猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

映画「超かぐや姫!」感想

 直近の体験から、アニメをわざわざ映画館で鑑賞する意義を感じられなくなっていたのと、ステレオ音声のみの上映であるようなので、話題作の「超かぐや姫!」を自宅テレビのネトフリで見る。色彩とアニメーションの洪水みたいな作品で、静止画ではカエルみたいにうつるだろう作画の崩し方など、「造形の端正さ」というより「動きの楽しさ」を優先して作られている気がしました。ライバー、Vチューバー、ボーカロイド、VRチャット、原神、エーペックスなど、10代と20代の若者に刺さる要素を、たがいの相性を考慮せず闇鍋のごとくほうりこんでいるのに、かぐや姫という古典の大筋があるので、ほとんどカーブのさいに片輪が浮くほどの暴走をしながら、なんとか最後まで物語の線路上を走りきった印象です。もともと、全12話のシリーズで企画されていたようで、中盤の長すぎるモンハンみたいなリーグ・オブ・レジェンズは映画的な構成を阻害しているし、唐突な実兄の登場や解消されない母との葛藤も、尺の都合で満足に掘りさげられません。馬齢を重ねたせいでしょう、特に京言葉をあやつる母親のあつかいは不当にひどいと思いました。はやくに夫を亡くして女手ひとつで兄妹を育ててきたのに、2人ともが感謝もなく後ろ足で砂をかけるように家を出て、上京してしまうーーもっと巧妙に、反抗も逃亡もできないよう子どもを縛る親はいくらでもいる中で、「親を一個の人間として理解する」段階が描かれなかったのは、いち観客として拒絶されているように感じました。そもそも「親との葛藤」というのが、近年の家庭をえがくさいのテーマとして古くなっている可能性があり、「両親ともに死別か海外出張」ぐらいにしておいたほうが、よけいな雑味なくスッキリ見られたのではないでしょうか。

 話を物語の本筋へもどしますと、「定型発達の生真面目な主人公が、ADHD傾向のある奔放なヒロインにふりまわされるうち、心のカラがやぶれて内面の葛藤がほぐれる」という展開こそ、古い王道のボーイ・ミーツ・ガールですが、少女どうしでこれをやるのは、現代の世相を強く反映しているように感じます。すなわち、女性だけでなく男性にとってさえ、いまや”性欲”が邪魔なものになってきているということです。肩をはだけヘソをだし、肌もあらわな女性のルックスは、「かわいい」「きれい」「かっこいい」と感じなければならないもので、万が一にも男性器を勃起させるニュアンスをはらんではなりません。ホヨバを代表とする大陸のゲーム群では、「当局の検閲をくぐりぬける」という究極の一点から、意識レベルでの徹底的な性欲のオミットを実現しているのに対して、それに影響を受けた本邦の新しいフィクションにおいて、”性嫌悪”に近いものへ変奏されてしまうのは、じつに不思議なことです。「セックスもしくは類似行為による身体性の回復」は、ジュブナイル作品にとって重要なプロセスのひとつだと信じておりますが、本作ではその位置に「味がする/しない」を代入したのは、きわめて巧妙な手口だと思いました。物語の終盤で、とても令和のフィクションっぽいなと感じたのは、「6000年の経過に魂だけとなった存在を受肉させる」ことに東大リケジョ(笑)のハイキャリアをすべて捧げる展開で、おのれの能力を「世界をより良い場所にすること」や「人類の未来に貢献すること」に使うほうが、よほど荒唐無稽な”つくりごと”で、いまや「気のおけない友人と再会し、笑いあうこと」こそが、若い世代にとって身の丈のリアルなんだろうと考えさせられてしまいました。

 昭和のフィクションなら、「別離の痛みによる成長」とか「再会の瞬間が別れのとき」みたいなビターエンドを持ってきそうなところに、「味蕾をそなえた完璧な素体を完成させ、バーチャル空間で魂のデジタルコピーが実現し、未熟と成熟と不死を総どりしながら、イツメンのライブで大盛りあがり」という悲しみも喪失も、そして成長さえもすべて拒絶したウルトラハッピーエンドになるのは、虚構の持つ願望充足の機能をフル活用していて、いっそ清々しささえ感じます。この映画のターゲット世代が、はたして10年後、20年後に同じ結論を保持していられるかに興味はつきませんが、我々の世代とまじわりのない人生たちの様相に、ロートルからとやかくは言いますまい(言ってる)。いにしえの「ロトンひつじみず」に代表される社会的抑圧を通過してきた身にとって、本作における「友人を出産する無痛分娩」に類するドリームが、外的な要請のいっさいをはねのけて個人の願いをつらぬきとおす新たな希望なのか、児相やらコンプラやらハラスメントやらでがんじがらめにされて、大人が若者にさわれなくなった結果の暴走なのかは、いずれ時間の経過が判断してくれることでしょう……などと視聴中は終始、冷笑的な態度をつらぬいていたのですが、エンディングで初音ミクのメルトが流れた瞬間、眼球の基底部から水平に涙がビュッといきおいよくとびだし、そこからは画面がにじんで見えないほどの大号泣となり、「超かぐや姫!」全体への印象をさかのぼって永久に上書きしました。個人的に、「テキストと画像」から「音楽と動画」へと移行する過渡期の、古いワールド・ワイド・ウェブの消失と新たなインターネットの台頭を象徴するような曲でーー当時なんどもリピートしていたこととあいまって、「完全に正常な外殻をそなえているのに、内面の苦しみがいつまでも消えない」という、生活にひもづいた玄妙なる感情をふいによびさまされたからです。この映画を、葛藤とは遠い場所で楽しむ10代、20代の若者たちは、「超かぐや姫!」というタイムカプセルに、どんな記憶と感情をあずけるのでしょうか。

