猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

ゲーム「スーパーリアル麻雀VR」感想

 あのスーパーリアル麻雀が、昭和時代の無法な”脱衣麻雀”の頂点が、令和の御代にまさかの完全復活。動揺のあまり、ヴァーチャル・リアリティのトゥー・アーリー・アダプターなので、初代PSVRしか持ってないのにVR同梱版をなぜか購入して、気がつけば通常モードで全実績を解除してしまっていた。本シリーズは、そのタイトルからの連想を完全にうらぎった、麻雀とは名ばかりの特殊な遊戯になっていて、食いタンだろうが役満だろうが脱ぐのは1枚なことにくわえ、わずか千点持ちスタートのブットビありなため、闘牌スタイルはノーマーク爆牌党ふうに言うなら、「これはもうただの……絵あわせ」へと収束していくのだが、「ほぼ未成年の女子が、恥じらいながら脱ぐ」という一点において、あらゆる年齢層の男子を性欲まっさかりな中高生のサルに変貌させる、暴力的なまでの訴求力を持つ。コンプライアンス「無視」、コンプラ強度「昭和(弱)」でプレイをはじめたところ、CHiKuBiがそのまんま表示されるわ、CHiKuBiをつついたとき専用のセリフがあるわ、親の帰宅などによる原作のすんどめを越えてPaNTiを脱ぎだすわ、「ほんとうに審査とおってるの? コンプラの強いバージョンだけ提出して、steam社をだまくらかしてない?」と心配になるくらい、みごとに最後までスッポンポンになる(あとだしの販売停止を否定できないありさまなので、気になる向きは早めの購入をオススメする)。

 プレイ中の心理状態は、ペーソスあふれる脳内のヤクザ・アバターが、「ドぎつい洋ピンの無修正や、海外サイトの違法動画や、エロいもんはあらかた見てきたけど、こんな本番もない半脱ぎの裸がいちばんエロい」「エロってのは、いったいなんだろうな」「もう、脱がすしかなくなっちゃったよ」などのネットミームもどきを、ガンギまった目でずっとブツブツつぶやきつづけるぐらいのキモさであった。廃れてから30年は経とうかという”脱衣麻雀”というジャンルは、いまよりはるかに性に奔放だった時代において、ソープランドにもストリップシアターにもキャバレークラブにもブルセラショップにも行く勇気のない、学校にも会社にもなじめず、ゲーセンぐらいしか居場所がない弱者男性による、エロゲーと同様のいじましい代償行為であったことは、ある種の歴史証言として残しておかねばなるまい。個人的な話をさせていただければ、なにも知らない少年の思春期を直撃し、魂の精通をむかえさせたP3こそが唯一無二のレジェンドであり、我が心の貞操は芹沢香澄にささげられているといっても過言ではないだろう。そして、2本目の貞操(なんじゃ、そりゃ)はP4の愛菜にささげられている益荒男にとって、本作がP5ベースなのを残念に思いつつも、少女へ向けた純粋な愛情に不寛容なメリケン運用のsteamが販売ベースであるからして、仕方のない判断だったのかもしれぬと、納得できる部分もなくはないのである。開発者インタビューに目をとおすと、まさに「就職氷河期のサバイバーが組織内で実権をにぎり、”最後のお勤め”を逃げきるだけの段階となって、いよいよ好き勝手やりはじめる」を地で行っており、外野の無責任なオタクからは「いいぞ、もっとやれ」と、やんややんやの拍手喝采を送るばかりだ。

 本作に惜しい点があるとすれば、中華のアプリゲーなら1体10万円で40万円はキッチリ課金させるだろう美少女キャラたちに、たったの5千円ぽっちしか支払わせてくれないところであろう。もし、新キャラ追加のためのクラウド・ファンディングが開始されれば、ただちにまとまった入金をする準備はあるので、どうかこのカネあまりの非虚業従事者に、ひさしぶりの中華でも半島でもない純国産・美少女たちへ、もっと援助する(意味深)チャンスをくれまいか。全クリ後にも、まだ熱さめやらず、難易度「スーパーリアル」で4人とも再び全裸にひんむいたあげく、なおメタクエスト3の購入を真剣に考えはじめており、ビデオデッキ戦争より続く「家電の更新をうながすエロ」の偉大さに、昭和のさわやかな気風を心地よく肌で感じる今日この頃なのであった。あと、早坂晶たんの「かーちィ」「とおれーッ!」「キューティクル、きらきらー」はちいかわっぽいし、「負ける準備はできてる?」は大リーガーのヤマモロっぽいなと思った。それと、本作のBGMは場末の酒場で使いまわされた刺身のツマのような、シャバシャバと水っぽくて味のしない、まさに空間を音で埋めるためだけに作られた低品質のジャンクなのだが、耳に入ったとたん、ひもづいた過去の記憶がよみがえり、いまだ何者でもない自分が形のない焦燥感をいだきながら深夜、実家の自室でひとり呆然とテレビの前に座している様子が脳裏にフラッシュバックして、知らず涙ぐんでいた。

ゲーム「原神・神に愛されぬ雪国」感想

 原神のスネージナヤ編、いつものごとく小だしの引きのばしかと思いきや、複数のマップとメインストーリーとサブシナリオとミニゲーム群がドカンとまとめて実装され、エサの皿に大量のフードが追加されつづけるのにおびえて、部屋のすみに直立するマーモットみたいになってる(ネットミームの混線)。なりふりかまわず、エーペックスやエンドフィールドエルデンリングの要素をそのまんま丸パクリしておきながら、最後の調整が甘いために生ぬるいプレイフィールになっており、本家には遠くおよばないところも、原神らしいと言えば原神らしい。圧巻だったのは今回のメインストーリーで、「吹雪の夜の密室殺人」という古いミステリ類型を用いながら、真犯人である神との対峙という弩級のクライマックスをむかえたと思ったら、息をつくヒマもなくパイモンの誘拐とスネージナヤの軍事中枢へなぐりこみがはじまり、厳冬計画の詳細や女皇の真意、そしてパイモンの正体までもがすべて、なんの誤解もないよう赤裸々に提示され、ホヨバは原神という破格の物語をその人気の絶頂で、キッチリたたむつもりなのだということがビンビンに伝わってきて、予想外の展開に驚愕したのです。特に、「地球人類の科学文明の発展を、介入目的で見守る第三者の存在」というのは個人的に大好きな設定で、古くは幼年期の終わりやスタートレック・ファーストコンタクト、新しくは三体があり、「ファンタジーの見かけをしながら、世界の根幹はSF」であることをひさしぶりに思いだして、これこそ原神の面目躍如だと感じました。そして、滂沱の涙を流してブラヴォの拍手を送りながら、なにより強いのはパトリオティズムに由来する「くやしい」という感情だったのです。

