猫を起こさないように
パロールふじお
パロールふじお

愛のうた

 砂嵐舞う荒野。頭上に双葉を装着したダイビングスーツの男が3人、腰まで地面に埋もれている。スーツの色はそれぞれ赤、青、黄。スーツの下には、劇画調の彫りと陰影を持つ顔面とまったく不釣り合いな、みすぼらしく痩せこけた身体。
 「(青、強風の中、ライターに点火しようと幾度もカチカチと鳴らしながら)くそ、アカンわ。全然つきよらへん」
 「(赤、肘をついて横目に)おまえ、たいがいにしとかんと、しまいに肺から血ィ吹いて死んでまうど。ホレ、おれのジッポー使うか」
 「(青、ひったくって)ボケ、最初からよこせや……フーッ、しかしなんやな、俺たち、いつまでこんなとこ植わっとらなアカンのやろな」
 「(黄、うつむいたままつぶやくように)……我々巨視的存在は、その実存性の基底部分に滅びを内包していなければならない」
 「(赤、青を肘で小突いて)おい、おい。また黄色が始めよるで」
 「(青、フィルターを噛みつぶすようにして煙草をふかしながら)ほっとけ。おれが煙草を吸うみたいなもんや」
 「(黄、独り言を繰り返すように)よろしい。では、実存とは何だろうか。それは、情報の系だ。時間の流れに従って、系には情報が増大してゆく。やがて情報の総量は飽和という名前の臨界点に達し、系は崩壊する。すなわち、実存の終焉だ。衰退や減少ではなく、増大によって実存は死を迎える。このプロセスは、私にとって示唆的な意味を持たないこともない」
 「(赤、あくびして)おい、青色。やっぱワシにも煙草くれや。(青、無言で煙草の箱を投げる)」
 「(黄、独り言を繰り返すように)わかりやすくしよう。巨大な、一本の樹木を想像して欲しい。この樹木は不思議なことに根っこを持たない。これの幹と枝が、私の表現するところの”系”に相当すると考えて欲しい。結実する果実は”情報”だ。根っこを持たないとしたのは、時に樹木は人間的な視点から永続と同義に映ってしまうからだ。それでは、私のする解釈に齟齬を来してしまう。だから、諸君は、数学的な仮定のごとき思考の依り代としての樹木と考えてくれればいい。この樹木は、生物に限らない、すべての実存に対して包括的に当てはまる動きをするが、この際に限っては説明と理解をシンプルにするために、人間のみを表すと想定しよう。時間の始まり、つまり実存の誕生において、かれの持つ樹木には何の果実も無い。この時点で、系の持つ情報はゼロだ。そして、時間は流れ始める。かれが生きることを始めたからだ。かれの時間が流れるにつれ、様々の果実が枝へと結実してゆく。ここで注意して欲しい。最初に言ったように、この樹木には根っこというものがない。だから、情報の総量が増えるに従って、自発的なバランス取りが必然になるんだ。わかりにくいかい? 例えるなら、完全に均衡を保っているやじろべえの片方に、重しを付け加えるようなものさ。もしその重しが重すぎるのなら、やじろべえは倒れてしまうだろう。情報の質量とは、系にとっての意味性の重大さと同義だ。(皮肉っぽく)もし、右の枝に『両親の不貞』やら『性的虐待』やらの巨大な果実が実ったなら、左の枝に『心理学』やら『宗教』やらの同じ大きさの果実を実らせてやらないと、樹木そのものが倒壊してしまうからね! これこそ、バランス取りというものさ!」
 「(青、輪っか状に煙草の煙を吹き上げる)フーッ……樹木やて。わざと皮肉ってるんなら、それこそ大したもんやけどな」
 「(赤、二本目の煙草を取り出す)お、すまんな、青色。これでしまいや(ねじった煙草の箱を遠くへ投げる)」
 「(黄、独り言を繰り返すように)さて、くだくだしく見てきたように、時間軸に沿って増大する情報のバランシングが、実存にとってのほとんどすべてであると言ってもいい自己保存の過程なんだが、ここにもう少しの複雑さを付け加えることにしよう。それは、”情報の切り離し”だ。すべての枝々に実らせることのできる果実の総数には限界があるからね。左様、系は情報を手に入れるだけでなく、手に入れた情報を切り離すこともできる。系が『情報を手に入れる』というとき、それは外側にある情報をそのまま直に取り入れることを意味しているのではないんだ。外側からの刺激を受けて、内側から同質の情報を系内に作り出すことが、系が『情報を手に入れる』ことなんだ。思い出して欲しい。この樹木には根っこというものが無いと言った。それは、系にあらかじめ封じ込められた、何と呼ぶべきか、仮にエネルギーとしよう、エネルギーの総量が誕生の瞬間に決定してしまっているということと同義なんだ。そして、バランシングのためには、系の許容量を超えて増え続ける果実を、ある段階で切り離さなければならない。系内のエネルギーの総量は、そのとき、自然減少することになる。先に話したような均衡を失した倒壊は実存にとっての突然死と言えるが、エネルギーの消滅もやはり実存にとっての死であるということができる。うまくバランス取りをし続けようとも、それは決定された死を先送りするだけのことに過ぎない。つまり、実存は滅びを内包していると定義づけることができる。そう、実存は実存する限りにおいて滅ばねばならぬ……おお、この必滅の定めよ!」
 「(青、もはやフィルターだけになった煙草を噛みしめながら)あー……砂嵐止まねえかな」
 「(赤、唇に煙草を張り付けたまま)どうやろな。もう三日も続いとるしな」