アニメ「エヴァンゲリオン放送30周年記念特別興行」感想

質問:猊下におかれましてはこちら、ご覧になりましたか?ぜひご感想を拝読したく思います。

回答:動画流出の経緯について、横目にながめてはいましたが、自分で検索してまで見る気はなかったので、存在しないはずの機会をあたえてくださったことに、まずは感謝を申し上げます。情報統制への偏執狂的なこだわりから、鎮圧へやっきになるのと、それに続く対応の大失敗までをふくめて、じつにQアンノらしい、ドタバタの狂騒曲だなと思いました。つくづくエヴァというコンテンツは、新劇が後半2作でサイファイの線路を外れて私小説へと大脱線した結果、この還暦オヤジによる執拗かつ無意識の”萌え仕草”ーーあーん、ばかばかぁ、ウッカリ弊社スタッフがgoogleドライブをハッカーどもに開陳しちゃったよう(泣)! でもでもぉ、ひらめいたぞぅ、よぉし、わざわい転じて福となぁす(嬉)! 全世界のファンに無料で動画をプレゼントしちゃうぞぉ(驚)!ーーを好ましいと感じられるかどうかに、すべての評価軸をひもづけられてしまったなと、深いため息がでます。今回の特別興行を見て、まっさきに頭に浮かんだのは、1996年発売のCDに収録されていたボイスドラマ「終局の続き」で、いまだDAICONフィルムの延長線上にある”昭和の悪ノリ”を令和の御代において目の当たりにするのは、なつかしいというより、車酔いのようなめまいをともなうタイムスリップ感でした。パロディ時空で物語の本筋がないせいか、シンエヴァよりはキャラの本質を壊さず寄りそおうとする姿勢はありましたし、「甘き死よ、来たれ」のイントロにあわせた「アイノウ……」「オマエが歌うんかい!」という、浜ちゃんを彷彿とさせるベタなツッコミには、ほとんど展開がわかっていたにもかかわらず、思わずクスッと笑ってしまいました。しかしながら、テレビ版の企画書にのみ名を残す最終話タイトル「たったひとつの冴えたやりかた」という、冷蔵庫に残された最後の大ネタをギャグ短編で消費したのは、すべての人間的な救済を拒否して「これからも戦いつづける」宣言をQアンノに強制されてしまったアスカとあいまって、エヴァンゲリオン霊感商法の新たなステージが到来することを、ひしひしと予感させられるものでした。先日、監督をたがえたネクスト・エヴァが発表されたようですが、またぞろ、なんらかの形でアスカを再登板させそうな気配がただよってきているように思います。いちばん強いのは、「もう商売のために、旧劇と新劇を無理矢理つなげるのはやめてほしいな」という気持ちで、28年と7ヶ月半前に埋葬された彼女の遺体を二度目の墓荒らしの憂き目にあわさず、ただただ偉大なツンデ霊廟(笑)としてあがめたてまつり、そっと放置しておいてくれることを、かつてのファンとして心から願うものです。

ゲーム「ドラクエ7リイマジンド感想(クリア後)

 ゲーム「ドラクエ7リイマジンド」感想(クリア前)

 ドラクエ7リイマジンド、結局あれから本編をクリアして、プラチナトロフィーの一歩手前、DLCの三魔王をたおすところまでプレイしました。この転機がおとずれた経緯を説明しますと、かしこいAIがどんな局面だろうと打開してボスをたおしてしまうため、次第に魔王軍のほうへ感情移入するようになり、「たのむ、だれか勇者パーティを殺してくれ!」と追いつめられた敵幹部みたいな思考になっていったのです。その願いもむなしく、すべてのボスは勇者たちのまえに散華し、ほとんど絶望しながら2回目のオルゴ・デミーラにいどんだところ、なんと第4形態のマダンテ2発で勇者パーティはゲーム全編を通じて、初の全滅をとげたのでした! これには思わず椅子から立ちあがり、夜中にもかかわらず「やったー!」と心からの絶叫がほとばしったほどです(駆けてくる家人の足音)。そこからは、「くっそー、魔王めー」とようやく勇者としての主体を回復し、とりこぼしたアイテムをあつめ、装備や職業のシナジーを吟味し、ようやく手動の戦闘でレベリングを行いました。30時間が経過するまで気づいていなかったのですが、今回の転職システムは6以降の累積型ではなく、メインとサブにつけたジョブの魔法と特技のみアンロックされるFF11方式だとわかり、かなり印象は好転したことをお伝えしておきます。そうしてラスボスをたおし、異世界で神さまをたおし、さらなる異世界で神さまと4精霊をたおすまでの10時間弱は、過去のドラクエ体験の中でも、最高の記憶のひとつとなりました。特に、神さまと4精霊のバトルは極限の死闘で、4精霊をしりぞけ、神さまひとりを赤ネームまで追いつめた段階でMPはほぼ枯渇し、イオグランデとマヒャデドスの連発で生き残っているのは、これまた赤ネームのガボのみとなり、ザオリクでたてなおすか攻撃するかをゆうに5分ほどは悩み、ええい、ままよとくりだした”ばくれつけん”がすべて一桁台のカスダメだったにもかかわらず、神さまのHPを削りきった瞬間、夜中にもかかわらず「やったー!」と心からの絶叫がほとばしったほどです(再び、駆けてくる家人の足音)。ちなみに、そこから挑戦したDLCの三魔王は、”かみさまの心”を悪用した「ルカニ、バイキルト、マッスルダンス、ぶんしん、ばくれつけん」でいずれも瞬殺でしたので、特に感慨をいだくいとまはございませんでした。

