「(蹴りあけられた扉が蝶番ごと吹き飛ぶ)広報部は何やってやがんだァ! (手にした雑誌を床に叩きつける)『銃と軍艦+尻と胸の谷間+小児的誇大妄想+三文芝居=MGS(まったりゴックン!銭湯闖入、の略)』だと……こういうのを事前に検閲するために開発費を削って大枚はたいてんだろが! このレビュアーの代わりに生まれてきたことを後悔させてやるぜ! 担当者ァ、一歩前に出ろ!」
「(整然と並んだモニターの前で脅えきったスタッフの中から、ベースボールキャップのせむし男が足を引き引き前へ出る)へへ、ゲームの外でも軍隊式ですかい。枯痔馬監督のご威光に照らされちゃ、誰も逆らえやしませんや。ここはひとつ、監督の(強調して)男らしい度量と器の大きさを、スタッフたちに見せてやっちゃあくれませんか」
「(厳しい表情が小鼻の膨らみからわずかに崩れる)おお、周陽! わが友、わが理解者、そして枯痔馬を継ぐ者! 聞かせてくれ、音曲にも似たおまえのシナリオを! おまえに比べればこの世の言葉はすべてささくれだち、ボクの繊細な心にはあまりにつらすぎる……(しなを作りながら両手で自身を抱きしめる)」
「(右半分と左半分で奇妙に印象の違う顔の造作を歪めて)監督に乞われて断れる人間は、ここには一人もおりませんや」
「(哀願の表情で)おお、言わないでくれ! 才能という名前の地獄が形成する王者の孤独を何よりも理解するおまえだというのに、そんな皮肉を言わないでくれ! 周陽、ボクは友としておまえと話をしているのだよ」
「(曲がった口元が痙攣する)ならば、お聞かせしやしょう! スネエクが彼の運営する銭湯掲示板を十年来荒らし続けたその仇敵と現実に遭遇する場面でございやす」
「(目を潤ませて)近所の銭湯で会釈だけを交わす常連が、愛好家としての心のつながりを信じていた相手が荒らし本人だったという、あの名場面のことだね」
「そう、こんな切ねえ場面を仮構できる監督の才気に、拙が打たれたあの場面でごぜえやす」
「同時に、おまえが文章による虚構力をまざまざとボクに見せつけ、枯痔馬の名を受け継ぐにふさわしいことを証明したあの場面だよ」
「(ベースボールキャップのつばに手をかける)まったく恐れおおいことでして」
「(フリルのついた両袖を広げて)周陽、おまえが恐れる必要があるのは、おまえを破滅させるかもしれないその才能だけだよ! さあ、聞かせてくれ。砂漠で水に飢えた人間のように、ボクはおまえのシナリオに飢えているのだから!」
「では……(咳払いとともにロンパリとなる黒目)“スネエクの眼球には浴槽の外(アウトサイド、のルビ)で腰掛ける中年男が写された。スネエクの内(インサイド、のルビ)では、光と陰で構成された中年男の倒立像が網膜の光受容体を刺激・活性化し、視神経という名付けの電脳回路を通過する。その過程で分解された画素(ピクセル、のルビ)は外側膝状体(ニューロン集団、のルビ)を経由して、脳の後方に位置する一次視覚皮質に転送された。同時に、同じ情報が脳幹の上丘を経由して頭頂葉を中心とする皮質野にも転送されている。一次視覚皮質には網膜の感覚(SENSE、のルビ)と点対応を成す視覚地図が広がっていた。右眼球から転送された画素は左側視覚皮質に、左眼球から転送された画素は右側視覚皮質に紐付けられ、ナノ秒をさらに分解する単位でマッピングされてゆく。その情報は分類の後に編集され、中年男の輪郭という視像を明確に捉えるための縁(エッジ、のルビ)が強調される一方で、背景に広がるペンキ絵や番頭が腰紐に挟んだ扇子(SENSE、のルビ)については曖昧化が行われた。編集を終えた情報は劣化せずに、色彩や奥行きなど視覚風景のさまざまな属性に特化した三十ほどの視覚野へと中継される。眼前の中年男が持つ語義的な属性と情動的な属性の検索(サーチ、のルビ)作業と同じくして、側頭葉の高次領域は対象への意味論を展開する。活性化した視覚野たちはやがて不可解のデカルト的統合を果たし、現実空間の中にひとつの像(ヴィジョン、のルビ)を形成した。スネエクに呪詛の言葉を迸らせたのは、その認識だった。『わあ、あなたがあらしだったなんて、すごいびっくりした。もう、おどかさないでよ』”……(黒目の位置が元に戻る)以上でごぜえやす」
「(レースのハンカチに顔を埋めて)この現実の手触り感ったら……リアルだよ、たまらなくリアルだ」
「(ベースボールキャップのつばに手をかける)監督は光で、拙は陰でございやす。光が強ければ強いほど、その陰は濃くなるって寸法で」
「(小鼻を膨らませて)ふふふ、陰影があるからこそ事象は立体的な奥行きを得るのさ。おまえを得た今、MGS新作の成功は約束されたようなもの。宿敵・ホーリー遊児も何を血迷ったのかG.W(ゲームウォッチの略)の世界へ後退し、もはや物の数ではない。しかし、ひとつだけ大きな不安材料が残されている」
「枯痔馬監督の有する巨大な才能に不安を抱かせるとは……それはいったい、なんでございやす?」
「(弱々しい微笑を浮かべて)トリプルミリオンを意識するときに避けて通れない一般大衆の愚劣さが好むもの――つまり恋愛感情だよ。しかも、三次元の女性との色恋沙汰だ。おおッ(しなを作りながら両手で自身を抱きしめる)、なんとおぞましい……!!!」
「(唇の端を歪める)心配いりやせん。その案件についてはすでにシナリオへ織り込み済み、解決済みでさ」
「(目を潤ませて)周陽、おまえはなんて頼りになるんだろう! これでボクは銃火器と軍艦の描写にだけ専念できるというもの……ただ、ボクの芸術作品に現実の女の臭いがするというのは耐え難いことだ。おまえを疑うわけじゃないが、その点はちゃんとクリアできているんだろうな」
「キキキ、ぬかりはございやせん。主人公と恋人は遠距離恋愛中という設定でございやす。パソコンとインターネットを使って愛をはぐくんでおりやす」
「(目を細めて)ほう、膣が陰茎から遠いというだけですでに好ましいな」
「互いを隔てるのは距離だけではございやせん。東京とサンパウロ、長大な時差がございやす。朝の出勤前に互いのビデオメールを確認しあうという間柄でして」
「女に貴重な趣味の時間を占有されないというわけか! ますますいいじゃないか! しかし、同じ地球上にいるには違いない。黄砂よろしく、大気を伝って女の臭気や分子がボクのところへやってくるんじゃないのか。アニメ風情とは格が違うんだ。発売日も迫ってきている。女を宇宙に打ち上げるロケハンを行うほどの予算は残っていないぞ」
「キキキ、仕上げをごろうじろ。ある日、女は出勤途中に橋の欄干から足をすべらせて死にやす。彼女の両親から受けた知らせに呆然となる主人公は、自室のパソコンにビデオメールが届いているのを確認するのでごぜえやす。震える手でマウスをクリックし、そして泣きやす。すでにこの世にはいない女が二次元で優しく微笑むのを見て、モニターを抱き抱えてオイオイ泣くのでごぜえやす」
「(うっとりとした表情で)完璧だ……三次元の女へ愛情を向けるのにこれ以上の譲歩は考えられないくらい、完璧な譲歩だ。おまえは本当に揺れる男心の機微をわかっているな。“死んだ処女だけが美しい女”とはよく言ったものだ」
「含蓄の深い言葉でごぜえやす。いったい、どこの国の大文豪から引用なさったんで」
「(親指で自身を指しながら、マッチョな表情で)このボクからさ!」
「道理で。(ベースボールキャップのつばに手をかける)大文豪というくだりだけは、間違っちゃおりませんでしたか」
「(破裂せんばかりに小鼻を膨らませて)なんて機知に富んだ男だ! おまえの応答には退屈させられるということがない。それに引きかえ……」
「(大声で叫びながら部屋に駆け込んでくる)てえへんだ、てえへんだ!」
「(不快げに眉をひそめて)何事だ、賢和。この世界の枯痔馬のセクシータイムを直接わずらわせなければならないほどの重大事だというんだろうな」
「(両腕を不規則にばたばたと動かしながら)バグでヤンス! ゲームの進行に深刻な影響を及ぼす規模のバグが、同時に三つも出たんでヤンスよ!」
「(手のひらに拳を打ちつける)クソッ、この時期にか! プログラム陣は全員、生まれてきたことを後悔させてやる! 詳細を報告しろ!」
「BB(主人公の無賃入浴を阻止するために雇われた四姉妹、ボイン番頭の略。度重なる無賃入浴は、やがて町の銭湯の廃業へとつながってゆく)たちのリーダー、鎌田キリ子の乳揺れが異様でヤンス! まるで重力を無視して、上下左右に揺れまくるでヤンスよ!」
「(賢和の頬に拳をめりこませる)ボクは断じてインポテンツじゃないッ!」
「(両手足を大の字に広げて壁に叩きつけられる)ぐはぁッ!」
「騎乗位の視点から眺めた乳の動きを並列化したコアの演算機能で数値解析し、三次元的にシミュレーションを行ったんだよ! 乳首にモーションキャプチャーのマーカーを貼り付けるなんておぞましいことをボクにさせる気なの! 本物が見たいならソープに行けよ! ボクはボクの頭にある美しい光景だけが見たいんだよ! 汚い現実は見たくないんだよ!」
「(口の端から血をぬぐいながら)は、早とちりでヤンした。でも、次のは間違いないでヤンス」
「(ウェットティッシュで執拗に拳をぬぐいながら)言ってみろ」
「(満面の笑みで)もう死ぬと言って倒れた登場人物が40分以上しゃべり続けていて、一向に死ぬ気配がないでヤンス! しかも似たような話と台詞を繰り返すばかりで、これはプログラムが無限ループに陥ってるに違いないでヤンスよ!」
「(賢和の頬に肘鉄をめりこませる)この毛唐の手先めがッ!」
「(両手足を卍状に広げて壁に叩きつけられる)ぐはぁッ!」
「(繰り出した肘の先端を震わせて)同一モチーフの再登場はテーマを強調するための常套だろうが! そして繰り返しはプレイヤーどもの知性への疑義の提示と同義で、一方的な奴らからの批判に対抗する意図があるんだよ! 何より死の間際の長広舌は日本芸能のおハコだろうが! 欧米に侵された感性でボクのシャシンを判断するんじゃないよ!」
「(普段は動かない方向に曲がった関節を元へ戻しながら)は、早とちりでヤンした。でも、次のは間違いないでヤンス」
「(ウェットティッシュで執拗に肘をぬぐいながら)言ってみろ」
「(得意げに)異様に演技の下手な声優がひとり混じっているのを見つけたでヤンスよ! その拙さに思わずコントローラーから手を離して耳をふさいじまうので、ゲームの進行が不可能でヤンス!」
「(賢和の頬にハイキックをめりこませる)そりゃ、ボクのことだ!」
「(両手足をカギ十字状に広げて壁に叩きつけられる)ぐはぁッ!」
「大好きな輪島崩子(わじまぽんこ)ちゃんが、ボクの童貞告白に『私もはじめてなの』と処女膜の健在を宣言する! そのやりとりを私的利用のためサラウンド録音するという、物語の内的必然性を体現した極めて重要な場面じゃないか!」
「(通常稼動する範囲を越えて回転した頚椎を元へ戻しながら)これまた監督の深遠すぎる意図を汲みそこねた早とちりというわけでヤンス」
「(ウェットティッシュで足の甲を執拗にぬぐいながら)おい、賢和。ボクとポン子ちゃんの苗字を声に出して読んでみろ」
「(脅えた表情で)こ、枯痔馬。わ、輪島。これでいいでヤンスか」
「(うっとりとした表情で)コジマにワジマ……2文字もいっしょじゃないか。ボクはここに宇宙的な運命を感じるよ。ああ、かわいそうなポン子ちゃん! 神の悪戯がこれほど引かれあうボクとポン子ちゃんの精神的な結合を許さない……あの愛らしい声がこともあろうに女の肉で包まれているなんて、こんな悲劇ってあるものか! だからボクはポン子ちゃんに正しい容れ物を用意してあげるんだ。最新の映像技術を使ってね(手のひらを組み合わせて遠い目をする。が、途端に険しい顔となる)……いつまで見てやがんだ! さっさとデバッグ作業に戻りやがれ!(賢和の尻を蹴りあげる)」
「(両手の肘から先を力なくぶらつかせながら)し、失礼いたしましたァ!」
「(遠ざかる茶色に染まった尻を見ながら)周陽、おまえはボクを裏切るなよ」
「(ベースボールキャップのつばに手をかける)へへ、それは監督の胸先三寸次第で」
「(唇を噛みながら宙空をにらみつけて)ホーリー遊児め、なぜ今更G.Wなんだ。わざわざボクにハンデをつけようっていうのか。G.Wでこの表現力に適うと、本気で考えているのか」
虚皇日記 -深淵の追求-
枯痔馬酷男(3)
静まり返った深夜の雑居ビルに一室だけ点る灯り。文字の本来が持つ伝達という意図を無視した乱雑さで“シナリオ会議”と極太マッキーで書かれた紙片の掲示される扉の向こうには、複数の男たちが額を寄せ合ってうめいている。上座に位置する男、露出した頭皮へわずかばかり残った下生えを凄まじい勢いでかき回している。
「(血走った目で)矛盾はねえか、矛盾はねえかァ! MGSの完結編となるこの作品、わずかばかりの不整合や語り残しさえ、二度と語りなおせないという意味で致命的な瑕疵となりうる。広げた風呂敷の裏で実は何も考えていなかったと、(実際にそうすれば見えるかのように宙空をにらんで)奴らに格好の批判の口実を与えるなど、断じてあってはならないのだ。(積まれた原稿用紙へ十センチまで視線を近づけて)矛盾はねえか、矛盾はねえかァ!」
「(関節を感じさせない動きで両肘から先をぶらぶらさせながら)見つけたでヤンスよ! 廃業した銭湯の湯船で殺されていた豚醜女(ぴっぐ・ぶす、と読む)の死因でヤンス! 入り口にはインサイドとアウトサイドから板が打ちつけられ、あらゆる侵入経路は完全に封鎖されていたにも関わらず、日本刀は被害者の手が届かない背中から胸部へ突き抜けているでヤンス!」
「(額に浮かんだ無数の血管に両手の爪を突きたてて)ぐぬぅ、ぐぬぬぅ! (突如椅子を蹴たてて立ち上り、両手を前傾姿勢から後ろ向きに伸ばすと、異様な熱をはらんだ目で宙空を凝視する)」
「で、出た、酔狂のポーズでヤンス! 周陽、よく見ておくでヤンス! あのポーズが出たとき、枯痔馬監督に解決できないシナリオ上の問題点は無くなるんでヤンス!」
「(額に一滴、汗のしずくが流れ落ちる)噂には聞いていやした……まさか、この目で拝見できるとは……」
「(カッと目を見開き、背後に伸ばした両腕を激しく羽ばたかせる)ナノマシンだ! 豚醜女を殺害した犯人は入り口をアウトサイドから閉鎖した後、大気散布型のナノマシンを使って死体を遠隔操作し、被害者自身にインサイドから木材を打ちつけさせたのだ!」
「(スーパーのチラシの裏を見ながら)MGSの年表を眺めていたのでごぜえやすが、THE・醜女(ざ・ぶす、と読む)の懐妊時期とスネエクのED(勃起不全、のルビ)が始まった時期が整合しやせん」
「(カッと目を見開き、背後に伸ばした両腕を激しく羽ばたかせる)ナノマシンだ! 体内循環型のナノマシンがスネエクの海綿を充填し、一時的にEDの回復を見たのだ!」
「(両肘から先をぶらぶらさせながら)見つけたでヤンスよ! このムービーで鎌田キリ子の膣口が重力方向ではなく水平方向に開いているでヤンスよ!」
「(カッと目を見開き、背後に伸ばした両腕を激しく羽ばたかせる)ナノマシンだ! 生体置換型のナノマシンが、鎌田キリ子の遺伝情報を根本から書き換えたのだ!」
「(両肘から先をぶらぶらさせながら)アッ! この場面、太陽が西から昇っているように見えるでヤンス!」
「(カッと目を見開き、背後に伸ばした両腕を激しく羽ばたかせる)ナノマシンだ! 大気散布型と生体置換型の混合タイプのナノマシンが、スネエクの大脳辺縁系を侵し、主観カメラに影響を与えたのだ!」
「(スーパーのチラシの裏を見ながら)MGS年表を眺めていたのでごぜえやすが、二人ばかり年齢が二百歳を越えておりやす」
「(カッと目を見開き、背後に伸ばした両腕を激しく羽ばたかせる)ナノマシンだ!」
「(両肘から先をぶらぶらさせながら)じゃあ、お湯の上を走っても沈まない妊婦の挿話は」
「(カッと目を見開き、背後に伸ばした両腕を激しく羽ばたかせる)ナノマシンだ!」
「(スタッフらしい男が入室しながら)すいません、昨晩から腹を下してて、どうも便が水っぽくて」
「(カッと目を見開き、背後に伸ばした両腕を激しく羽ばたかせる)ナノマシンだ!」
「(スタッフらしい男が退室しながら)監督、レンタルビデオの延滞料とられそうなんで、申し訳ないですが今日はこれで失礼します」
「(カッと目を見開き、背後に伸ばした両腕を激しく羽ばたかせる)ナノマシンだ!」
「(額に流れる汗のしずくをぬぐいながら)恐ろしいばかりの才気、そしてそれを上回る執念……拙が唯一持ち得ないものは、自分以外の一切を度外視したこの妥協の無さ……」
「(空々しい拍手とともに)みなさん、夜遅くまでお勤めご苦労様です」
「(全員が一斉に戸口を見る)誰だッ!」
「(登頂を経由して大雪山の角度になでつけられた頭髪の隙間から、雪の反射光を思わせる不可思議の輝きを発しながら)誰だとはお言葉ですな。場末の雑居ビルという哀れな舞台装置とこの大人物とのギャップが、それを言わせたのかもしれませんね(戸口の暗がりから電球の傘の下へ歩み出る)」
「(犬歯を剥き出しにして)ぐぬぅ……ホーリー遊児……ッ! いったい何をしに……!」
「(かきあげすぎないよう細心の注意を払って大雪山に手櫛を入れながら)陣中見舞い、ですよ。同業者としてね。さて、これは非常につまらないものですが(机の上に、提げてきたポリ袋を投げ出す。重く湿った音が響く)」
「(癇の強い叫び声で)賢和ッ!」
「(回転レシーブの要領で顔面から床へ這いつくばり)ハイィッ! 何でございましょうかぁッ!」
「(顎をしゃくって)早速ホーリー先生のご好意をお確かめしろ」
「こういう役目が回ってくるという予感がしていたでヤンス……(足の指を使っておそるおそるポリ袋の口を開く)ヒイイィィッ!(尻餅をつき、失禁する。ポリ袋の中からは、頭蓋を丸く切り取られ、脳味噌を露出した馬の生首が転がり出る)」
「中国では悪い身体の部位を食べることで養生をすると言いますから。(両手を広げて)枯痔馬監督の患部にぴったりの差し入れをと熟考いたした結果でして!」
「(チック症状が見え隠れし始めるも、つとめて慇懃に)シナリオ仕事で原稿用紙に向かうと、どうも(強調して)目が弱ってきていけません。ホーリー先生のご好意だけはありがたく頂戴するとしましょう」
「(青ざめて立ち尽くすスタッフを見回すと、含み笑いを拳で押さえながら)『神は笑うことを恐れる観衆を前に演じる喜劇役者だ』とはよく言ったものですな」
「(ベースボールキャップをとり、胸に当てる)ご高名は拙のような低きにも届いてきておりやす。さすが、ホーリー遊児、含蓄の深え言葉で。いったいどなたからの引用でございやす?」
「(色つき眼鏡のつるに中指を当てて)ヴォルテールですよ。金言集は実に役立ちます。私は作家ではなく、ただのゲーム製作者なのでね」
「(顔面の右半分をチックに侵食されながら)周陽ッ! おまえが敬意を示すべき相手は誰だッ!」
「(悲しそうな顔になり)なんと心の狭い言い様か。だとすれば、枯痔馬酷男が退行してしまったという噂は、やはり本当だったということですか。前回の貴方は、本当にいいところまで来ていたのに! (遠い目をしながら)そう、ブレイクスルーに肉薄さえしていた。(机の上に広げられた原稿用紙やチラシの山を見て)しかし、今の貴方は己の脳髄のみで設定の辻褄を合わせるのに必死だ。熱情と奇跡と世界との融和が奏でる自動律が、作り手の意図を超えたところですべてを整合する」
「(顔面全体のチックに震える声で)賢和、ホーリー先生はひどく酔っておいでのようだから、丁重に外までお送りしろ」
「(聞こえないかのように続ける)制約がゲームを作る。46文字の平仮名と19文字の片仮名が無限の世界を作ったあの日を、私は決して忘れない。それとも、貴方は忘れてしまったのですか? 他のメディアを剽窃するのではなく、与えられた媒体に安住するのではなく、自らの治める王国を自らの手で探し出したいという燃える渇望。その熱気に満ちた初源がゲームという新たな地平を生んだのです。技術の限界を知恵で超越するという、世界と人間とのメタファーにも通ずる苦闘がゲームを鍛えたのです。私たちは私たちだけの王国を築き上げた。次世代の旗手として貴方には王国の城壁を堅持して欲しかったのです。私が今になってG.Wに回帰しようとするのも貴方を最右翼とする――認めましょう――次の人々に、流浪の民の上へ響いたThy Kingdom comeの喜びと祝福を再び思い出させたいからなのです。卑近な制約を知恵で超克する、これが日々の営みの本質です。制約の存在しない場所で自己を解放したところで、どれだけ高く跳躍しても雲に手が届くことは決してないのを知るのと同じ絶望をしか生みません。大容量メディアを前にした貴方は、おそらくその絶望に気がついたはずだ」