 たとえば、バスタード!やスレイヤーズ!やベルセルクが、作者ひとりの人生をまかなえるぐらいの小金を持った時点で創作の初期動機を失い、それこそ数十年にわたって読み手を失望させつづける「終わらない物語」と化していったのに対して、原神はわずか5年ばかりの道程で、あらゆる設定を回収して積みあげた先に、いよいよ頂上の石であるベンベネトを置きにかかっている。ゲーム分野において、この「続きへの欲目を断ち切り、完膚なきまでに終わらせる」ことを達成できたのは、私の知るかぎりではランス10の他はなく、日本ファルコムの作品群がその悪しき対極に位置しておりますが、もうグチグチとくわしくは語りますまい。ホヨバの持つ凄みとは、おのれを「日本の2次元文化のコピー」であるとどこか自覚している点で、「コピーだからこそ、情熱も時間も金銭も惜しみなく注がなければならないし、なにより受け手であるファンに対して誠実でいなければならない」と強く信じていることが、作品の端々から伝わってくるのです。これは、いまや他を押しのけてオタク第一世代の頭目となったQアンノの「我々の作品は前世代のコピーにすぎないが、そこにおのれの人生を熱転写することで、オリジナルに接近できる」という創作手法と、国境を越えて奇しくも酷似していますが、これをある種の理念として、数千人の社員と共有することで、本邦の虚構作品に多く見られる「才能ある個人の意欲の終わりが、創作の終わり」という現実を克服したのは、中華の心性の根幹をなす「生き汚なさ」と、仙人や真君の概念に代表される「個を延伸した先に存在する超越」を、いまや組織として体現しているとさえ言えるかもしれません。

 最後に、虚構先進国だった場所で人生の大半を過ごした者として、敗北感からくやしまぎれに予言しておきますと、ズバリ、パイモンが原神のラスボスたる天理その人にちがいありません。今回のストーリーの結部で、脈絡なく「対天理武装を見たい」と彼女が言いだした瞬間、これまでのおぼろげな伏線が、はっきりとした輪郭をあたえられように感じました。ランス10において、いつでも世界を破壊できる魔王がかつての想い人との記憶だけをよすがに、寸前でそれを踏みとどまりつづけたように、天理と化したパイモンは、数千年の時間に比べれば、旅人・イコール・プレイヤーとのほんの短い「旅の記憶」を理由に、テイワットの破壊を完遂できなくなってしまうーーそれは、私たち原神ファンがともに過ごしてきた時間までをも称揚する、とても美しい結末のように思えてなりません。終わります。

映画「罪人たち」感想

 盆休みのヒマにあかせて、ずっと気になっていた罪人たちーー”ざいにん”ではなく、”つみびと”と読むーーをアマプラでレンタル購入して、ほおづえをつきながら見はじめたら、あまりのブッとんだおもしろさに気づけば前傾姿勢となり、全身の毛穴と肛門がカッぴらきました。「黒人ブルース歌手が主人公の、1930年代ミシシッピ州を舞台にしたミュージカル吸血鬼ホラー」というB級感あふれる建てつけからは想像だにできない、南米文学的なリアリズムの横溢した骨太の物語になっております。映画の冒頭において、「これは、一夜の夢である」ことを観客にしめしたあと、ブルースの実力者たちが梁山泊のごとく、各地からひとところへと集結するさまを描く手つきはみごとであり、浜辺の砂や紙のトランプで作る山のように、あらかじめ「破壊するために創造し、破滅をむかえるべく絶頂する」のに必要な過程であることを行間へと忍ばせながら、登場人物たちの来歴とパーソナリティについて、ていねいな積みあげが行われます。また、公民権運動にいたる前夜の人種隔離政策についても、緻密な考証にもとづいた舞台セットが組まれていて、その描写の正確さは学校の教材に使えるぐらいのクオリティになっています(女性の”ボタン”をどうなめるかの指導と実践があるため、じっさいは使えない)。そして、物語の中盤に製材所跡のダンスホールで演奏される、まさに”四ツ辻で悪魔に魂を売りわたした”ギター演奏とブルース歌唱は、言葉にのせた瞬間に雲散霧消してしまう、音楽の持つプリミティブなパワーを、「過去と現在と未来をひとつなぎにしながら、人間の境界を融溶させて個と世界を合一するもの」として、圧巻の映像で力強く朗々とうたいあげるのです。

 すべての障壁が天井の楽曲によって焼け落ちた結果として、吸血鬼の始祖とその眷属たちという”魔”を喚びよせてしまうのですが、彼らがミシシッピ・ブルースではなくアイリッシュ・フォークを愛好しているのは、音楽性にあずけた両者の実存の差違を対照して見せるしかけになっており、吸血鬼サイドの有する「感覚と知識と記憶をたがいに共有する集合体」という特徴は、まさに人類補完計画の実現した姿だと指摘できるでしょう。そこからは、「アメリカ南部における黒人音楽史」といったふうな前半の印象をガラリと変化させ、「招かれないと家に入れない」「心臓に木の杭を刺すと復活できない」「太陽光で焼け死ぬ」などのバンパイアにまつわる古い伝承をたくみにシナリオに落としこんだ、タランティーノ作品を彷彿とさせる人間と吸血鬼たちの血みどろの争いへと突入することとなるのです。さらに、夜の騒動がすべて終わったあとにやってくるクー・クラックス・クランの白人メンバーたちを、黒人の準主人公がスナイパー銃やマシンガンで鏖殺していくのは、無責任な極東アジアの黄色人種にとってさえスッと胸のすく思いがしたのですから、国家を奪われたブラック・ライブズはマーベルのブラックパンサーに深く共鳴したのと同じ痛快さを、腹の底から味わったにちがいありません。最後に、この映画をB級バイオレンスからはるか高い位置へと押しあげているのは、スタッフロール突入から終了のあいだに挿入された主人公のその後を描く一連のシークエンスだと指摘しておきましょう。