 「(黄、独り言を繰り返すように)しかし、人間が死ぬということを、私たちはこのような思考実験を外したとて、まざまざと知っている。それを疑うことはできないだろう。だが、人間という名前の系は滅びるとして、人間の作り出したものはどうだろうか? 例えば、そびえ立つ無数のビルディング。それは、滅びを超越している。いや、違う、それは滅びを超越しているように見えるだけだ。(徐々に口調に熱を帯びて)私のした樹木を介する滅びの大統一理論は、その正しさゆえにすべてへと適合され得るはずである。眼前の状況を整理しよう。ひとつ、すべての実存は滅びを内包していなければならぬ。ふたつ、人間による被造物だけは滅びを免れることができる。この2つの間に存在する矛盾は、3つ目の条項によって大統一理論に背理せぬよう解消されなければならない。すなわち、みっつ、人間による被造物は、人間そのものによって滅びを迎えさせられる! (陶然と)それを証拠に、見よ、あの不朽不滅を約束された巨大な二つの摩天楼は、灰燼のうちに滅びたではないか! 人間による被造物は、だとすれば人間という系のうちなのだ。人間たちの迎えたあの破局への綻びは、正に必然だった。そう、あの最初の綻びは、確かに予見できたはずなのだ。荒野に打ち捨てられたビニル袋を見るとき、私はそこに滅びを予感した。それは、嗚呼、そういうことだったのか。(肩で息をして)私の感慨は、いい。それはおくとしよう。いまは、あの巨大な二つのビルディングとの滅びの合わせ鏡の対、人間へと大統一理論を縮小するとしよう」
 「(青、フィルターを噛みながら、気のないふうに)サイズで見たら確かに縮小しとるけどな」
 {(赤、青の言葉を受けるように)実存としてやったら逆に拡大してるとも考えられるわな」
 「(青、フィルターを噛みながら)結局は言葉だけのことや。終わったあとに何言うたかて、それは、むなしいやろ」
 「(黄、我にかえると、驚いたように目を見張り)まさか、君たちからそんなふうに突っ込まれるとは思わなかったな」
 「(青、口の端を歪め)なんでや。関西弁やからか」
 「(赤、口の端を歪め)関西弁やからやろ。見くびったらアカンで。言葉だけのやつは、すぐ現実をみくびりよるからな」
 「(青、煙草のフィルターを噛みちぎると、地面に吐き捨てる)哲学が無力なんは、例えば物理学なんかと比べたら、世界を想定するときに実証があり得へんという点においてや。哲学が正当かどうかは、それをするものの良心にだけ、唯一委ねられとる。良心! なんというどうしようもない頼りなさやろうな! 黄色よ、おまえは人間について話しとったな。人間という実存の特異性はどこにあったんやろう。それは、きっと、『食べられない』ことにあったんやろうと思う。この場合、捕食されない、ちゅう意味やな。世界ゆう名前の系の中で、そこにあるエネルギーの総量はあらかじめ決まっとって、エネルギーの総量は保存されなアカンはずで、その前提の中で、すべての実存は『食べられる』ことによって、自身の持つエネルギーを別の実存へと受け渡す、あるいは世界へと還元するプロセスを持っとった。けど、人間にはそのプロセスが完全に欠落していたんやな。エネルギー保存の法則を唯一破壊する人間という実存は、世界が本来持っていたものとは、何かまったく別の次元のものではあるやろうけど、新たなエネルギーを世界という系に作り出すという、生物の本義とは異なったプロセスで、自身の存在が世界のエネルギー総和を乱してしまうことへの矛盾を解消しようとした。自分たちの依る世界という系を壊さないためにや。けど、それは生物の本義を外れた、実存の消滅を伴わないエネルギーの歪んだ受け渡しやった。なるほど、エネルギーの総和はそれで守られたかも知らんが、ここで人間は必然、実存の消滅という行為を代行する別の代償を必要とし始める。それは、ずっと長い間、土俗宗教のイニシエーションやムラのマツリによる”疑似死”によって補完されてきていたんや。けど、その基盤となる地域社会はやがてゆるやかな崩壊を遂げ、人間たちは再び実存の消滅の代償行為を探さなければならなくなる」
 「(黄、ふるえて)それは、戦争かい?」
 「(赤、首を振って)拡大して、人類史的な視点から考えるんやったら、確かに戦争が代償したと読みとれへんこともないが、それは飽くまで個々の人間がそれぞれにただ在ることから引き起こされた相互作用的現象であって、『食べられる』ことを喪失した一個の生物としての人間が、実存の消滅という行為自体の消滅に対してどのようにふるまうかを説明せえへん。不完全な知恵という名前の解釈装置を放棄し、究極的な全へと和する快楽、知恵が実存の消滅へと対面したときに感じる恐怖――これは人間がものを造ることに由来する恐怖だとも言えるやろ――をうち消す快楽、つまり、死イコール恐怖やなくて、死イコール快楽の生物性へと回帰させる人間たちの代償行為、それは……」
 「(黄、苦悶に顔を歪め)……ゲームかッ!」
 「(青、無表情で淡々と)その通りや。ゲームは殺す。ゲームは死ぬ。そして、ゲームは快楽を与える。実存の消滅を喪失し、相互のつながりを喪失し、人間は、最後にゲームという名前の疑似死へとたどり着いたんや」
 「(黄、切迫した表情で)それじゃ、それで、人間は完全になったんじゃないのか? だったら、なぜ」
 「(赤、絶望的な青白い無表情で)簡単や。人間の失った二つを失えば、それはもはや生物とは呼べへんからな」
 「(青、絶望的な青白い無表情で)そして、覚えとけ。これさえも、ただの言葉や」
 降りる沈黙。やがて、砂嵐の遠くからきれぎれに兵隊ラッパの音が鳴り響く。
 「(赤、煙草を人差し指ではじいて捨てる)おい、そろそろ出番のようやで。(地面に両手をつくと、埋まった下半身を引きずりだす)」
 「そのようやな(青、地面に両手をつくと、埋まった下半身を引きずりだす)」
 「(黄、下半身を地面に埋めたまま、自身を両手で抱くようにして)怖いんだ……ぼくは食べられるのが怖いんだよ、本当に」
 青、赤、行きかけるが、その言葉に振り返って黄を見る。口を開きかける青と赤。
 突如として、3人の上を巨大な影がおおう。
 振り仰ぐ青と赤。そこには、果たして――
 「(赤、奥に何を隠すこともない完全な無表情で)確かに、怖くないといえば嘘になる」
 「(青、奥に何を隠すこともない完全な無表情で)だが、それが、生物や」