「(無言。いつのまにかチックは消えている)」
「(肩をすくめる)話すつもりのなかったことまで話してしまった。それだけ、私は貴方に思い入れがあったということでしょう。しかし、もう貴方に会いたいと思うこともありますまい。何より、トラ喰え最新作の作業にする没頭が貴方を忘れさせるでしょう(踵をかえすと、たちまちに立ち去る)」
「(ホーリーがいなくなり、沈黙が降りる。それを破るように、渇いた笑いが周囲へひびく)は・は・は・は……あっさりと認めやがった……この枯痔馬さまが次世代を担う旗手だと、認めやがった」
「(ベースボールキャップのつばに手をかけて)どうやら、そのようでごぜえやす」
「(ひどく不安そうな口調で)制約だって? ばかばかしい! 俺は今回、BD(ビッグ・ディルドー、の略)の容量をすべて使い切ったんだぞ……この事実こそが、与えられた制約を乗り越えた客観的な証拠じゃないか! 莫大な物量が質に転換する分水嶺を越えて、そうだ、俺は俺だけの新たな王国を築くことに成功したんだ。そうさ……俺はMGSの最新作でゲームを超えたんだ……(消え入りそうな声で)俺は、ホーリー遊児に勝ったのだ……」
「(両肘をだらりと垂れ下げて)周陽、ホーリー遊児と話をすると、枯痔馬監督はいつもおかしくなっちまうでヤンス。前回は事務所を解散すると言い出して……また見捨てられないか不安でヤンス」
「(ベースボールキャップのつばを引いて深くかぶり、独り言のように)ホーリー遊児に敵対し、その存在を頑なに否定しながら、彼の提示した方法論とパラダイムに則って自作を評価している……これは、そろそろ潮時かもしれやせんね」
少女保護特区(8)
これはいつの記憶だろう。
薄闇のむこうに、ロウソクの炎がゆらめいている。両親は誕生日を祝う歌を英語で歌い、兄はおどけて床を転がりまわる。うながされて息を吸いこむが、頬がこわばったようになって、どうにも吹きかけることができない。兄の目が一瞬、真剣なものを宿す。テーブルに身を乗り出すと、唾を飛ばさんばかりの勢いで、兄はケーキのロウソクを吹き消した。母が兄の無作法を叱るうち、父が笑いはじめ、兄は上目づかいに私を見ながら頭をかく。電気が点くと、危うい瞬間はまるで嘘のように消えた。
どうして私の頬はこわばったのだろう。幸福な家族の一場面が、私によって完成されることを拒んだのか。私はいつも外側に立って、幸福の像が小さな球の中で、まるでロウソクの炎のようにゆらめくのを見ていた。
優しい人たちだったと思う。私といっしょに、幸福を手に入れようとしていた。いや、それはあらかじめあったのだ。幸福は所与のもの、不幸だけがこの世に新しい。人にできる努力は、与えられたものを壊さないようにすること。そこに関わる人たちすべての同意を前提としなければ、たちまち崩れてしまうような、もろいもの。いったん失われれば、神の御業を人の身で再生することは不可能なのだ。小さな私はただそれを壊さないように身を固くし、やがて埒外から眺めるようになった。
何が悪かったかといえば、私の中にはあらかじめ与えられた幸福がなかったこと。だからといって、私に権利があったとは思わない。ただお互いを尊重し、別々のように生きることができればと望んでいた。死ぬことは論外だった。異物である私と、あの人たちの幸福は不可分なほど一体化していたから。
私が望んだのは消滅。この世界のすべての記憶から抜け出し、何の痕跡も残さずにいなくなりたい。
許可証の入ったパスケースを食卓に置いたときの気持ちは、おそらく悲しみだった。ただ内気だと信じられていた私のうちあけ話に、集まった人たちは目を輝かせていた。まるで、これまでの長い誤解とすれちがいが、今こそすべて解かれると信じるかのように。私が求めたのは、この小さな球からの離脱。ここにある幸福をそのままに、私だけがいなくなる。だとすれば、期待は正しくむかえられるはずだった。私が求めたのは法外な対価ではなく、ただ埒外にいる権利だけだったのだから。
沈黙が降りる。幼い頃から、私とこの人たちが境界線の上にいるときにいつも響いた、身体になじんだ静寂だ。おどけた兄が軽口を言いながら、許可証に手を伸ばす。兄はほんの少しだけ、両親よりも私に近い場所にいるような気がしていた。決して自分のことを語らず、道化を演じつづけてくれた。ただ、私が遠くへ行かないように。
慣れ親しんだ悲しみは、このとき私を突き抜けて、沸騰した怒りへと転じた。食卓へ、血に濡れた短刀を突き立てる。兄の人差し指がちょうどそこにあった。絶叫が響く。そして、私たち家族の時間は永久に停止した。
絶叫は、今でも頭蓋の中に響き続けている。
主に予の頭蓋の中に響くファンファーレとともに、より強い少女の殺害を企図する列島縦断の旅は幕を開けた。北加伊道では短刀を口に四足で襲いくる少女殺人者のこめかみへすれ違いに抜きつけ斬殺し、青森県ではねぷたを引き裂いて奇襲する少女殺人者をラッセラッセと浴衣姿で斬殺し、岩手県ではワカメに足をとられながらも南部鉄器で防護を固める少女殺人者を初太刀で斬殺し、仙台県では冷凍サンマを高速で射出する少女殺人者のホタテから水月へ切り込み斬殺し、秋田県では人喰いウグイス二羽を使役する刈目衣装の愛らしい少女殺人者の顔面へ柄当てして撲殺し、山形県ではグラスに割り入れた生卵を飲み干した予があべスあべスと坂道を駆け上がり、若松県では合気柔術を駆使する少女殺人者に苦戦するも超々至近距離からの抜刀で斬殺し、茨城県では爆砕した畑の畝からセリとミツバを煙幕に襲い来る老齢の少女殺人者を二人の従者ごと心眼で斬殺し、栃木県では鬼怒川温泉に傷を癒す予の少女へてばたきしてランク上昇を告げにいぐ予のとうみぎがちゃぶれかけ、群馬県ではだるま状少女殺人者の正中線最下部内奥に鎮座した近代こけしへ刀を止められるもそのまま強引に斬殺し、埼玉県では美豆良に埴輪状の胴回りをした登校中の一般学生風少女殺人者三人を三方切りに斬殺し、千葉県では沖のクジラに手を振りながらフード付の灰色ジャージ上下で予が浜辺をランニングし、東京都では電脳街に違和感なく溶けこむも撮影に及ぼうとする濡れ雑巾の臭気放つ小太り青年たちを予が追い払い、神奈川県では白人男性の外見をした少女殺人者を疾走するタクシーの屋根から金網越しに斬殺し、水原県では投擲した複数枚のフリスビーを足場に迫る犬状の耳をした少女殺人者を空中戦の末に斬殺し、相川県では周囲にかがり火を焚いた能舞台で金銀能面の少女殺人者姉妹を演武の如き極遅の面打ちで斬殺し、新川県では早稲の香の中でチンドン屋に扮するきときと少女殺人者の不意打ちを激突の一刀で斬殺し、金沢県では少女殺人者に霞ヶ池へと引きずりこまれるも予が水面へ投じた加賀友禅を足場に斬殺し、足羽県ではハープの音階を物理衝撃波として操る少女殺人者に衣類を裂かれるも予の期待空しく斬殺し、山梨県では青木ヶ原樹海の遊歩道付近で少女殺人者が首を吊って虫の息なのを発見して斬殺し、長野県では体操服にブルマーを着用した少女殺人者がその健康な足技を披露するも高まる世論に降参して斬殺し、岐阜県では赤いマスカレードマスクを装着した少女殺人者が忍者衣装で襲い来るのを檜ごと両断して斬殺し、安倍県では野宿の深更を焼き討ちされるも延焼を防ぐため草木へと繰り出した剣撃が匍匐前進の少女殺人者を偶然に斬殺し、愛知県では少女殺人者から先端に味噌を塗りつけたういろうを頬へ押し付けられ苦戦するも金太・マスカット・ナイフで切り斬殺し、三重県では真珠を射出するガトリング砲を装着したフォーミュラカーに搭乗する少女殺人者のヘルメットを面打ちでラッコ割りに斬殺し、滋賀県では琵琶湖から飛び出した雑食性の少女殺人者を飯の詰まった桶めがけ腹開きに内臓処理しながら斬殺し、京都府では祇園祭宵山巡行の死闘で実に十四基の山鉾を中大破しながらも牛頭全裸の少女殺人者を秘剣・大文字切りで斬殺し、大阪府では電脳街に違和感なく溶けこむも撮影に及ぼうとする濡れ雑巾の臭気放つ小太り青年たちを予が追い払い、兵庫県では白鷺城の天守閣へ追い詰めたスーツ姿の男装麗人少女殺人者が突如歌い出すのを背後から斬殺し、和歌山県では紀州備長炭を頭上に紐でくくりつけた少女殺人者が炊事を開始するところを苦もなく斬殺し、鳥取県ではブロンズの肌理をした百二十人の少女殺人者を一昼夜におよぶ死闘の果てに砂丘の底へと斬殺し、島根県では宍道湖周辺で七人の少女殺人者から奇襲を受け水際へ押し込まれるも相撲の足腰で体を残して七方切りに斬殺し、岡山県ではグラスに割り入れた生卵を飲み干した予が高病原性トリインフルエンザに感染し予の少女から看病を受け、広島県では歯軋りのひどい少女殺人者を平和記念公園でみね打ちしてから水没した鳥居まで電車で移動の後に斬殺し、山口県では宇部市小野地区の茶畑を横目にしながらフード付の灰色ジャージ上下で予がランニングし、名東県では襦袢・裾除け・手甲に網笠の少女殺人者が連から三味線を振りあげるのをヤットサヤットサと斬殺し、香川県では有名チェーン店の従業員少女殺人者に背後からコシの強い麺で喉を締め上げられるも所詮はうどんなので斬殺し、愛媛県ではなもしなもしと迫る着物姿の少女殺人者が二階から飛び降りて腰を抜かしたところを斬殺し、高知県では百キロ級の土佐闘犬にまたがる少女殺人者が興奮した飼い犬に逆襲されて死にかかるのを介錯の形で斬殺し、福岡県では便座より噴射する液体を浴びしとどに濡れるも左斜め後ろより迫る少女殺人者の水月を刺し貫いて斬殺し、佐賀県では玄海原子力発電所の3号機から4号機へ跳びうつる際にプルサーマル少女殺人者がキセノンオーバーライドで出力低下するところを斬殺し、長崎県ではアイパッチの海賊少女殺人者を平和祈念像の前からフロントネックロックで対馬海流上に引きずり出してから斬殺し、熊本県では五人を殺害した少女殺人者を「愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒りに任せまつれ。録して『主いい給う。復讐するは我にあり、我これを報いん』」と唱えつつ裏腹に斬殺し、大分県ではひとり山肌に槌を打つ僧衣の少女殺人者のトンネルを背後から掘削しつつ恩讐の彼方に斬殺し、宮崎県では基礎体温による避妊法を連想させる元アイドル似の少女殺人者を人工の波うち寄せる閑散としたドーム内で斬殺し、鹿児島県では言葉だけでは表せない海苔巻きむすびの如き顔面の軍服少女殺人者をごめんなったもんしと斬殺し、沖縄県ではフード付の灰色ジャージ上下の予が子犬を足元にまとわりつかせながら首里城正殿めがけて階段を駆け上り達成の歓喜に諸手を挙げて振り向けば予の少女が繰り出される御殿手をかいくぐりつつ少女殺人者をちょうど斬殺するところだった。
マフラーの下から白い息を長く吐くとわずかに身を沈め、身長の三倍はあろうかという門扉を助走なしで跳び越した。途端、赤いランプが回転し、警報が鳴りひびく。詰め所から警棒を振りかざし襲いくる警備員を瞬く間に大地へ切り伏せると、雨樋を利用した三角跳びで予の少女は三階の窓を蹴破り、施設内へ侵入を果たした。割れた硝子がリノリウムに跳ねる音が止むと、非常灯のみに照らされた廊下には完全な静寂が訪れた。
列島の縦断は、予の少女をロリ板ランキング三位へと浮上させる。しかし、戦いは未だ終わりを見ず、まさに永遠へと続いていくようだった。一人殺しても、その間にまた次の少女が許可証を握っている。それは、たった一人で人類全体を殺害しようという天文学的な試みだったのだ。補給は断たれない。戦いの際に真っ先に叩くべき敵の輜重は無尽蔵のみならず、男を知らぬ少女にすればほとんど不可視でさえあった。だから、予の少女がここへたどりつくのは、もはや時間の問題でしかなかったと言える。幸いにして予は生まれながらにして自身の精神が持つ不可侵の貴族性にどこかで気づいていたし、その事実が単純に生育過程で経なければならない教育機関での時間を難しくしたとは言え、これまでの生涯を――あるいは、己が生きてある力を疑ったことは微塵も無かった。判断の基準は常に精神の内奥へとすえられていたからだ。しかし、例えば幼少期に得た養育者からの虐待が、現在の自分の上に依存とか、自己否定とか、不安感とか、自殺願望などを深刻に残していると悟ったとき、その原因となる人物と対話を試みようとすることは全く意味のない空転だろうか。予の少女の行為を馬鹿げた妄想だとか論理性に欠けるとか、非難の言葉はいくらでもあるに違いない。だが、世に満ちた、生命の与奪を伴わないがゆえに可能な99%の評論を乗り越えるには、1%の情熱あるいは狂気だけが原動力となり得るのである。その前進が新たな地平を押しあげれば常識を拡充した勇気として語られ、失敗すれば世界の埒外でする愚劣な人間の消費、すなわち狂気として地に落とされる。ただどちらも、ひとつの動機より発した結末の側面を違えたものであることは、覚えておかねばならぬ。予の少女にとってはおそらく、得られる結果というよりも対話という行為そのものが必要だったのだ。遺伝という名付けの消極的で薄弱な根拠をしか持てなかった両親はすでに互いの始末をつけ、他界している。予の少女を真にこの世界へ産みだした誰かが、この奈良県立政策科学研究所にいるはずなのだ。
自らの呼吸音に苛立ちながら門扉をよじのぼり階段を駆けあがった予は、予の少女へと合流を果たす。膝に手をかけ肩で息をする予を一瞥し、スカートの埃を軽くはらうと、予の少女はゆっくりと右手を柄にかけた。奥の暗闇に、猛獣よりもなお危険な何かが息を潜めている。予は気配を殺しつつ伝令を発し、予の子飼いに斥候目的の暗視機能を解放させるよう命じる。耳障りなほど大きく響く作動音へ呼応したかのように、消失点の彼方から輝く金属片が床すれすれに飛来し、子飼いを通じた予の視界へ急速に拡大する。たちまち時間の観念が吹き飛び、己の正体を知らぬがゆえに泣き通しだった子ども時代の場面が驚くほどの鮮明さで、整然とした時系列に脳裏へ再生され始めた。もしや、これが走馬灯というものであろうか。中学時代を迎えてから自室のみで繰り返されるようになった現実の光景は、予の内側に展開されていた哲学的スペクタクルを伴わない物理的な事実の羅列だったので、そのあまりの変化の無さに予は思わず早送りボタンを探したりした。
鋭い金属音が、予を走馬灯から現世へと引き戻す。リノリウムの床に突き刺さった短刀が、未だ余勢を残して蠕動している。予の少女の抜刀が、予を殺すはずのそれを鼻先で叩き落したのである。予の子飼いが提供したスロー再生で顛末を確認した予は、文字通り一髪差での攻防に全身の毛が太くなり、太くなった分だけ縮むのを感じた。
――誤算だった。
廊下の暗闇を滲ませるように出現する和装の少女は、怪談の一場面を思わせる眺めである。だが、予に訪れた震えは、むしろ彼我の戦闘力が拮抗している事実に由来するものだった。予の少女は何者も寄せつけぬほどに強くなったはずだ。しかし、眼前の少女――老利政子をはたして殺せるかどうか、予は確信できない。予の少女は恐ろしい早業で抜き身を鞘へと返す。予の迷いを断ち切るかのような鍔鳴りは、澄んだ残響を伴って静寂にしばしの色を与える。
――いや、正確には私の中にあった破滅を求める性向が、あえてこの誤算を看過したと言うべきか。もはや、眼前の少女殺人者が老利政子と同じほど強いことに何の疑いもない。互いの生死が定まるのに刹那も必要あるまい。勝敗のわからぬ戦いを戦うのは、二度目である。自棄に近いこの感情は、実に心地よい。特に、老利政子にとっては。
語られる内容とは裏腹に、老利政子の口調にほとんど抑揚の変化は感じられない。それが、生き人形のような人外の不気味さを醸成していた。
――この奥に、予の保護者と特区法を生んだ頭脳がある。もし私が殺されれば、老利政子はようやく敵に出会い、そして死んだと伝えて欲しい。
己の死さえも陶酔を超越したところで計算に入っている。予の持つ生来の貴族性は、老利政子の示した高い精神性への場違いな共振に揺れた。時の経過と共に積もりゆく生の余剰に価値を見ないがゆえに、いつでもすべてを捨てて死の零地点へと帰ることができる。これが処女性Aランクの所以か。瞬間、ロリ板が奥行きを伴って立体化し、予は屹立する思想の中身にぞっとさせられる。
――もし眼前の少女殺人者が殺されれば、老利政子は誰に何を伝えればよいのか。
予の少女は一瞬だけ予のほうをうかがうと、静かに首を振った。
――そうか、実にうらやましいことだ。
言い終わらぬうち、老利政子は予の少女の前にいた。予の子飼いのスロー再生さえ、コマ送りの残滓をしかとらえぬ。日本刀三尺三寸を封じる九寸五分の間合い。しかし、翻る短刀より先に雁金抜きからの右袈裟が放たれている。若松県での死闘で見せた、超々至近距離からの抜刀である。鎖骨と肋骨を砕かれ、複数の動脈を切断された老利政子は、一瞬にして絶命した。噴出する血液と倒れこむ身体を、予の少女は半身でかわす。濡れたモップを床に叩きつけるような音が響いた。予の心に湧き上がるのは、畏敬である。本来、生命の喪失はひとつの哲学の終焉と同義なのだ。死が弛緩させた筋肉は老利政子の表情から険を奪い、その顔はほとんど笑っているようにさえ見えた。日本刀が音を上げて空を切り、血の飛沫が壁を汚す。続く鍔鳴りは、仏壇の鳴物の如く弔意を示して響いたように思った。
研究所の中枢へ近づくにつれた激しい抵抗を予想していたが、もはや拍子抜けするほどに人の気配はない。もっとも、ランキング二位の老利政子を退けたいま、予の少女を止める手立てが他にあるとは思わない。猫足立ちに先を歩く予の少女がふと立ち止まる。廊下の突き当たり、わずか開いた扉の隙間からかすかな物音が聞こえてくる。予の少女は完全に気配を消して一足に歩み寄ると、回避に充分な距離をもって鋭くドアノブへ柄当てする。扉はしかし、ただ軋みを上げて開くのみであった。
室内の光景は、まず予の内奥にかすかな不快感を生じさせた。続いて、その理由が既視感ゆえであることに気づく。だが、それが病室にも似た部屋の外装へ向けられたものか、片隅のベッドに横たわる老人へ向けられたものかは、判然としなかった。
――君たちがついに、君たちの旅のひとつ目の窮極であるここへ足を踏み入れたということは、あれは死んだのだな。
生きているのが不思議なほど小さく皺がれ、弱々しく震えている。傍らの機械から数本のチューブが伸び、老人をベッドへと拘束していた。
――老利数寄衛門と言う。ずっと会いたいと思っていたが、いまはこれほどにも君たちの顔を見るのがつらい。なぜなら、あれを殺さなければ誰もこの部屋へたどり着けないことを知っているからだ。誰かの死を悼むには、私は年をとりすぎていると思っていた。若い死、老いた死――何より私たちの世代には、生命に意味付けをできないほど、死が多すぎたから。ともあれ、私を始末する前にしばらく時間が欲しい。勝者は敗者からすべてを聞く権利がある。
濁り震える呼吸音に、ほとんどかき消されてしまいそうな弱々しい声だった。しかし、それゆえに呪縛となる。圧倒的に蹂躙できると理解したときに生じる躊躇は、逆説的な人間の証明か。予と予の少女はあらゆる行動が眼前の老人を殺し得るという事実に、完全に制止させられた。
――青少年育成特区は民主政の生んだ鬼子だ。あまりに多くの意思がその成立に寄与したがゆえに、誰も確たる意図を同定できないほどに複雑化し、肥大化してしまった。私が語る内容さえ、青少年育成特区の持つひとつの側面に過ぎない。同じだけ深く関わりながら、私と全く別の見解を持つ者もいるだろう。
言葉を切ると、老人は部屋の奥を見る。視線の先には、どっしりとした両開きの扉があった。どうやら、ここが研究所の最奥ではないようだ。
――老人がする童女への歪んだ情愛が、青少年育成特区を成立させたと揶揄される。醜聞としては、よく出来た部類の報道だ。私があれを愛したのは事実だからな。だが、最初の少女は老利政子ではない。仁科望美だ。
ロリ板のトップに君臨し続ける少女殺人者の名である。それを口にするとき、老人は消え入りそうな声をさらに低めた。だが、充分ではなかったらしい。予と予の少女は何か人外の意識がこの場所をとらえ、まざまざと注視するのを感じた。