 時は移ろい、60年後のシカゴにおいて、円熟の老プレイヤーへと変貌した主人公は、彼のもとに訪れた吸血鬼の生き残りを、知らずファンとして楽屋に”招きいれて”しまいます。そして、死期が近づいていることを吸血鬼の嗅覚で看破されたにも関わらず、永遠の生命をあたえようという申し出を寸毫の迷いもなく、キメツの煉獄さんばりに毅然と拒否する。時空を超えて世界とつながる音楽の源泉が、個という絶望的なまでの孤独と、だれもがひとりで死んでいく事実に根ざすことを彼は悟っており、乞われて弾いたギターの音色に不死の者が思わず見せた優しいまなざしは、ほとんど取りかえせぬ憧景のように映りました。そして、「思いだすたび、半世紀以上の経ったいまでも体が恐怖に麻痺する」ような凄惨きわまるスローターハウスでの一晩を経験してさえ、本物のブルースを奏でる神の器として羽化したその日を「人生最高の一日だった」と誇らしく形容したのには、「表現することを運命づけられた者が、表現することへ無事にたどりつけた僥倖」への深い喜びがにじんでいて、たどりつかなかった者のほおには理由のわからぬ涙が流れるのです。そのやりとりを皮切りとして、走馬灯のように流れる回想シーンは、「みんな死んでしまったが、死ぬまではそれぞれの信念にしたがい、懸命に生きた」ことを痛いほどに伝えており、人生の意味を問うような脆弱さとは、はるかに遠い力強さを照射していました。エンドマークのむこうに置かれた少年の日の主人公によるソロは、本来の意味でのブルーノートになっていて、この物語のテーマを総括する目的で、歴史が黒人の魂にきざんだリズムを、より普遍的な形であらわそうと試みているように感じられました。

ゲーム「紅の砂漠」感想

 最近でこそ、DiabloIIR漬けの日々を送っていたものの、UltimaOnlineとかEverQuestとかFF11などに代表される、かつてのMMORPGに向けた郷愁というのは強くあって、都会で定年退職をむかえた男が出里の田舎で農業をはじめるように、いつかそこへ帰りたいという気持ちをいだき続けている。しかしながら、パーティメンバーの募集に1時間、狩り場への移動に1時間、そこからトイレにも立てない3時間におよぶ目まぐるしい連戦を、いまの気力と体力でこなせる自信はなく、少年時代に3メートルの段差をとび降りた直後、そのまま駆けだしたさいに耳元で鳴っていた風の音を思いだすときと同じで、復帰は実現しないものとなかばあきらめていたのです。小鳥猊下がする原神エンドフィールドへの耽溺は、その代償行為なのではないかとのご指摘は当たっておりますが、更新の最突端までゲームを進めてしまうと、そこはストーリーとマップが時限で開放されるのを待つばかりの、いささか窮屈すぎる場所と化してしまうのは難点でした。世界を探索する行為も、地図が広がっていく順を持つことで、一定の指向性をあたえられてしまい、どこか野放図な自由度を欠いた「制作側の意図に管理された冒険であること」を意識せざるをえない瞬間があります。こういった内容を言語化できずにモヤモヤしていたところ、気になっていた紅の砂漠をなにげなくダウンロードしたら、ゲーム内容が漠然とした不満と不足に対する完全な回答になっていて、ビックリ仰天しました。ホヨバに代表される近年の擬似MMORPGは、課金ガチャと定期的な更新による遊戯要素の時限解放が大前提となっていますが、その比較的あたらしいパラダイムによって、知らぬまにゲームに対する価値観を上書きされていたことを、このたび痛感した次第です。

 開発に数年をかけた、メインストーリーとサブクエストと膨大なマップが最初から完全な形で実装されている、課金要素の無い買い切りゲームを1万円以下で販売するなんて、社長が脅迫症的な信念を持っているか、さもなくば気がくるっているかのいずれかとしか思えません。最初に感じたのは、おそらく3DO REALでプレイしたことのある、いまは名前も思いだせない昔の洋ゲーが持つ独特な手ざわりと同じ、なぜこれがそうなっているのかまったく説明のつかない、圧倒的な異文化でした。第7章まで進めたストーリーは、どこどこまでも脈絡なく意味不明で、「高熱のときに見る悪夢」というのが最も適切な比喩と言えるでしょう。システム面は、オブリビオンからエルデンリングーーウィッチャー3を濃く感じるーーまでのすべての3Dゲームにあった要素を節操なくほうりこんでいて、「カロリー摂取だけを目途とした、調味不在の闇鍋」としか表現できない仕上がりになっています。操作系もすべてのボタンを総動員するのは当たりまえで、さらに長押しと短押しと複数同時押しも駆使せねばならず、「左と右のスティックを同時に押しこんだまま、右だけ回転させる」のを要求されたときはイラだちのあまり、夜中にもかかわらず絶叫しそうになりました(加齢で性格が丸くなりましたね)。また、各地に用意されたノーヒントの謎解きを個人でクリアできる叡智は人類にあたえられていないため、往年のMMORPGよろしくインターネットの集合知をたよる以外の解法は存在しないと割りきる必要があります。そして、拠点拡充や傭兵派遣といったサブ要素ばかりか、肝心かなめのキャラの育成方法にさえ満足な説明がなく、数十時間も漫然とさわるうちに”気づく”しか方法がないのです(30時間を過ぎてから、銀行で投資ができるのを発見したので、まだ気づいていないゲーム内の要素は、おそらく無数にあると思われます)。

 ただ、これら1個1個が致命的に思える欠点をすべて呑みこんで、広大な世界を完全なる自由度で探索できることが、底抜けに楽しい。すでに最新とは言えないグラフィックボードなのに、最高画質で寸分のフレームレート落ちもなく、はるか遠景を見わたしながら、ロードゼロのシームレスで縦横無尽に移動できるのは、もはやオーパーツ的な超テクノロジーと言えるでしょう。「フォンテーヌの次はナタ、ナタの次はナド・クライ」ではなく、あなたは東西南北どこへ向かって足を踏みだしたっていいし、どこまでも延々と好き勝手に歩いていっていい。すなわち、戸籍も住所も持たない真の根無草の自由、世界の枠組みの埒外にいる狂人の自由をぞんぶんに、腹の底から体験することができるのです(仕事終わりにフラッと起動して、ただ野原を歩いているだけなのに、気がつけば日付が変わっていたこともありました)。紅の砂漠、人間関係のギスギスをゲーム内へと持ちこみ、時間を無限にコンシュームするMMORPGに、もどりたいけどもどりたくない層へとドンピシャリにお届けする、マッシブリー・シングルプレイヤー・オフライン・ロールプレイング・ゲームとなっておりますが、げっぷの出るほどあふれかえった、JRPGの設定と用語に強く依存する異世界転生ファンタジー群に食傷しており、この陰鬱なテキストを読み切ってなお、興味と関心が残った方にのみ、オススメです!