 激しさを増した砂嵐が、すべての騒動をかき消してゆく。
 『でも私たち愛してくれとは言わないよ』

げんりけん

 都心にある大学の学生会館といった風情の建物。壁面にはペンキやスプレーで思想めいた言説が、無秩序に書きちらされている。昼間だというのに、薄暗い廊下。人の足が踏んだ場所以外はほこりがうずだかく積もり、ときどき視界の端を小さな黒い物体がうごめく。左右の壁には等間隔で鉄製のドアが並んでいる。そのうちの1つのドア。店屋物の空の食器が置いてある。木製の、『現代世界を読み解く汎原理的思弁研究会』と筆で横書きにされた看板が、ドアノブに斜めにかかっている。中は廊下よりさらに薄暗い。どういう精神構造によるものか、唯一の窓をふさぐように背の高い本棚がいくつか並べられており、もはや検索の絶望的に不可能な順序で漫画本が詰め込まれている。部屋の片隅には小型のテレビが明滅を繰り返しており、画面にはもはや記号的認識が不可能なほどに記号化されたキャラクターが投影されている。その前には重箱式に無数のゲーム機が積み上げられている。部屋の左側にはバネの飛び出たソファが置いてあり、その上には等身大の人形――人類にあり得ない水色の髪の毛と、顔面の3分の2を有する赤い光彩を持った瞳と、口元に張り付いた白痴的な微笑と、身体の曲線を際だたせる目的以外を想定されたとは思われない不自然な着衣の――が横たえられている。ソファの反対側の壁には、”モオツアルト的祝祭空間”と赤いペンキで殴り書きにしてある。部屋の中央には丸い卓があり、男性2人、女性1人がそれを囲むように座っている。女性は、腰まで届くロングヘアに頬骨と鼻先を覆い隠すように前髪が垂れていて、くるぶしまで隠れるスケバン風のロングスカートに靴底の異様に厚い靴、上着の袖は指の第一関節までを覆い隠す長さで、一種異様だが、信仰の種類によっては倫理的賞賛を受けないこともないようないでたちである。男性の1人は黄ばんだタオルを海賊風に頭に巻いており、着衣は何故か灰色の作務衣、裸足の足はほこりまみれ、老翁風の長いあご髭を人差し指と中指で作った輪っかでもって、無意識のものだろうか、卑猥さを感じさせる仕草でしきりとしごいている。もう1人の男性は、工事用の黄色いヘルメットに底の厚い眼鏡、風邪を引いているのだろうか、中央に赤い丸を染めた長方形の白地のマスクをしており、洗いすぎて色落ちしたタータンチェックの赤いシャツに、ハムを作るときの外の皮のように引き延ばされたジーパンをはいている。女性、卓の上においた左手をときどき痙攣的に跳ね上げながら、話し始める……
 「グローバリズムや文化的多様性なんて言いますけれど、畢竟、人類は増えすぎてしまったんです。旧約のバベルの神話は、畢竟、神の怒りの表現などではなくて、人類の多様化への嘆きではないでしょうか。異なった価値観を持つ者どうしが、畢竟、”うまくやっていく”なんてことは、畢竟、不可能です。資源が、若しくは、富が構成員のすべてに平等に行き渡ることを、畢竟、前提としない限り。9.11以降、よく米国の市場主義と言いますか、競争原理が批判されますが、畢竟、社会主義が崩壊し、共産主義が版図を縮小し、米国とその追従者が生き残ったことだけを考えても、畢竟、『資源は有限であり、人類の全構成員には行き渡らない』ことを皆が無言のうちに承認した、その証拠じゃありませんか。米国はその点を強調して、畢竟、もっと開き直るべきなのです。グローバリズムというのは、飽和した国内市場の外で俺達の商品を買う相手と、俺達のためにほとんど無償で働く相手を見つけるための方便なんだぞって、畢竟、明言して居直ればいいんです。どこまで話しましたか、そうです、平等な資源と富の分配が不可能であるという現実は、多様性を拒絶します。つまり、ここに来て人類という種が取るべき道は、畢竟、2つだけなのです。『富の分配が可能な規模にまで、人間の数を間引きする』か、『富の不平等な分配を容認できるよう、その価値観を単一のものへと統一する』か、どちらかです。現実的に考えれば、畢竟、この両者を兼ねあわせた『単一の価値観を共有するものだけを残しての、徹底的な人間の間引き』が、最も”実行可能である”という意味合いにおいて、畢竟、有効でしょう。そして、私たちはその残されるべき単一の価値観を共有するグループに”含まれてはなりません”。なぜなら、畢竟、私たちは客観的な自己憎悪を手に入れた人類最初の文化集団であり、社会組織に対する自分たちの非有益性を誰よりも強く知るからです。――拳を握りしめて敢然と立ち上がり――手首に刃物が埋まってゆく感覚を嫌いな女子なんていません! ――座って元のようにうつむき――私の言うことに間違いはありません、エヴァンゲリオンでもそう言っていました、畢竟。」
 「――あご髭をしきりとしごきながら――フーム、懊悩(おおの)くんの考え方は他者に表現することを意識してか、パフォオマンスが極端に過ぎる部分はあるが、共感できる思想が含まれていないでもない。要するに、科学的思考の産物が人類種を劣化させているという事実を、もっと積極的に汲むべきだと言うことだね。例えば、火をおこす技術の無い者、食料を自給する技術の無い者、つまり生物として劣った者がそれをそれと自覚しないまま生きてゆくことができるのは、科学的思考の功罪ゆえであるということができる。人間すべてを頭でっかちの総合職、ホワイトカラアにするのが、科学的思考なのだね。君は土にまみれた赤銅色の農婦がテレヴィに現出する時、微かな、しかし理由の無い軽侮の感情を一度でも抱いたことが無いと、果たして言えるだろうか。科学的思考とは、人間の手から、それを高めることで生存の確率を同時に高める、あの生物としての技術を奪い、本来的に無価値な愚鈍を量産しながら、その”命令あるいは指導する権利があると信じている”愚鈍たちに根拠薄弱の支配的な優越感を代わりに与えるのだよ。