猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

漫画「キャプテン翼・ワールドユース編」感想

 なんと、キャプテン翼のワールドユース編を読了。比較的あたらしいシリーズだと思っていたのに、じつはドーハの悲劇より前の時代の連載作品であり、中年期以降の時間感覚にあらためて恐怖をおぼえた次第である。ジャンプ本誌では、リアル・ジャパン・セブンの登場ぐらいまでを読んでいたことが今回わかったのだが、前作の終盤に連呼された、少年に向けた性愛がほんのり香るジェイ・ボーイズ・サッカーなるネーミングといい、あいかわらず全編にわたって独特のセンスがただよっている。そして、この世界における審判はまったくの無力であり、荒れる試合をいっさいコントロールできないため、相手の選手を物理的に痛めつけることが目的の南米式カンフーサッカーが横行し、有名なフレーズである「ボールはトモダチ」どころか、作中に体現されているのは「ボールはマーダー・ウェポン」であり、必殺シュートに接触すると人体はもれなく破壊されるのだった。協会の片桐さんが試合で片目を喪失しているのも、キャプテン翼のサッカー観を如実にあらわしており、おそらくスパイクの裏側で顔面をけずられたーーしかも、ノーファウルーー結果にちがいない。さらに、無印1話から登場し続けるダンプカーが選手とその家族を死傷させまくるのは、ほぼシュールなギャグレベルの反復になってしまっている(これほどまでに大型車が登場人物たちを苦しめるマンガは、他には野望の王国くらいのものだろう)。本邦がまだワールドカップ本戦出場をはたせなかった時代の作品ゆえに、見たくもない中国やサウジアラビアとの死闘を予選リーグで延々とくり広げたあげく、国際ジュニアユース編を焼きなおしたような展開になってしまったからだろう、決勝トーナメントの途中で打ち切りが決定したようで、セミファイナルはナレーションだけで”ごういん”にスッとばし、満を持して登場したロベルト本郷ひきいるブラジルユースとの頂上決戦も、後半ロスタイムで巻きぎみに終わってしまう。これにワリを食ったのは、さんざん読者の期待をアオッてきた世捨て人のサッカー王で、試合時間にして数分とわずか数ページを登場したのち、翼くんにアッサリと返り討ちにされるのだった(それにしても、世界の一流選手たちに絶大な影響をあたえた作品の続編を、ジャンプ編集部はよく打ち切りにできたものだなと感心していたら、当時の彼らは年齢的にまだ小中学生だったことに気づいた)。

 個人的な感覚を言えば、雷獣シュートやらナトゥレーザくんなどは、同人作家によるパチモンのようにしか思えない。なんとなれば、初代の連載終了後に発売されたファミコン版キャプテン翼2・スーパーストライカーにて、真のワールドユースにおける激闘を個人的に何周も”実体験”しているからである。翼くんしかガッツ消費のシュートを持たない弱小サンパウロFCを率いてリオカップを制覇し、続く全国高校サッカー選手権は退屈すぎて特に印象はなく、全員が必殺シュートを持つ全日本バーサスほぼ翼くん単騎チームのジャパンカップは極限の死闘となり、敗退をくり返すことで経験値をかせいでレベルを上げ、ついに初めての勝利を手にしたときの歓喜は、ジョホールバルもかくやというもので、いまでも忘れることはできない。そして、ワールドユースの予選を勝ちあがり、本戦でピエールくん、ナポレオンくん、ジノ・ヘルナンデスくん、ファン・ディアスくん、シュナイダーくん、ミューラーくんと戦いながら、伝説の選手とその必殺シュートについてのミステリーが、テクモシアター演出(忍者龍剣伝!)によって解き明かされていく興奮は、令和の最新ゲーム群が提供するそれに勝るとも劣らないものであった。ブラジルとの決勝戦において、ガッツを400も消費するサイクロンをゲルティスくんのダークイリュージョンでキャッチングされ、パスを受けたコインブラくんが他選手の3倍の速度をしたドリブルで自陣ゴールへとせまる絶望感は、じっさいに経験してみないとわからないだろう。いまでも、ブラジルのレジェンドはだれかと問われれば、ペレではなくジャイロと答えるし、翼くんの最強シュートはスカイダイブではなくサイクロンだと強く主張して、一歩もゆずらないほどである。私の中では、このファミコン版キャプテン翼2がたび重なるゼロからのプレイによって正史と化しているため、マンガ版のワールドユース編はできの悪い二次創作か、それこそ偽史としか思えないのであった。最後にこっそりと、「ビックリするほどあっていないから、これ以上は読まないほうがいい」とのアドバイスをいただいたアオアシを全巻読了したので、それに言及して終わりたいと思う。サッカーにおけるユース世代の育成をテーマとして、「すこし食い足りないが、ここで終わるのがもっともきれいだろう」という地点で幕を閉じており、事前の想像よりもはるかに読後感よくまとまっていて、非常に好感が持てたことをまずはお伝えしたい。それと同時に、おのれの過去の虚構体験から逆算したマイナスの予測をご高説として垂れるのは、以後、厳につつしまねばならぬと反省したのであった。