漫画「キャプテン翼・ワールドユース編」感想

 なんと、キャプテン翼のワールドユース編を読了。比較的あたらしいシリーズだと思っていたのに、じつはドーハの悲劇より前の時代の連載作品であり、中年期以降の時間感覚にあらためて恐怖をおぼえた次第である。ジャンプ本誌では、リアル・ジャパン・セブンの登場ぐらいまでを読んでいたことが今回わかったのだが、前作の終盤に連呼された、少年に向けた性愛がほんのり香るジェイ・ボーイズ・サッカーなるネーミングといい、あいかわらず全編にわたって独特のセンスがただよっている。そして、この世界における審判はまったくの無力であり、荒れる試合をいっさいコントロールできないため、相手の選手を物理的に痛めつけることが目的の南米式カンフーサッカーが横行し、有名なフレーズである「ボールはトモダチ」どころか、作中に体現されているのは「ボールはマーダー・ウェポン」であり、必殺シュートに接触すると人体はもれなく破壊されるのだった。協会の片桐さんが試合で片目を喪失しているのも、キャプテン翼のサッカー観を如実にあらわしており、おそらくスパイクの裏側で顔面をけずられたーーしかも、ノーファウルーー結果にちがいない。さらに、無印1話から登場し続けるダンプカーが選手とその家族を死傷させまくるのは、ほぼシュールなギャグレベルの反復になってしまっている(これほどまでに大型車が登場人物たちを苦しめるマンガは、他には野望の王国くらいのものだろう)。本邦がまだワールドカップ本戦出場をはたせなかった時代の作品ゆえに、見たくもない中国やサウジアラビアとの死闘を予選リーグで延々とくり広げたあげく、国際ジュニアユース編を焼きなおしたような展開になってしまったからだろう、決勝トーナメントの途中で打ち切りが決定したようで、セミファイナルはナレーションだけで”ごういん”にスッとばし、満を持して登場したロベルト本郷ひきいるブラジルユースとの頂上決戦も、後半ロスタイムで巻きぎみに終わってしまう。これにワリを食ったのは、さんざん読者の期待をアオッてきた世捨て人のサッカー王で、試合時間にして数分とわずか数ページを登場したのち、翼くんにアッサリと返り討ちにされるのだった(それにしても、世界の一流選手たちに絶大な影響をあたえた作品の続編を、ジャンプ編集部はよく打ち切りにできたものだなと感心していたら、当時の彼らは年齢的にまだ小中学生だったことに気づいた)。

 個人的な感覚を言えば、雷獣シュートやらナトゥレーザくんなどは、同人作家によるパチモンのようにしか思えない。なんとなれば、初代の連載終了後に発売されたファミコン版キャプテン翼2・スーパーストライカーにて、真のワールドユースにおける激闘を個人的に何周も”実体験”しているからである。翼くんしかガッツ消費のシュートを持たない弱小サンパウロFCを率いてリオカップを制覇し、続く全国高校サッカー選手権は退屈すぎて特に印象はなく、全員が必殺シュートを持つ全日本バーサスほぼ翼くん単騎チームのジャパンカップは極限の死闘となり、敗退をくり返すことで経験値をかせいでレベルを上げ、ついに初めての勝利を手にしたときの歓喜は、ジョホールバルもかくやというもので、いまでも忘れることはできない。そして、ワールドユースの予選を勝ちあがり、本戦でピエールくん、ナポレオンくん、ジノ・ヘルナンデスくん、ファン・ディアスくん、シュナイダーくん、ミューラーくんと戦いながら、伝説の選手とその必殺シュートについてのミステリーが、テクモシアター演出(忍者龍剣伝!)によって解き明かされていく興奮は、令和の最新ゲーム群が提供するそれに勝るとも劣らないものであった。ブラジルとの決勝戦において、ガッツを400も消費するサイクロンをゲルティスくんのダークイリュージョンでキャッチングされ、パスを受けたコインブラくんが他選手の3倍の速度をしたドリブルで自陣ゴールへとせまる絶望感は、じっさいに経験してみないとわからないだろう。いまでも、ブラジルのレジェンドはだれかと問われれば、ペレではなくジャイロと答えるし、翼くんの最強シュートはスカイダイブではなくサイクロンだと強く主張して、一歩もゆずらないほどである。私の中では、このファミコン版キャプテン翼2がたび重なるゼロからのプレイによって正史と化しているため、マンガ版のワールドユース編はできの悪い二次創作か、それこそ偽史としか思えないのであった。最後にこっそりと、「ビックリするほどあっていないから、これ以上は読まないほうがいい」とのアドバイスをいただいたアオアシを全巻読了したので、それに言及して終わりたいと思う。サッカーにおけるユース世代の育成をテーマとして、「すこし食い足りないが、ここで終わるのがもっともきれいだろう」という地点で幕を閉じており、事前の想像よりもはるかに読後感よくまとまっていて、非常に好感が持てたことをまずはお伝えしたい。それと同時に、おのれの過去の虚構体験から逆算したマイナスの予測をご高説として垂れるのは、以後、厳につつしまねばならぬと反省したのであった。