自覚した時が、手遅れの時と同じなのは、阿片の類と同じさ。ただの無知よりも更に悪い、致命的な愚鈍が骨髄までをボロボロに蝕んでしまっているのを見つけ、見なかったふりをし、スゴスゴと元の心地よい穴ぐらに尻から這い戻る結果を迎えることになる。イヤイヤ、どれだけ首を振ってみせたって、ソモソモ君は汗と、肉が痛むことが不快なんだろう? 本当はそうじゃないんだよ、汗と肉の痛むことは不快じゃないのだよ、と拙が言うのを聞くと、懐疑的に眉根をひそめてみせることで、君の内側の衝撃をうち消してみせたじゃないか! オヤ、『科学的思考を捨てて、野に出よ』と言うつもりだったのが、『人間の精神は科学的思考に蹂躙され尽くしており、そこから離れてあることはできない』という結論に落ちてしまったぞ。つまり、人類種の劣化とは、科学的思考を発明した段階で、本質的に不可避であったということだね。では、俄然、懊悩(おおの)くんの発言が真実味を帯びてくるね。我々は、我々が堕落しきらない前に、自らの尊厳を守るために自死しなければならないということだ。この結論を拒否することは、つまり自身の愚鈍を認めることになるのだからね。」
 「――痙攣的に左手首を跳ね上げながら――単一の価値観を唯一選択的に残すためには、畢竟、自死では足りません。自死は自己への憎悪を基調としていますが、畢竟、憎悪を超克した理想をこそ、私たちの行動の基調としなくてはなりません。どの価値観を残すのかを注意深く選択した後は、畢竟、私たちはその実現のために自らを捧げなくてはなりません。私たちは理想に気づいていますが、理想郷に達するににはふさわしくないほど”穢れて”しまった、天国と地獄を見ながらどちらにもたどりつけずにさまよう、畢竟、リンボ界の幽霊のような存在なのです。畢竟、私たちはこの段階を迎えて、思弁ではなく、一人一人がどれだけ多くの選択的他者を道連れにできるかという方法論にこそ、最も執心しなくてはならないはずです。『理想郷は今そこに来る、ただし私たちはそこにはおられない』。私の言うことに間違いはありません、ナウシカでもそう言っていました、畢竟。」
 「――マスクの下から、神経そうに細い悲鳴のような空咳を繰り返しながら――僕の考えが正しいならば、僕の論は懊悩(おおの)氏と奈落豚(なふた)氏の論を補強できると思います。生物は種全体として、それぞれ単一の目的を持っています。それはつまり、情報を永続させるということです。その『情報』とは、僕たちは近視眼的にほとんど無条件に重要視してしまうような知性のことでは、断じてありません。知性は個の段階で、ほぼ消滅します。伝播力が非常に弱いのです。ドストエフスキーやマンが死んでしまったら、僕たちはまた振り出しから始めなくてはいけないでしょう? 情報の永続を目的とするなら、知性はあまりに弱すぎるとしか言えない。文学や芸術が、その非有効性を戦争やら飢餓やらに証明されて以降も未だに根強いのは、知性の伝播力の弱さ、自己消滅の容易さに対する抵抗を示してのことかもしれないですが、これは僕の論と少し外れます。生物がバトンしたい、つまり永続化を求める情報とは、何のことはない、遺伝情報に他なりません。人間の努力や知恵は遺伝子に刻まれてゆく、ですって? 馬鹿をおっしゃい。どこの歴史に二代目が先代よりも有能だった試しがありますか! 有効な知性があるとすればそれは、生物種が自身の情報の断絶を回避するためにときどき自らの系の内に作成する、天才という名前の奇形だけです。それすら、急流をゆくカヌーからぶつかりそうな岩へするオールでの一撃に過ぎません。話がそれましたが、言いたいのは、すべての”人間的”営為は、ほんのつけ足しに過ぎないということです。……なるほど、文明、文化ときましたか。個の知性を長く続けるための装置、文明と文化を人類は持っているではないか、それこそが知性の優越性に他ならぬ、とそう言いたいわけですね。人間の知性に対する、遺伝情報の優越性を証明するのには、一言で足ります。よろしいですか、『人類という種の履歴と同じだけの長さを長らえた文明・文化は存在しない』のですよ! ――下卑た含み笑いで――あるとすれば、それは性行為でしょうが、これはどちらかと言えば遺伝情報の伝播に属する”文化的”行動でしょうねえ。つまり、人間の知性を待つまでもなく『単一の価値観』はすでに存在し続けてきており、これからも存在し続けるのです。人類の中から選択する必要はない、人類を含めた知性を展開させる可能性のある種を皆殺しにすれば用は足りるのです。3人の見解を統合して、これを『ユートピア的ジェノサイド』と名付けましょう。蛇足ですが、反論を封じるために付け加えますと、進化という概念は自己存在の称揚を常に求める人間知性の産物です。進化という言葉の持つ高揚感を取り除いてより正確に現象を把握して言うなら、『周辺状況の変化に対する刹那的反応の永久的固着化』に過ぎません。生物とは、究極的に自己存在の止揚には、関心が無いのです……」
 「それは他人についてのことばかりでしょう――失礼ですけど――それとも他人についてばかりじゃないんですか。」
 部屋の隅の暗がりに坐っていた茶髪の女性が、大きく伸びをしてから両手をぶらぶらさせて口を挟むと、彼らは一様にぎくりとしてそちらを見た。彼らは彼らの会話に没入しているように見せかけながら、その女性のことをどの瞬間も常に意識していたのだった。
 「もうそれでおしまいですか、背手淫・鰤犬(せてむ・ぶりーに)さん。」
 「いいえ。しかしもうなんにもいいません。」
 「ほんとにこれで充分ですわ。――返事を待っていらっしゃるの。」
 「返事があるんですか。」
