御年95歳(!)のクリント・イーストウッド監督にとって、遺作になる可能性もある「陪審員2番」について、本邦では劇場公開がなかった事実に”大衆の知性の液状化”を嘆きながら、ようやくブルーレイにて視聴。どんな話かと問われれば、「刑事コロンボ、もしくは古畑任三郎の陪審員バージョン」と説明するのが、もっとも伝わりやすいかもしれません。「陪審員の中に真犯人がいたら、評決はどうなるか?」というワンアイデアを元にシナリオを書きすすめていったら、最後の最後でまとめきれなかった印象で、先の読めない初回視聴は100点満点なのに、感想戦や2回目以降では、60点ぐらいに落ちつく作品だと言えるでしょう。陪審員モノとして、まっさきに思いうかぶのは「十二人の怒れる男」ですが、あまりに強いその物語類型の刷りこみから、半密室における会話劇によって登場人物たちの素性や性格があきらかにされてゆき、その最高潮と重なる形で事件の真相へといたる展開を期待しすぎていたことも、本作の評価へ影響をあたえている可能性は否定できません。ここからは、いつものごとくネタバレ全開となりますので、初見の感動を大切にしたい方は、来た道をそのままおもどりください。
まずもって、物語の大前提である”無意識の轢き逃げ”に関して、落下による脳挫傷が直接の死因だとしても、はたしてプロの検屍官が車にはねられた事実を見落とすかという疑問ーー「その日は、5人の検屍を行った」という、過失をにおわせる台詞はあるーーは最後までぬぐえませんでしたし、議論のまとめ役をかってでた女性は、「これで3度目の評決不能になる」などと意味深な発言をしながら、ついにその素性を明かされることなく終わりますし、最終盤で挿入される「主人公は、バーで酒を飲まなかった」ことを確定させる回想演出も、結局、ストーリーの大筋になんら影響をあたえていません。全体をふりかえれば、彼が満場一致の”ギルティ”をくつがえそうとしたのは、「罪を告白する気はさらさらないが、無実の人間が有罪になるのも寝ざめが悪いので、せめて無罪の評決だけは勝ちとりたい」ぐらいの弱い動機にすぎないのです。テーマっぽく語られる「正義は、つねに真実の下にある」という法曹たちの信念も、本作のプロットにピースとしてカチッとはまっている感じは、まったくしません。”予想外の結末”みたいなアオリを見かけたものの、それを言葉であらわしてしまえば、「保身のため、”ギルティ”へと立ち場をもどしたーーこの場面がオミットされているのも不満ーーくせに、軽薄な功名心から検事の前で自分が真犯人だとほのめかす告白をしたことで、彼女の胸にくすぶっていた正義の心に火をつけてしまい、『手続きの瑕疵による再審理』をうながす結果となる」ぐらいの中身にすぎません。これを、「戸口に立つ検事長」という台詞なしのラストカットのみで表現したのは、非常にクリント・イーストウッドらしいなとは思いながら、たとえ裁判をやりなおしたところで、この男を有罪にできる材料はまったくなく、「映画芸術を利用した、エンディング詐称」みたいな欺瞞すら感じてしまいました。
もしかすると、プロット由来の文句ばかり書いているように見える(じっさい、そう)かもしれませんが、視聴中にいちども物語への興趣がとぎれなかったのは、ひとえに役者の力によるものでしょう。主人公のレックス・ルーサー(ちがう)は、平均的な市井の白人男性として描かれ、気弱な善人でありながら、小悪党的なずるがしこさを瞳の奥にたたえており、かねてより顔フェチを自認する小鳥猊下は120分のあいだ、ずっと彼から目が離せませんでした。スッピンのオバハンである女性検事も、非常に魅力的な容貌をしていて、2人が対峙する最後の場面には強い緊張感をともなう、息をのむような美しさが発散されていました。「映像芸術としては最高峰に位置するが、ミステリー要素の理屈づけが強引で、成立していない部分があるように見える」というのが、本作への中立かつ公平な評かもしれません。あと、セッションのパワハラ教授がシカゴの刑事を引退して、孫の住む町で花屋を営んでいました(支離滅裂な表現)。それと、医学生を自称する日本人の英語がものすごく日本人の英語で、共感性羞恥に似た感情から身もだえさせられました。おい、とつぜん机をたたくんじゃあない! 劇中に起こるすべてのできごとをさしおいて、いちばんビックリしただろ!