 ただ、ひとつだけひっかかったのは、バルサのエースであるCUNTーーやだなあ、カッコつけのために英語表記にしただけで、他意はいっさいないですよ!ーーをめぐる勝負の描き方で、「地域の紛争や欠損した家庭からの逃げ場としてサッカーにたどりついた者が持つ、失敗イコール地獄への逆もどりとなるがゆえの、人生と骨がらみになった強さ」に対抗しえたのが、片親で極貧の少年期を過ごしたAKUTZだけだったというのは、その後の主人公による決勝ゴールへといたる展開を加味してさえ、作り手の意図しない誤ったメッセージを発信してしまっているような気がする。現在、現役生活とGOAT論争の終わりを迎えつつある二人の大スター選手がいるが、かたや長身の筋肉質なイケメンであり、かたや中肉中背のオタク顔をした喪男であるという見かけの相違だけが、高校時代の学内ヒエラルキーのような、余計なイザコザを場外に引き起こしているような気がしてならない。それは、カースト上位に位置する生徒が視界に入れただけでイライラするキモオタを、教師にバレないよう取り巻き連を使って間接的にイジメる構図に酷似しており、騒動の規模がグローバルであろうとも、根っこの部分に横たわるのは、青春時代に万国共通のルッキズムだと指摘できるだろう。突然のリアル方向への脱線でなにが言いたいのかといえば、イケメンがアル中の父親に対する憎悪を自己愛へと反転させ、サッカーを立身の道具と決めて勝ち続けてきた結果、いよいよ年齢を重ねて、汲むべきエネルギーを枯渇させてガス欠となってきたのに対して、ブサメンのほうは両親への深い愛情と感謝の念をかくそうとしないだけでなく、なによりまだサッカーをプレイできることへの喜びに満ちあふれていて、いよいよ年齢を重ねて、常人には理解不能の領域へと突入しているということだ。現実のサッカー界において、まったくCLITRISやCUNTやAKUTZのようではない人物が軽やかに、いとも簡単そうにすべての栄冠を手に入れていくのは、人生の初源に憎悪を持つ小鳥猊下にとって、人類全体へと向けられた救済や福音であるように思えてならない。

ゲーム「崩壊スターレイル・汽笛は轟く、帰寂のさなかに」感想

 崩壊スターレイルの最新バージョン4.4をクリア。半島と大陸の課金アプリをいくつかかけもちでプレイしているが、かの国では文系大学院生の必読書にリストアップされているとのウワサがまことしやかに流れるほど、本作の物語はじつによく書けており、頭ひとつ抜けておもしろい。特に大陸のゲームは、第2章にあたる部分で中華の類似国の話を都合のいい妄想ーー唯一の造幣局として通貨の発行権をにぎり、世界経済を牛耳っているなどーーこみで延々と語る傾向があるのは玉に瑕だが、そこを我慢して通りすぎると第3章あたりからギアをあげて、グングンとよくなっていく印象である。正直なところ、崩壊スターレイルも仙舟羅浮の後半あたりで、プレイをやめようと思ったことは何度かあった。しかし、そこからピノコニーオンパロスと劇的にシナリオが改善されていくのを目のあたりにして、つくづく創作の邪魔になるのは客観性の欠如ーーこの場合、”おらが国”へのプライドないし、検閲によるとりつぶしを避けるための元首へのおもねりーーだとの思いをあらたにした次第である(アークナイツでさんざん聞かされた評判とは裏腹に、凡庸でつまらないストーリーのエンドフィールドを細々と続けているのも、第2章の武陵編さえ終われば、この「中華アプリの法則」により、少しはマシになっていくかもしれないとの期待からなのだった)。ひとつまえの感想にも述べたように、二相楽園での冒険は、1990年代に本邦で隆盛をきわめた伝奇作品群で創作の産湯をつかった者たちによる、ある種の返歌ないし本歌どりを意識しているように感じてならない(ノーマルエンドとトゥルーエンドを続けてリニアーに提示するところなど、ビジュアルノベル的な分岐を意識したのだろうなと思わせる)。すこし話はそれるが、無印Fateからの深甚なる影響を隠そうともしないコラボ第2弾ーーお話は二次創作以下で、ぜんぜんダメーーを見て、FGOのリメイクは崩壊スターレイル内の別棟として行うのが正解ではないかと思いはじめており、かなりその意図をもって主要キャラのモデリングを進めている気がする。

 今回のバージョンで特によかったのは、絶滅大君である帰寂のキャラ造形と底を割らない語り口であり、「人非人による偽りの愛情でも、育てられる側にとっては本物の愛情として機能するのか?」という問いには、かなり身につまされる重たさがあった。最後の最後で彼がもらす「勝敗はどっちでもいいが、負ければ自分がまちがっていたことの証明になる」というメッセージも、そこにいたるていねいなビルドアップがあるため、宇宙の混沌を神へと擬人化するならば、きっと我々にそう述べるだろうという奇妙な説得力をはらんでいる。また、成功したクリエイターが「創造すること」への称揚を作品内に織りこむ現象ーーたとえば、グラップラー刃牙におけるリアルシャドーや形象拳がその最たるものーーがあり、年齢を重ねるにつれて、一次産業的な現実への干渉に向けた忸怩たるまなざしが、いっそう複雑さを増すせいだと想像するのだが、本作においては「虚構にも生命が宿る」という舞台設定までをあらかじめ逆算で準備して、創造する行為を通じた素子/姫子の関係性を、臭みなく表現することに成功している。「みずからが生みだしたキャラクターが、おのれの運命を書きかえて、異なる人生をあたえてくれた」という結論は、「姫子は10年前に死んだはず」というミステリーに対する巧妙な謎解きであると同時に、ホヨバのスタッフにとっての偽らざる実感をも表明しているような気がしてならない。ただ、日本語ネイティブではない悲しさ、ある登場人物の名前を「無量塔弘」と書いて「むらたひろし」と読ませるセンスはあまりにもダサすぎて、これが音読されるたびに全身を恥ずかしさで硬直させながら、肌をビッシリおおうサブイボに「イーッ!!」と奇声をあげるような始末だった(ほんと、勘弁してください)。

 あと、帰寂への切り札である姫子の巨大ロボットが造形から演出からポージングまで、まんま勇者シリーズのそれになっており、「大丈夫なの? 許可とってるの?」と心配になって検索したら、ブレイバーンの監督から先んじてコメントをもらっていて、方向性をまちがった周到さに思わず失笑がもれました。

雑文「Captain T., Blue Leg and J. Dream」(近況報告2026.7.19)

 気むずかしげな見かけと文体をしていながら、根の部分がミーハーなので、最近は世界球蹴り合戦の影響を受けて、密林の無限焚書でサッカー漫画ばかり読んでる。まず、大定番であるキャプテン翼の小学生編ですが、いまではギョッとするようなラフプレーの数々を審判が流しまくり、まったくファウルもとらずカードも出ないのには、ビックリしました。小学生にケガの状態を自己判断させすぎだし、気温35度の炎天下で試合を決行するし、これが年をとったということなのでしょう、無責任な大人たちによる大会運営のずさんさばかりが印象に残りました。それにつけても、作者の加齢によって世界的な人気作品が、オリンピック編の下書き連載で終了しそうなのは、じつに残念なことです。いまはタイトルも思いだせない、プレートを目いっぱいに使って対角線上に速球を投げこむことを、クロスファイアと呼ぶ野球漫画を無かったことにして、キャプテン翼の話数を積み増すことができたらとさえ思います。ナレーションで過程をスッとばしていいので、最後のページは翼くんと若林くんがワールドカップをかかげる見開きで終わることを願っています。くれぐれも現在、人気の長編作品を連載されている漫画家のみなさまは、50代半ばくらいでご自身には寿命があり、そこからは目も体力も衰えていくばかりだと自覚してくれればと、思わずにはおれません。