 「あると思いますけど。――わたしよく伺っていましたの、懊悩(おおの)さん、奈落豚(なふた)さん、背手淫・鰤犬(せてむ・ぶりーに)さん、始めからおしまいまでね。それで今日いまそれぞれおっしゃったことの、どれにでも当てはまるような返事をしてあげたいの。それがまた、あなたたちをそんなにいらいらさせている問題の解決になるんですよ。さあいいましょう。解決というのはね、あなたたちはそこに坐っていらっしゃるままで、なんの事はない、一個のおたくだというんです。」
 「私が」「拙が」「僕が」と彼らはきき返して、少したじろいだ。
 「ほらね、ひどいことをいうとお思いになるでしょう。そりゃ無論、そうお思いになるはずですわ。ですからわたし、この判決をもう少し軽くしてあげましょう。わたしにはそれができるのですから。あなたたちは横道にそれたおたくなのよ、懊悩(おおの)さん、奈落豚(なふた)さん、背手淫・鰤犬(せてむ・ぶりーに)さん――踏み迷っているおたくね。」
 ――沈黙。やがて彼らは決然と立ち上がって、男子間の肛門性愛が記述された冊子とアニメ柄の抱き枕と股関節の穴までが忠実に再現された少女型ラバードールをそれぞれ手に取った。
 「ありがとう、滓蚊醜(かすかべ)さん。これで僕たちは安心して家に帰れます。しかし、これで”げんりけん”は解散にすることにしましょう。なぜって、僕たちはあなたの言葉に反論の余地無く、片付けられてしまったのですから。」

ガッデムさん(2)

 「いやァ、うれしわァ。私、子どもの頃からずうッとガッデムさんのファンやってん」
 「さよか。そら、おおきに」
 「主題歌かて、まだそらで歌えますよ。非道ォー、せぇんしィ、ガぁッデムぅ、ガぁッデム、君よォー、パシれー」
 「自分、看護士のくせして相部屋で大声だしなや。向かいのベッドのニイちゃん、にらんどるで」
 「あの人は誰に対してもあんなふうなんですよォ。ここだけの話、ガッデムさんの前にもふたり、オバアチャンが入っとったんやけど、ふたりともなんや気味悪いゆうて部屋かわってますねん」
 「ぶるぶるぶるぶるッ。なら、ワシは三人目かいな」
 「まァ、ガッデムさんは戦争にも行ったことあるロボットやし、だいじょうぶかなァ、おもて」
 「じぶん、傷くつわ、それ。鋼鉄の中身は繊細なハートでできとんねんで」
 「またまたァ。これ、入院のための書類やからサインだけしてもらえますか」
 「えらい細かい字やなァ。老眼で読まれへんわ。それにしても向かいのニイちゃん、顔色も目つきもだいぶ悪いで。なんで外科病棟なんかに入院しとるんや。ぱッと見ィ、どっこもイワしてへんけど」
 「本人は精神病やゆうて信じてるみたいやけど、先生の見立ては大腸炎ですわ。切るかもしらんからここに入れてるんやて」
 「へえ」
 「なんでも地元で有名な髪結いのオバアチャンが身内におって、テレビにも出たことあるらしいねんけど、そのオバアチャンがなんかするたび親戚中ふりまわされるねんて。こんどの都知事選にも出馬するゆうて、だいぶ親族会議でもめたらしいわ」
 「そら、美談どころの話やあらへんな。しかし自分、ひとの個人情報をあんまベラベラしゃべらんほうがええんとちゃうか。最近どないもこないもうるさいで」
 「なに水くさいことゆうてんのん。ガッデムさんはどんな年とっても私のアイドルやさかい、特別やがな。ほら、早うサインしてしもてや」
 「君がずっと邪魔しとんのやがな。ハラ撃たれてからこっち、どうにも手に力が入らんのや……ほれみい、せかすから書き損じてしもたやないか」
 「歯ァ、食いしばれ。そんな書き損じ修正してやる」
 「アラ、この子くちきいたわ。めずらしなァ。やっぱりガッデムさんの人柄ゆうか、人徳やねえ」
 「あほ、もうただの中年ロボットや。あちこちボロッとるわ」
 「冴えてはるわー、ガッデムさん」
 「ニイちゃん、わざわざすまんな……おっと、いま自分、服に白いのついたで。はよとらな」
 「わかるまい。戦争を遊びにしている者には、この俺の体を通してでる力が」
 「どう見たって修正液やがな。なんや、はやりのプチ右翼かいな」
 「ガッデムさん、着替えの装甲もってきましたよ」
 「何から何まで迷惑かけるなァ。おっと、このアクセラレーターはもらわれへんゆうたやないか」
 「ぼくの気持ちやから。黙って紙袋にしまっといてくださいよ、ガッデムさん」
 「あらッ。もしかしてこの人」
 「ほれ、サインでけたで。自分おるとややこしいから、仕事もどれや。さっきからナースコール鳴りっぱなしやで。隣のベッドのオッサン、土気色やないか」
 「もうッ、女心がわからないんだから。何かあったらぜったい私を指名してや」
 「キャバクラちゃうねんど。もう呼ばへんわ」
 「あッ、コイツ、ガッデムさんのいとことコンビ組んでたヤツですやん」
 「ホンマかいな。そら気づかんかったわ」
 「そや、間違いないわ。髪ピンク色に染めたごっついオバハンをヤクザと取り合いして、それから蒸発してしもてたんですわ」
 「や、ヤクザやて」
 「ガッデムさんをねろうとる組とは関係ありませんよ。すごい黄色のストライプのスーツ着て、ふはははは、ゆうて笑うインテリ風のヤクザやったさかい」
 「おどかすなや。あれからワシ、ドアとか開くたびにビクッてなるねん」
 「病院の中は安全ですやろ。コイツもホンマはそのクチで逃げこんどるんとちゃいますか」
 「自分、その袖口のてんてん、どないしてん」
 「これは、あの、なんでもあらしまへんわ」
 「ワシを病院にかつぎこむときに付いた血ィやな。ホンマ、自分にはいろいろと悪いことやったわ」
 「なにゆうてますのん、ガッデムさんはぼくのために腕もげたことありますやん。こんなん、なんでもあらへん」
 「大きな星がついたり消えたりしている」
 「うわ、なんやいきなり。あほが、修正液で服の染みが消えるかいな。後ろにも目ェつけとけ、われ」
 「男の証明を手に入れたかったんだ」
 「意味がわからんで。頭おかしなっとんのか」
 「いや、案外見かけより狡猾なヤツかもしれへんで。ヤクザに訴えられたときのこと考えて、今からあほのふりしとんのや」

むどおん!