 そして、新規層の流入を企図すべく、ここまでをマラカス両手のユルいラテン系なノリでバランス調整してきたくせに、プラチナトロフィーを目前にして、ちいさなメダルとラッキーパネルが黒縁メガネをかけた神経症の青白い日本人ーー名前は雨宮賢ーーとして立ちはだかってきたのです。「過去と未来の双方にちりばめられた100枚のメダルを、1枚の取りこぼしもなく集める」というタスクは、宝箱をいくつかとりのがしても探索率100%を達成できる原神を経験したあとでは、パワハラまがいの異常な作業としか思えません。他人のチェックリストと首っぴきでメダルのとりのがしをつぶしていくのですが、フラグ管理の都合から過去世界へのルーラがきかず、いちいち石板まで走らされるのは心底ゲンナリで、最悪の仕様だと感じました。そして、最後の最後で番町皿屋敷ばりに「いちまぁい、足りなぁい」となったときには、夜中にもかかわらず心からの絶叫ががほとばしったほどです(三たび、駆けてくる家人の足音)。また、昨今の事件からコンプラ的にまずいと思ったのでしょう、カジノがまるまる削除されており、代わりに入れられたラッキーパネルなる遊戯が、これまた最悪に輪をかけたミニゲームになっているのでした。簡単に説明すれば、「シャッフルありの神経衰弱」なのですが、最高難度の24枚なんて初見の数秒で記憶できるわけありません。まあ、「できる」と強く信じている全人類の上位数%に位置する知能の持ち主がこれを考案した可能性は否定できませんが、本邦のゲーム制作者たちは半島や中華のゲームがなぜいま、これだけ広範な地域と人種に受け入れられているかを、いまいちど真剣に分析して学ぶべきでしょうね。崩壊スターレイルのミニゲームは「知育玩具」などと揶揄されますが、ここから全世界のゲームプレイヤーの平均知能が、本邦のそれよりもずっと低い位置にあることを読みとらなくてはなりません。それにくらべて、ラッキーパネルの知的負荷はあまりに強すぎ、「もっとアホにむかって作れよ! 本編の戦闘バランスは、まちがいなくバカ専用(笑)なんだから、できるだろ!」という気持ちにさせられます。結局、ケイタイで撮影した動画を見ながらカードをめくるハメになるわけですが、クリアできたとして入手できるレアアイテムはランダムになっていて、コンプリートまでに必要な試行回数を想像するだけでイヤ気がさして、早々に断念しました。

 「メダル100枚」と「全アイテム入手」のトロフィー”以外”を獲得したところで、7リイマジンドの冒険はこれにて終了とさせていただきます。いまの胸中をたとえ話でお伝えさせいただくと、「シャトーブリアンをジュウジュウにウェルダンで焼いたあと、ローストビーフみたいに薄切りにしたものへ、ケチャップとマスタードをドバドバにかけて完食した」ような気分で、そのステーキハウスからの帰路、友人たちと爪楊枝でシーハーゆわせながら、「まずくはなかったけど、2度と行かねーかな」と野卑に笑いあっている感じと表現できるでしょう。全体的に、例の「マル、三角、四角、長方形、平行四辺形などにくり抜かれたフタの穴へ、形のあう積み木を入れさせることを意図した知育玩具なのに、マルの直径が大きすぎるため、すべての積み木をマルから入れられてしまうのをなげく、オモチャ製作者の動画」みたいなゲームでした。おわり。

ゲーム「崩壊スターレイル・月満ちる時に神はなし」感想

 崩壊スターレイルのバージョン4.0「月満ちる時に神はなし」を実装部分までクリア。今回の舞台について簡単にまとめると、「1999年の日本を下敷きとした二次元パラダイス」であり、江戸星などの既出ワードから原神における稲妻のような世界を予想していたので、かなり意表をつかれました。おそらく、昨今の二国間の情勢に影響されたのでしょう、「無国籍なアジア地域の繁華街」と強弁できなくもない街並みになっているのには、ある種の配慮を感じます。余談ながら、原神に右のボール、スターレイルに左のボール、エンドフィールドに中央のスティックをつかまれている身にとって、希少土などよりもよほど供給を止められてはこまる産業ですので、いちオタクとして早期の関係回復を切にいのるものです。当局に目をつけられるかどうかのラインで”反体制”をしのばせてくるライティングは健在で、突如として「世界が滅びようってときに、お上にいったいなにができるっていうの?」みたいな中共へのビーンボールが顔面スレスレにとんできたりして、喝采より先に心配がきました。鴨川をモジった”鳩川”なる地名がサラリと提示されることからも、この街を前世紀末の京都に見立てていることは確定的にあきらかで、もしかすると制作サイドに本邦への留学経験のある「学生さん」か「同やん」がいるのかもしれません(「立ちゃん」は、鴨川に思い入れなんてないでしょう)。以前にもお伝えしたように、学生時代は四条河原町あたりでのたくる日々を送っており、ゲーム内の光景に「川をはさんだ街並み」以外の共通点はないはずなのに、どこかなつかしさをくすぐられるのは、じつに不思議な感覚でした。「オンパロスという一大叙事詩のあとに、なにを持ってこられても、格落ちにしかならんよなー」とヘラヘラ笑っていたところへ、「おのれの過去の情動とヒモづいた、他国から見る特定地域の魅力」みたいなものを正面からぶつけられて、すこし動揺してしまったのは否定できません。

 さらに、マップ移動には土管を起点とする、スーパーマリオをオマージュした、横スクロールの8ビット・ワールドが用意されていて、ブラウン管につながれたファミコンの前にすわる小学生の自分が、エロゲー全盛期にむかえる大学生活を先どりして体験しているような、じつに倒錯した気持ちになりました。また、大好きなキャラ造詣でありながら、ピノコニーでは悪役としてイマイチ不完全燃焼だった花火たんに、あらためてスポットライトが当たったのもうれしく、彼女とウリふたつのライバーである火花たんとの実存をめぐるやりとりは、いちテキストサイト運営者として感じいるものがありました。特に、「1万人の仮面を演じることのできる役者は、はたして最初の人格をおぼえていられるか?」という問いかけは、1999年1月10日にインターネットへ投下されたnWo最初の記事を読みかえすとき、「これを書いたのは、いったいどんなヤツなんだ?」と首をかしげる人物にむけた虚構耽溺者の掘りさげとしては、”かいしんいちげき“クラスの中身だったと言えましょう。そのあとにつづく、「ベッドの上で金縛りに身動きがとれず、人格排泄ボタンを押さないよう懇願する少女」の有り様には、「爬虫類の表皮と同じヌメヌメとした質感をした、忘却のうちにあった小昏い性癖」を刺激され、いまや得体の知れぬ反社会的な衝動に、ひどく動揺させられたことを告白しておきます。