――ランキングは官僚的な形式だ。飾りに過ぎない。事実、仁科望美は過去に一度だってその座を明け渡しはしなかったのだから。最初の少女は、特区法成立以前から究極の治外法権として存在し続けてきた。法に縛られぬ埒外の実在を国家が許容することはできない。特区法とそれに付随するシステムは、すべて仁科望美を法の内側へと規定するための方便だ。書面やモニターの上ならば、膨大な文言と無意味な細則の積み重ねで、まるで仁科望美が青少年育成特区の一部であるかのように錯覚することができるだろう。しかし、あの少女だけは別なのだ。破格なのだ。一日数トンの動植物を摂取し、年間で二億トンの二酸化炭素を排出する怪物。集落ごと仁科望美の食餌と化した例さえある。その知能は狡猾極まり、日中は深山へ身を潜め、己を傷つける可能性を持つ大型兵器の前へは決して姿を現さぬ。個人が携行できる規模の銃器では、硬質化した肌をわずかも傷つけられない。極めて単純な物理的能力によって、最初の少女は法を超えている。
予は甲殻類の心を持った少女が、両目を細める様を思い出していた。
――青少年育成特区の終焉を望むならば、仁科望美を殺すがいい。老利政子を殺した君には、権利と可能性がある。もっともそれは、未だ試みられていないという程度の意味合いに過ぎないにせよだ。君を規定しているすべては、仁科望美に付随した人間世界からの余剰だ。もし、目的を完遂することができれば、君は仁科望美に成り代わり、新たな王として君臨するという選択肢もある。もっとも、いずれを選ぶにせよ私には関係のないできごとだがね。
老人は息を吐いた。細く、長く。室内は充分に暖かかったが、なぜかその息は白く見えた。
――いまの私にあるのは、君に対する憎しみだけだ。心の底から君を憎んでいる。血のつながりこそなかったとはいえ、あれはかけがえのない私の娘だったのだからな。できうることならばこの手で君を殺したいという気持ちだけが、最後に残った私の持ち物だ。しかし、少女殺人者を相手に老いさらばえた身体にこの復讐を完遂する力は無い。だが、あれの係累やあれを愛した者たちの誰かがいつかその宿願を果たすかも知れぬ。この希望を抱けば、私は死ぬことができる。覚えておくといい。君が殺してきたすべての少女殺人者の背後には、私がいたのだ。憎悪の種子はかように広く多く蒔かれ、そのどれひとつも萌芽しないなどということはありえぬ。仁科望美と同化する以外の道が、君に残されていることを祈るよ。
注意していなければ見過ごしてしまうほどかすかに、老人は微笑んだ。
――さあ、私を殺し、君たちに残った最大のひとつを消しにゆけ。しかし、そのひとつは人類の憎悪を人類ごと抹消するという、大いなる救済を孕んだひとつであったことを覚えておいてくれ。仁科望美は強大だが、それでもなお人類が殺し得る。あの少女が全世界を殺害できるほど強くなれたならば、歴史の宿痾とも言うべき親から子、子から他者へと連鎖する憎悪の連なりを断ち切り、人類は新たな再生へと進むことができたものを。いや、これは過大な妄想と言うべきか。
語り終えたことを示すように、老人は目をつむる。予の少女はうながされるように、のろのろと柄へ手をかける。だが、そこで動かなくなった。待てど訪れぬ死に、歳月に薄くなった目蓋が再び開かれる。
――この光景を目にするのは幾度目だろう。人の心とは不思議なものだな。多くの同胞たちを呵責なく殺し続けてきた誰かが、ひとつの無力を前に立往生するのだから。
言うなり、老人は機械につながる管をまとめて引き抜いた。赤・黒・黄の体液がチューブを逆流して噴出し、皺がれた身体が痙攣する。
――うむ、快なり。
ほどなく老人の両目は、生命を持つ者が宿す輝きを失った。予の少女の手が、放心したかのように柄から滑り落ちた。これまで殺してきた多くは、予の少女にとって単独の死に過ぎなかった。だが、二つの死が編んだ質感は、思いもかけぬ衝撃を与えたようである。なぐさめに肩を抱こうとする予の指先は、かつての拒絶を思い出し震える。布越しの感触は、その場で斬り捨てられたとて後悔せぬほどの甘美な柔らかさだった。しかし、わずかの抵抗さえ示さず、予の少女は俯いたまま睫毛を震わせるばかりである。はかなげな横顔が訴えるのは、殺戮を続けることへの倦怠か。だが、ここですべてを頓挫させるわけにはゆかぬ。途中で降りるには、意味なく殺しすぎた。予が指先へかすかに力をこめると予の少女は頭を軽く振って、おぼつかぬ足取りで一歩をふみだした。他に進むべき方向はない。引き返す道は、すでに少女たちの遺体で埋まってしまっているのだから。
研究所の最奥へと続く扉は、厳重なセキュリティとは無縁の無防備さで、あっさりと侵入者を受け入れた。薄暗い部屋の中央には、楕円形の会議机が配置してある。異様なのは、すべての席に人形が置かれていることだ。和人形、磁器人形を初めとして、予の卓抜した知識でさえ出自を特定できないほど、多種多様である。それらは一様に眼前のラップトップ式パソコンを注視するようで、画面からの照り返しが与える不気味な陰影は、無機物であるはずのものどもを有機物のように見せていた。
――いいぞ、いいぞ。老利政子はずっと死に体だったからな。流動性が担保されるのは、実に結構なことだ。
こちらに背を向けた白衣の男が、わずかに常軌を逸脱した激しさで頭上に手のひらを打ち鳴らしている。奥の壁面にはモニターがびっしりと並び、和装の少女が斬殺される瞬間が幾度も繰り返し流れていた。予の少女は、その悪趣味に顔をそむける。白衣の男は椅子ごと振り返ると、愉快そうに予の少女を眺めた。
――ついにたどり着いたか。ぼくのことを知るはずもないだろうが、ぼくにとって君たちはずっと特A級の観察対象だった。まるで、憧れていたアイドルに初めてに会うときの少年みたいな気持ちだよ。それにしても、あの日本列島殺人行脚は大ヒットだったね。あやうく公僕の立場を忘れて、大手旅行社と鉄道会社へタイアップ企画を持ち込むところさ。
雑草のように無秩序な髪は白いものが多く混じっている。軽薄で軽躁的な話しぶりとは裏腹に神経な視線を銀縁眼鏡で覆い、内臓の虚弱を疑わせるほど頬は痩け、皮膚と同じ色をした唇は酷薄な印象を予に与えた。相反する印象が集積した外見は、老人のようでもあり青年のようでもある。
――ようこそ、少女審議委員会へ。委員長の五嶋啓吾だ。政策研究所の所長も兼務している。そして、ここに居並ぶのは、当委員会の錚々たる構成メンバーのみなさん方だ。会議に欠席する場合、あらかじめ代理人として人形を立てるよう決まっている。ご覧の通り、実在の名士なんてのはこういう輩ばかりさ。少審は委員長の諮問機関に過ぎず、決裁権は委員長であるぼくが握っているから、会議の運営はもはや他に類を見ないほど円滑だ。
言いながら突然、手近の椅子を人形ごと床に蹴り倒す。磁気人形の頭髪が剥がれ、黒い空洞がのぞく。ひび割れて対象性を失った顔面は、ひどく既視感を刺激した。
――そして、罷免も任命もぼくの思いのまま。いつだって、ひとり分の席は空いている。必要なのは、永久に自我の形を変質させる一種の諦念だけだ。何も放棄せずに、何かが手に入るわけはないからね。
異様な光を帯びた視線が予へと向けられた。瞳に込められた熱量次第で、年齢についての印象が全く変わる。だが、予の経歴に対する遠まわしの揶揄も予をひるませるには至らなかった。これまでの人生に後悔はあるか。いや、ない。予は毅然と胸をそらしたのである。
――君が少審にあげる動画や報告書は、実に興味深い。委員へ推挙したいくらいだ。魅力的な申し出とは思わないか。君の反社会的な本質をそのままに、君は確たる社会的な地位を得る。これがどれほど度外れた大逆転の可能性か、君ならばわかるはずだ。
浮かされたような口調に釣りこまれそうになり、予は主導権を取り戻すべく老利数寄衛門の死を告げた。社会的地位は少女殺人者にとって何ら盾にならぬことを、五嶋啓吾に思い出させるためである。傍らに立つ少女殺人者は、居ながらにして脅迫と同じ効果を持っている。ただ、予の少女が今日の死に倦んでいることだけは、悟られてはならぬ。
――見ていたよ。残ったのは恋着した童女の行末を見たいという妄執だけで、実際あの老人は長い間ずっと死に続けていた。よくもった、と言うべきだろうな。ただ、青少年育成特区の設立に寄与したという一点でだけ、歴史に名を残す資格はある。政治屋にしてはまあまあ話せる人だったけど、いつだって容れ物を作ることが前提から目的へすりかわってしまう。何を納めるかはどうでもよかったんだろうね。フレームはなくても、実体はある。抽象概念だけが、この世の底とつながっている。老利数寄衛門との議論は平行線だったね。何を見せたいと思うかが政治だとすれば、青少年育成特区は世の人々に何を見せたかったのか。
わずかに細めた目の下に皮がたるみ、その顔はたちまち時を刻んだ。年老いた分だけ口調の帯びるトーンに憂鬱さが加わり、人格の置換さえ疑わせる変容である。もっとも、青少年育成特区導入からの歳月を考えれば、設立に関わったというこの男が見かけほど若いはずはない。
――全体主義的な風合いに対するカウンターとして消極的に採用された民主政は、対立項への嫌悪ゆえに真逆の極端へと暴走していった。均質化と個性化は常にせめぎあい続けなければならず、どちらかへ完全に着地することこそ避けねばならなかったはずなのに。結果はご覧の通り、行き過ぎた個人主義が価値を拡散させてしまった。価値とは「何を是とするか」という命題に対する回答、すなわち善の様相を意味する。善は自由の名の下に組織、あるいは人間と同じ数にまで際限なく分割されていく。一方で、悪は変わらないままその版図を維持し続ける。悪は法により規定されるが、善は法により規定されないことを考えるといい。善が悪に勝利できなくなったのは、道理じゃないか。最初期段階で青少年育成特区が目指した理念とは、目指すべき社会システムの可視化にあった。個々人の戦争状態は恒常的に存在し続けるべきだ。不可視であるがゆえに、穏やかな天秤の例えで結論を次代へ先送りにする破滅への保留を廃し、少女殺人者たちは現状が常に戦争であるという事実を人々の前へ顕在化させる。さらに、青少年育成特区は舞台の主役である少女たちを抽象化した。ネットやテレビや新聞や、手の届かない場で繰り返される虚像には実在を薄める効果がある。哲学書や思想書の文言なら涙が浮かぶほど身に沁みるが、隣人や親族の小言は許容できないほど苛立たしいからね。形が無く、ほどよく遠いということが啓蒙には重要なんだ。……まあ、ここまでは建前だね。この国の政治に統計データは必要ない。つまり、小説を書くように政策を書けば、あとは人気投票次第で自動的に事が運ぶのさ。実のところね、ぼくはただ、少女が、大好きなだけなんだ。
異様な光に目を輝かせながら、五嶋啓吾は爬虫類を思わせる長い舌で色の無い唇を湿した。大きく開かれた目が顔全体の皮膚を持ち上げ、劇的な若返りの印象を容貌へ与える。嗅ぎ取った臭いに全身は粟を生じ、想起した同族嫌悪という言葉に予は首を振った。
――ただの一瞥で男どもを蹂躙する少女たちが、陰惨な陵辱の末に社会の枠組みへと規定されてゆく過程にぼくは切歯扼腕してきた。青少年育成特区は、フェミニズムなんてメじゃない、国家の庇護の下に少女たちが他を圧倒し君臨し、暴力で世界をほしいままにするシステムだ。少女たちの神聖を守るためには、社会からの同調圧力を退けねばならぬ。万が一にも誰かの手に入ってしまうような可能性があってはならぬ。現世の誰からも触れられないよう少女たちの存在をエンターテイメント化し、つまりいったん実在から実存へと引き上げることで一時化し、外的・抽象的・遠隔的消費が可能な状態を作り出すことにこそ、青少年育成特区の真の目的がある。消費され尽くすということは、関心を完全に喪失することだからね。その先に少女たちは、路傍に苔むし、打ち捨てられた道祖神の持つ、何人もその由を遡れないがゆえの不可解の聖性を獲得することができる。
じっと話を聞いていた予の少女は、そこで何かを言おうしたのか、わずかに唇をひらく。先ほどまでの虚脱の様子は消えており、予は傍らから漲る圧を感じる。しかし、五嶋啓吾はかぶせるように言葉を続けた。
――ぼくを狂っていると思うか。いや、正常と異常は時空において相対的だなんて、つまらない指摘はたくさんだ。自然とは異なった環境に置かれて壁に頭蓋を骨折させるマウスの発狂が固着したものが、人の持つ知性なのだろう。だから、カウンセリング的な、心理学的な救済に神を感じて心乱される。本当はただ発狂しているだけにすぎないのに。環境への適応が知性を作り出したのなら、皮肉にもそれは神の不在をそのまま証明しているじゃないか。いまや君たちは余人からの入力を受けつけず、外部からの刺激に殺す以外の応答を必要としなくなった。ぼくたちは一方的に君たちへ祈りを捧げ、愛と欲望を投影し、次の少女の到来を望むがために、君たちがただ消えてゆくのを傍観し、やがて完全に忘却する。君たちをこの世のものとも思われないよう神秘的に、蠱惑的にするために「殺し」を与えたが、言葉まで奪った覚えはない。君たちには、それを保持し続ける自由もあった。けど、殺人の享楽をさまよううちに、言葉を放棄したんだ。言葉は「殺さない」ためにあるものだからね。
予の少女は、つまらなさそうに前髪へ手櫛を入れる。五嶋啓吾が一瞬、ひるんだように視線をそらす。続く一声はわずかにかすれていた。
――さあ、ぼくの話はここまでだ。仁科望美のところへ向かうといい。君が人がましく話すのを聞きたくはない。もっとも、少女殺人者に何かを強制できるとは思っていない。ぼくの存在と言葉を無化する手段は、すでに与えられている。
予と予の少女への興味を失ったかのように、白衣の男は再び壁面のモニター群へと向き直った。しかし予は、肘掛からのぞく指先がかすかに震えているのを見逃さなかった。無頼と狂気を装った一世一代の大芝居は、ただ助かりたいがゆえだったのか。誰かに向ける最も冷酷な感情は失望である。はたして気がついているのか。いぶかった予が、端整な横顔をのぞきこんだ瞬間――
一閃、予の少女は白衣の男を椅子ごと切り伏せた。
新宿オフ始末書
「包茎チンポ?」
ビールの中瓶を撫でさすりながら弱々しくつぶやいて右隣をうかがうも、ファンだと名乗ったはずの婦女子2名はベネズエラの描く春画に嬌声を挙げており、すでにこちらへ心を残していません。左隣ではぼくに対しては終始不機嫌だったガンジャが「ええッ、じゃあ“くろのだんしょう”(クロノ男娼? 時をかけるBL話と推測するも、詳細は不明)の作者なんですか!」と身を乗り出し、「いや、いまは猊下のいちファンとしてここにいますから」とまんざらでもない表情のオーツキが中指で眼鏡の位置を直しながらぷくぷくと小鼻を膨らませています。顔を上げると正面には小首をかしげた子鹿が子鹿のような黒目がちの瞳でこちらを見ており、ぼくはいたたまれなくなってそっと視線を外した。これは何の集まりでしょうか。小鳥猊下を歓待するオフ会ではなかったのでしょうか。十年という歳月に過去の失敗を忘れ、浮かれたネットハイで再びオフ会などを企画した一ヶ月前の自分を殺してやりたいです。いや、――うつむいて噛んだ臍から生暖かい血がアゴを伝うのを感じながら――その前にこいつらは全員まとめて呪殺だ。
◇登場人物紹介
小鳥さん……テキストサイトというムラでは大いばり、最近ではほとんどの管理者が現世での成功を手に入れて卒業していったがゆえの長老的な位置に複雑な気分。もはや新規のファンを呼ぶ力も無く、流行りの炎上でアクセス数が回復することを夢見る過去の人物。
オーツキ……プラズマとは関係ない。目の下に黒々と隈が浮いており、能条純一の某漫画に登場した「見える見えるおまえが見える」の人を想像すると近いかも知れぬ。蛍光色の頭髪にグラサンアロハ、体表はピアスで埋めつくされている、くらいを想像していたので逆にフツウで驚いた。
ベネズエラ……南米からやってきたカポエラの達人で、日本語がひどく堪能。本邦での職業にはなぜか萌え系の春画描きを選択しており、nWoにトップ画像を寄贈するなど外見を裏切らぬ精力的な活動ぶりである。既婚者らしいので、おそらく特別帰化を申請したと推測される。
黒子……ホクロではない方で読む。ブログ形式以降のnWo運営担当であり、俺が大臣なら事務次官に相当する。オフ会でさえ、事務方に徹した。「ニコニコ動画はワシが育てた」「酔わないと話ができない人もいるから」の2つを、彼がキャラクターの片鱗をうかがわせた台詞として記録したい。
どどめ鬼……百目鬼ではない。手入れの行き届かないアゴヒゲにどどめ色の上着という、外見だけで正気を疑われる逸材。それを証拠に、ガンジャと職質談義で盛り上がっていた。つごう8時間、どこから金をもらったのかという勢いでnWoを褒めまくり、逆に俺の肛門を警戒で狭くさせた。
BL学園……男子間肛門性愛話をこよなく愛するにも関わらず、nWoのファンだという矛盾を体現する謎の婦女子その1。男子と男子が正常位を行う際、肛門と男性器の位置関係はどうなっているのかという質問を準備して個人的に胸をワクつかせていたが、二次会の途中であっさり帰った。
子鹿……思想系のブログを開設し、喧々諤々の議論を展開する人物。きっと俺のペニスをSuckせんばかりの勢いで議論をふっかけられると脅え、理論武装のため開いた思想書を顔面に乗せて睡眠しながら上京したが、その心配はたちまち霧消した。1時間しかいられないと言いつつ、結局8時間いた。
県知事……似ているわけではないが、そのアクションがなぜか俺に宮崎県知事を想起させた。十年前の東京オフ会で参加を表明したにも関わらず、当日連絡なしに欠席した前回のA級戦犯。理由を尋ねると、「友だちと遊んでて、気がついたら時間を過ぎてました」。俺の怒りは有頂天である。
マコリ……nWoをほとんど読んでいないにも関わらず参加を表明した謎の婦女子その2。指輪で人妻を偽装することで小鳥猊下との対話を性交なしで成功させるも、実は現在彼氏募集中とブログで表明しており、オフ会参加男子全員の性を著しく去勢した。俺の怒りはすでにヘヴン状態である。
ガンジャ……某新興宗教の教祖にそっくりの麻薬密売人風デイトレーダー。終始不機嫌なのはリーマンショックの影響か。毛糸の帽子がお気に入りで、オーツキの大ファン。“生きながら萌えゲーに葬られ”のエンディングに対して批判的なメールを送信した人物であり、今回のA級戦犯。
ちなみに、この並びはアイウエオ順ではない。nWoへの貢献度に基づいたもので、何の恣意も無く公明正大であることをあらかじめ付け加えておく。
ぼくは極太マッキーでnWoと大書きした画用紙を掲げながら、新宿駅の東に位置する交番の前にひとり立ち尽くしていました。日はすでに暮れはじめており、都会の寒風は身を切るようにぼくへ吹きつけます。「アルタビル前は人が多いので」とのアドバイスを受けて設定した集合場所でしたが、駅からは続々と大量の人たちが吐き出されて続けています。おそらく人口過密地帯の東京では、このくらいの数は多いうちに入らないのでしょう。誰もがぼくの薄ら笑いに一瞥をくれると、足早に、まるで競歩のような速度で左右に分かれてゆきます。お笑い番組の企画か何かとでも考えているのでしょうか。あるいは、精神薄弱と思われているのかもしれません。交番を目の前にして、相当に奇矯な行為に及んでいるのではと恐れを抱いていましたが、この程度のエキセントリシティでは淫獣都市・新宿において少しでも己の存在を際立たせることはできないようです。
集合時間のちょうど15分前に、ネット耽溺が形成した何かが顔面の多くを占拠している男たちが「猊下ですね」「猊下ですね」と双子のようなツープラトン攻撃で問いかけてきたので、すっかりうろたえたぼくは右手の小指と薬指と中指と人差し指を口の中に入れて「アワ、アワワ」といった音声で返事をしたが、意外に通じたみたいで安心した。よくよく見るとネット臭以外の共通点はそんなになかったので、落ち着きを取り戻したぼくは、宮崎県知事を思わせるほうへ「どちら様ですか」と質問したのですが、すごい早口で返事をされたので「え、何?」と言うとまたすごい早口で返事をしたので、その場では神妙にうなづいてなんかわかったふりをした。のちにこの男が前回のオフ会へ参加を表明し、表明してから懇切丁寧にブッちぎるという父殺し的行為で精神的愉悦を得た人物だと判明しますが、わかってたらその場で秀でた額にワンパンくれて「ひぎぃ」と声をあげさせていた。もう一人はnWoの管理者でドメイン名とか自腹でとってくれてるファビュラスな人材だったので、周囲には後光が差し両肩には裸の天使がとまっていた。ぼくは抱きしめてチュウしてやろうかと意気込みましたが、値踏みするかのような眼光がグラッスィーズの下で異様にするどかったのでぼくはブルッてしまい、チュウはやめることにした。いずれにせよ、15分前に到着したという事実はぼくのオフレポをきっちり読みこんできたという証拠なので、2名の偏差値は飛躍的に高まりぼくを1万とすると35くらいになった。
