶ他人事なんや。ええか、わしらがやってるんはアホな女子学生のバイトがやるような誰にでもできる片手間の仕事やおまへんのやで。一人おりません、はいそうですかゆうて別の人間を連れてくるわけにはいきゃしまへんのやで」
私は右手の親指で左手の親指の爪をきつく押さへた。此の世に代替の利かなひ人間など存在しなゐ。私達とて其の例外では無ゐ。
「それにな、あんさん忘れとるかもしらんから言うけど、わしらは常に”鳥の男”に見張られとるんやで。力をおのれの利益のために使ったり、仕事で不誠実やったりしたらたちまち畜生に変えられてしまうんやで。”鳥の男”への忠誠心と仕事への使命感をだけ植えつけられた畜生奴隷にや! あんさんが今回やったことは、そのどっちにも当てはまるんや。ワイはな、あんなエテ公みたいになりとうない」
パアやんが目を向けた先には黄色い逆さ洗面器を被つた恐ろしく巨大なエイプがゐた。何処から取つて来たのかバナゝの房を胸に抱へて、店内をテエブルからテエブルへと跳び回つてゐる。エイプにハンバアグを日の丸の旗ごと踏み潰された子供が、火の点ゐたやうに泣き出した。
「ワイはあんなエテ公みたいになりとない」
パアやんが繰り返す。私の隣でずつと黙つて俯ひてゐたパア子が、だつたら止めてしまへばゐゝのに、とひつそりつぶやゐた。
後れ毛が一筋、パア子の頬に垂れかゝつてゐる。其の疲れ切つた横顔は殆ど老婆のやうに見へた。
「ええですか、パア子はん。ワイはパアマンであることのうまみをこの十年でいやゆうほど知ってしもたんや。もうパアマンではない普通の生活へはもどらしまへん。パアマンであることは麻薬や。強烈な副作用を持った麻薬や。パアマンでなかったらワイはどこにでもおるただの下品な中年親父にすぎへんのや。パアマンでなかったらいまごろだぁれもワイのことなんか相手にもしてくれへんかったやろうな」
パアやんは私とパア子から視線を外すと、取り出した煙草に火を点けた。
「もっとも万一わいがやめたい思たところで、”鳥の男”がやめさせてくれへんやろ。わしらの運命はみぃんな”鳥の男”にかかっとるゆうこっちゃ」
嗚呼、可哀想なパアやんよ。結局おまへは何も、何一つ知らなひのだ。真実から最も遠ゐ場所で、無邪気に其の力を信奉し、無邪気に苦悩してゐる。
パア子が私の袖を引ゐた。覗き込んだパア子の瞳が映す強ゐ意志に、私は何も言えなくなつた。パア子よ、おまへの愛と優しさは世界を滅ぼすだらう。
「よく聞いて、パアやん……”鳥の男”などという人間は存在しないの」
「ハ、真剣な顔して何を言うのかと思えば、”鳥の男”が存在せえへんやて…? アホな!」
「”鳥の男”というのはあるプロジェクトの極秘名称。2号もその哀れな犠牲者にすぎないわ」
パア子は店内を駆け回るエイプをちらと見た。
「人間の遺伝子を根本から書き換えることで全く別の生物へと置換してしまうことの可能な特殊レトロウィルスが存在するの」
さう、例へば猿にでも。ゐつの間にかエイプが動きを止め、肩越しに其の不気味な赤をした目で凝と私達の方を見てゐる。
「正確には人類でない者の手によってこの地球へと密かに持ち込まれたの。地球人類への外宇宙からの侵略、それが”鳥の男”の正体。Biologically Racial Demolition for Mankind 『生体操作による人類種抹殺計画』――略して『BI-R-D-MAN』、鳥の男――パアマンとはみんなが考え、私たちが傲慢にもそう信じてきたような正義の使者ではないの。人類を滅ぼす致命的なウィルスの運び屋に過ぎなかったのよ」
パア子が悲しみに其の長ゐ睫毛を伏せる。私はもう人目を憚らず、彼女の肩を抱き寄せた。
「アホか…おまえらいきなり何言うてんねん…そんな絵空事信じろゆうんかいな、そんなアホな…ぎゃっ!」
震へる手で灰皿を引き寄せやうとしてゐたパアやんが突如悲鳴を上げた。振り返ると店の四方の窓にびつしりと巨大なエイプが張り付いている。店内を見渡せばゐつの間にか全ての客がエイプへと変貌し、其の無機質な光を宿す赤ゐ目を逆さ洗面器の下から此方へと向けてゐた。