 バージョン4.0の結末において、本邦の公立高校を思わせるあかねさす教室で、たがいにたがいをずっと昔に死んだはずだと信じる父娘が、「おまえはだれだ?」と誰何しあう場面で幕を閉じたのは、前世紀末に隆盛をきわめた「雫」「痕」「久遠の絆」などに代表される伝奇ノベルゲーへの強い目くばせがあり、瞬間、1990年代のフィクションがまとっていた独特な空気感の中へ、あたかもタイムスリップしたかのようでした。虚構内ニュース番組で初代Fateについてパロディめいた言及などもあったり、オンパロスの重厚さとはまったく異なったアプローチながら、自分自身が過去に通過した現実と虚構、双方の遍歴と密接にからみあうような物語体験になっていて、いまは今後の展開へ期待と恐れを半々にいだいております。もう幾度目になるかわからない、「どうして我々がうみだすべきだった物語が、我々とはちがう場所から、世界にむけて問われているのだろうか……」という重たい嘆息とともに、このテキストを閉じることといたします。

ゲーム「ドラクエ7リイマジンド」感想

 ドラクエ7リイマジンドを20時間ほどプレイ。まず、プレステ1で発売されたオリジナルについて、ザッとおさらいしておくと、「もっとも制作期間の長い、もっとも売れた、もっともつまらないドラクエ」だったと言えるでしょう。エフエフの同ナンバリングが、クリエイターの交代による新生を印象づけたのに対して、おそらく「大人のドラクエ」としての脱皮をめざした結果、本来のはつらつとしたユーモアをうしなって、「ギリシャ悲劇小品集」のような、鬱々たるぎこちないパッチワーク的な連作に堕してしまったのです。この時期のホーリー遊児はスランプに陥っていたか、もしかすると心を病んでいたのかもしれません。5年にもおよぶ、遅々として進まない制作状況に対して、当時のメインプログラマーがどこかの酒場で、他社の人間から「おまえがしっかりしなきゃダメだろ」と叱咤されたという話が、いまに伝わっているほどです。クリアまで70時間はゆうに越える、ディスク4枚にわたるウンザリするようなこの超大作は、「いつまでもいつまでも延々と終わらないプロローグ」「バイカル湖の底みたいな不気味の谷そのもののムービー」「回転機能を悪用して建物の死角に配された見つからない石版」「長時間プレイを続けると熱暴走のハングアップで進行不能」など、ある才能の枯渇とシリーズの終焉を印象づけるような、まったくひどい製品でした。これを書いているのは、6から導入された全職業の魔法や特技が累積する転職システムこそ、ドラクエを壊したガンであると断ずる「ドラクエは5まで派」であり、7のことは「アスカの原型となったマリベルを生んだ以外に、見るべきところはなにひとつない、古めかしい凡作」としかとらえていません。これ以降、「レベルファイブの助力を得てすこしだけ持ちなおした原点回帰の8」「キャバ穣への偏愛をダイレクトに出力した”エッチな大人の”9」「結果としてシリーズに大停滞をもたらして新規層の流入を途絶えさせた10」と続いたことをふりかえると、やはり7はドラクエにとって、大きな負のターニングポイントだったと言えるかもしれません。

 さて、ようやくリイマジンドの話にはいりますと、鳥山明のデザインをほぼ完璧に3D化した”ドールルック”なる見た目は、ドラクエ世界の表現として100点満点の完全な正解をだしていて、今後のリメイクは珍奇なる”HD2D“という不出来の赤点をすべて棄却し、この形式でデータを蓄積したものを使いまわしていくべきだと感じました。UIも従来のドラクエからガラッと変えてきていて、少ないボタン数で快適かつ直感的に操作できるし、近年の海外ゲーで不満をおぼえがちな「フォントがダサすぎる問題」も、ドールルックにフィットするハイセンスな選択がなされていて、非常に好印象です。敵味方ともにこれでもかとアニメーションするにもかかわらず、戦闘のテンポはとても軽快で、ストーリーの誘導も適時適切におこなわれ、オリジナルにあった「石板を探して数時間をさまよう」などという事態は、ぜったいに起こりません。にもかかわらず、神さまを解放したあたりで、もう3日ほどプレイが停滞しているのです(余談ながら、オリジナルにおける神さまの登場は、ナディアのネオ皇帝回のように、世界中の空へ同時出現する演出だったのが、本作では室内でのできごとに矮小化されていて、ガッカリしました)。すべてのマップはあらかじめ開示され、次の目的地は一直線にしめされて迷うことはなく、戦闘はかしこいAIが”バッチリ”雑魚からボスまでを完封し、適正レベルを越えると棒ふりでモンスターは一蹴でき、ふんだんに用意された女神像はMPを管理する手間をはぶいてくれ、プレイヤーは新たな町に着くたびにタンス開けとツボ割りとテキストを読む作業だけしていれば、あとはゲームの側がすべて遺漏なくやってくれます。

 この違和感をたとえばなしでお伝えすると、毎晩を店にかよって高級シャンパンを入れ、心から相手に寄りそって尽くしているのに、ホストからは裏で邪険にあつかわれる女性事務員みたいなものだと表現できるでしょう。エンドフィールドが数時間もしがみつづけて、ようやく陶然となる味のしみだしてくる熟成ジャーキーだとしたら、7リイマジンドは米粒のよく砕けた中華がゆであり、さらに言えば咀嚼の必要ない流動食であり、もっと言えばアゴさえ使わずにすむ栄養剤の点滴であり、最悪もしかすると、嚥下の衰えた者にする胃ろうみたいなゲームなのです。難易度は3段階どころか、モンスターの強さから獲得する経験値とゴールドの多寡まで細かく調整することができ、しつこくステーキハウスでもたとえておくなら、立地よし、門がまえよし、内装よし、接客よし、テーブルに案内され、調度品よし、カトラリーよし、大ぶりな皿の上には生のシャトーブリアンがのっていて、なぜかそれを持って厨房へ移動するよううながされる。案内されたピカピカのキッチンには、考えられるかぎりの調味料や副菜が用意されており、「調味から焼き加減からサイドメニューまで、すべてお客様ご自身でご自由にお選びいただくことができます」と、うやうやしく告げられるーーオイ、プロの矜持をかなぐりすてて、プロのスキルや責任までを客にあずけてんじゃねえぞ! オマエは席まで人間が誘導しておきながら、スマホで注文させる飲食店かよ! けったくそわりい、ミスや不快の責任をすべて客に押しつけるのは、サービスとは言わねーんだよ!