 次に、エッキスで評判のいいアオアシですが、20巻をすこし越えたあたりまで読んだものの、全巻の半分を過ぎてもしょうもない国内レベルの試合(失礼)で、あれだけ圧倒的強者として描かれてきたユースAチームが、無計画の場あたりサッカーで大苦戦するのを延々と見せられると、もしかしてハイキュー!!エンドa.k.a.尻切れトンボなのではないかと、だんだん不安になってきました。一試合もどんどん長くなっていて、それは敵味方の双方の過去エピソードを挿入しまくるせいなのですが、「群像劇になると、主人公の特別性が薄まる」を地で行っており、サッカーの戦術にフォーカスがある漫画のはずなのに、「選手の感動エピソードが入ると、試合が大きく動いたり、点が入ることが事前にわかる」という妙な具合になってきております。このまま読み進めていいものか迷っておりますので、有識者のみなさまにはぜひアドバイスをお願いします。最後に、もっとも感銘を受けたのは「ドーハの悲劇」の前から連載がはじまったJドリームです。自分の家ではない本棚で読んだような記憶はあるのですが、全シリーズを通読したのは今回がはじめてだったように思います。特に無印の1巻は、「Jリーグ発足に間にあった者と、間にあわなかった者」にフォーカスしていて、今日にいたる本邦サッカー界の大幅な躍進の裏に、無数のこういった苦難や挫折があったのだと気づかされ、見えている現実が厚みを増す感じさえありました。

 また、2巻以降の主人公である少年には、「日本のワールドカップ出場を手だすけするためにつかわされた、正体不明の異国の鳥」としての描写があり、そのように美しく物語は閉じられるはずだったのに、現実ではまさかのロスタイム逆転負けを喫したせいで、盛りあげに盛りあげたストーリーも、泣く泣くそれにあわせる形で「本戦出場ならず」を結論として、尻すぼみに幕を閉じてしまいます。ここから、さらに4年後のワールドカップ出場とフィクションとの同期をもくろみ、Jドリームは「飛翔編」として再起動します。簡単にまとめると、ユース世界大会において、日本がアルゼンチンとイタリアをやぶって優勝するという会作なわけですが、これだけの活躍をしたファンタジスタ(笑)の主人公が、続く「完全燃焼編」では当時の本邦の状況を反映させられてその輝きを失い、イランやサウジアラビア相手に大苦戦を強いられる展開には、もうまいりました。このあたりから、「背景より人物を描きたい」とのたまう作者のクセが悪い方向に出はじめ、異様に近いカメラとバストアップの連続によって、画面は窮屈かつ閉塞感に満ちたものとなり、サッカー漫画版・修羅の門(なんじゃそりゃ)みたいな読み味になっていくのです。それでも、日本のワールドカップ本戦初出場にあわせた最終ページの、「夢物語をやめよう」というナレーションには、ジンと胸をうつ力がありました。

 さすがに若い人が全巻とおして読むのはたいへんだろうので、この駄テキストで興味がわいた向きは、無印1巻と完全燃焼編の最終話、そして当時の日本サッカーの赤裸々な状況がよくわかる各巻末のコラム漫画を読むとよいでしょう。あと、作者が女性であるからなのか、小鳥猊下が栗本薫の影響下にあるせいなのか、登場するすべてのキャラクターに”受け”か”攻め”かの連想を強いる感じがあって、キャプテン翼には無数にあったようですが、本作にもそういった同人誌(婉曲表現)が存在したのかは、気になるところです。そして、新旧代表キーパーのどちらが”受け”でどちらが”攻め”なのかは、一目瞭然と言えるでしょう。へへ、おまえ、代表戦とちがって、こっちのゴールはだらしなく開きっぱなしじゃねえか……(最低)。

ゲーム「原神・Luna8」感想

 原神、ナド・クライ編の最終アップデートであるルナエイトをクリア。月面のマップがドカンと追加され、フィールド探索とストーリー進行が一体となったプレイ体験に、フォンテーヌまでにあった原神の楽しさをひさしぶりに思いだしました。重力ギミックと月面基地、そして機械じかけの「傀儡」の実装とくると、どこかプラグマタとのシンクロニシティを感じさせます。さらに野暮なツッコミをするならば、宇宙に向けてメッセージを送信することの危険性を説くくだりは、まんま三体の「暗黒森林」をなぞっていて、なんだか笑ってしまいました。原神そのものが自身の終わりを意識していることを、すべての語りにおいてほのめかしていきますが、「偽りの天穹」の向こう側になにを置こうとしているのか、まったく不安がないと言えば、ウソになるでしょう。なんとなれば、アチーブメントのひとつに”Love is destructive.”をしこんでくるような、「第三降臨者」といったサード・チルドレンを彷彿とさせるワードをシレッと使ってくるような連中ですから、天穹がガラスのようにヒビ割れてくだけ散った先に、パイモンのコスプレをしたプログラマーと制作スタジオの実写を映すのではないかというメタ的な恐怖を、どうにも捨てきれないためです。大半の人は知らないか、すでに忘れているでしょうけれど、円盤のみに収録されている旧エヴァ劇場版をテレビフォーマットに落としこんだ第26話の次回予告は、ガイナックス社内に敷設された線路の上を走る列車の視点から撮影された実写であり、熱烈かつ盲信的なエヴァ・フォロワーであるホヨバ幹部たちが、ぜったいにこれをオマージュ元にはしないという自信はありません。