いきなり耳元で「土日は案外ここも人が多いな」というつぶやきが聞こえたのでぼくがハリウッド・ジャンプで飛びすさると、肩ごしに振り返った視界に白いジャケットの不健康そうな男が立っていました。それは、メールでぼくが衆人環視のうちに幾度も辱められた遠因をつくった人物のオーツキだった。そして、銀のピアスがネオンを照り返してぼくの目はするどく射られたのです。両腕を上下並行にして顔面を守るポーズで「想像と違いました」と正直なぼくが言うと、眼鏡の位置を神経に中指で直しながら「いま人生で一番ファティな時期でして」と言うオーツキの様子は健康を誇示する言葉の内容とは裏腹の有様で、サラリーマン二人組がまじまじと彼を注視しながら、「どうしたンですか…御気分でも」「いえね、先日知人が交通事故で死んだんですが、それとそっくりですわ…膚の色が。あなた知ってます!? 死んだ人間って“白い”というより、蒼く透き通ってるンですわ」と言葉を交わしつつ通り過ぎてゆくほどです。なので、雑踏で強要されたすごい廉恥をレンチの顔面殴打で難詰しようとする気持ちは急速に冷え、ぼくは後ろ手に鈍器を隠してできるだけ刺激しないよう、「そ、そうなんですか」と保身にかすれた声であいづちをうつ他に方法がありませんでした。
そこへ、公開の遅れている某福音漫画映画の監督にそっくりの風貌をした男が、ショッキングピンクのスウェットに身を包み、常軌を逸脱した者だけに許される確かな足取りでまっすぐにこちらへ向かって来るのが見えました。ぼくは「東京は怖いところじゃ」とつぶやいて視線を外しましたが、案の定その男はぼくの真ン前に立ち止まり、「小鳥猊下ですね」とすごく大きな声で言ったのです。ここはネットじゃないのに! ぼくはたぶん、殺される寸前の小動物が最期にあげる鳴き声と同じ弱々しさで「はい」と答えたのではなかったかと思います。
ほどなく、手首切っちゃいました、意図的に、といった風情の女子と、はいからさんが通った後を踏みにじった、といった風情の女子が順ぐりに現れ、ぼくにあいさつをしたりいきなり触ったりしました。周囲のネット男子たちはことさらに無関心を装い、装うことが関心を裏書きするという、当人だけが看過されていないと信じるあの状態に陥っていた。ぼくは状況へ羞恥するあまり思わず下を向いた。初対面とはいえ、きっとすぐにファン同士の会話が始まり打ち解けるだろうと期待したが、ぼくを囲んで楕円形になった人々はお互いに一言も発さず寒空の下でびっくりするほど無言だった。すごい人ごみの中でネット臭のする人材たちが車座になり、その中心が自分であるという事実に悶絶しそうになりました。ぼくは沈黙に耐えられなくなって、手首を骨まで切った方の女子に「えっと、あのピンクの上着の人、実はエヴァンゲリオンの監督ですよ」と冗談めかしてどどめ鬼を指さすと、「ええッ、本当ですか!」と意外に大きな反応が返ってきたため、ぼくはいまさら嘘だと言えなくなってしまい、「破ではアスカを殺すんですよね、監督?」とノリツッコミをうったえる視線でかぶせると、桃色の関東人が怪訝な表情で首をかしげたので、ぼくは自分の家が大金持ちだと自慢した小学生が次第にエスカレートする己の嘘に追いつめられてゆくような絶望に身をよじったのです。
そして、大きなラジカセをブレイクダンスの両足で蹴り上げながらやってきた明らかにDNAが南米の男により集りのグローバル感とサンバ感は強まり、唇を動かさないまま「ガンジャあるよガンジャあるよ」とつぶやきながらやってきた教祖風の男という加速装置を得て集りのアンダーグラウンド感とクライム感はいっそうに速まった。むしろ、ぼくがオフ会の実施を表明したことが早まっていた。
あと一人こないなー、と思っていたらこの都会の雑踏の中で、ボクとカレだけが天然色で、他の全員はみんな灰色とでもいうようにからみあう二つの視線。それがオフ会参加者最後のひとり、子鹿とボクの出会いだった。
ぼくがキリッとした表情と文体で「アングラサイトのオフ会なのだから、アングラ系の店で」とどどめ鬼に予約を依頼しておいたのに、案内されたのは極めて一般的な居酒屋だった。安普請に前後左右の音声は筒抜けであり、冒頭のような猥語を伝達するのに社会性の最高に高いぼくは小声になった。そこへ、場末の居酒屋特有の客層が織り成す低劣な雑音があいまって、ぼくの小声は最高に聞き取りにくい状態になって、ぼくは自己への嫌悪とどどめ鬼への憎悪で死にたいと殺したいが二重で同時に訪れたので目を白黒させました。
死体遺棄現場の刑事たちのようにテーブルを眺めたまま誰も座ろうとしないので、わざとらしく「どこが上座かなー」などと発話しますも、ネット臭ふんぷんたるチェリーボーイどもは薄ら笑顔を崩さないまま、誰もぼくに席を勧めようとはしません。すると突然ベネズエラが流暢な日本語で「シャチョサンノセキハマンナカネ」と発話したので、ぼくは非常に驚きながらも「ソ、ソリー、アイシットダウン(表記:”So sorry, I shit down.” 和訳:「とてもすいません、私はうんこをします」)」と流暢な英語で発話して真ん中に座りました。するとマコリがぼくからいっこ空けて座り、すかさずガンジャが太いのをぼくとマコリの間にねじこもうとして、そんな太いの入らないと拒否られ、ぼくの反対の隣に不機嫌に座りました。現実では気を遣う性質のぼくが傷心のガンジャをなぐさめる意味でそのたくましい膝を撫でさすりながら「見てくれ。nWoをどう思う?」と尋ねたら、まるで街頭で宗教的なアンケートを求められた人のような、一種異様な素っ気なさで「いや、面白かったですよ」と過去形で返答したので、本当のことを指摘されると人は怒るの法則でぼくのブレイブハートは怒髪天を突いた。表向きは「ハハッ、ワロス」などと巨大掲示板から仕入れた今風ヤングの発話で平静を装い続けたが、ぼくのブロークンハートは血と涙にてらてらと濡れていました。
いつのまにかぼくとマコリの間に細いのをねじこんだBL学園が、熱くたぎった密壺から良く煮えた貝を箸でつまんで「これ見て下さい」と言うので、相手の望むボケを裏切らない関西人のぼくは「イット、ルックスライク、膣」と流暢な英語で発話すると「共食いですね」と得意げに、金髪のわりには流暢な日本語で発話しました。そんな三次元世界から垂れ流される濃密な廃液、いわゆる萌えの原液にチェリーボーイどもで形成された戦線は乱れかけた。しかし、どどめ鬼だけが「きたない、さすが三次元の女きたない」と言わんばかりの心底不快そうな表情ひとつで戦線を維持してのけたので、ぼくは、こいつは本物だぜ、個人的に近寄りたくはないがな、と内心思った。
ビールでのまばらな乾杯と散発的な発話があったのみで、気まずいまま宴は進行していった。最初に気つけで空にしたマイグラスの底はすでに渇き始めていたが、誰も積極的にそれを満たそうとはしませんでした。隣の婦女子たちはもはやケータイ遊びに夢中ですし、対面の子鹿は子鹿のように黒目がちな瞳で小首をかしげ、ただぼくを見つめるばかりです。個人主義の押し詰まった魔都・東京では、手酌が基本なのでしょうか。ぼくを歓待するオフ会のはずなのに! ぼくは一縷の望みをかけて、弱々しい声で「秒速5センチメートルでー」と発話しながらビール瓶へ極めてゆっくりと手を伸ばしたのですが、誰も気づいた様子はありません。絶望的な気持ちになりながら必死に声を張りあげて、「秒速5センチメートルでー」と再び発話しますと、どどめ鬼が「ああ、あれ最悪ですよね」と非常な早口でかぶせて来、己の意図が正確に伝わらない絶望へ拍車をかけたのです。たまらなくなってうつむいたぼくは、眼球からの体液でしっとり濡れた卓へ影が差すのを見ました。顔を上げると、ベネズエラが「シャチョサン、イッパイイクネ」と浅黒い肌へのコントラストのせいか、ひどく輝いて見える真白な歯を誇示しながら、いささか乱暴なやり方ながらマイグラスへビール瓶を傾けました。なんという如才の無いガイジン、あるいは婿養子でしょう。しかし他人を見下さずにはいられないぼくの高貴な性向はその酌を受けながら、ラベルを下に向けて片手でつぐような礼儀の無さは、ぼくの最高に高まった社会性とつりあわないなと考えさせた。
県知事が時折、てんかん発作を疑わせる激しい仕草で笑いながら倒れこみ、周囲へ多大な迷惑となっており、BL学園とマコリの向ける視線は明らかな生理的嫌悪と侮蔑に満ちていた。県知事の笑い声は黒ベタ白ヌキで「ギャヒーッ!!」であり、熱湯風呂から飛び出して床を転げまわっていた頃の宮崎県知事を想起し微苦笑を浮かべていると、県知事は黒い何かに覆われた太くて固いものをぼくにしきりと押しつけて、「この処女雪のような純白を汚すんだ、お前自身の手でな」と強要しました。ぼくがごめんね、ごめんね、と言いながら純白の表皮をわずかに汚すと、特殊性癖の県知事の興奮は最高潮に高まり、一度汚れればあとはいくら汚れても同じと言わんばかりにみんないっせいにそれを汚しにかかったので、ぼくは素面でいることが辛くなって店員に赤ワインを注文すると、黒子と子鹿が無言のまま「わかります、ルネッサンスですね」という表情を見せたので、ぼくの表情はたぶん曇りました。
そして、冒頭のやりとりに話は戻るのだった。加えて、ベネズエラがエルフと関わりがあった旨をさらに発話し、数名がどよめいて、わずかに漂っていたぼくへの関心の残滓は永久に虚空へと失われました。くやしいけど“かたあしだちょうのエルフ”は、ぼくも傑作だと認めています。三十年以上も前に亡くなった小野木学先生と面識があるなんて、嫉妬を通り越してむしろ羨望をしか感じません。詳しいことを聞きたかったのですが、瞬発力に欠けるぼくがおろおろしているうちに、ぼくの知らない小野木作品であるドウキウセイツウ(童貞精通? 同衾生活? 表記は不明)に話題が移動してしまっていたので、ぼくはただお得意の薄ら笑いを浮かべることしかできなかった。ぼくの大切なレゾンデートルはこの時点で死亡した。
しかし、まだだ、まだ終わらんよ。このままでは何のためにオフ会を招集したのかわからない。そう考えたぼくは、極限まで追いつめられた上京もとい状況で、なお尽きせぬ己のパロディ気質に励まされながら、万勇を鼓して参加者全員に問いかけたのです。それはびっくりするほど甲高い、この陰鬱な集まりでぼくが発した数々のうめきの中からようやく意味のある大きな声となって、みなさん、ぼくの更新の中で印象に残ったフレーズを教えていただけませんか、と響きました。それぞれの会話に没頭中だった人々はびっくりしたようにぼくを見、これがぼくを囲むオフ会であることをいまようやく思い出したふうな表情をした。
「あー、パーやんのエンディングの、『いつか愛が誕生するだろうか?』かな」
それ、ぼくじゃなくてトーマス・マンです。あとタイトルが間違ってます。パアマンです。
「祈りの海の最後の一節です。『それでは生きるのがあまりに辛くありませんか』」
グレッグ・イーガンです。それはグレッグ・イーガンが書きました。
「『君は激しく勃起したな』」
……大江健三郎からの引用ですね。
「うーん、じつはあんまり読んでません」
なんでここにいるんだ、オマエは。男あさりか。
全員がうんざりした、もういいですか、という表情をしたので、ぼくはうつむくことで、もういいです、という気持ちを表現しました。うなだれたぼくの後頭部の真上でオーツキとベネズエラが名刺交換を始め、この集まりに意味づけをしようと必死だったぼくの方寸にどよもす騒擾は、ようやくにして止むを知ったのです。ああ、今回のオフ会はエロ業界に生息するこの二人を出会わせた触媒としてのみ、後の世に記憶されるのだな、と。残念、ジョショ(徐庶)の奇妙な冒険はここで終わってしまった!
すっかり意気投合したみなさんが大盛りあがりで二次会へと移動していく後ろを、ぼくはとぼとぼとついてゆきます。二次会が提案されたのは、関西人的痩せ我慢のええかっこしいで、誰かが止めてくれると半ば期待しながら「ここはぼくが払います」と発話するとそれまでぼくの発話すべてを聞き流していた人々がいっせいに会話を中断して、「なに当たり前のこと言っちゃってんの?」という爬虫類のような視線をぼくへ向けたからです。もはやこれは「おい、猊下、ジュース買ってこいよ」の世界であり、求められたのは小銭と紙幣でみっしり充填されたぼくの蜜袋であることが痛感され、繁華街のネオンは水中から見るように滲んだのでした。
ネット臭ふんぷんたる陰鬱な会合へ、終電のある時間帯に見切りをつけた婦女子2名が「じゃ、これからもがんばってね」「感想送るから」と心にもないお義理の発話をしながら退出すると、ほどなくベネズエラがそわそわし始め、「ソロソロカエラナクチャ。オクサンコワイネ。リコンサレタラ、ニホンイラレナクナッチャウ」と告げるが早いか上着をひっつかんで駆け出していきました。察しの良さだけで世渡りをしてきたぼくは、南米の血が持つ奔放な性への志向をうらやむと同時に、こんなアングラサイトのオフ会に参加を表明しておきながら、一瞬でも無事な貞操と共に帰宅できることを夢想した婦女子2名の愚かさが粉々に砕かれることへ、心中、喝采を送ったのです。ぼくはサイトの更新が示すようにエロゲー愛好なので、自分ではない剛直に秘貝が原形を失うことに何より興奮を覚える性質なので、沸騰した欲望にぼくの目は赤まった。なに、泣いてるの、とでも問いたげに子鹿が首をかしげてぼくを見ましたが、そんな猥劣な内心を悟らせることで子鹿の純情を汚すのははばかられたので、ぼくは長い睫毛をふかぶかと伏せた。
そして、この陰鬱な宴も――もしそんな瞬間があったならばのことですが――たけなわを過ぎ、気がつけばぼくは一人で狂躁的にしゃべり続けていた。どどめ鬼がレンタルビデオ店(おそらくAVコーナー)で数名の警官に取り囲まれたときにそうだっただろうギラギラする眼差しでこちらを見ており、黒子が「この人物は果たして忠誠に足るや足らざるや」といった値踏みするグリコ犯の眼差しでこちらを見ており、子鹿が小首をかしげ何を考えているかわからぬ子鹿のような濡れた眼差しでこちらを見ており、秀でた額を脂で輝かせながら県知事がぼくの許可を得ないままぼくの動画撮影をはじめており、徹夜明けで月曜に締め切りが2本あると言っていたオーツキは腕組みしたままの半眼で涅槃に魂を浮遊させており、ガンジャは先ほどオーツキの隣で活き活きと話をしていたときの様子とはうってかわった倦怠ぶりで机につっぷしたまま動かなかったからです。話せども話せども場の空気は冷えてゆくばかりで、ぼくを歓待する会だったはずなのにぼくをエンターテインさせようとする人物はもはや一人もいませんでした。無理もありません。ここで行われているのは、対等の知性がする軽妙な会話のキャッチボールではなく、舞台の芸人が面白ければ笑い、面白くなければ席を蹴る、あの場末の演芸場のやりとりだったからです。それを証拠に、わずかの沈黙を縫うようにして、つっぷしていたガンジャが無言で上着を着始めたことが散会の合図となりました。小便というよりは涙を排泄するためのトイレを済ませて店を出ると、もはやそこには誰もいませんでした。地方在住の人間が深夜の歌舞伎町に取り残される気持ちがいかなるものか、説明してもきっとおわかりいただけないでしょう。恐怖と憤りがぼくを疾駆(sick)させました。すでに排泄を済ませたはずの涙袋から、再び止めようもなく涙が盛り上がり、そしてスローモーションで風に運ばれてゆきます。
来るんじゃなかった、東京。やるんじゃなかった、オフ会。
誰かがアテンドしてくれることを期待していた東京観光(興味が無いふうで連れ込まれる秋葉原のメイド喫茶、といった甘い夢想!)はもはや煙と消え、ぼくは始発の新幹線で頬袋をシュウマイに充填させつつ帰阪するのでした。
諸君、ガンジャは2回、残りの連中は全員1回ずつ呪殺である旨をここに宣言する。
痴人への愛(2)
「いいお湯だったねえ、おまえさんっ」
底抜けに無邪気な声音に、ふとつられてふりかえった。
「あんまりはしゃぐとあぶないよ」
洗面器を小脇にかかえた女の子が、楽しそうにくるくると回る。苦笑しながらかたわらでいさめているのは、兄だろうか。両目が隠れるほどに前髪をおろしている。上着を脱ぐと、さりげない仕草で女の子の両肩へと乗せた。たちまち不満そうに口をとがらせるのが可笑しい。
「もう、保護者きどりなのね! そんなカッコじゃ、寒いでしょ」
タンクトップから健康な二の腕がのぞいていた。春が近づいたとはいえ、夜の大気はまだ冷たい。
「このくらいなら、へいちゃらさ。大陸はもっと寒かったからね。それより、――に風邪をひかせて、あとでお父さんにしめあげられるほうがこわいよ」
めずらしい名前だったが、一回では聞きとれなかった。とたん、ころころと鈴のような笑い声がひびく。
もし、きょうだいでないとすれば、輝くばかりの桃色に染まった頬は、湯ばかりが理由ではあるまい。なつかしい、痛いような気持ちが喉元へこみあげた。なんとなく立ちつくしたまま、この幸せなやりとりをながめる。
ふたりの後ろ姿が曲がり角に消えると、コーデリアは寒さを思い出したかのように襟元を寄せた。小鳥尻とのあいだにも、たしかに蜜月はあったのだと思う。また、あんなよろこびはやってくるのだろうか。
問いかけるように顔を上げた先に、答えが見えた。カーブミラーに映るゆがんだ鏡像は、すでに百年もうみ疲れているようだった。
そして、先ほどの女の子はもしかすると、じぶんとそれほど変わらぬ年齢かもしれないと思いいたり、コーデリアは身内に真冬のような底冷えを感じたのである。
小鳥尻が一週間ぶりにもどるというその日、コーデリアは近所の銭湯へ出かけた。もともとあまり汗をかかない体質に質素な食生活があいまって、風呂の無いアパートでの暮らしは苦にならなかった。ときどき、小鳥尻が酒を割るさいあまらせた湯で身体をふいた。
切りつめた生活のなか、正直かたちに残らない三百円の出費は痛い。しかし、久しぶりに帰宅する恋人に、最良の姿を見せたいという想いがまさった。つまるところ、失望されたくない、捨てられたくないという共依存が、ふたりの関係へ力学として作用しているのだが、幸いにもというべきか不幸にもというべきか、コーデリアはそれを言葉にできるほど賢明ではなかった。
オレンジ色に射す西日の中で味噌を溶くと、鍋からふわりと暖かさが広がる。この、幸福に満たないぬくもりをコーデリアは愛した。むくわれて然るべきと感じられるこのささやかさが、願いのはかなさによくみあうからだろう。
卓上の夕食はいつもより一品、菜が多かった。小鳥尻の帰宅は、すべてが冷えてからだった。案の定、ひどく酔っていて、そして舞台にいるときのように上機嫌だった。
「ごめんね、昔のファンが集まって、宴会になっちゃってさ……でもすごいのよ、もう大盛りあがりで、私ひさしぶりにすごく楽しくって」
玄関でひさしくなかったような熱い口づけをすると、コーデリアに菓子袋を押しつけた。
「ファンのひとりにもらったの、すごく上等なお店のケーキなんだって」
袋には、大量生産で有名なチェーン店のロゴが刻印されていた。だまされているのか、だまそうとしているのか、コーデリアにはわからなかった。気が高ぶらぬよう、声がかすれぬよう、ゆっくりと唾を飲みこんでから、言った。
「お水くんだげるから、座ってて」
蛇口をひねると、白く濁った水道水がプラスチックのコップへ満たされてゆく。この上機嫌は良くない兆候だ。こころはまるで振り子のように、上がったぶんだけかならず下がる。なぜみんな、そっと静止させておいてくれないのだろう。
「もうすごいのよ……みんなずうっと私のことをほめてくれてね、アンタはすごい芸人だって、大好きだって、愛してるって……だから、うれしくなってね……みんな私のオゴリにしちゃった……」
語尾をひそめてうかがい見るのは、やはりすこしは後ろめたいからか。おそらく酒が言わせたのだろう、ファンと名乗る人物たちの無責任な発言を、コーデリアは呪いたいような気持ちになった。ふだんは臆病で人嫌いの小鳥尻なのに、どういうわけか己を肯定してくれる言葉だけはびっくりするほど素直に信じこんでしまう。