 ドールサイズに縮小された細ぎれのフィールドに探索要素はほとんどなく、体験版で期待したような物語の分岐も用意されておらず、導入時の好印象は時間の経過とともに薄れてゆき、最後はゲームをしているのにすこしも楽しくなくなり、なんども寝落ちにコントローラーを取りおとすところまでいきます。いまはオリジナル版の悪癖である「同じマップを再利用したプレイ時間の引きのばし」の最たる「四大精霊をたおせ!」という展開をむかえており、「だっるッ!」とさけんだところに崩壊スターレイルのバージョン4.0がやってきたため、エンドフィールドの重めなデイリー消化とあいまって、ドラクエなのにクリアまでいたらない可能性さえ出てきました。数だけはムダに多い氷河期世代の現在を慰撫する過去の郷愁のみで、いい加減なリメイクが売れつづけてきたドラクエシリーズは、ポケモンのようには新しい世代へ浸透せず、われわれの退場とともに消えゆくさだめなのかもしれません。だって、この冒険感ゼロのベルトコンベアーみたいな作業、ほんとうにつまんないんだもん!

映画「閃光のハサウェイ・キルケーの魔女」感想

 閃光のハサウェイ・キルケーの魔女をIMAXで視聴。配信で見た前作の「ガンダムっぽくなさ」が気に入っており、次作は必ず劇場で見ると決めていたのです。あいかわらず「アニメを実写の手法で撮影する」ことを徹底していて、「室内にはためく厚手のカーテン」「真昼の陽光に照らされた滑走路」「日没の夕闇に沈む大都市」など、アニメか現実か見分けのつかないハイパーリアルな背景とともに、基本的に引いたカメラで撮影はなされてゆきます。演出のつけ方も、「塩をおさえ、素材の味を出汁のうまみで食わせる割烹料理」といった淡麗さで、場面転換は特に強調されずスッと行われるため、前作を数年前にいちど見たきりで、人名・地名・組織名の予備知識がほぼゼロである人物には、「いつ」「どこで」「だれが」「なにを」しているのかが非常にわかりにくく、くわえてみなさまのご指摘どおり、光源のない屋内や夜の場面が異様に暗く設定されていて、IMAXシアターであるにも関わらず人物の描線さえ視認できず、眠気を追いはらうためにシート上でなんども身じろぎしたほどです。前作では気にならなかったのですが、作戦室?のドアと窓をていねいに閉める描写など、演出意図の不明な部分も散見され、とつぜん走りだしたハサウェイをきっかけに音楽が流れはじめ、元カノとのなれそめが新海誠みたいな映像でフラッシュバックするのには、思わず笑ってしまいました。その一方で、必要と思える描写が多く削られていて、視聴後にエッキスでおっぱい艦長は戦死しているとの指摘を目にしたとき、「ええッ!! どこで!?」という声が大きめにほとばしったほどです。

 100分ちかくある上映時間のうち、80分ほどはひどく退屈で、なんども睡魔におそわれかけたのですが、終盤、突如として逆襲のシャアの映像がインサートされた瞬間から、モノトーンだった視界は物語全体に遡及してフルカラーとなり、理解不能だったハサウェイという男の人格と葛藤が立体化して、生々しく眼前にせまりはじめます。たとえるなら、淡麗割烹の板前がコースの終わりにやおらカウンターの上に土足で立ちあがり、白い調理服を脱ぎすてた下には隆々たる体躯をトゲつきの革ジャンがつつんでいて、岩塩とコショウをガリガリにすりこんだ牛肉のブッ刺されたBBQの鉄ぐしをバルログみたいに眼前へクロスさせたかと思うと、モウモウたる煙の中でジュウジュウに焼きはじめ、最後はたっぷりと特製特濃ソースにひたして手わたしてきたようなもので、「まあ、和食だし、こんなもんか」と内心でごちながら黙ってカウンターに座っていた客たちは、いまや滂沱の涙を流しながら、「あ、あじッ、味がするッ!! これッ、すッごく、味がしますゥ!!!」と牛肉串にむしゃぶりつく。忘我の賞味を終え、みながハッとわれにかえると、板前はなにごともなかったかのように、元の白い調理服を着てしずかに包丁を研いでおり、ほおに残る涙のあととソースで汚れた口元だけが、異常な”おもてなし”の行われた証拠として残るーーそんな体験でした。全体的にガンダムファンのための映画ですし、本作を激賞しているのはガンダムファンですし、本作の興収を押しあげているのもガンダムファンですし、ガンダム要素ぬきに単体の映画として自立する感じは、まったくしません。

 個人的には前作の流れから、ガンダムの皮をかぶった現代の若きテロリストの話を期待していたのが、結局のところ、現代の若きテロリストの皮をかぶったガンダムの話だったので、すこしガッカリしました。なぜ、これを作るのに5年もかかるのかはサッパリわかりませんが、おそらく乗りかかった船として、3作目も劇場に足を運ぶことになるでしょう。もちろん、ガンダムに興味がわいたからではなく、ただひたすらにエロかわカッコいいギギ・アンダルシアの肢体をながめにいくためです。あと、みなさん、「おっぱい、おっぱい」「肉欲、肉欲」と、ハサウェイを揶揄して大よろこびの様子ですが、正確には「肉欲と世俗を断ちきる」と言っており、仏教的な意味での”現世への執着”をあらわしているように思います。もしかすると、母親が日本人であることに影響されているのかもしれませんね。