 また、今回の更新分で出色だったのは、サンドローネの生いたちにまつわる挿話でした。簡単にまとめてしまえば、フランケンシュタインを始祖とする被造物の葛藤なわけですが、オリジナルが「愛さないなら、なぜ生んだ」という嘆きの慟哭であるのに対して、こちらは「愛してくれて、ありがとう」という誕生への讃歌になっている。本来ならば、「永遠の繁栄を約束するものは、家族である」という中共プロパガンダの臭気がただよいそうなところなのに、制作側が強く意識している「原神という破格の旅の終わり」がシナリオ全体にオーバーラップしていて、強い感動へと昇華させることができています。サンドローネの喪失に満ちた人生を通じた「やがてすべて失われるものに、愛をそそぐ意味はあるのだろうか?」という問いに対して、「やがてすべて失われるとしても、いだいた感情や記憶はずっと残っていく」といらえをかえすのは、原神の終焉へと向けられたメッセージでありながら、死という終わりを持つ我々の人生へ敷衍される普遍的な回答にもなっている。さらに、論理と感情の初期的な乖離というテーマは、多くのおたくたちがかかえる問題であり、泣いている小さな自分を高い位置からながめながら、「馬鹿だな、泣けばまた、ひどくなぐられるのに」と冷めた考えでおのれの弱さを突きはなすのは、我々の過ごしてきた人生の実相に近いのではないでしょうか。ゆえに、サンドローネの論理が鏡うつしの感情を抱きしめるさまに自身の来し方を投影して、ひどく心をゆさぶられてしまうのです。

 正直なところ、ゴミの集積場である「星々の幻境」が体現するところの、中華街のごとき”生き汚なさ”には辟易しており、かなり気持ちは離れていたのですが、今回のバージョンアップでしばらくぶりに、物心両面における原神の美点を再確認することができました。もちろん、生粋の萌えコションである小鳥猊下は、たちまちサンドローネを2凸し、モチーフ武器もキチンとそろえ、レベルマとスキルマをすでに達成済みであることを、みなさまにお伝えしておきます。あと、サンドローネとコロンビーナの関係性は、機械人形と月の神という出自ゆえに、生殖と美の喪失を考慮する必要がなく、直近に語った「百合という現象」に対する、変則的かつ条件つきの正答になっているような気がしました。

雑文「上伊那ぼたん、あるいは百合について」

 最近はフォロワーを増やしたくて、手あたり次第にフォローをくり返しているため、完全にタイムラインの構築に失敗しており、なぜか「上伊那ぼたん」なる百合アニメの話が延々と流れてくる。Diablo2Rのシーズン14において、ついにsteamとbattle.netの2アカウント運用を始めてしまったため、セルフrushとセルフbaalrunがはかどってしょうがないので、数話をながら見して、深刻に考えこんでしまった(吠え馬場は完成した)。なので、きょうは思いつくままに、”百合”という虚構カテゴリについて、すこしテキストを書いてみようと思う。まず、対立する概念であるところの”薔薇”は、まさにその語源となった「薔薇族」や「さぶ」に描かれた、むくつけき毛むくじゃらの大男がくんずほぐれつする、男性の性欲が男性へむかうさまをあらわす。つまり、このワードは現実に行われる同性愛を指している。次に、栗本薫を創始者とする”やおい”は「JUNE」などに小説や漫画の形式で掲載されていた、読み手であり書き手でもある少女が自身の自我をあずけた美少年や美青年による愛の営為であり、現実とは連絡のない明確なフィクションだと言えるだろう。ただし、繁殖の不可能性による社会からの冷たい拒絶に、少女たちの青春期の鬱屈や孤絶や閉塞感を重ねて書かれたため、それらの一部は非常に高い文学性をまとうこととなった。しかしながら、栗本薫その人がのちに嘆いてみせたように、大家族の解体による社会の変容が進むにつれ、誤解をおそれずに書くならば、「世間や父母や友人から祝福される、無責任・末代同性セックス最高にきもちいい!」というポルノ方向へと、やおい作品の総体が傾いていってしまったのである。

 では、百合はどうか。「上伊那ぼたん」を見るにつけ、現実に生きるレズビアンの実体を描いているわけではなく、若い女性を都合よくドール化した人形あそびのようなもので、同性ゆえの行き止まりの葛藤も、他のだれかではない”あなた”でなければならない理由も、いっさい感じることはできなかった。「わたしが醜い肉塊であったとしても、あなたはわたしを愛してくれるのか」という切実な問いかけは、かつてのやおい作品にはたしかに存在していたが、現代の百合において美醜へのまなざしは、あらかじめキャンセルされる。なぜなら、”性欲”と呼ぶとドぎつすぎるので言いかえれば、「生殖の本能から否応に誘引される、若い女の肉にむけられた男性のまなざし」からキャラクターは造形されており、昭和の生んだ有害なマスキュリニティ・ワードの頂点の一角をなす「ギリ抱ける」かどうかが、その基準となっているからである。以前、ナントカちゃんのセーラー服にも似たようなことを感じたのだが、「あらゆる男性のまなざす、若い女の肉がはなつ媚態とフェティッシュ」だけが本体のイラスト集に対して、その事実にまったく気づかないフリの、ストーリー漫画に向けてする高評価がならんでおり、ステラーブレイドばりの奇妙な界隈だなあと感じたのを思いだした。「上伊那ぼたん」に話をもどすと、飲酒をするとしゃっくりが止まらなくなる体質に、ただ一度「うるさい」と言われたことについて、泣くほどのトラウマにしているのを繊細さのあらわれとして受容するには、わたしはこの短くない人生において、あまりに多くの弱き人々を見すぎてしまっている。だいたい、すこしでも波風を立てることを避ける昨今の若者が、あの場面ーーあそこだけ、昭和の飲み会感あるーーで「うるさい」なんて発するはずもなく、100人中100人がその内心がどうであれ、表面上は「だいじょうぶ?」と声をかけるだろう(”ためにする”作劇をやめろ)。

 しかしながら、最終回において、ピアスの穴をあけることをセックスの代替行為としたのには、非常に納得感があった(結局、ぜんぶ見てるやん)。なんとなれば、「体内への侵入による支配と、テンポラリーな合一」こそがセックスの本質であり、ペニパンを装着したところでそれはあなたの一部ではないし、懸命に外性器をすりあわせたところで、永遠に相手とは近づけないだろう。現実のレズビアンが持つ、そういった”どうしようもない寂しさ”が、百合のフィクションからはきれいサッパリ抜け落ちているし、せいぜいが大学生までの若さと”何者でもなさ”があるからこそ、「やがて過ぎ去り、いつか失われるもの」として鑑賞していられるのだ。このあと、彼女らは就職活動の果てに、企業の序列と職種による外的な評価があたえられ、そうして2人が30代、40代になり、否応に関係性を変化させていく未来を、おそらく本作のファンは見たいと思わないにちがいない。その態度こそが、やおいのような文学の高みへは到達できない、「生殖の本能から否応に誘引される、若い女の肉にむけられる男性のまなざし」にのみ立脚する、百合作品の限界なのだろうと思う。正しく百合の関係性を完遂するためには、肉の誘引力が消えるまえに心中させるーーできれば、体内への侵入を象徴する刃物でーーしかないのだが、その張りつめたテンションとそこへいたらなければならない切実さは、上伊那ぼたん系の作品には求めるべくもないというのが、小鳥猊下の偽らざる感想である。寡聞にして物を知らない可能性もあるので、女性の若さにフォーカスが無い、女性視点の百合を題材としたフィクションがあるなら、ぜひ教えていただきたい。終わる。