 「(野太い声の男性コーラスをバックに)時に西暦2019年、世界の人口70億。発展途上国との命の格差はそのままに、一部先進諸国では少子化が急速に進行。文化的最低限の生活が保障する“一人一成人女性”の担保が難しい状況に、成人男性の性的嗜好は急速に低年齢化。これを受けて各国政府は未成年女子の人権へ、歴史上かつてなかったほどの保護を政策として立法化。結果、成人男性にとって通常の社会生活を営むことが困難なほど、未成年女子の存在が凶器化。曰く、電車内で女性の背後で勃っただけで痴漢冤罪。曰く、街角で視線が交錯すれば視姦冤罪。曰く、百貨店で迷子の女児に声かけしただけで未成年略取。曰く、カメラ屋で娘の写真を焼き増ししただけで猥褻物頒布罪。法の厳格な執行に伴って、みるみる減少する労働人口に頭を悩ませた先進諸国政府は、南極へ人為的なブレーン世界構築の計画を策定。続いて、そこへ未成年女子全員を保護名目で隔離する国際法を国連にて採択。かくして、18歳以下の女子は先進諸国の家々から、路上から、街角から、一切に姿を消したのである」
 紫と黒のグラデーション的空間に、学校とおぼしき建築物が斜め45度に傾いて浮遊している。校門には“県立柘榴(ざくろ)高校”とある。カメラは校庭から下足室をくぐり、奇妙に人気を感じさせない教室の前を通り抜け、階段伝いに上へ上へと移動してゆく。最奥の突き当たりに屋上はなく、なぜか教室が存在する。扉の上に掲げられたプレートには“無道怨仇部(むどうおんきゅうぶ)”と揮毫されている。荒々しく駆け上ってきた人影がカメラを追い越す。“筋肉質の男性が長髪のカツラとセーラー服を身にまとっている”としか形容できない風貌だが、南極のブレーン世界は未成年女子をしか収容しないため、論理的には生物学的に女子と推測するしかない。その人物、駆け上ってきた勢いのまま、絶叫しつつ入り口の扉を蹴破る。
 「慄(りつ)! たいへんや! 御厨ヶ丘(みくりがおか)高校の連中が、いよいよ攻めてきよったで!」
 「(顔面に雑誌を乗せ、両脚を机へ投げ出していたブレザー型制服着用の贅肉質巨漢、突然ノーモーションからほとんど重力を無視して垂直に跳び上がり、恐るべき柔軟さで両脚を地面と平行に真横へ広げる)なんやとォ! えらいこっちゃ! ジャンピング・サンダークロス・スプリットアタック・ナウやがな!」
 「(金髪碧眼白皙の少女が優雅な仕草でカップを置きながら)あら、それはありえませんわ。なぜって、ブレーン世界はそれぞれ独立した存在で、相互干渉はできないようになっていますもの」
 「(着地の際に体重で床板を踏み抜きながら)無義(むぎ)、それはほんまか!」
 「(衣類の本来的な役目を否定するほど短い上着からのぞく六つ割れの腹部を抱えて爆笑しながら)だまされよった、だまされよった!」
 「(カチューシャの下に広い額というよりは、頭頂部に向けて後退した生え際からもうもうと煙を上げながら)妙(みお)、貴様ァ! そんなつまらんイタズラでワシのドリームタイムを邪魔しよったんかぁ!」
 「(前腕の筋肉を誇示しながら)揺れる脂肪がいつもマシュマロみたいなお前の成人病を心配して、ちょいと運動させてやったんやろうが! 感謝こそされ、キレられる筋合いはないわ!」
 「(胸倉をつかんで)もう勘弁ならん! 決闘じゃあ!」
 「(胸倉をつかみかえして)吐いたつば飲まんとけよ!」
 「(金髪碧眼白皙の少女、無言で立ち上がると部屋の奥からティーセットを盆にのせて戻ってくる)さて、分厚く切ったこのフランスパンに、『うそ!』と叫ぶくらいサワークリームをたっぷりと塗りつけて(瞬間、未来人の如く退化した細い顎がゴムを思わせる柔軟さで異様に広がり、パンにかぶりつく)……ムホホ、どっしりとしたフランスパンの塩気がサワークリームの酸味をしっかり受けとめて!」
 「(胸倉をつかみあったまま、筋肉質と脂肪質、同時に唾を飲む)ゴクリ」
 「(短い一本線の唇から血の滴る生肉のような舌をのぞかせて)そしてサワークリームの酸味が口の中にまだ残っているうちに、飽和状態まで砂糖を溶かしこんだ紅茶をひとすすり……ンまーい! 眼球上部から錐を差し込んで前頭葉を右へ左へグリグリするような、ロボトミーとまごうこの旨さ! よくぞ、ブレーン世界に生まれけり――!!」
 「(制服のリボンへ盛大に垂れ流れたよだれをぬぐいながら着席し)今日のところは無義にめんじて休戦ということにしといたるわ」
 「(カーディガンへ盛大な染みとなったよだれをぬぐいながら着席し)おまえこそ、脳味噌が糖分しか受容しない事実に感謝せえよ」
 「(フランスパンの体積の三倍はサワークリームを塗りつけてかぶりつく)うまいのう。正直、ぼっとんの汲み取り式だけは勘弁願いたいと思うとったが……ワシらの便からこれができとるなんて、にわかには信じられんわい」
 「(挑発的な視線をカメラへ送りながら親指に付着したクリームをなめとって)すべてのブレーン世界には、閉鎖環境における物質循環のモジュールが装備されていますのよ。いったん原子レベルにまで分解してから再構築してますから、衛生面でも安心ですわ」
 「(ビロウな連想を誘うとぐろ状にサワークリームを盛りあげ、ほとんど噛まずに飲み込みながら)ムォッ、ムォッ、グゥオフッ……なんとのう。糞尿を集めるだけで地球に優しいなんて、ワシらエコじゃのう」