ゲーム「アークナイツ:エンドフィールド」感想

 アークナイツ:エンドフィールドをサルのようにプレイ中。いよいよもって、なにか新しいゲーム体験を得たいと思ったとき、本邦のそれをファースト・チョイスにする選択肢は無くなってきたように思います。少なくとも虚構分野において、パトリオティズムに起因するエクスクルーシオニズムは、私の中で完全に消滅しました。これまで、原神ブレワイのビジュアル的フォロワー、崩壊スターレイルが軌跡シリーズの精神的フォロワーであると指摘したことになぞらえると、エンドフィールドはゼノブレイド系の「完全上位互換である」と表現できるかもしれません。リリースしたばかりなのに、すでにとんでもないボリュームのコンテンツが実装されていて、手ざわりはオンラインのソシャゲというより、買い切り型のオフライン大作RPGといった具合です。ゲーム開始から最初の5時間くらいは、「美少女たちと歩む、超絶美麗オープンワールド」といった風情なのですが、それは新規プレイヤーを引きかえせないほど深く巣の奥にさそいこむための、チョウチンアンコウの発光部分が女体になっている捕食者による、下準備みたいなものでした。ユーザー・インターフェースがけっこうわかりにくくて、「ホヨバのゲームなら、どれに相当するか?」を手がかりに脳内で翻訳しながら、ようやく操作感が手になじみはじめたころに、突如として怒涛の工場チュートリアルがはじまるのです。説明の文章をなんど読んでもサッパリ意味がわからず、これは相手が自分の言語能力を上まわっているからか、中国語からの翻訳に難があるのか、けっこう真剣に悩んだほどでした。

 理解を断念して、工場生産パートをスキップして先に進めようとするのですが、ストーリー展開とマニュファクチャリングがあざなえるナワのように一体化しており、避けて通ることは不可能になっているのです。正直なところ、土日の休みをはさんでいなければ、ここで永久に脱落してしまっていた可能性は充分にありました。なかば意地になり、数十個はあるチュートリアルを順にクリアしてゆき、手にいれた図面から製造システムを設置して、ああでもないこうでもないと丸一日さわり続けるうち、エウレカ的な瞬間が訪れて、すべての設備が詰まることなく流れはじめると、一気にゲーム世界へと深くダイブする感覚がありました。さらに驚いたことに、いったん自動化に成功した工場設備は、ログアウトしたあともサーバー上で生産を続けているのです。この仕様は、「時間の経過を裏切る、現実の積みあがらなさ」をつねになげく、社畜マネジャーたる小鳥猊下のハートをワシづかみにしました。アークナイツ:エンドフィールドは工場生産パートの存在によって、これまで大陸および半島から上梓された大作ゲーム群のどれとも異なった存在となることに、成功していると言えるでしょう。また、鉱石の採掘場を建設するために、電柱を小脇に抱えてフィールドをかけめぐるのも楽しく、先のオートメーション・ファクトリーにくわえて、どんどん設置物を増やしても寸毫の処理落ちさえ生じず、ほんのわずかな刺激でCTDしまくるベセスダゲーを経験してきた者として、いったいどんな超絶技術がこのゲーム体験を裏でささえているのか想像するだけで、「本邦の衰退」という言葉とともに、背筋のうすら寒くなる感じをおぼえるほどです。

 さて、ここまでをほぼ両手ばなしの絶賛で埋めてきたわけですが、いにしえよりインターネットに棲息する、すれっからしの虚構アディクトとして、約束された輝かしいエンドフィールドの未来をさらに盤石なものとするために、いくつか苦言を呈しておかねばなりますまい。まず、前作?であるアークナイツのシナリオを、エッキスに巣くう虚業従事者たちが絶賛しているのを横目にながめていたこともあり、事前にかなり期待を高めていたのですが、長大なメインストーリーと膨大なサブシナリオのどれもが驚くほどつまらなくて、逆にビックリさせられました。これは物語の進行がマップの開拓と綿密にからみあっているせいかもしれず、スターレイル方式ーーマップを無視して会話劇とムービーだけで物語を進めるーーを踏襲しはじめた最近の原神は、もしかしたら正しかったのかもしれないと考えさせられた次第です。システム面はすばらしいのに、少なくともストーリーへの興味に駆動されるゲーム体験にはなっておらず、今後の改善が期待されるところでしょう。次に、ゲーム内の音楽がどれもまったくと言っていいほど、耳に残らない。リリースから3日で20時間以上プレイしたはずなのに、頭の中にフレーズが充満して幾度もリフレインされるというあの感覚が、まったくもって生じません。しかしながら、これは生粋のトーンデフによる難クセの可能性が捨てきれないことは、付記しておきます。最後に、かなり致命的な弱点である気がしているのですが、固有名詞のセンスがどれも絶望的に悪い。パンダの見かけをしたキャラの名前がダパンだったり、舞台となる惑星の名前がテラから安直にタ行とラ行で連想したタロだったり、既存の神話由来のものをのぞいては、人名や造語の”ツクリモノ感”がひどく、世界観への没入を阻害する要因にさえなっています。あらためて、カルデアとか、キリエライトとか、アニムスフィアとか、FGOの固有名詞はどれもセンス抜群だったなと思わされました。

 ともあれ、数年単位を惰性で続けているいくつかのアプリゲーを引退してまでプレイ時間を捻出したいと思わせた、業界最高峰の技術の集積体であるアークナイツ:エンドフィールド、いちばんダイナミックにゲームそのものが変容していく、まさに旬の時期であるリリース直後のいま、ゲーム好きなら少しでも体験しておくことをオススメします。