漫画「呪術廻戦モジュロ」感想

 呪術廻戦モジュロ全3巻を、温泉と漫画喫茶が複合したような施設にて読了。本編のその後を描く短期集中連載で、わざわざ作画担当を別に立ててのぞむというのだから、事前の期待はかなり高まっていました。結論から申せば、「設定を作るのが好きで、描きたいシーンはあれど、ストーリーテリングが下手」という薄々は感じていた作者の弱点を、赤裸々に露呈した作品になっています。冨樫義博に影響を受けて、本筋とは関係ないサブキャラをつっこんでくる手クセも健在で、致命的なのはコピー元とちがって、それらに主役を食うような魅力がまったくないことです。じっさい、サメのカブリモノをした呪術師が登場した瞬間、どうでもよすぎるあまりいったん単行本を閉じて、汗を流しにサウナへと向かったほどでした。思いかえせば、本編も五条悟のキャラ造形だけが突出していて、サブキャラのバトルはけっこう読みとばしがちでした(高羽史彦は例外)。また、これまではかろうじて臭みにいたっていなかった「政治や世相にモノ申したい」「おのれの思想信条を語りたい」「大上段から一方的な高説を垂れたい」という気持ちが、本作ではビックリするほどダダ漏れになっていて、この作者はファンガスのフォロワーでもあると聞きおよびましたが、そんな悪癖の部分をマネしなくていいのにと思いました。そもそも設定の大元が「宗教による民族対立」「移民難民への差別」「エネルギー資源の枯渇」などの社会問題を、宇宙人と謎パワーにあずけて語る目的で立てられていて、作劇としてはほとんど「はじめに、説教ありき」になっており、前作の続きを期待するファンにとっては本末転倒もいいところでしょう。5万人を収容できるモノリス型宇宙船も、謎の鉱石から設計図もなしにマジカル呪力錬成で一瞬(ひとコマ)のうちに完成するし、恒星間航行を可能にする推進力はまったくの不明で、そのあいだの衣食住をどうまかなったのかにはいっさい言及がなく、そもそも5万人を収容しているスケール感を作画のウソでごまかしきれていません。

 新キャラである「三つ目がとおる!」も最初のバトルでの開眼でオッと思わせたのが最高潮で、そのあとはギミックとして完全に消滅します(なんで涙を流すの? 重力操作じゃなかったの?)。そして、なんら伏線も脈絡もなく脳腫瘍におかされている設定をつっこんできたかと思えば、意識が混濁した状態の女子を車椅子ごと飛行機から放りだしたのもビックリで、そこにいたる組み立てが下手クソすぎるため、「ウナゲリオン降下と同じ構図が描きたかった」以外の理由を見つけることはできません。とにかく徹頭徹尾、虚構を虚構として成立させるためのビルドアップが雑なせいで、印象的になるはずの数々のシーンが、どれもウソくさいものになっているのです。ビッシリと紙面を埋めるネームの多くは、登場人物のセリフに仮託した作者のウンチクーーキャッチボールの説明、いる?ーーか説教で、わずか3巻なのに遅々としてストーリーは前に進まないばかりか、次第にどの方向が”前”なのかもわからなくなってくる始末です。新世代のキャラたちの魅力を充分に表現することができないまま、物語をまとめるためだけに旧作の最強キャラ2名を引っぱりだしてきたのには、思わず「ワレ、なにがしたいんや」のツッコミがもれました。純粋に後日譚として見ても、孫子の代まで時間をスッとばし、前作の腫瘍、じゃなかった主要キャラはのきなみ死んでいるかジジババになっていて、主人公だけが不老不死の「さまよえるオランダ人」として生きさらばえているのに、はたしてファンのみなさんは納得しておられるのでしょうか。あまつさえ、その口から特級呪物・イコール・両面宿儺と同じ存在になるだなんて言いだして、「有限の者たちによる継承と、巨悪をうがつ市井の小さな善意」というFGOを彷彿とさせる前作のテーマと結論を、すべて台無しにしてしまうのです。

 じつは、世界球蹴り合戦を気のないフリで7大会ほど横目に見てきているのですが、「個人を越えた継承による集団の成長」をこれほど強く実感させられるイベントはありません。だれひとりボールを足下でキープできず、わずかのプレッシャーでバックパスに次ぐバックパス、撃つシュート撃つシュートすべて枠を外れた宇宙開発、中央を突破できないからサイドで縦ポンするほかなく、コーナーキックからの偶発的な事故でしかゴールは期待できず、1点先制されたらどれだけ時間が残っていてもたちまち終戦ムード、技術は低くプライドは高くチームの雰囲気はつねにギスギス、往年の名選手に「私なら両脚にギプスをはめていても決めることができる!」とまで言わせたキュー・ビー・ケー、専属のカメラマンに撮影させるためのトラベラーによるフィールド寝ころがりなど、数々の茶番をリアルタイムで苦々しく見てきたからこそ、本大会におぼえる感慨はいっそう強いものとなっております。突然のサッカー方向への脱線でなにが言いたいかといえば、シンジさんの孫たちと宇宙難民をさしおいて、物語のシメに「未来永劫にわたり存在し続ける虎杖悠仁」をお出しするのは、ファンサを越えた本編への冒瀆と作者の自己満足であり、チームプレイをガン無視してボールの供給だけを求めるロートル・ストライカーみたいな醜悪さであると感じたということです(げいかくんのごういんなイグザンプル!)。あと、ジェネリック・ファンガスであるがゆえの疾病だろうと推察しますが、そろそろ「フィクションが世界を救う」という妄想ーーもちろん、個人を救うことはありますーーから距離をおいたほうがいいとアドバイスして、この低級テキスト呪物を閉じたいと思います。