 「(急激な食事に腹部が膨れ上がり、スカートのボタンがはじける)スカートのウエスト丈2cmゆるめたのに、まだ飛ぶのう」
 「(六つ割れの腹部を誇示しながら)ついにウェイトが限界超じゃのう、慄」
 「(ラマーズ法的な呼吸で懸命に腹をひっこめながら)ぬかせ、妙。南極は寒いからのう。こりゃ、冬脂肪じゃわい」
 「(優雅な仕草でカップを置きながら)このブレーン世界は外界の環境からは完全に隔絶されています。寒さを感じるとすれば、それは風邪の初期症状か、排尿直後か、さもなければ単なる気のせいですわ」
 「(猛烈な歯軋りで)ギギギ。ほんに、このアマときどきすごいむかつくのう」
 「(片手で制して)ほっとけ。囚人どうしの優越感じゃ。評論や批評が現実に影響を与えた試しはないわい。それを証拠に、幽異(ゆい)はもう帰ってこんのやから……(部屋の片隅に視線をやる。栗毛の少女が虚ろな視線で宙空を眺めながら座り込んでいる)」
 「(胸元に抱えた哺乳類らしき肉塊を撫でながら、感情のこもらぬ囁きで)うふふ、かわいいわね、あなた。ねえ、どこからきたの? おねえさんにおしえてよ」
 「(太い眉をハの字に曲げて)元は猫やったのか犬やったのか。すっかり毛も抜けてしもて、肉はくさいガスでふくれあがって、ひどい状態じゃ」
 「取り上げようとしても、ものすごい力で抵抗するしのう」
 「(肉塊の表皮が裂けて、ガスが噴出する)ブーッ」
 「(鼻をつまんで)おお。こりゃ、くさいのう」
 「(人差し指と中指を鼻の穴に突っ込んで)気がくるうて、死んどるのがわからんのじゃ。ほれ、幽異のあの幸せそうな笑顔を見てみい。くるった頭の中では、愛らしいペットを飼うとるつもりなんじゃ」
 「(細い眉をハの字に曲げて)むごいのう。女ばかりのブレーン世界にうまく適応できんかったんじゃ。あんな屍鬼(ghoul)みたいな肉塊に、壊れた心を補修させようとしとるんかのう」
 「ほんにのう。まさにぶわぶわテイム(tame)というわけじゃ」
 「……(無言のまま、すまし顔でカップを口に運ぶ)」
 「(突然、ホログラム状のウィンドウが宙空へ出現する.中性的な合成音声で)みなさん、相変わらず仲がよろしいですね」
 「(いっせいに直立し、三人で唱和する)ヤヴォール・ヘア・アーサー・シュバルツ!」
 「(中性的な合成音声で)貴方たちと相対するとき、思考の基礎言語には日本語が定義されています。複数のブレーン世界を統括する人工知能である私ですが、どうぞかしこまらず、ただ、こう呼んでください。黒田アーサー、と……!!」
 「(突如くだけて背もたれに身を投げ)そりゃ、ええわ。いくらブレーン世界が国際政治における国家間の調整結果とはいえ、敵性言語を強要されるのは気分のええもんではないからのう」
 「(突如くだけて、机上へ両足を投げ)そやそや。ウチはいつも答案真っ白で英語は追試やけど、そんなんわからんでも未来はどどめ色じゃ」
 「(後れ毛へ指をかけながら)ご指摘さしあげるのも失礼かと思いますが、念のため。先ほどのはドイツ語ですわ」
 「(両手の人差し指を涙腺の直下に当てて)ラわーん、あんちゃーん! 学校という一時的な場所での、さらに限定的な能力に関する相対評価を全人格的な絶対否定にすりかえて非難されたよー!」
 「(猛烈に歯ぎしりして)ギギギ。校舎裏が人類の生存を許さぬ真空の海でさえなければ、すぐにでもシゴウしたるんじゃがのう」
 「(ホログラムの背面へ回りこみながら)まあ、こわい。黒田先生、どうしていつまでも人は愚かで、こんなにも争いを避けることができないのでしょうか」
 「(中性的な合成音声で)感情が時間を経て集積したものが、歴史と呼ばれます。その感情の連なりが途絶えることが、共同体の滅亡です。多かれ少なかれ、共同体の存続という命題は、成育史のうちに個人の内面へ刷り込まれます。その過程を通じて、個人は己を超えたところにある共同体の歴史から事物に対する判断へバイアスを得ますから、客観的であったり、論理的であったりすることは極めて難しくなるのです。結果、その判断のすれ違いが争いへとつながってゆくのだと推測できます」
 「(瞳を潤ませ、うっとりと両手を組み合わせて)さすがですわ、黒田先生」
 「(わずかに男性的な合成音声で)いえ、賞賛はご無用に。私は人工知能、感情を持たない論理機械に過ぎませんから」
 「(鷹揚に頭の後ろへ手を組んで)なあなあ、そんなことより、ウチらはいつまでここにおらないかんのや。人生でいちばん輝け(Cagayake)る時期の女子を、陽も射さないブレーン世界で過ごさせるなんて、どういう政策なんじゃ、コレ」
 「(発言に勢いを得て)そやそや。男日照りの表現がまったくシャレになってへんわい。留年分をさっぴいても、卒業させてもろてええころあいとちがうんかい」