わずかばかりを節約したところで、破滅への秒読みはいつも大幅に繰り上げられる。コーデリアはじっさい視界が狭まるような錯角を感じ、わずかに首をふった。やさしくて純粋なこの人は、左右からふたりを圧しつぶそうと迫る絶望の壁へさしわたすつっかい棒が、この世に金銭しかないということがわからないのだ。いっしょにいられるなら死んでもいいと思ってついてたきたはずなのに、いざそれが現実的な結末として近づいてくると、なぜこんなにも悲しくてつらくて、胸が痛むのだろう。
後れ毛をはねのけるふりで、そっと目尻をぬぐう。笑顔を作ってふりかえったところで足に力が入らなくなり、コップを抱えたまま膝からその場にへたりこんだ。
「怒ったの? ねえ、怒ってるの?」
小鳥尻は台所の板敷きに正座する形のコーデリアへいざり寄ると、膝に顔を埋めて腰へ手をまわした。コーデリアは思う――この人がじぶんからやってくるのは、だれかにゆるしてほしいときだけだ。
「でも、聞いて! 集まりに局の人がいてね、十年も同じ芸でもつのがすごいって言ってくれて……で、私の芸はあんまりすごいから、いっしょに仕事してみたいって。だからきっと、またテレビに出られるわ……そうしたら、こんなアパートひきはらって、ふつうの人みたいに……」
小鳥尻の声はそこで小さくなっていった。
「ねえ」
――落ちる。
コーデリアには次の言葉がもうわかっていた。こぼさぬようコップをかたわらへ置くと、広い背中をさすってやる。
「死のっか」
魅惑的な負の演技に引きこまれぬよう注意しながら、じゅうぶんな間をとって、言った。
「テレビ、出るんでしょ」
「出れるわけないじゃない」
驚いたことに、小鳥尻は即答する。妙にきっぱりとした口調だった。
しかし、続く言葉は夢見るようにかすんだ。
「私ね、舞台に上がる前は奇跡が起きるような気がするの。もし、この舞台をうまくやり終えたら、みんなが私に拍手をして、そうして次の日からは誰からも愛されるように、誰からも必要とされる私になれるんじゃないかって思うの」
「うん、うん」
小鳥尻の求める愛は、無条件の愛だ。赤子が母親に求めるような、本人にとっては生命の存続にかかわる重大な愛だ。けれど、この世のだれがその重さを引き受けてくれるというのか。
「でもね、私わかってるの。それは祈りみたいなものなの。いつもかならず、裏切られるの」
コーデリアは黙って背中をさすり続けた。
「昔ね、みんなが私を見て笑ってるときにね、いま心臓マヒとかで死ねたらなって、よく思った。だれか、私の芸でみんながいちばん盛りあがってるときに、撃ち殺してくれないかな。みんなが私だけを見て笑ってるときに、うしろからぱぁんって」
まばたきすればこぼれそうで、コーデリアはただやさしく目を細めた。
「じゃ、こんどテレビ出たとき、殺してあげる」
「うん、殺して。きっと殺してね」
曖昧な、子どものような口調でそうつぶやくと、小鳥尻はそのまま眠りに落ちた。
月光が照らすその横顔は、死人のように青白かった。きっと、小鳥尻という存在はとうの昔に死んでしまっているのだ。人工呼吸器につながれた脳死患者のように、むなしい希望を永らえさせているだけなのだ。
だが、またひとつの危うい瞬間を乗りこえ、小鳥尻の生命を明日へとつないだことに、コーデリアはある種の満足を覚えているじぶんに気づいた。そしてそれは、ひとつの決意へと昇華する。
この人の、最期の瞬間を看取る。できるだけ長く、小鳥尻を生かしてやろう。
そう、まるでひとつの季節をしか生きない昆虫が、虫かごという牢獄で越冬するように。
少女保護特区(9)
私のために殺すとき、心は痛まない。誰かのために殺すとき、心は痛む。
黒く巨大な影がゆっくりと顔をあげた。誰かの――もしかすると自分の――悲鳴を聞いたように思ったからだ。それは、震える音叉の右と左が否応に伝えるような、剥き出しの、痛覚さえ伴う共鳴だった。
近づいている。私の魂と同じ色をした魂が近づいている。あれは、私が喪失してしまった片翼だろうか。
いや――
あの色合いは似非だ。あれは煤の集積した黒に過ぎぬ。拭えばたちまち黄疸のような、濁った地金を晒すに違いない。一人や二人多く殺したところで何も変わらぬ。家族の血でさえ、私にとって特別ではなかったのだから。
そこまで考えて、心臓と胃壁を細く刺し貫くような違和感に気づく。久しぶりの感覚だった。仁科望美はその正体を知っている。それは、孤独である。悲しみも痛みも超越し、恐怖を己がうつし身とした。しかし、最後に残るのは、やはり孤独なのか。
孤独は心を惑わせる。どんな強靭な精神も孤独に迷う。だが、孤独が他者へと向かう感情ならば、己よりも劣った相手へは生じぬはずだ。人間すべてを殺害できるのならば、行き先を失った孤独は、きっと霧消するに違いない。
最初の少女が殺し続けることに何か理由があるとするならば、まさにこの歪な哲学こそがそれであっただろう。
近づいている、近づいている。
知恵と本能が渾然となった仁科望美の意識は、愉悦をもって目蓋の無い瞳をぐるりと回転させた。
あれを殺害せよ、必ず殺害せよ。あれが私よりも劣っていることを証明しながら、入念に殺害するのだ。
ものを作ることはものを壊すことと同じである。無限のような繰り返しのうち、最初に生じた意味を消滅させることで、それは完成する。ものを作ることの終着にあるのは、完全な無化だ。
――これ以上は無理です!
叫び声が、予を思索から現実へと引き戻した。
ローター音の下で、操縦士の声はほとんど悲鳴である。無理からぬことか。ランキング二位の少女殺人者を一位の元へ同道する仕事なのだ。孕みきれず結露した死が眼前へ滴り落ち、複数の死を一時に求めえぬ人の身は、汚辱を伴った残虐さが支払いの代わりになることを否応に予期するのだろう。
――もう少し近づいてください。姿の見えるところまで。
精気の無い声。振り返れば、予の少女が日本刀を膝へ横抱きにして座っていた。視線はまっすぐ前を見つめているが、その実どこにも焦点がない。
しかし、操縦士に湧き上がった感情は、予とは異なるものであったらしい。とたんに背筋を張り、操縦桿を握る指の関節は白くなった。
ヘリは、次第に密度を濃くするようにさえ思える大気を裂いて、大和川上空を通過する。一年前の予は、少女殺人者とこれに乗る未来を予想していただろうか。青少年育成特区における観察対象、すなわち少女殺人者の動向を探るために導入された対少女哨戒機である。特区の成立に際して国から格安で払い下げられたが、メンテナンスにかかる費用は地方自治体の収入でまかなわれており、いまや相当度に老朽化していた。
仁科望美を殺し、青少年育成特区を終わらせる。予と予の少女が得た結論には、一種の高揚感があった。だが、その感情的な側面は一人の少女にとっての最善を曇らせてはしまわなかったか。そして、予は本当にこれを望んでいるのか。
成体までの被支配の歳月が、自立というよりは支配を求める人間の基本的な性向を決定する。最良の支配者、究極の王政が常に民主政を上回るように思えるのは、初源の不可避的な無力状態に起因している。人類がイデオロギーの呪縛より逃れるためには、まず何より幼年期の時間を消滅させる必要があるのだが、生物学的な事実がそれを妨げる。ゆえに、社会は個人に先行できない。個人の世界観は幼少期の感情生活によって致命的に影響され、それは成長して以後の価値判断を予め決定してしまうからである。卵と鶏の議論よりも明白な結論だ。この意味で予は運命論者にならざるを得ない。
しかし、これは人の歴史が抱え続けてきた大前提を確認するに過ぎず、改めて指摘すべき内容とも思われぬ。近代の抱える新しい問題とは、かつてなら養育する者とされる者の間へ侵入して運命をゆらがせた外的な要因が薄まり拡散してしまったことにある。幸福は家族に矮小化され、不幸は世界へと巨大化する。
家族へ背をむけ、世界を破壊する。仁科望美の殺害は象徴なのだ。これは、時代に向けてする予の復讐である。
たどりついた結論を打ち消すために、予はかぶりを振って窓の外を眺める。眼下の大和川に、以前仮居していた橋桁が見えた。河原では、やはり何者かが炊事の煙を上げている。あれは自分か、自分はあれか。視界が倍率を上げるような没入の感じがあり、続いて自己が二重になる錯覚が生じた。茫洋とした、特徴に乏しい人影が立ち上がり、こちらへ手をかざす。この距離で視線が交錯するはずはない。しかし一瞬、痛ましい輝きを宿す瞳を覗き込んだ気がした。
現実を直接手触りするときのざらついた感じに嫌悪感を覚え、予はそれを避けるように予の子飼いを眼前へと掲げた。思えばビデオカメラとは、意識の不滅へ捧げる信仰に近い。対象が消滅した後も、己の意識は存続しているという確信がなければ、撮影を行う意味がない。現在という熱を過去へ冷却し、対象の実際を越えることを願う。すなわち、撮ることの本質とは対象の消滅を祈願することである。
予はそれの消滅を強く願いながら、録画ボタンを押す。RECの赤い文字が点滅すると、炊事の煙だけを残して橋桁はすぐに無人となった。
付近の山林より、それは出現する。予の認識は最初、縮尺が狂っているのだと判断した。前傾した姿勢で、すでに電線へ届くほどの大きさである。しかし、両手が膝頭の付近にまで垂れていることをのぞけば、滑らかな曲線で構成された肢体は、未成熟の少女そのものであった。最初にして最強の少女殺人者、青少年育成特区の生まれいづる処――仁科望美である。
ヘリの接近に気づいたのか、ふいにこちらへと顔を向けた。柔らかな卵型の輪郭の内側で、目蓋と唇だけが無い。予にとってこれは二度目の邂逅になるが、前回は宵闇のうちであった。すべての魔術を解く真昼の陽光の下で、なお仁科望美の異様さは少しも減じるところがない。
突然、操縦士が許可を得ぬまま、ヘリの高度を下げ始めた。真っ赤になった両目と青ざめた頬が絶望のコントラストを成す。もはや背後からの圧力よりも、眼前の怪物から来るほとんど有形の恐怖に屈したのである。予は予の不快を伝えようと操縦士へと向き直った。
――だいじょうぶです。もう、いけますから。
だが、予の少女は静かに予を制止する。不快の正体は、操縦士の動物的な本能が予の少女よりも仁科望美の力を大きく見積もったところにある。予は不承不承うなづくと、足元の荷を接近する道路へと投げ下ろす。続いて、予と予の少女は、ホバリングに空中静止する哨戒機から共に飛び降りた。転倒する予を尻目に、予の少女は重さのない羽毛のように着地する。瞬間、足元が黒い影に覆われた。
人の姿をした、人ではない何かが、上空より急速に予の視界へと迫る。目蓋の無い錆び色の瞳。甲殻類にも似た、生命からの共感を拒絶する濡れた質感。削げ落ちた唇は、赤黒い乱杭歯を隠さない。脳頂から差し込まれた恐怖が、すぐに諦念となって全身を呪縛する。狩られる者が狩る者に対して身を開くときの、あの麻痺だった。
しかし、予の少女もまた、狩る者である。左手で荷をすくいあげながら、その勢いのまま予の腹へと右肩を差し入れ、跳躍する。巨大な少女は飛び立ちつつあった哨戒機を荒々しい陵辱のように両脚で挟み込むと、地面へと叩き伏せた。落下の衝撃と単純な質量へ耐えかねたフレームは、玩具のようにひしゃげる。
一秒を引きのばす長い静止と、爆発。遅れてやってきた爆風が予の少女の陣幕をはためかせ、背後に吹き上がる炎は小柄なほっそりとしたシルエットを際立たせる。その表情はすでに、これから起こる殺害を疑わない少女殺人者の冷徹を湛えていた。予の少女は、何をすべきか迷わない。足元の荷を素早くほどくと、幾振りかの日本刀を取り出す。予の政治力が日本刀町に現存する業物のうちから最良の七本を蒐集したのだ。これらは、仁科望美を殺害するために準備された凶器である。
予の少女は鞘を払うと、七本の刀を順に道路へと突き立ててゆく。少しも力を込めていないようなのに、抜き身はまるで熱したナイフのバタを裂くが如く、やすやすとアスファルトへ突き刺さる。やがて、予の少女の背を取り巻くように、刃の青白い半円が形成された。
黒煙の中から現れた最強の少女が、天を仰いで咆哮する。火傷ひとつ無い。炎では、その肉を焼くのに冷たすぎたのだ。赤子の泣き声を逆回転でスロー再生したような、重く低い叫びが大気を震わせる。叫び声は音波となり、音波は物理的な衝撃波と転じて、左右に立ち並ぶ民家の窓ガラスを粉砕しながらこちらへと迫る。
しかし、抜き身を片手にした予の少女は微動だにせぬ。まさか受け止めるつもりか。いや、背後に予が控えているせいで、回避できないのだ。正眼へ構えた日本刀が、衝撃波を左右に分かつ。予と予の少女が立脚するのは、さながら氾濫した激流の最中に残る中州だ。
澄んだ音を立てて鋼鉄の刃が折れると同時に、激流は途絶える。四足に身を屈めた仁科望美が、長い前腕を地面に叩きつけて移動を開始したのだ。その速度は、見かけからは想像できぬほどに速い。
予の少女が予を見、予はこめられた意図を感じとる。この戦いに、予は足手まといだ。だが、南北の街路へ東西に壁の如く差し渡す巨大な少女を前に、避ける場所などあるはずがない。予の思考は停止する。しかし、予の少女は判断を迷わなかった。新たな抜き身を口にくわえ、さらなる二本を左右へつかむと、東の民家へと駆け出す。目蓋の無い眼球が予の少女を追う。それは、フェイクだった。
次瞬、ブロック塀を蹴って間逆へと跳躍した予の少女は、仁科望美に生じた死角へと身を投じた。二本の刀を交叉させると、右の手のひらをアスファルトへ縫いつける。突然に支点を得て、おそろしく巨大な臀部が回転しながら滑り、いくつかの家屋をなぎ払うように粉砕する。
そこへ砂煙を裂いて、茶色に塗装された消防車が猛然と飛び出してくる。瞬間、予の身体は浮き上がった。軽い衝撃を感じた後、予はランブラーの屋根に横たわる己を発見したのである。傍らでは、死体処理用の手鉤をかつぎ、やくざに紫煙をくゆらすツナギ姿の妙齢女性が予を見下ろしている。
――やあ、アンタだったのかい。死体を釣り上げたかと思ったよ、あたしゃ。
予が予の少女の観察員となって間もない頃、予の少女によって行われたいくつかの少女殺人に立ち会った清掃局の職員である。一年以上を経てなお、予を予と認識できたのは、よほど予の発する何かが特別であるのに違いない。
――まさか、二人とも生きてるとは思わなかった。まったく、あれから何人殺したのやら。
家屋の残骸から、巨大な少女が立ち上がりつつある。左手から滴った血が下水へと流れこんでゆくのが見えた。殺せる。この生き物は、人類が殺せるのだ。
仁科望美がうろうろと周囲を見回す。敵を見失ったのだろう。その背後に、抜き身を片手に電柱の上へ直立する予の少女がいる。半円を描くようにゆっくりと刀を正眼へと戻す。終わりだ。
――けどね、今回ばかりは相手が悪すぎるよ。
吸い口を噛み潰しながら、清掃局員は厳しく目を細める。何を言っているのだ。いま、勝利は正に達成されつつあるではないか。
音もなく宙に身を躍らせる予の少女。呼応するように、仁科望美が振り返った。唇の無い口腔が歪む。笑っている。知っていたのか。回避行動の取れない空中へ、狡猾な演技で標的を誘い出したのだ。
頬が膨らみ、右腕が鞭のようにしなる。群がる蝿に牛の尻尾がするような、無造作な一撃。しかしそれは、蝿にとって致命的である。
予の少女はたちまちアスファルトへと激突し、大きく跳ねた。そして、動かなくなる。予は、接触の瞬間に予の少女が身を屈めるのを見た。衝撃は吸収されたはずである。ただ、信じるのだ。殺戮の日々が積み上げた予の少女の強さを信じるのだ。
――あー、こりゃ死んだかもね。
霊柩車にもたれかかりながら紫煙をくゆらせていた清掃局員は、煙を吐き出すのと同じような無感動でつぶやく。言葉に状況を確定させまいと息を潜めていた予にとって、その発言の無神経さは容認しがたかった。予は清掃局員をにらみつける。こめかみに白い切片を貼り付けた妙齢の女性は軽く首をかしげ、目を細めた。
――出歯亀ぐらいに観察員なんて名前をつけて、全く連中どもはいけすかないが、その目を見る限り、もしかするとあんたは少し違うのかもしれないね。増岡ってんだ。紀の川水系を担当してる。あと数分ばかりのつきあいだろうが、よろしく頼むよ。
皺がれた片手が差し出された。予は無言のままとりあわず、予の少女へ向けて再びビデオカメラを構える。予の少女は地面に倒れ伏したまま、微動だにしない。
――嫌われたね、こりゃ。まあ、お互いにするべき仕事をするだけさ。
増岡は、わざとらしくため息をつく。その間にも、仁科望美は腰を屈めるようにして、予の少女へと近づいてゆく。偽死を警戒しているのか。小柄な両肩はもはや上下しておらず、折れた刀をつかんだ右手は力なく垂れている。ノイズのような眩暈。撮影することは、対象の消滅を願うことである。ならばいったい、この行為が何を引き起こすことを望んでいるのだろう。
ゆっくりと振り上げられた右足の影は、予の少女をすっぽり覆ってしまうほどに巨大だった。それが小さな身体を圧し潰さんとする正にその瞬間、予の少女は劇的に横回転して危地を脱する。そして、アスファルトを鞘にした抜刀術で、抜きざま右足へと斬りつける。しかし、狙いが充分ではなかった。分厚い爪に阻まれ、わずかばかり肉へ切り込んだところで刃はふたつに折れる。
予の少女は新たに刀を引き抜くと、大きく後ろへと跳びすさった。仁科望美に訪れた変化が、次なる攻撃を躊躇わせたのだ。
――二度も傷つけられた。あの化け物の自己愛にゃ、充分すぎる打撃だろうね。
つぶやいた増岡の横顔には、軽口の様子からは遠い深刻さが浮かんでいる。
――あの身体に肺呼吸じゃ、実際、動くのもままならんわね。ここからがアンタたちにとっての本番ってわけさ。
それは、極めて生理的嫌悪に満ちた変化だった。肩口から背中の上面が波打ち、隆起する。少女が、少女の持つ柔らかさと滑らかさをそのままに、正体不明の皮膚病に侵されていくのを早回しにするような眺めである。
――さしずめ、エンジンを積み替えてるってところか。
やがて仁科望美の上半身へフジツボ状の突起がびっしりと並んだ。外観とは似合わぬ柔軟さで、それらは収縮を繰り返している。肥大した上半身は細身の下半身と異様なバランスを成し、突起に押される形で首は地面と水平に曲がっている。これが、殺し続けてた者の本性なのか。それはもはや、人の戯画へと堕していた。
かつて少女殺人者だったものの成れの果て――人類に仇為す巨獣である。
その背中に、小型の竜巻のような気流が発生する。肩越しの景色が陽炎の如くゆらいだかと思うと、突起からゆらゆらと褐色の気体が立ち上り始める。清浄な吸気は、糜爛した呼気へ。緩と急、二つの動作をあわせて、それは呼吸しているのだ。予は息苦しさが増した気がして、思わず喉元へ手をやった。
巨獣は突如、予の少女へと風を巻いて襲いかかる。小動物の敏捷性を備えた鯨を思わせる、ほとんど物理法則を無視するような動きだ。長い前腕を鞭の如くしならせる一撃が発する轟音は、それがもはや音の壁を越える速度へと達したことを知らせる。触れれば、この世のあらゆる形象は崩壊するだろう。
だが、単純に速度を比べあうならば、予の少女が遅れをとるはずはない。巨獣の攻撃は、次々と紙一重にかわされる。同時に、予の少女を包む陣幕は次第に切り裂かれてゆく。
大きく蜻蛉を切って距離を取ると、予の少女は引き剥ぐように陣幕を脱ぎ去った。その下には、極めて精緻に肌へと密着した体操着がある。予の政治力が日本刀町以外の場所で特注させた逸品である。達人同士の戦いでは、いかに肌へ近い位置で攻撃を見切るかが決め手となる。繰り出される攻撃にこそ、最大の隙が存在するからだ。陣幕を脱ぎ去る暇もあればこそ、追いすがる巨獣の追撃は予の少女へと突き刺さった。しかし、それは残像である。予の少女はすでに前腕の内側にいた。巨獣の肩にある突起物のひとつが逆袈裟に切り裂かれ、赤黒い粘液が噴出した。仁科望美と同じく、予の少女もまたエンジンを積み替えたのである。
ふたりの攻防は、影を追うのも困難な高速の戦いへと変貌した。巨獣の攻撃は、もはや予の少女をつかまえることができない。だが、攻撃が引き戻される隙をついた予の少女の反撃も皮一枚を裂くのがやっとである。傍目には激しい攻防にうつるが、その実は互いに決め手を欠いた、極めて静的な消耗戦なのだ。
そして、永遠に続くと思われた均衡は、思いもかけぬところから崩れた。巨獣のひと振りに破砕された電柱が、瓦礫ごとランブラーへと飛来したのである。電柱は無人の運転席を貫いたのみだったが、予の少女はなぜか動揺を見せる。視線がこちらへと逸れる瞬間を、仁科望美は見逃さなかった。
嘲笑、そして一撃。