「始まったわ」
パア子が呟く。私は腋下に厭な汗がじつとりと滲むのを感じた。逆さ洗面器は其の装着者に絶対の力を与へる訳では無く、単純に基礎運動能力を数百倍してくれるだけの代物である。私達と同じ逆さ洗面器を被る、遺伝子操作を施された此のエイプ達の元の力は並の人間に数倍するだらう。
詰まり、一対一では決して勝てなゐと云ふ事だ。
「パ、パアタッチや。早う手ぇ貸すんや!」
事態を悟つたパアやんが私に手を差し伸べる。私は其の手を取ろうとする。だが、一匹のエイプが敏捷に跳び掛かりパアやんを組み伏せるのが先だつた。其の獰猛な爪で無惨にも引き裂かれたパアやんの皮膚からは先づ黄色ゐ脂肪が飛び出し、次にどす黒ゐ血が其処へスポンジのやうに染みてゐつた。パアやんが初めて私に伸ばした手は遂に届かない侭、みるゝエイプの群の中へと埋没してゐつた。私はエイプの体毛を濡らしてゐくパアやんの血を他人事のやうに眺めてゐた。パア子は放心する私の手を掴むと入り口のドアを固めてゐるエイプを撲殺し、外へと飛び出した。
しかし其処には。嗚呼。
見渡す限りの建物とゐふ建物、地平とゐふ地平を醜怪なエイプの群が埋めてゐた。もう何処にも逃げ場は無ゐのだ。パア子が私の手を強く握り返して来た。二人で一殺。然し其れで数匹ばかりのエイプを殺したとして、今更一体何の意味が在るとゐふのだらう。
ギイゝ。
電線にぶら下がつてゐたエイプの一匹がガラスの表面を引つ掻くやうな厭な声で鳴ゐた。其れを合図に、都会を埋めたエイプ達が一斉に浮揚する。次の瞬間空は一面覆ゐ尽くされ、真昼だとゐふのに周囲は漆黒の闇に包まれた。
此の世の終わりである。
デ・ジ・ギャランドゥちゃん(1)
デ・ジ・ギャランドゥちゃんは23歳辰年生まれ、巨大企業のエゴに日夜翻弄される関西在住のしがないサラリーマン。インターネットでうっかり自己実現してしまうようなそこつ者。でもね、愛の本当の意味はまだ知らないの。
「どうして私のみぞおちから腹部を経過して下着の中へと消えていくどこの何とも指摘できぬ名状しがたい一連の体毛は、そこに軟着陸したハエの脚をからめとり二度と再び離陸させないほど絶望的に密集しているのでしょう。永遠のロリータキャラクターを売りにしている私は毎月数十回の剃毛を試みますが、そのたびにますますこの体毛群は繁茂し、複雑に密集していくような気がします。そろそろ永久脱毛を考えてみるべきなのでしょうか」
「ねえ、デ・ジ・ギャランドゥちゃん」
「誰かと思えば猫科の小動物を思わせるその可愛らしい名前とは裏腹の青黒い血管が縦横に走ったその表皮が婦女子を本能的な恐怖から致命的に遠ざける私の実存内の下位人格、最も下劣な部分の忠実な投影であるところの、タマではないですか」
「名字はキンです。ところで、辞令を持ってきましたよ。本日付けで日本橋支店への異動が決まりました。一両日中にすべての身辺処理を完了し、現地での業務につくようにとのことです」
「ええっ。こまったにゃぁ。猫語尾です。日本橋と言えば関西おたく族のメッカではないですか。そんな業界の思惑が無尽に交錯する激戦区に私のような愛らしいクリーチャーが突如出現するなんて、毎朝の出勤だけで数十回はいいように視姦されそうです」
「まぁまぁ、そう言わないで。第一あなたはそういったおたく族向けのホームページを運営し、かれらの心の機微はまるであなたがかれら自身ででもあるかのように理解しているはずではないですか。上層部もきっとあなたのそういう資質を高く評価したのだと思いますよ」
「待ってください。しかしそれは大きな誤解というものです。なぜなら私は自分の中の、世間に言わせると”おたく的な”としか形容できない心の動きの部分を言語によって正当化するためにあのホームページを制作したのです。それが偶然ネット上を夜な夜な徘徊する現実に居場所のないおたく諸君に一方通行的なほとんど誤解とすれすれの共感を得ただけであって、私の本来意図したものとはまったく違うと言わねばなりません。あれはまったく個人的なお遊びに過ぎないんです」