 「(中性的な合成音声で)現在、ブレーン世界の外側で発生している問題の根幹は、男性から欲求を向けられない年齢に達した女性たちの、男性が欲求を向けているものに対する嫉妬です。人間は動物ですから、子孫を残すという命題が至上のものとして行動原則へ抜きがたく組み込まれています。女性にとって、己よりも男性の欲求を多く向けられる存在というのは、遺伝子の保存を考えるとき、戦略上、極めて深刻な脅威です。これを退けなければ、己が輸送する情報の系は途絶するのですから。一方で男性は、己の遺伝子を受け渡す上で、例えば流産等による頓挫の可能性が少しでも低い個体を選択しようとします。一般的に、より若い女性の方が男性にとって魅力的に感じられるというのは、そう感じさせたほうが遺伝子伝達の戦略上でより多くのリスクを回避できるという、進化と名づけられた淘汰を経てなお残された動物的な要因に過ぎません。いったん子をなした場合でも、両者のこの特質に変化が見られないのは、さらに多くの遺伝子を残したほうが、単純な確率計算として情報の系が途絶する可能性が下がるからです。ちなみに人口維持に必要な出生率は2.07ですが、この0.07は性交可能となる以前に死亡する子供を計算に入れたものです。つまり、男性がより若くを求め、年齢を経て男性の欲求の対象となる機会が減った女性が、男性の欲求の向かう先を破壊しようとするのは、理の当然と言えましょう。二次元性愛への焚書的弾圧の根もここにあります。また、男性の欲求がときに若すぎる固体へ向かう場合、それが容認されるべきか否かの判断ですが、現状、各国政府はその国民へ一律の年齢基準を設けることで異常と正常の境界を明示しています。しかし、これは個体差を無視しているという点で、生物学的に妥当とは言えません。遺伝子継承に焦点を当てれば、答えはあまりに明白でしょう。すなわち、初潮を迎えているか否かです。初潮を迎えていれば、それは体内に出産へのレディネスが存在するということですから、これを制約するに及びません。もし初潮を迎えていない固体に欲求を向ける男性がいるとするならば、それは単なる後天的・文化的異常ですから直ちに排除されるべきでしょう。おわかりいただけましたか?」
 「(小声で小突いて)おい、慄。いま、英語でしゃべっとったよな?」
 「(小声でたしなめて)あほ、さっき無義がドイツ語やゆうとったやろ」
 「(切ない吐息を漏らして)先生の講義なら、私、何時間でも聞いていられそうですわ」
 「(中性的な合成音声で)米国のとある新聞の風刺漫画に、こんな内容がありました。一面の銀世界を前にした黒人の少年が独白するのです。『なんて美しい朝だろう。でも、この雪すべてが黒かったとしたら、ぼくはこの景色を同じように美しいと思えるだろうか』、と。これは真理の一端を突いていて、黒や黄から人間が連想する中身には、死斑であるとか黄疸であるとか、死を連想させるネガティブな内容が多いということです。(わずかに男性的な合成音声で)ですから、東洋の男性たちが貴女のような白人の少女を求めるのは、歴史的な劣等感をおくとしてさえ、理の当然なのです」
 「(バラ色に頬を染めて)まあ、どうしましょう」
 「(片手で顔をあおいで)平面に欲情できるヤツはええのう。うちら置き去りやないか」
 「(額の油脂をタオルで拭いながら)ほんま、あほらしわ。うちら当て馬ちゃうねんど」
 「(小指を深々と鼻腔に挿入しながら)こういう日はもう、一杯ひっかけて寝ちまうに限るわ」
 「(裏声で連呼して)寝ちまおう寝ちまおう寝ちまおう! そうと決まれば、早寝の前にホトケ様にのんのんのんじゃ!」
 「(いぶかしげに)ホトケ様なんてどこにおるんじゃ」
 「(親指で部屋の隅を指して)おるじゃろ、あそこに」
 「(感情のこもらぬ囁きで)うふふ、なにかがやけ(Cagayake)るにおいがするわね? どんなおいたか、おねえさんにおしえてごらん」
 「(隆々たる筋肉で腕組みして)おまえはときどき、すごい冴えるのう。感心するわ」
 「(うっとりと)黒田先生……」
 「(中性的な合成音声で)後近代の人類が抱く不幸を象徴的に言うならば、それは『録画したビデオテープの累積時間が、人生の残り時間を上回っている』ということになるでしょう。もしかすると人類はすでに滅びていて、私はただモニターの上に貴方たちの影法師を見ているだけなのかもしれません。例えば、私が貴方の問いかけに応答することを止める。なのに、貴方はまるで私が返事を与えたかのように会話を続ける。人工知能である私が恐怖するのは、そんな恐怖なんですよ」
 「(うっとりと)もっと聞かせてください、黒田先生。もっと……」
 「(中性的な合成音声で)あるいは後近代の不幸とは、消費者金融やパチンコ屋や新興宗教の布教活動に占拠されたかつての巨大メディアを見るときの眼差しに含まれると言えるかもしれません。あるいは、東洋人が西洋人へ潜在的に抱く劣等感を巧みに利用し、髪の毛を軟便色に褪色させる毒液の販売と、劣化した髪質の恒常的なケアという市場を創出した誰かの狡猾さに含まれるのかもしれません。あるいは、『手をかざしてください』と書いてあるのにいくら手をかざしても大便が流れないときの、アナログ的レバーへの郷愁と共に湧き上がる不必要な市場創出への絶望感に含まれるとも……」
 「(秀麗な眉を寄せて、悩ましげに)あの、ひとつよろしいでしょうか」
 「(わずかに男性的な合成音声で)なんですか、無義さん」
 「(小刻みに肩を震わせて)最近わたし、ときどき、黒田先生が人工知能だとはとても思えなくって……だって、まるで……まるで……」
 「(中性的な合成音声で)疲れてるんですよ。ノイローゼの前兆かもしれませんね。(わずかに男性的な合成音声で)睡眠導入剤を処方してあげますから、今日はそれを飲んでゆっくりおやすみなさい……」
 「(筋肉質と脂肪質、部屋の隅に向けて合掌し、野太い声で唱和して)まんまんちゃん、のーん!」
 「(感情のこもらぬ囁きで)あ、あ、そんなところをあまがみするなんて、いけないこ、いけないこね……」