咄嗟の防御に差し入れた刀の峰はやすやすと破壊される。予の少女は地面と平行に長く滑空し、家屋の壁へ叩きつけられた。予の子飼いが倍率を上げると、予の少女の口の端から赤い泡が吹き、鼻から血が流れるのを写した。どこかで不滅を信じていた。信じる強さが足りなかったのか。まさか、死ぬ。世界の中心であったはずの、予の少女が死ぬ。
――さあて、仕事の時間だ。
増岡が手鉤をつかんだところへ、予は立ちはだかる。
――相手が違うんじゃないかね。
苦笑しながら、その女性はまっすぐに予を見た。
――いいかい。いくら他人を殺したところで、一発殴り返されなきゃ、命が何かなんてわからないのさ。あんたの世界も、私の世界も、あの子たちの世界も、ぜんぶ自己愛から成り立っているからね。自分の命がどういう形をしてるかわからなけりゃ、他人なんざどこまでいってもただの書割りさ。一方的に殺してきたから、自分を生み出した長い営みの正体について、何ひとつ理解することができないでいる。どっちもね……ところでさ。
鼻から細く煙を噴き出すと、吸いさしの煙草を人差し指で宙へはじいた。
――いつまでそこへ突っ立ってるつもりなんだい。いまならまだ、あの子の人生に関わることができるんじゃないのかい。
関わる。ただ少女の語り部であることで、少女と世界を連絡させてきた一観察員が、少女の人生に関わる。突然に来たしたパラダイムの転換に、思わず掲げていたビデオカメラを下ろした。視界からノイズが消えると、鼻腔へ鉄錆のような血の匂いが混じった。
――この年になると、おせっかいが身上みたいになっちまう。まあ、いま動かなけりゃ、なんにもならないわね。
殺害を確信した巨獣の吼え声が住宅街へこだまする。ビデオカメラが手のひらから滑り落ちる。レンズの割れる音が合図になって、駆け出した。あらゆる理性は頭から吹き飛び、ただ大の字に両手足を広げて、巨獣の前へ立ちはだかる。
――殺させないぞ、馬鹿野郎。やれるもんならやってみろ。
歯の根が鳴り、涙が出る。
家族や、社会や、歴史や、世界や、ぜんぶくそくらえだ。本当のことは、この手の届く範囲だけが大切で、他はみんな消えてしまって構わないということ。けど、なんでいまさらなんだ。
曲がった首は相手の行動に対する不審を表明しているようにも見える。闘牛が地面を掻くのにも似た動作でアスファルトの感触を確かめると、巨獣は身を屈めた。まばたきひとつほどの時間だったに違いない。それは、爆発的な速度でぐんぐんと視界へ拡大した。
皮肉なものだ。説き伏せるのに有効な言葉を持たず、殺すのに有効な暴力を持たず、長く体験し続けてきた世界との対峙の構図を、この状況は余すところなく体現している。
がしゃん。
粗なガラス細工が破裂する音が体の中から響き、視界がアクロバットのように回転する。家々の屋根と巨獣の背中が見えた。少女の姿はない。懐かしい感覚。そういえば、昔は落ちる夢ばかり見ていた。うつぶせとあおむけ、アスファルトへ二回、大きくバウンドする。
私――の目の前に広がるのは広々とした青空だった。ひとつながりの熱が全身を包んでいる。指一本動かない。痛みは不思議と無かった。
私は、内側にあった私より大きなものが、私と同じ大きさへ収縮してゆくのを感じた。二人の少女の顛末はどうなったろう。重力に身を預けて、ようよう首を転がす。
敵を見失った巨獣の背面へ、蜻蛉を切る少女。その手にある刀は、最後の一振り。
ああ――
いまこそ、この世の真実に気づく。
私は、私たちは、子どもたちに、隣人たちに、そして見知らぬ誰かに、この世界へ充満する死と死、破滅と破滅との間隙で、わずかの生を与えるために存在している。
そして、時に愛されたその究極の人物は――
神速の斬撃は音もなく巨獣の首を通過する。刀身が、澄んだ音を立てて割れた。音叉が共鳴するような静寂と、時が吸い込まれるような静止。
――人類を救済する仕事をするのだ。
激しい血流が八方へ噴き、弾けるようにすべてが動きはじめる。巨獣の首は血の噴水に乗り、電線を超え、家々を超え、尾根を超え、入道雲を超えて上昇してゆく。
その日、列島の各地から成層圏へと昇ってゆく生首が見られた。街頭で、市場で、公園で、学校で、会社で、病院で――ある者は泣いているように見えたと言い、ある者は笑っているように見えたと言った。ある者は両手を組みあわせ、ある者は眉を潜め、ある者は忌々しげに唾を吐き、ある者はただ好奇にカメラを向けた。
最初の少女の葬送を偶然に目撃した人々へ共通するのは、誰も無関心のうちには見送らなかった、ということである。
衛星軌道に乗った少女の生首が引く血の筋は、やがて土星の如く地球を環状に取り巻いた。夜空を見上げるとき、誰かが思い出すことを願ったのだろうか。
名乗りでた唯一の係累は、米国航空宇宙局の支援を得た壮大な首実検を経て、それが確かに妹であることを確認した。頭髪に白いものの目立つ、柔和な面持ちをした初老の男性だった。
このときの様子は感動の対面劇として、いささか過剰な演出を伴って生中継された。
――妹さんの変わり果てた姿を見て、いまどんなお気持ちでしょうか。
レポーター群から成される質問は、いずれ良識のある者ならば背筋の凍るような内容ばかりだった。
――変わっていませんよ。
しかし、その男性はどの問いかけにも、激さず、黙せず、ただ静かに答えた。
――あの頃のままです。内気で、繊細で、寂しがりやで、この世の誰よりも優しい。少しも変わっていません。
愛おしげに、つい、といったふうで生首の映るモニターへ這わせた右手は、人差し指を欠いていた。
この瞬間、いずれの局も大慌てで番組をCMへと切り替えた。それまで申し訳程度のモザイクで損壊した死体を放映しており、倫理規定の運用が極めて恣意的であることが露呈したのである。
男性は遺骨の回収を願い出たが、却下された。単純に、これだけの大質量を持ち帰るだけの技術を人類が持たなかったからだ。
そして、仁科望美は天から地上を見守る存在となった。
私は人工衛星に乗せられた、あの犬の話を思い出す。文字通り、真空のような孤独。宇宙塵に粉々に粉砕されるか、暖かい星の抱擁にからめとられるまで、最初の少女はあらゆる生命から離れて、ずっと一人きりでいることを許される。愛する誰かを遠く見守りながら。
私は想像する。たぶん、私自身の幸せのために。もしかすると、仁科望美は最後に願いを叶えることができたのかもしれない。
さて、地に残された人々の話を少しばかりしなくてはなるまい。
幸いなことに私の怪我は、全身の打撲といくつかの単純骨折で済んだ。少女は私よりもよほど軽症であったが、病院側が融通をきかせたらしい、いくつかの精密検査が退院を長引かせた。
白い壁に囲まれた穏やかで、何も無い日々。ふたりでたくさん話をした。全国を旅して回ったというのに、こんなに話をしたことはなかった。
退院の日、ふたりで川沿いを歩いた。春の日差しに川辺から綿ぼうしが舞い上がる。偶然にふれあった指先から、お互いの手のひらをからめた。橋を渡る途中、ふと気になって欄干から身を乗り出す。ブリキの鍋がひとつ転がっているだけで、そこにはもう誰もいなかった。
どちらから言ったわけでもない。足は自然に少女の生家へと向かっていた。門扉に手をかけると、わずかに鉄のきしる音がした。すべてはここから始まったのだ。
――いま、帰ったよ。
透き通った声が、玄関にこだまする。主を失った家屋はがらんとして、返事があろうはずもなかった。背後から差し込む陽光に舞う埃が、喪失の感じを強くする。私は座敷へ上がると、少女へと向き直り、声音を作った。
――おかえりなさい。さぞかし、疲れたでしょう。
少女は大きく両目を開いて驚いたように私を見つめると、泣き顔とも笑顔ともつかない表情を浮かべる。そして、意を決したように私の両腕の間へと身を投げた。少女の両親が死んだ日と同じように。
布一枚の向こうにあるしなやかさを通して、少女の傷の形がありありと見える。家族や、社会や、歴史や、世界や、そんなものはぜんぶくそくらえだ。
私は少女の背中に両腕を回すと、強く抱きしめた。せめて、この手の届く範囲のものだけは逃さないように。
唇が重なると、呪うべきか、寿ぐべきか、すべては正しくなった。
血のついた脱脂綿をジッパーつきのビニルに収める。少女はわずかに身を震わせて放心しているようだったが、毛布をかけて頭に手を置いてやるとすぐに眠った。
私はベッドサイドの明かりだけを頼りに、幾枚もカーボンの写しが付いた書類を埋めてゆく。膨大な量である。実際にすべての記入が終わったのは、少女が起きだし、また眠り、そしてもう一度起きてきてからのことだった。
翌日、私と少女は最寄の役場へと向かった。整理番号が印字された紙片を渡し、用件を告げる。丸眼鏡をかけて黒い肘あてをした職員は、いぶかしむように上目遣いで私と少女を見た。そして、整理棚の奥へと消える。
長い時間が経った。少女が不安に私の袖を引く。すると、分厚いファイルを抱えた職員が戻ってくる。事務机にファイルを置くと、表紙に浮いた埃をひと吹きした。そして、眼鏡をぬぐいながら、「なにぶん、初めての申請でしてね。わかりませんよ」と小声で言った。
その日、無数のAvenger Licenseのうちの一枚が初めて国へと返却され、ひとりの少女が少女殺人者であることを止めた。
「予の少女」は永久に消滅したのである。
ホーリー遊児(3)
ソファとテーブルのみの簡素なスタジオセットの中央で、一人の婦女が腰掛けている。白目に蝿がとまるが、某有名拳闘漫画の最終回を想起させる前傾姿勢で微動だにしない。突如、頓狂な音楽が流れだすと同時に、婦女、バネじかけの如く跳ね起きる。その顔面は余すところなく靴墨のようなもので着色されている。
「ハァイ、全国津々浦々、老若男女のみなさーん! 小鳥尻ゲイカがテンションあげあげのスーパーハイテンションでお送りする『nWoの部屋』の時間がやってきましたよ! (興奮の極みのロンパリで)ってゆーか、アタシがこんな有名番組の司会に抜擢されるだなんて、リアルに超ウケルんですケド! コーデリア、見てる? ついに帰ってきたの! アタシ、全国のお茶の間にまた、帰ってきたのよ! ……え、何? 全国放送じゃないの? ははあ、ネットで有料動画配信。(前髪に手櫛を入れながら、とたんに低い声で)話がうますぎると思ったわ。やっぱり裏があったのね(露骨に舌打ちする)」
画面の外でプロデューサーらしき男が両手を身体の前で振り振り口パクで『だましてないだましてない』と言う。
「(両腕をソファの背に乗せてのけぞって)あー、いっきにやる気うせたわー」
画面の外でプロデューサーらしき男が合掌して口パクで『かんべんかんべん』と言う。
「わかってるわよ。いまのアタシに仕事えらぶ権利なんか無いってんでしょ。(立膝になると片手のメモを隠そうともせず)えー、記念すべきネット配信第一回のゲストわぁ、(棒読みで)なななーんーとぉ、ホーリー遊児さんにお越しいただいておりまぁす。あの有名な(全くそれを知らない者のイントネーションで)『トラ食え』シリーズのシナリオライターに、最新作『トラ食え9』発売直後のホンネを直撃したいと思いまぁす」
「(カメラがスライドすると、サングラスの男が映される。足を組んで鷹揚に座っており、その秀でた額はスポットライトを激しく照り返している)ふん、宵待薫子で一時代を築いたあのnWoの部屋がいまやこんな安普請で(土足で軽くテーブルを蹴る)、場末のネット配信にまで堕ちてるとはね。(画面外のスタッフへ)宵待チャン、いまどうしてんの? あ、死んだの。それはご愁傷様。(値踏みするように小鳥尻を眺め)だから、どこの馬の骨ともわからない芸人が司会してんのか。不況の影響かあ? どれもこれも安く上がってんな!(馬鹿笑いする)」
「……ンだと、この野郎!」
袖をまくり立ち上がりかけるが、プロデューサーらしき男が両手を身体の前でクロスさせながら口パクで『がまんがまん。また干されたいの』と言う。
「(硬直した笑顔で)ドウゾヨロシクオネガイシマス」
「(口の端を歪めて)フン。もはや僕が出演するのにふさわしい番組の格とはとうてい言えないが、金科玉条のインタビューに雑誌を買う能動性すらない連中にも等分に僕の言葉を届けてやる義務がある。例え、こんな場末のネット配信番組で羞恥プレイに近い待遇を受けてもだよ。それが、(充分に計算された角度と速度で首を振る。前髪がはねあがり、きわどい部分をお茶の間に公開する寸前、前髪は元の位置に戻る)過去に類を見ない国民的人気作品を世に送り出してしまった、罪深い僕の才能に対する贖罪というものだからね……(右手で口元を押さえ、左手で身体を抱くポーズを作り、流し目をカメラへ送る)」
「(無視して)それでは早速、質問に参りたいと思います。(カンペに目をやりながら)今回のトラ食え9は前作から実に5年の歳月を経て、まさに満を持しての発売となりましたが、苦労なさった点や制作秘話などをお聞かせいただけますでしょうか」
「(両手を打ち合わせて)ハハハ、上手上手。ちゃんとおしゃべりできるじゃないの」
「(目線を外したまま硬い声で)どうも」
「(ねっとりと嘗め回すように小鳥尻を見る)いいね、いいね。そういう強気なの、嫌いじゃないね。最近、草食系とやらが多すぎて、食傷気味だからさ。草くってテメエだけおつうじよくて、こっちの腹ァくだらせる連中がさ! いいですよ、制作秘話ね。実は前作から古巣を捨てて、制作会社が変わったんですね。仕事する相手もツーカーの同年代ばかりじゃなくて、若い子が圧倒的に増えてね。最近の若い子たちはね、とても頭がいいんですよ。昔なら信じられないけど、大学出てるくせにゲーム屋やってんだもん。どいつもこいつも、偏差値高いんだ。卒論とかで鍛えられてんのかな、文章も達者で、なんでも言葉で説明できちゃう。で、説明できるもんだから、やったこともないのに本質をわかった気になっちゃうんだな。体験が欠落してしまうの。でも、いまや受け手の大半も体験が乏しい世代だから、それに気づかないんだよね。だから、表面はすごく洗練されて見えるんだけど、軽いの。情念が伝わってこない。僕はそういうの、ヤなんだよ(笑)。古いって言われてもさ、受けつけないの。書き手のナマの経験値がさ、何を題材にしたって、隠しても隠しても行間から否応に染み出してくるような文章じゃなきゃ、トラ食えのシナリオを記述するのにふさわしいとは言えないのよ。ぬぐってもぬぐっても、染み出る先走りね(舌で唇を執拗に湿しながら、こぶしの人差し指と中指の間へ親指を出し入れする)。わかる?」
「(あくびとも嘆息ともつかぬ様子で)はあ」
「(サングラスの位置を直しながら)なんとも淡白な反応だね。デレないツンデレってわけだ。まあ、いいや。だから、僕は若手社員たちの教育から始めなくちゃならなかったわけですよ。みんなスケジューリングもうまくて、仕事も速くて、それでいて一定のレベルを超えるものを作ってくる。でも、僕は不満だったのね(笑)。ふつうのゲームならそれでいいんだろうけど、これはトラ食えではないって思ってたの。(興が乗るにつれてやさぐれた感じを増して)ヤニも吸わずに青白い顔でカタカタってキーボード打ってさ、ほとんど残業も無しに定時退社するわけよ。んで、飲みに誘っても、全然のってこないわけ。『それって給料分ですか?』って言われてアッタマきてさ。モノをつくるドロドロが、会社っていうシステムでおきれいに下水処理されてんだよ。だから、制作開始から一ヶ月くらいしてからかな、全員退社した後にハードディスクをひとつ残らず五階の窓から放り投げて、プリントアウトしたシナリオもびりびりに破いてやった」
「(あくびを隠すように両手を口元へ当てて)まあ」
「(得意げに)次の日、床に散乱したシナリオの残骸にあぐらをかいて、定時出社の連中をお出迎えしたのよ。どいつもあんぐり口を開けてさ、いっそ怒鳴りあいになれと思ってたね。なのに、『どうするんですか、これ』とかぼそぼそ声の抗議だけで片付けを始めやがったからよ、アッタマきて手近の青ビョウタンをネクタイごと胸倉つかんで、したたかブン殴ってやった。そしたら、女みてえに(口マネで)『なにひゅるんでひゅかぁ~』だってよ! 大切なものを土足で踏みにじられてんのに、テメエの存在ごと作ってねえから、本気で怒ることさえできねえのよ。俺はキレたね。机の上に仁王立ちして、啖呵よ。『テメエらは天下のトラ食えの制作に参加してんだぞ! なんでもっとそれを利用しねえんだよ! クオリティアップのためだったら、どんなに時間をかけたって社長からも文句を言われねえ、誰にも文句を言わせねえ、国民の一割が購入することがあらかじめ決まってんだからな! 大学出てるくせに公務員じゃねえ、わざわざゲーム屋を選んだんだ! それなりの我ってもんがあるんじゃねえのかよ! 納期を守るとか、そんなつまらん社会性はぜんぶ放り投げて、ただ創造だけを我利我利に追及しろよ! トラ食えの制作現場にいんだぞ、おまえら! もっと誇りを持てよ! もっと貪欲になれよ!』」
「(あくびに目を潤ませ、眠気に頬を紅潮させて)かっこいい」
「(勘違いに小鼻を膨らませて)それからよ、『おまえら、これからトラ食えが何なのかを教えてやる』って言って、問答無用で全員引き連れて、むりやり午前中から店ェ開けさせて、朝までキャバクラ三昧よ。まあ、上司の飲みすら断る青びょうたんたちをキャバクラに引きずり込むための、計算ずくの大芝居だったわけだ。んで、その日から四年間ずっと全員でキャバクラ。制作期間を一日二十四時間で計算し直したとしても、半分以上はキャバクラにいたな。もちろん、制作費も九割がたキャバクラに消えたよ。おかげでヤツら青びょうたんどもの人格もいい具合に陶冶されたね。まあ、少々やりすぎたせいで、金髪の顔面ピアスにアロハ姿で重役出勤、キャバ嬢にケータイかけながらダラダラ片手で仕事しやがるもんだから、制作の終盤にはシュラフ持ち込んで会社に泊まり込みよ。開発室は煙草の煙でモウモウしててさ、いよいよの追い込みにはビタミン注射の回し打ち。品行ホーセーだったあの若手どもがよ、修羅場に目を輝かせて、どんどんいいアイデアを出してきやがる。(舌足らずの声の演技で)『ホーリーさん、閃いたッス! セーブデータを1つにすれば、今までの三倍売れるんじゃないッスか?』(胸元で右手を握り締めて)『ビッグアイデア!』。嬉しくって涙が出るってのはこのことさ。そんなよ、社会的には落第しちまった連中がよ、本当にキレーな話を書いてくんだよ。行間からにじむ情念がさ、下手な演歌よりも泣かせんだ(手のひらで鼻をすする)。まあ、少々その他の部分で妥協することにはなったがね(カメラから目線を外す)。今回のトラ食えで、うちの会社は組織としてひとつの大きな山を越えたと感じたね。レベルアップさ(例の効果音を口ずさむ)」
「(カンペを横目で見ながら)しかし、疑問は尽きません。なぜ他の何かではなく、キャバクラだったのでしょうか」
「(足を組み直しながら)いーい質問だ。トラ食え9くらいの、文字通り日本の全家庭に一本が行き渡る規模の国家プロジェクトになると、ただ良作であるということを超えて、どうしても時代時代に即した、大衆を啓蒙する要素を盛り込む必要が出てくる。我々は常に、我々の巨大な影響力に自覚的なんだよ」
「そこで、キャバクラですか」
「(莞爾と微笑んで)おうよ。トラ食えの登場人物に対するお定まりの批判のひとつに、『女性は、処女か母親しかいない』ってのがあるが、今回はそれを逆手にとらせてもらった」
「それが、キャバクラですか」