「本質は問題ではないのですよ。深いところにある本質がどうであれ、表層に現象として浮かびあがってきたものがこの世の真実となるのです。デ・ジ・ギャランドゥちゃん、あなたはまだそういった現世のカラクリを良くは理解していないようだ。たとえあなたがどんな最悪の妄想を抱いた潜在的犯罪者であろうと、あなたが現実において大きく成功しないまでも日々正しく労働し、組織にとってニュートラルからプラスの位置に居、抱く妄想を顕在化させようと思わぬ限り、あなたはいつまでも新たな企業的負荷を与えられ続けるのですよ」
「わかりました、わかりました。波打った部位によって幅の違う毛を表面に無作為にトッピングした脈打つ青筋をそれ以上わたしに近づけないで下さい。目に入るだけで妊娠しそうです」
「すいません、興奮するとつい無意識的に様々の部位が隆起してしまうのです」
「要するに、自身の異常さに自覚的な人間が社会人であり、自身の異常さに無自覚な人間がおたく族ということなのでしょうか」
「うぅん、微妙にぼくの意味するところとは異なっているような気もしますが、ある点においてはそれは真であると言えるかも知れません」
「わかりました。しかし加えてかれらおたく族はわたしのような可愛らしい婦女子から、その黙示録的な容貌が主な原因なのでしょうが、決定的に隔離されています。そこに根を持つ鬱積した異性への劣情をアニメやコンピュータゲームを代表とする平面に記述された婦女子の記号へと転移しているわけなのですが、空気穴の空いたプラスチック製のボックスをかぶせた極上の料理の眼前へ両手を縛られて座らされるようなそのもどかしさの中で、青竹が積雪の重圧をついにはねかえして元へと復元するように、まっとうな人間へと立ち返るかえるために自分の持つ欲望を犯罪的な方法で一気に放出してしまおうと試みたりしないのでしょうか。だとすれば、わたしはとても恐ろしくておたく族の中を歩くことなどできないです」
「デ・ジ・ギャランドゥちゃん、あなたの間違いはおたく族の大きなお友だちのことを青竹というメタファーで捉えたところにあると思います。おたく族とは、人間の持つ生来の復元力を徹底的に封印ないし破砕されてしまった人間の群れのことを指すのです。あなたはそこで逆に安心できる。それは保障していい」
「けれど、なぜおたく族は人間の持つ素晴らしい魂の復元力を喪失してしまっているのでしょうか。かれらの容貌のあまりの醜さがかれらを絶望させるのでしょうか。そうして、自らの絶望に気がつかないようにいっそう絶望を深めてしまうのでしょうか」
「その考えは案外本質をついているのかも知れません。今までぼくたちがおたく族のことを語るとき、たとえば個人の生育史であるだとか、あまりに精神的な面にばかり目を向けすぎてしまっていた。しかし近年アトピーなどを代表とする心身症の問題が議論を提出したように、ぼくたちの心と体は簡単に分離して考えてしまえるものではないのかも知れない。おたく族になる要因として社会的に忌避される醜い容貌を条件として考えてみるのも面白い発想の転換ではないかと思う。もっとも、卵が先か鶏が先か、どちらかに偏向して断定してしまうのは慎重に避けなければならないけれど」
「わかりました。わたし、日本橋支店に行きます」
「わかってくれたようだね、デ・ジ・ギャランドゥちゃん」
「ええ。日本橋支店ではみぞおちから腹部を経過して下着の中へと消えていくどこの何とも指摘できぬ名状しがたい一連の体毛を完璧に処理し、おたく族を狂喜させるような夏向けのへそ出しルックで出勤することにします。それが、この世にありながらこの世のどこにもいない、生まれてくることのできなかった亡霊たちへの唯一の供養だと思うから」
「うん、それはとてもいい考えだと思うよ。親御さんもきっと今回のことを喜ばれる。おたく族の住処はある意味妙齢の娘さんにとってどこよりも安全な場所だからね」