映画「28年後…白骨の神殿」感想

 「28年後…」の続編であるところのザ・ボーン・テンプル、奈良県でただひとつの上映館が公開初週で夕方の1回のみになったことに恐怖して、あわてて見に行く。まずは結論からお伝えしておくと、ゾンビ映画の最高峰であると信じて疑わない「28ヶ月後…」への崇拝を前作ごと冒涜して地におとしめる、サタニズムの権化のようなクソ映画でした。制作側のした「2までは撮影してある」発言は、結局のところ、「特殊メイクや舞台セットをがんばったし、レイフ・ファインズのスケジュールも押さえてあるのに、このまま撮影チームを解散するのは、なんかもったいないな……そうだ、ぜんぶ再利用して、もう1本でっちあげちまおう!」ぐらいの意味にすぎなかったことがわかりました。大方の予想であったろう、テレタビーズとの邂逅からフランス、そしてヨーロッパ大陸へと足をのばすと思われたのを外して、前作とまったく同じ舞台と登場人物による、前作の読後感を汚すために作られたとしか思えない、配信ドラマぐらいのクオリティの、完全なる蛇足にしあがっているのです(ここまで書いて、シンエヴァを思いだした)。

 なにが悪いかとと問われても、「腐った大トロはにおいでわかるので、口に入れる前に捨てるしかない」としか返答のしようがないぐらい「ことごとく、ぜんぶダメ」なのですが、思いつくままに列挙していくと、前作の主人公だった少年が、主体性を去勢されて、終始ビービー泣くだけの、昭和の罵倒表現であるところの「女々しいオカマ野郎」に変えられていたのは、まずもって最悪です。そして、テレタビーズーー彼らの”対感染者格闘術”に関する説明は、作中にいっさいなしーーの頭目が期待されたようなアンチ・クライストではなく、幼少期のトラウマに由来するサイコ性癖を持つだけのチンピラだったのには、心底ガッカリしました。コイツが逆さ十字架にかけられて、ロンギヌスの槍(笑)による刺創をオーバーラップさせたい傷がパックリと開いてもピンピンしているのに、ヨードチンキおじさんは腰の入っていない、腹部へのペティ・ナイフひと突きで瀕死の重症を負うのは、ほとんど意味不明です。さらに、前作であれだけの恐怖をまきちらしたアルファ感染者が、モルヒネと向精神薬だけで治癒されてーー感染者の子どもの伏線、どうすんの?ーーしまったのは、作品世界の大元である大黒柱にマサカリをふりおろすような暴挙でした。また、感染者たちがある個体を人間かどうか認識する基準が、「言葉を話すか否か」ーーアイ・ドント・ハブ・ア・チケットーーなのは、これまでの積みあげをすべて無視したガバガバの判定になっており、もはや失笑しかまねきません。ホラー映画としての組みたても下の下で、静かな場面に突然、大きな音を流して驚かせるという単調な演出が、ひたすらにくり返されます。ただ、物語の終盤において、レイフ・ファインズがロック音楽にあわせてノリノリでサバトのミュージック・ビデオ撮影を行うシーンだけは、悪い方向に突きぬけすぎていて、逆に成立してしまうという面白さになっており、ここだけは見る価値があるかもしれません。「文明の崩壊した世界を生きていた若者たちが、無防備な状態でこれをくらったら、そら大熱狂するわなー」という、謎の説得力だけはありました。

 全体的に、前作を教材として学習したAIが出力する映像といった雰囲気で、虚業従事者の方々はたいそうげに嘆いておられるようですが、いらだちまぎれに放言しておくならば、アカデミー賞受賞監督の作品がこの程度なら、すべての映画を人工知能に生成させたほうが環境負荷が減って、地球にとってよっぽどいいだろうにと、なかば本気で思うぐらいです(マーベルなんか、もうぜんぶ過去作を読みこませたら、いけるんじゃないの?)。こちとら、コロナ禍を経たあとに、レイジウイルスの世界的な蔓延に対する人類の大混乱、あるいは国家を超えた共闘がどう描かれるかを見たいのに、ウスターソース野郎がせまくるしい島国の内側で、延々とゲージツごっこをやり続けるのには、心底ヘキエキさせられました。またぞろ、しょうこりもなく3へのヒキを作って終わりましたが、次の制作費を引っぱるための興行収入が足りないっていうなら、もうAI動画をYoutube公開するぐらいでいいんじゃないでしょうか。たとえ無料でも、わたしはもう見ませんけどね。

映画「トワイライト・ウォーリアーズ」感想

 昨年度の話題作であるトワイライト・ウォーリアーズをアマプラで視聴。頻繁な広告の挿入に激怒ーーCM協賛は、真逆の効果にしかなっていないと忠告しておくーーさせられる一幕はあったものの、本作は10年スパンでふりかえってさえ、最上位の虚構体験のひとつとなったことを、まずは明言しておきたい。なんとなれば、80年代に少年期を過ごした者の魂の基底部には、ブルース・リー、ジャッキー・チェン、サモ・ハン・キンポー、ユン・ピョウ、ミヤギ・サン、リンリン、キョンシーなどから受けた影響が半世紀ちかくを経てなお、こびりついているからである。最近、スキマ時間に無限焚書で読みかえしている、一世を風靡した例のワイン漫画になぞらえて、超一流のフィクション・テイスターであるゲイカ・コトリが本作を表現してみせるならば、おお……おぉ……「裏山の鬱蒼とした森」「管理放棄された異人館」「居酒屋を営む友人宅の私室」「ドブ川の暗渠の秘密基地」ーーそう、この映画は失われゆくものへの”郷愁と哀悼”である。昭和の町には、大人の目の届かない、子どもしか知らない、数多くの”空隙”があった。携帯電話やインターネットは普及しておらず、GPSによる位置情報や街路の監視カメラも存在しなかった時代に、おのおのが町の各所に「子どもの隠れ家」ーー”大人の”を成立させていた原初概念ーーを持っていたのである。本作の舞台である九龍城の様子を目にすると、建物と建物のあいだに横たわる鉄の格子をかぶせられただけの下水や、むきだしの地面をはさむように建てられた木造の貧乏長家など、少年期の古い記憶がフラッシュバックのようによみがえってきた。もともと旅行がきらいなタチで、数年にいちど思いたって一人旅に出かけても、風光明媚のスポットで写真を撮る気はおこらず、その地方の名物や食事にもあまり心は動かず、時間の経過とともに、ただただ「早く巣に帰りたい」という気持ちが大きくなっていくのである。そんな、旅の醍醐味の最たるは「巣に帰りついた安堵感」だけの人物にとって唯一、自発的に訪れたいと感じていた場所が九龍城であったことを、ひさしぶりに思いだした。