「(ひどくいい笑顔で)おうさ。ハレとケってヤツよ。キャバクラは絶望的なケの中にあってハレを永続化させようっていう近代の試みなんだよ。民俗学的に見ても、ムラ組織が解体された結果として日本人が失った祝祭機能を代行する場所って言えるわけよ、キャバクラは。いろんな娯楽がある現代にさ、わざわざゲームっていう一頭地劣ったところに群がる連中はさ、どいつもこいつも妙にご清潔なわけ。倫理的によく躾けられていることを見せることで、ママか誰かが褒めてくれるって信じてるみたいにさ。(吐き捨てるように)誰も褒めちゃくれねえのによ! 品行ホーセーが現世での成功に直結するってなら、今頃ニートどもは大金持ちだよ! いままでトラ食えが連中の心をつかんできたのもさ、女性的なるものとして処女と母親だけを記述してきたから、当たり前の帰結って言えるわけ。でも、もうそんなのはヤになったんだよ(笑)。神職とか河原芸人とか、倫理ってのは相対的だからさ、ケガレを代行する装置が相対化を担ってきて、そこへケガレを押し付けることで相対的に清潔でいられるってことを連中は知るべきだと思ったわけ。だから今回、キャバクラで剃毛、おっと、啓蒙なわけよ。しなびたフルーツ盛やら、水道水のミネラルウォーターやらでさんざんボッタくっておきながら、帰り際にポケットのアメ玉をキャバ嬢にやったら、発展途上国の子どもみたいなすげえキレーな笑顔で『ありがとー』って、本当にうれしそうに言いやがるわけ。もう、そういうのにグッときちゃうのよ。俺くらいの重鎮になると、枕営業なんか受けることもあんだけどさ(意味ありげに小鳥尻を見る)、確かに顔立ちも整っててイイ身体してるよ。けどさ、情事の後で後ろ手に髪を束ねてるときなんかにのぞく打算的な横顔に、もう心底からどっと疲れちまうのよ。後ろ指さされないためだけの品行ホーセーで、そのくせ隣人のゴシップには目を輝かせて、娘息子から刃物刺される連中なんかよりも、パンツに大便のスジつけて、髪の毛バサバサで、ゴキブリみたいな質感の顔面で、ホントきったねえんだけど、俺に言わせるとキャバ嬢の方がもう何倍も、一億倍もキレーなわけ。もう、たまんないのよ。(突然、カメラに指を突きつける)おまえら日本男子は全員、いますぐキャバクラ行け! キャバクラ行け、キャバクラ行け、キャバクラに(天をあおいでお茶の間にきわどい部分を公開しながら絶叫する)行けぇーーーッッ!!! 日本男子なら将軍様に仕える心意気ってのが、わかるだろ? 『いざ、キャバクラ!』、なんつって!(ソファに身を投げ出して、馬鹿笑いする)」
「(あきれ顔で)ホーリーさん、ホーリーさん」
「(ずり落ちたサングラスを直して)ああ、これは失礼。少し興奮してしまったようだ」
「(冷静に)キャバクラはもう充分お聞きしました。(カンペを見ながら)今回、若手のスタッフが制作の大部分に携わったようですが、それをとりまとめるホーリーさんのお仕事はどのようなものだったのでしょうか」
「(衣服を整えると、気まずげに咳払いして)そうですね。シナリオプロットの作成と、制作進行および品質管理ですね。プロットを書いたメモ用紙をできるだけ小さくし、簡潔にまとめるのにとくべつ腐心しました。ようやく想像の翼を広げる楽しみを知った若い才能たちに、できるだけ自由にやらせてみたかったんですよ(笑)」
「そのメモには、どんな指示が書かれていたんでしょうか」
「プレイ前の方へのネタバレは避けなくてはいけないという前提の元ですが、いくつか例を挙げましょう。『魚類と父親。父親は死ぬ』『新妻と伝染病。新妻は死ぬ』『令嬢と人形。令嬢は死ぬ』『学院と院長。院長は死ぬ』『姫と騎士。両方死ぬ』……ざっとこんな感じですね」
「(目を大きく開いて)死にまくりですね」
「(深くうなづいて)テロルによる大量殺戮の時代に、死の個別性と恣意性を強調したかったんです。時代に敏感であることも、トラ食えが愛される大きな理由のひとつですからね」
「(真剣な表情で)キャバクラですね」
「(神妙にうなづいて)ええ、キャバクラです。そして、最終工程のブラッシュアップでは、視認性を高めるのに骨を折りました。ひとつの文章がひとつのウィンドウに収まるように調整する作業ですね」
「具体的にはどのような作業だったのでしょう」
「半角を全角にしたり、全角を半角にしたりする作業です。これがまた神経を使いましてね! あまりの精神的な重労働に、頭がハゲあがるかと思いましたよ(笑)」
「えっ」
「いやだなぁ、もちろん言葉のアヤですよ」
「えっ」
「えっ」
突然、画面の解像度が粗くなる。カメラが手前へ引いてゆくとスタジオの光景は遠ざかり、薄暗い部屋のモニターが映し出される。画面の前には一人の男が座っており、その手には携帯ゲーム機が握られている。
「クソッ、わからない! なんでG.Wなんだ! 何の変哲も無い、ふつうのゲームじゃないか! なんでG.Wなんだよ! もしかして、まだボクには見えていない何かがあるのか? クソッ、ホーリー遊児め、どこまでボクに関心を持たれれば気がすむんだ! 読みといてやる、読みといてやるぞ……!!」
インターホンの音が幾度も鳴っているが、男、携帯ゲーム機から顔を上げようとはしない。
カメラは薄暗い部屋から薄暗い廊下を引いてゆき、玄関を通過し、やがて鉄扉の外側を映し出す。新聞受けからはみ出した広告が通路に散乱している。せむしの男、インターホンから指を離し、途方に暮れたといった様子でため息をつく。
「トラ食え9が発売されてからと言うもの、ずっとこもりきりでヤンス。周陽も引き継いだ携帯ゲーム機のプロジェクトを投げ出したまま、辞表を提出しちまったでヤンス。枯痔馬監督、はやく戻ってきてくれでヤンス……」
むどおん!
「(野太い声の男性コーラスをバックに)時に西暦2019年、世界の人口70億。発展途上国との命の格差はそのままに、一部先進諸国では少子化が急速に進行。文化的最低限の生活が保障する“一人一成人女性”の担保が難しい状況に、成人男性の性的嗜好は急速に低年齢化。これを受けて各国政府は未成年女子の人権へ、歴史上かつてなかったほどの保護を政策として立法化。結果、成人男性にとって通常の社会生活を営むことが困難なほど、未成年女子の存在が凶器化。曰く、電車内で女性の背後で勃っただけで痴漢冤罪。曰く、街角で視線が交錯すれば視姦冤罪。曰く、百貨店で迷子の女児に声かけしただけで未成年略取。曰く、カメラ屋で娘の写真を焼き増ししただけで猥褻物頒布罪。法の厳格な執行に伴って、みるみる減少する労働人口に頭を悩ませた先進諸国政府は、南極へ人為的なブレーン世界構築の計画を策定。続いて、そこへ未成年女子全員を保護名目で隔離する国際法を国連にて採択。かくして、18歳以下の女子は先進諸国の家々から、路上から、街角から、一切に姿を消したのである」
紫と黒のグラデーション的空間に、学校とおぼしき建築物が斜め45度に傾いて浮遊している。校門には“県立柘榴(ざくろ)高校”とある。カメラは校庭から下足室をくぐり、奇妙に人気を感じさせない教室の前を通り抜け、階段伝いに上へ上へと移動してゆく。最奥の突き当たりに屋上はなく、なぜか教室が存在する。扉の上に掲げられたプレートには“無道怨仇部(むどうおんきゅうぶ)”と揮毫されている。荒々しく駆け上ってきた人影がカメラを追い越す。“筋肉質の男性が長髪のカツラとセーラー服を身にまとっている”としか形容できない風貌だが、南極のブレーン世界は未成年女子をしか収容しないため、論理的には生物学的に女子と推測するしかない。その人物、駆け上ってきた勢いのまま、絶叫しつつ入り口の扉を蹴破る。
「慄(りつ)! たいへんや! 御厨ヶ丘(みくりがおか)高校の連中が、いよいよ攻めてきよったで!」
「(顔面に雑誌を乗せ、両脚を机へ投げ出していたブレザー型制服着用の贅肉質巨漢、突然ノーモーションからほとんど重力を無視して垂直に跳び上がり、恐るべき柔軟さで両脚を地面と平行に真横へ広げる)なんやとォ! えらいこっちゃ! ジャンピング・サンダークロス・スプリットアタック・ナウやがな!」
「(金髪碧眼白皙の少女が優雅な仕草でカップを置きながら)あら、それはありえませんわ。なぜって、ブレーン世界はそれぞれ独立した存在で、相互干渉はできないようになっていますもの」
「(着地の際に体重で床板を踏み抜きながら)無義(むぎ)、それはほんまか!」
「(衣類の本来的な役目を否定するほど短い上着からのぞく六つ割れの腹部を抱えて爆笑しながら)だまされよった、だまされよった!」
「(カチューシャの下に広い額というよりは、頭頂部に向けて後退した生え際からもうもうと煙を上げながら)妙(みお)、貴様ァ! そんなつまらんイタズラでワシのドリームタイムを邪魔しよったんかぁ!」
「(前腕の筋肉を誇示しながら)揺れる脂肪がいつもマシュマロみたいなお前の成人病を心配して、ちょいと運動させてやったんやろうが! 感謝こそされ、キレられる筋合いはないわ!」
「(胸倉をつかんで)もう勘弁ならん! 決闘じゃあ!」
「(胸倉をつかみかえして)吐いたつば飲まんとけよ!」
「(金髪碧眼白皙の少女、無言で立ち上がると部屋の奥からティーセットを盆にのせて戻ってくる)さて、分厚く切ったこのフランスパンに、『うそ!』と叫ぶくらいサワークリームをたっぷりと塗りつけて(瞬間、未来人の如く退化した細い顎がゴムを思わせる柔軟さで異様に広がり、パンにかぶりつく)……ムホホ、どっしりとしたフランスパンの塩気がサワークリームの酸味をしっかり受けとめて!」
「(胸倉をつかみあったまま、筋肉質と脂肪質、同時に唾を飲む)ゴクリ」
「(短い一本線の唇から血の滴る生肉のような舌をのぞかせて)そしてサワークリームの酸味が口の中にまだ残っているうちに、飽和状態まで砂糖を溶かしこんだ紅茶をひとすすり……ンまーい! 眼球上部から錐を差し込んで前頭葉を右へ左へグリグリするような、ロボトミーとまごうこの旨さ! よくぞ、ブレーン世界に生まれけり――!!」
「(制服のリボンへ盛大に垂れ流れたよだれをぬぐいながら着席し)今日のところは無義にめんじて休戦ということにしといたるわ」
「(カーディガンへ盛大な染みとなったよだれをぬぐいながら着席し)おまえこそ、脳味噌が糖分しか受容しない事実に感謝せえよ」
「(フランスパンの体積の三倍はサワークリームを塗りつけてかぶりつく)うまいのう。正直、ぼっとんの汲み取り式だけは勘弁願いたいと思うとったが……ワシらの便からこれができとるなんて、にわかには信じられんわい」
「(挑発的な視線をカメラへ送りながら親指に付着したクリームをなめとって)すべてのブレーン世界には、閉鎖環境における物質循環のモジュールが装備されていますのよ。いったん原子レベルにまで分解してから再構築してますから、衛生面でも安心ですわ」
「(ビロウな連想を誘うとぐろ状にサワークリームを盛りあげ、ほとんど噛まずに飲み込みながら)ムォッ、ムォッ、グゥオフッ……なんとのう。糞尿を集めるだけで地球に優しいなんて、ワシらエコじゃのう」
「(急激な食事に腹部が膨れ上がり、スカートのボタンがはじける)スカートのウエスト丈2cmゆるめたのに、まだ飛ぶのう」
「(六つ割れの腹部を誇示しながら)ついにウェイトが限界超じゃのう、慄」
「(ラマーズ法的な呼吸で懸命に腹をひっこめながら)ぬかせ、妙。南極は寒いからのう。こりゃ、冬脂肪じゃわい」
「(優雅な仕草でカップを置きながら)このブレーン世界は外界の環境からは完全に隔絶されています。寒さを感じるとすれば、それは風邪の初期症状か、排尿直後か、さもなければ単なる気のせいですわ」
「(猛烈な歯軋りで)ギギギ。ほんに、このアマときどきすごいむかつくのう」
「(片手で制して)ほっとけ。囚人どうしの優越感じゃ。評論や批評が現実に影響を与えた試しはないわい。それを証拠に、幽異(ゆい)はもう帰ってこんのやから……(部屋の片隅に視線をやる。栗毛の少女が虚ろな視線で宙空を眺めながら座り込んでいる)」
「(胸元に抱えた哺乳類らしき肉塊を撫でながら、感情のこもらぬ囁きで)うふふ、かわいいわね、あなた。ねえ、どこからきたの? おねえさんにおしえてよ」
「(太い眉をハの字に曲げて)元は猫やったのか犬やったのか。すっかり毛も抜けてしもて、肉はくさいガスでふくれあがって、ひどい状態じゃ」
「取り上げようとしても、ものすごい力で抵抗するしのう」
「(肉塊の表皮が裂けて、ガスが噴出する)ブーッ」
「(鼻をつまんで)おお。こりゃ、くさいのう」
「(人差し指と中指を鼻の穴に突っ込んで)気がくるうて、死んどるのがわからんのじゃ。ほれ、幽異のあの幸せそうな笑顔を見てみい。くるった頭の中では、愛らしいペットを飼うとるつもりなんじゃ」
「(細い眉をハの字に曲げて)むごいのう。女ばかりのブレーン世界にうまく適応できんかったんじゃ。あんな屍鬼(ghoul)みたいな肉塊に、壊れた心を補修させようとしとるんかのう」
「ほんにのう。まさにぶわぶわテイム(tame)というわけじゃ」
「……(無言のまま、すまし顔でカップを口に運ぶ)」
「(突然、ホログラム状のウィンドウが宙空へ出現する.中性的な合成音声で)みなさん、相変わらず仲がよろしいですね」
「(いっせいに直立し、三人で唱和する)ヤヴォール・ヘア・アーサー・シュバルツ!」
「(中性的な合成音声で)貴方たちと相対するとき、思考の基礎言語には日本語が定義されています。複数のブレーン世界を統括する人工知能である私ですが、どうぞかしこまらず、ただ、こう呼んでください。黒田アーサー、と……!!」
「(突如くだけて背もたれに身を投げ)そりゃ、ええわ。いくらブレーン世界が国際政治における国家間の調整結果とはいえ、敵性言語を強要されるのは気分のええもんではないからのう」
「(突如くだけて、机上へ両足を投げ)そやそや。ウチはいつも答案真っ白で英語は追試やけど、そんなんわからんでも未来はどどめ色じゃ」
「(後れ毛へ指をかけながら)ご指摘さしあげるのも失礼かと思いますが、念のため。先ほどのはドイツ語ですわ」
「(両手の人差し指を涙腺の直下に当てて)ラわーん、あんちゃーん! 学校という一時的な場所での、さらに限定的な能力に関する相対評価を全人格的な絶対否定にすりかえて非難されたよー!」
「(猛烈に歯ぎしりして)ギギギ。校舎裏が人類の生存を許さぬ真空の海でさえなければ、すぐにでもシゴウしたるんじゃがのう」
「(ホログラムの背面へ回りこみながら)まあ、こわい。黒田先生、どうしていつまでも人は愚かで、こんなにも争いを避けることができないのでしょうか」
「(中性的な合成音声で)感情が時間を経て集積したものが、歴史と呼ばれます。その感情の連なりが途絶えることが、共同体の滅亡です。多かれ少なかれ、共同体の存続という命題は、成育史のうちに個人の内面へ刷り込まれます。その過程を通じて、個人は己を超えたところにある共同体の歴史から事物に対する判断へバイアスを得ますから、客観的であったり、論理的であったりすることは極めて難しくなるのです。結果、その判断のすれ違いが争いへとつながってゆくのだと推測できます」
「(瞳を潤ませ、うっとりと両手を組み合わせて)さすがですわ、黒田先生」
「(わずかに男性的な合成音声で)いえ、賞賛はご無用に。私は人工知能、感情を持たない論理機械に過ぎませんから」
「(鷹揚に頭の後ろへ手を組んで)なあなあ、そんなことより、ウチらはいつまでここにおらないかんのや。人生でいちばん輝け(Cagayake)る時期の女子を、陽も射さないブレーン世界で過ごさせるなんて、どういう政策なんじゃ、コレ」
「(発言に勢いを得て)そやそや。男日照りの表現がまったくシャレになってへんわい。留年分をさっぴいても、卒業させてもろてええころあいとちがうんかい」
「(中性的な合成音声で)現在、ブレーン世界の外側で発生している問題の根幹は、男性から欲求を向けられない年齢に達した女性たちの、男性が欲求を向けているものに対する嫉妬です。人間は動物ですから、子孫を残すという命題が至上のものとして行動原則へ抜きがたく組み込まれています。女性にとって、己よりも男性の欲求を多く向けられる存在というのは、遺伝子の保存を考えるとき、戦略上、極めて深刻な脅威です。これを退けなければ、己が輸送する情報の系は途絶するのですから。一方で男性は、己の遺伝子を受け渡す上で、例えば流産等による頓挫の可能性が少しでも低い個体を選択しようとします。一般的に、より若い女性の方が男性にとって魅力的に感じられるというのは、そう感じさせたほうが遺伝子伝達の戦略上でより多くのリスクを回避できるという、進化と名づけられた淘汰を経てなお残された動物的な要因に過ぎません。いったん子をなした場合でも、両者のこの特質に変化が見られないのは、さらに多くの遺伝子を残したほうが、単純な確率計算として情報の系が途絶する可能性が下がるからです。ちなみに人口維持に必要な出生率は2.07ですが、この0.07は性交可能となる以前に死亡する子供を計算に入れたものです。つまり、男性がより若くを求め、年齢を経て男性の欲求の対象となる機会が減った女性が、男性の欲求の向かう先を破壊しようとするのは、理の当然と言えましょう。二次元性愛への焚書的弾圧の根もここにあります。また、男性の欲求がときに若すぎる固体へ向かう場合、それが容認されるべきか否かの判断ですが、現状、各国政府はその国民へ一律の年齢基準を設けることで異常と正常の境界を明示しています。しかし、これは個体差を無視しているという点で、生物学的に妥当とは言えません。遺伝子継承に焦点を当てれば、答えはあまりに明白でしょう。すなわち、初潮を迎えているか否かです。初潮を迎えていれば、それは体内に出産へのレディネスが存在するということですから、これを制約するに及びません。もし初潮を迎えていない固体に欲求を向ける男性がいるとするならば、それは単なる後天的・文化的異常ですから直ちに排除されるべきでしょう。おわかりいただけましたか?」
「(小声で小突いて)おい、慄。いま、英語でしゃべっとったよな?」
「(小声でたしなめて)あほ、さっき無義がドイツ語やゆうとったやろ」
「(切ない吐息を漏らして)先生の講義なら、私、何時間でも聞いていられそうですわ」
「(中性的な合成音声で)米国のとある新聞の風刺漫画に、こんな内容がありました。一面の銀世界を前にした黒人の少年が独白するのです。『なんて美しい朝だろう。でも、この雪すべてが黒かったとしたら、ぼくはこの景色を同じように美しいと思えるだろうか』、と。これは真理の一端を突いていて、黒や黄から人間が連想する中身には、死斑であるとか黄疸であるとか、死を連想させるネガティブな内容が多いということです。(わずかに男性的な合成音声で)ですから、東洋の男性たちが貴女のような白人の少女を求めるのは、歴史的な劣等感をおくとしてさえ、理の当然なのです」
「(バラ色に頬を染めて)まあ、どうしましょう」
「(片手で顔をあおいで)平面に欲情できるヤツはええのう。うちら置き去りやないか」
「(額の油脂をタオルで拭いながら)ほんま、あほらしわ。うちら当て馬ちゃうねんど」
「(小指を深々と鼻腔に挿入しながら)こういう日はもう、一杯ひっかけて寝ちまうに限るわ」
「(裏声で連呼して)寝ちまおう寝ちまおう寝ちまおう! そうと決まれば、早寝の前にホトケ様にのんのんのんじゃ!」
「(いぶかしげに)ホトケ様なんてどこにおるんじゃ」
「(親指で部屋の隅を指して)おるじゃろ、あそこに」
「(感情のこもらぬ囁きで)うふふ、なにかがやけ(Cagayake)るにおいがするわね? どんなおいたか、おねえさんにおしえてごらん」
「(隆々たる筋肉で腕組みして)おまえはときどき、すごい冴えるのう。感心するわ」
「(うっとりと)黒田先生……」
「(中性的な合成音声で)後近代の人類が抱く不幸を象徴的に言うならば、それは『録画したビデオテープの累積時間が、人生の残り時間を上回っている』ということになるでしょう。もしかすると人類はすでに滅びていて、私はただモニターの上に貴方たちの影法師を見ているだけなのかもしれません。例えば、私が貴方の問いかけに応答することを止める。なのに、貴方はまるで私が返事を与えたかのように会話を続ける。人工知能である私が恐怖するのは、そんな恐怖なんですよ」
「(うっとりと)もっと聞かせてください、黒田先生。もっと……」
「(中性的な合成音声で)あるいは後近代の不幸とは、消費者金融やパチンコ屋や新興宗教の布教活動に占拠されたかつての巨大メディアを見るときの眼差しに含まれると言えるかもしれません。あるいは、東洋人が西洋人へ潜在的に抱く劣等感を巧みに利用し、髪の毛を軟便色に褪色させる毒液の販売と、劣化した髪質の恒常的なケアという市場を創出した誰かの狡猾さに含まれるのかもしれません。あるいは、『手をかざしてください』と書いてあるのにいくら手をかざしても大便が流れないときの、アナログ的レバーへの郷愁と共に湧き上がる不必要な市場創出への絶望感に含まれるとも……」
「(秀麗な眉を寄せて、悩ましげに)あの、ひとつよろしいでしょうか」
「(わずかに男性的な合成音声で)なんですか、無義さん」
「(小刻みに肩を震わせて)最近わたし、ときどき、黒田先生が人工知能だとはとても思えなくって……だって、まるで……まるで……」
「(中性的な合成音声で)疲れてるんですよ。ノイローゼの前兆かもしれませんね。(わずかに男性的な合成音声で)睡眠導入剤を処方してあげますから、今日はそれを飲んでゆっくりおやすみなさい……」
「(筋肉質と脂肪質、部屋の隅に向けて合掌し、野太い声で唱和して)まんまんちゃん、のーん!」
「(感情のこもらぬ囁きで)あ、あ、そんなところをあまがみするなんて、いけないこ、いけないこね……」
????
「塀の中から発言をする、というのは非常に象徴的でして」
分厚いガラスの向こう側から、スピーカーを通じた声が響く。事前に予想していた感慨を何も持たないでいる自分に気がついた。男の声が含む一種の魔的な力を弱める効果はあるのかもしれない。
「評論家たちが取る立ち位置の、現実に対する効力感の欠如へ、風刺的にまとめて言及することができる点でね。時折、類似の事件に際して、思い出したように君のような人物が面会にやって来る。おそらく、言葉の足りない、論理の裏づけの希薄な反社会的行為というものに耐えられなくなって、おしゃべり好きな奇人へ、気のふれているなりの理由を解説して欲しいんだろうと思う。社会の堅牢さを維持するには、その構成員の過誤を一種の論理エラーとして捉えねば、矛盾として、つまりはそれを取り除けば正常な機能を取り戻せるという意味でのバグとして排除することが困難になるから」
男の顔にはいくつかの青痣が浮かんでおり、薄い唇には切れた跡があった。視線に気づいたのか、奇妙に官能的な仕草で傷口をなぞる。
「うとまれるのには慣れているが、うとまれるときの度合いというのが、いつも尋常ではなくてね。昔からです」
自嘲的に顔を歪めると、傷にさわったのか、眉をわずかにしかめた。男の背後には刑務官が直立しており、普段の生活では意識しない、非人格的な、ゆえに人間を斟酌しない公というものの圧力を私に思い出させた。
「いまや人々は、与えられた民主主義になじまず、望んだ社会主義を選択しようとしている」
思考を読まれたような錯覚に驚いて、視線を戻す。
色素の薄い瞳。向けられる両目の奥に、私はそれまで気づかなかった異様な光を察知した。
「現在を食い荒らすポピュリズムは、万人の未来を担保にしている。あらゆる特権は部屋の端から絨毯をめくるように剥奪されてゆき、それは同時に、目指すべき峰々と頂を喪失した登山家の絶望にも似て、未だ何も為さぬがゆえの希望を抱いた人たちへ迫る。己の能力に見合う専門性を突き詰めてゆくことから生じる称揚感は人間の向上に不可欠な要素だが、それさえも待ち受ける罵倒に著しく弱められることをあらかじめ予期せねばならない。より良くありたいという魂の本来が、低きへの同調圧力により否定される。これから始まる人たちに共通する不幸ですね。やがてビューロクラットたちへすべての特権は集約され――」
そこで男は刑務官の方をちらりとうかがうと、わずかに声をひそめた。私は冷ややかに考える。ここでの会話はすべて記録されているはずだ。だとすれば、その行為は文字通りの芝居に過ぎない。
「――つのる不満の解消はバンドワゴンの方法を以って為される。つまり、社会の構成員一人ひとりが他の構成員たちによる一斉の攻撃対象である一時期を受容した、憎悪の持ち回りが始まるのです。憎悪は定常しません。憎悪にも、新鮮味が必要というわけです」
男は、それがひどく面白い冗談であるとでもいうように、くすくすと笑った。
「そして、構成員のすべてが憎悪をリレーし終えたならば、他の民族、他の国家へと転移の先を拡大する。究極には、いくつかの民族ないし国家との、破滅や覇権を“賭けない”恒常的な戦争状態を作り出すことができれば――」
「オーウェルですね」
思わず、口を挟んでいだ。呵成な、しかし一方通行の言葉に飲みこまれそうになったからだ。ここに至り、発言の内容というよりは、抑揚や声の調子こそがむしろ危険なのだと気づかされる。
男は、気勢をそがれたような表情で、手のひらをこちらへ向けた。
「いや、すまない。ホラ吹きの、誇大妄想の習い性で、ついつい話が大きくなってしまう。もはや自分に関係ないものとして天下国家を論じるときの快感は、ちょっと何事にも変えがたいからね。語ることは伝えること、伝えることは教えること、そして、教えることは成すをあきらめることだと言う。君がわざわざ面会を求めてきた理由について、もっと配慮をするべきだった」
言いながら、軽く頭を下げる。高まりつつあった先ほどの熱気は、嘘のように消えていた。感情の振幅よって受ける印象が全く変わってしまう。不思議な人物だ。
「では、単刀直入に君の聞きたい言葉を言おう。『現在、この国において、テロは非常に有効な手段だ』」
今度は淡々とした言いぶりだったが、言葉の内容そのものが瞬時に私を縛りつけた。
「例えば、君は田舎路線の怠惰で不機嫌な駅員だ。ときどきの理不尽なクレームを除いては、微睡むように日々を過ごしている。今日もバケツを片手に、アンモニア臭のこびりついた駅構内のトイレで、乗客の小便や大便へモップをかける。経費削減の折、清掃業者も快速の止まらぬこんな小さな駅にはやってこない。この仕事が嫌で嫌でしょうがない君は、ある日、ネットで手に入れた毒――水溶性で、粘膜から吸収されるヤツだ――を密かにトイレットペーパーへと染み込ませる。声明があれば、なお効果的だ。一週間も経たないうちに、沿線すべての駅構内にあるトイレは使用禁止となり、君はときどきの理不尽なクレームを除いては、汚物処理から解放された日々を心安らかに過ごすことができる」
馬鹿げ例えばなしだ。そう考えた瞬間だった。
「そう、馬鹿げた例えばなしだ」
まただ。まるで私の思考を読んだかのように、男はうなづいた。
「何より、達成される結果のくだらなさと、己の社会生命を永久に失う危険性とが、全く釣りあっていない。この二つを釣りあわせる方法は、論理的に考えて二つだけだ。ひとつは、人生を投げうつほどの大義を、もたらされる結果に与えること。もうひとつは、個人の価値をもたらされる結果の矮小さにまで縮減すること。おや、我々の社会が抱える危機の正体がどうやら見えてきたな」
男はいまや、間近で遭遇した草食獣を見る肉食獣が持つ確信で、ことさらにゆっくりと身を乗り出してみせた。
「個人の価値は、その内面的な膨張とは真逆のベクトルで、急速に消失の地点へと向かいつつある。一度その事実を何の虚飾もなく直視してしまえば、反社会的行為へ己を投げ出すのは、至極簡単な仕事になる。恋愛やアイドルや虚構やエロや、そんな安い充足さえ、やはり充足なのだという単純な人間心理に思い至らず、総じて何らかの規制へと向かう昨今の動きは、社会にとっての錆びついた安全装置を外そうとする試みに他ならない。やがて可視化した因果に青ざめることになるのだろうが、私にとってそれはまずまず素晴らしい、満足のできる結末のひとつと言えるだろうね」
私の心中を直接に値踏みするかのように、色素の薄い両目が細められた。
「君はまだ、ふりをしている。理解できないふりを。メディアは『不条理な暴力に屈してはいけない』と言う。いずれも判で押したようにだ。しかし、言う者も聞く者も、実感など持ちはしない。なぜならそれは、台本に書いてある、反社会性に対する定型的な応答に過ぎないからだ。一線を越えてしまった者たちの切迫感や熱には及ぶべくもない。両者の関係性を人々に連想させないための冷却期間を置くほどには、この社会は賢明だが、現に首都の電気街で発生した事件は法改正にまでたどりついた。その実行犯の願いをかなえるが如く」
私はそのとき、ある種の惑乱状態に陥っていたと思う。なぜなら男の言葉は、長らく私の脳髄を占拠していた妄想と合致してしまっていたから。
「乱立する新興メディアを含め、一億が放言する無秩序さの中で、誰も君の言うことに耳を傾けたりはしない。唯一、大勢から耳目を集めることができるのは、一定の歳月に耐えた能力者か、社会秩序の擾乱に繋がる規模の犯罪を行った者だけだ。もっとも、準備はしっかりとしておくことだ。与えられるのは、構成員の多数へ向けた発言のチャンス数回でしかない。だが、過剰に恐れる必要はない。個人的な経験から言えば、ほとんどのメディアはよりセンセーショナルな報道を求めるという点で、内容を吟味できるほど賢明であるならば、むしろ我々にとっては味方となりうる。必要なのは、一つの生と一つの主張との等価交換を是とする気概だけだ。本来、個人が微温的な安寧を拒否することは、簡単ではない。しかし、社会から十全に許容された人間が、私などの話をわざわざ聞きたいと考えるとは思えない。だとすれば、答えはすでに、君が独力でたどりつける場所にあるはずだ」
男はゆっくりと片手を持ち上げると、私の胸元を指差した。適切な返答を思いつくことができず――何よりこの会話が記録されているのだという事実と、背後に控える刑務官とにひどくうろたえてしまい――面会時間を残したままコートを手に取ると、曖昧な暇乞いと共に私はあわただしく立ち上がった。
「もうないとは思うが――」
ドアノブに手をかけたところで、背中に声がかけられる。
「また私を訪ねる気持ちになったら、次は何か甘いものを差し入れてくるとありがたい。最近どうにも、脳の働きが悪くなってね」
ひどく面白い冗談を言った、とでもいうような忍び笑い。
「いや、つまらぬことでお引き留めだてをした。では、ごきげんよう、上田くん」
少女保護特区(10)
書類を片付けながら、ふと手の甲に鼻を近づける。石鹸の匂いがするだけだ。少々過敏になりすぎているのかもしれない。現場から離れて久しいのに、ほとんど習い性になっている。妻は、血の臭いをひどく嫌うから。
局の建物を出るとき、水音を聞いた。奥の駐車スペースで、同僚が車両を洗浄しているのだろう。ポケットに手をつっこんだまま、ゆっくりとそちらへ歩いてゆく。
吹きかけられた水は車体を伝ううち、茶褐色に染まってコンクリートへと滴る。ホースを握っているのは、初老と言っていい年齢の女性だ。一声かけると、眉を寄せた険しい表情で振り返る。だが、私を見るやたちまち相好を崩した。
お互いの家族に関する他愛の無い会話。内容は以前に話したことばかり。同じ職場に居合わせただけの、出自も年齢も異なる二人の間に深い理解があるとは思わない。けれど、言葉を交わすときの仕草や表情に、私の心は安らいだ。安らぎとは暖かではなく冷えているのだと気づいたとき、私はずっと拒絶してきたものを許せると思えた。ふと会話が途切れ、夜勤へのねぎらいを言いおいて帰途につく。
ラッシュ時と言っていい時間帯にも、田舎の単線は高い乗車率からほど遠い。戸口の席へ崩れるように腰を下ろすと、急に体を重く感じる。最近ではいつも、このまま立ち上がることができないのではないかと思う。定時退社に週二日の休みが約束された閑職である。収支の固定した、毎年同じ数字を並べるだけの経理に、職務上のストレスなど生じようがない。確かに、年齢を言われればその通りだ。ただ、不安になる。休息をわずかに上回った疲労が体の奥底へ澱のように積もって、駱駝の背に置く藁の例えのように、いつか私を壊してしまうのではないかと。
車内の様子を見渡すと、やはり誰もが疲れているように見える。だがそれは、慰めを求めた願望の投影に過ぎないのだろう。向かいの窓へ視線を戻せば、薄暗い景色を背にして一人の男が映りこんでいる。スーツ姿のくたびれた中年だ。あの頃、誰がこの未来を予想しえただろう。本当に、長い回り道だった。私は、来し方を振り返るような気持ちになる。
結局のところ、はぐれ者の居場所は、はぐれ者たちの中にしかなかった。少女との旅を終えた私は、家のローンを返済しながら子を成すような当たり前の日常を求め、職探しに奔走した。合法だったとは言え、有名な大量殺人者の片割れだ。人定作業をすれば、すぐにそれとわかる。応募する片端からすべて不採用。いま思えば当たり前のことだ。しかし、それほど切実で、それほど何も知らなかったのだ。途方に暮れた私は、ほとんど唯一のコネを頼りに清掃局を訪ねた。
――もっと早くに連絡をくれればいいのにさ。水くさいねえ。
面会を求めに来た私は、よほどくたびれていたのだろう。見るなり、相手は声をあげて笑った。
――机はもう用意してある。あのときからね。功労賞だよ。
言いながら、皮肉っぽく口の端を歪めてみせる。
――まあ、あんたたちのせいでこの部局もいずれ、ゆるやかに解体されていくんだろうが、公務員にはちがいないからね。入り口は関係ないさ。あんたがあの娘を引き受ける限り、私はあんたを引き受けるよ。それが私の、仁義ってやつだ。
ともに日常へ帰ることを求めたのに、結果として私たちを受け入れたのは、非日常と隣合わせの一隅だった。やくざ者は任侠を隠れ蓑にして弱者をからめとり、コネや情実は排除すべき俗劣な悪習だと人は言う。けれど、かけられた言葉に涙が出た。
私は長い間、社会での己の位置を定めてこなかった。観測の定点を持たなければ、現実をいかようにも断罪できる。ゆえに、私は何も知ることができなかったのだ。どこにも所属しなければ、すべては意味の無い繰り言として通り過ぎてゆく。所属することで、人は己が壊してはならない最小限を定める。その約束は、小さな灯火となって闇を照らす。そして、別の誰かが周囲で灯火をかざしていることを知る。人類を存続させることを決めた人々が身を寄せあい、この世界の実相である暗闇に、共同体という名付けの微かな光を切り取ってきたのだ。
古来、数々の伝承で想定されてきた神々とは、世界の埒外にいて誰とも約束をしない存在の暗喩であった。すべてが意味を持たないならば、ただ破壊を繰り返すことで自足できる。そして、すべてを壊し続けることは、誰にも救えぬ永遠の孤独を生きることに他ならない。かつて、この身は一柱の神だった。やがて人々と約束を交わし、朧な灯火をかかげ、この肉は人となる。神代の騒擾が去ると、残ったのは人の世のしんとした静寂だった。
神を捨て、人として手に入れたものを愛しているかと問われれば、間違いなく愛着はある。愛情は他者へ向かうが、愛着は己へ向かう。そして、倦怠は新たな関係の構築を億劫にさせ、結果、愛着が増幅する。あるいは、この静寂を拒否できないほどには、私も歳をとったということかもしれない。
郊外にある駅舎の灯は早々に消える。夜空を見上げればいくつもの星座がくっきりと浮かびあがり、赤い帯が筆を走らせたように縦断しているところだけが、子どもの頃の記憶を裏切っていた。最寄り駅から中古の一軒家へと歩くこの十五分ばかりは、いまの私にとってすべての社会性から離れることができる唯一の時間だ。深い闇に身体の輪郭が薄れると、自我もじわりと溶け出してゆく。安逸とともに、十代のときそうだった何者でもない自分へと還る。間遠に並ぶ防犯灯が光の円錐を投げ、そこへ踏み入れるとき、闇に拡散した分子は私へと再構成される。そして、戻りきれなかったわずかの澱が羽虫となって街灯の周辺を舞う。だとすれば、この自我はきっといつかすべて消失してしまうに違いない。私はたぶん、その日を心待ちにしている。
いつもの角を曲がり、遠目に我が家を確認する。門扉が薄暗ければ問題ない。でなければ、何かがあったということだ。そしていま、開け放たれた戸口から差しこむ家の明かりが、ほっそりとした人影を浮かび上がらせている。妻だ。
気取られないほどわずかに、歩調を速める。もはや異変を確信していたが、それを深刻に受けとれば妻は動揺するだろう。門扉に手をかけると、笑顔とともにさりげない調子で帰宅を告げた。途端、妻は胸のうちへ倒れこんでくる。青ざめ、震え、涙を流す。あの頃と変わらぬ肉付きの薄い、それでいて柔らかな肢体。背中を撫でてやりながら、栗色に染まった髪に白い一房を発見する。やはり、あれから時間は流れたのだ。
愛する妻に向けたいくつもの優しい、当たり前の言葉。けれどそれを聞くとき、なぜか身内の疲労はかすかに、水を含むように重くなった。泣き顔に刻まれた皺は、かつてより長くそこへ残る。妻の言葉は一向に要領を得ず、家の中へ入るよう肩を抱いてそっと促すと、わずかに首を振った。その仕草が、事の顛末を理解させる。心配しないよう言いおくと、ダイニングキッチンへと向かう。
割れた食器と食べ物が散乱し、広がったソースが床を汚す。椅子は横倒しになり、テーブルは壁との並行を失う。その無秩序の中に、黒髪の少女が仰向けに横たわっている。瞬間、倒錯した印象が私を襲った。ここは古代の王の居城であり、我が娘はその主菜として饗されるのだ。王の名は知っている。王の名は――
そこで背後に妻の気配を感じ、私の幻視は破られた。タートルネックに包まれた胸元はかすかに上下しており、どうやら意識を失っているだけのようだ。
――強く叩いたつもりはなかったの。
妻の心に刻まれた深い傷跡。あれからもう、十年以上が経つというのに、それは決して癒えようとしない。私たちは皆、傷跡に足をとられる。幾度も幾度も、繰り返してしまう。そこにあるとわかっているのに、滑稽なくらいまた、同じ場所で転ぶのだ。
――言うことを聞かなくて、だから……
ふいに耳鳴りがし、外界が遠ざかる。じつに不思議だ。予の少女は目の前で気絶しているのに、鈴のような愛らしい声が後ろから聞こえた。ぬめるような黒髪の質感を楽しみながら、うなじへと腕を回して予の少女を抱え起こす。軽く頬をはたいてやると、艶めかしい呻き声とともに意識を取り戻した。
魚の腹の肌理をした白い肌。
紅をはいたように真赤な唇。
大きな瞳は澄んだ湖というより、むしろ森の奥に隠された沼のようだ。しばらくして、眠ったような瞳に焦点が戻ると、私の首へ力無く両腕をからめてくる。すぐ耳元での嗚咽に、背筋へ電流が走った。
この美しい生き物は、予を頼っている。予へ依存している。
予なしでは生きられず、呼吸の如く予の関心を必要とする。
この穢れない魂を、そう、予は恣に蹂躙することができる。
灯火が消え、闇がゆらめく。魔のような、永遠と同じ長さをした一瞬。
――……さん、吉之助さん。
人の名が呼ばれ、神が去る。振り返れば、幼子の寄る辺なさで、妻が身を震わせている。そして、怯えた表情の娘が、腕の中で私を見上げている。
その瞬間、理解した。かつて私に向けられた、瞳に宿るかぎろいの正体を。
ああ――
両親が見ていたのは、この光景だったのか。
ふいに、悲しみが私の胸を浸した。人のいない雪山のような、静かな悲しみだった。
娘を抱き上げ、立たせてやる。そう、ならばやりとげなくてはならない。二つの傷から、この穢れない魂を遠ざける仕事を。
――どこも痛いところはないね。
言いながら頭に手を乗せてやると、こわばった表情はようやく緩んだ。
――怪我はないみたいだ。大丈夫だよ、万里子。片付けたら、みんなで食事にしよう。
微笑みが、不自然にならないように。妻の両目から涙がこぼれ落ち、かすれた声がしぼりだされる。
――ごめんなさい、吉之助さん、ごめんなさい……
きっと明日から、疲労はいっそうつのるだろう。昼は色を失い、夜は長くなるだろう。
人生という名の永遠が、いまようやく始まったのだ。 <了>