 いったん記憶由来の好印象がまさりはじめると、この平凡なアジア顔の人物を主役にもってくることすら、FGOが語るところの「世界のもといは、市井の一市民である」というメッセージのようにも、感じられてくるのだった。西洋の物語作法と、その影響下にある本邦のフィクションにどっぷり浸かっているだれかは、本作を典型的な貴種流離譚のながれを組む、イベントの発生に偶然の多すぎるプロットだと考えるのかもしれない。だが、原神を経たいま、わたしにはこの「血と因縁が、ふたたび家族をひとところに引き寄せる」という筋書きは、大陸の心性にとって寸毫の違和感もない”運命”であり”必然”なのだと理解できる。我々の社会はその対照として、家名をあたえられなかった者たちが都市部を形成する長い年月の中で、「血は水よりも濃い」という考え方を鼻で笑い、無化していくプロセスの終端にいるような気さえ、してしまうのだ。充分に年齢をかさね、文明と平和に守られ、無法と暴力からは縁遠い生活を続けていると、かつての九龍城へのあこがれは、いそがしい日々における旅へのあこがれ、すなわち、現実からの夢想による逃避と同質のものであることが、痛いほどにわかる。殴り、蹴り、走り、跳躍し、トタン屋根の上に眠るという「生のプリミティブさ」に、きっとこの実存はもう耐えられないだろう。ビールの小瓶を片手に近隣の住人たちとで小さなテレビをかこんで談笑する場面から、スタッフロールにあわせて流れる九龍城での”生活のようす”を目にすると、これこそがまっとうな人間の生き方だという気にさせられると同時に、もし仮にそこへほうりこまれたら、三日と生きてはいけないーーいわゆる、ナウシカのジレンマーーこともまた、否定しようのない事実なのである。もし、トワイライト・ウォーリアーズが昭和のお茶の間(古ッ!)で放映されたとすれば、翌日には全国の小学校で「硬直! 硬直!」のかけ声が絶えなかったであろうことを想像するとき、あらためて我々が失ったものの大きさに、胸の痛むような気持ちになるのだった。

 あと、マフィアのボスのデブゴンの動きがキレキレで、メチャクチャつよいなーと思っていたら、まさかのサモ・ハン・キンポー本人じゃないですか! 視聴中に気づいて、「あッ!」と大きな声をあげちゃいましたよ!

映画「ひゃくえむ。」感想

 作者由来で気になっていた「ひゃくえむ。」をネトフリで視聴。結論から申せば、「チ。」の悪い部分をそっくりそのまま受け継いだ、「作者の自意識の集積体」のような作品でした(デビュー作らしいので、順序は逆か)。小学生時代のビルドアップはとてもよくて、才能だけで100m走全国1位となった少年と、走る衝動をおさえきれないコミュ障の少年とを対比的に描き、前者が後者に言う「だれよりも速く走れば、キミの悩みはすべて解決する」というシンプルな答えには、たしかに胸をうつ力がありました。それが、この2人の関係性にフォーカスして話を進めればいいものを、中学生編、高校生編、そして大蛇足の社会人編へと進むにつれて、主役”級”の登場人物がどんどん増えてゆきます。それ自体はまったく結構なことながら、この作者の持つ「すべてのキャラの自我レベルが同じで、単一の語彙プールから選択する」という特徴が悪い方向にはたらき、物語の中盤以降は「100m走に仮託した、作者の人生哲学a.k.a.自分語り」を延々と聞かされるハメになるのです(女子部員2名だけは他者の自我を持っており、これが監督の手柄なのか、作者の女性に対する価値観なのかは、正直わかりません)。高校生編において、100m走の第一人者となった卒業生が講演会でおこなったスピーチも、現実世界なら校長がPTAから突きあげをくらうレベルの大事故であり、これを天才性の表現として社会性の側面をいっさい無視できるのは、じつにこの作者らしいとは言えるかもしれません。また、コミュ障のほうの主人公へ「どんどんフォームがおかしくなっているのに、気持ちだけで走り続けていけるなんて、キミはいつか壊れてしまうぞ」みたいなことを、情感たっぷりに陸上部の先輩ーー先生やコーチではなく!ーーが忠告する場面があったのに、これも終わってみれば結局、なんの伏線にもなっていませんでした。

 「チ。」の感想にも書きましたけれど、この作者は読者のカタルシス・イコール・物語の自走性に寄りそうのがほんとうにヘタで、本作もクライマックスである陸上大会の決勝において、安直に小学生時代の2人をビジュアルでオーバーラップさせたかと思えば、なんとどちらが勝ったかはわからないまま、幕を閉じてしまうのです。スポーツを題材にする以上、因縁の相手との決着を描ききるのは確認するまでもない大前提であり、この結末は作者の自意識が尻すぼみの展開で終わる恥を回避しようとした結果の、明確な逃げだと感じます。小学生編の段階では、ダイヤモンドの功罪のようなライバル関係を期待していたので、余計な人物模様が前菜やらアペリティフやらでゴチャゴチャと饗されたあげく、ようやく出てきたメインディッシュにはステーキではなく、イワシの丸干しがちょんと1匹のっているみたいな、最悪の読後感でした。意外と100m走の競技経験者がいちばん酷評しそうな「ひゃくえむ。」について、いつものごとく難クセをつけてきましたが、この方はどんな題材を選んでも、最後は自分語りへと収束することがわかってきましたので、今後は既存の2作品をクリエイターの看板としてかかげて実作からは距離を置き、スピリチュアル系の講演者ないし配信者などへ転身していただいたほうが、作者と読者の双方にとってハッピーな結果になるような気がいたします(アニメ化のさいの優遇ぶりから、一部の界隈では、ほとんど崇拝に近いあつかいをされているように見えるので……)。