 ただ、ひとつだけひっかかったのは、バルサのエースであるCUNTーーやだなあ、カッコつけのために英語表記にしただけで、他意はいっさいないですよ!ーーをめぐる勝負の描き方で、「地域の紛争や欠損した家庭からの逃げ場としてサッカーにたどりついた者が持つ、失敗イコール地獄への逆もどりとなるがゆえの、人生と骨がらみになった強さ」に対抗しえたのが、片親で極貧の少年期を過ごしたAKUTZだけだったというのは、その後の主人公による決勝ゴールへといたる展開を加味してさえ、作り手の意図しない誤ったメッセージを発信してしまっているような気がする。現在、現役生活とGOAT論争の終わりを迎えつつある二人の大スター選手がいるが、かたや長身の筋肉質なイケメンであり、かたや中肉中背のオタク顔をした喪男であるという見かけの相違だけが、高校時代の学内ヒエラルキーのような、余計なイザコザを場外に引き起こしているような気がしてならない。それは、カースト上位に位置する生徒が視界に入れただけでイライラするキモオタを、教師にバレないよう取り巻き連を使って間接的にイジメる構図に酷似しており、騒動の規模がグローバルであろうとも、根っこの部分に横たわるのは、青春時代に万国共通のルッキズムだと指摘できるだろう。突然のリアル方向への脱線でなにが言いたいのかといえば、イケメンがアル中の父親に対する憎悪を自己愛へと反転させ、サッカーを立身の道具と決めて勝ち続けてきた結果、いよいよ年齢を重ねて、汲むべきエネルギーを枯渇させてガス欠となってきたのに対して、ブサメンのほうは両親への深い愛情と感謝の念をかくそうとしないだけでなく、なによりまだサッカーをプレイできることへの喜びに満ちあふれていて、いよいよ年齢を重ねて、常人には理解不能の領域へと突入しているということだ。現実のサッカー界において、まったくCLITRISやCUNTやAKUTZのようではない人物が軽やかに、いとも簡単そうにすべての栄冠を手に入れていくのは、人生の初源に憎悪を持つ小鳥猊下にとって、人類全体へと向けられた救済や福音であるように思えてならない。

ゲーム「崩壊スターレイル・汽笛は轟く、帰寂のさなかに」感想

 崩壊スターレイルの最新バージョン4.4をクリア。半島と大陸の課金アプリをいくつかかけもちでプレイしているが、かの国では文系大学院生の必読書にリストアップされているとのウワサがまことしやかに流れるほど、本作の物語はじつによく書けており、頭ひとつ抜けておもしろい。特に大陸のゲームは、第2章にあたる部分で中華の類似国の話を都合のいい妄想ーー唯一の造幣局として通貨の発行権をにぎり、世界経済を牛耳っているなどーーこみで延々と語る傾向があるのは玉に瑕だが、そこを我慢して通りすぎると第3章あたりからギアをあげて、グングンとよくなっていく印象である。正直なところ、崩壊スターレイルも仙舟羅浮の後半あたりで、プレイをやめようと思ったことは何度かあった。しかし、そこからピノコニーオンパロスと劇的にシナリオが改善されていくのを目のあたりにして、つくづく創作の邪魔になるのは客観性の欠如ーーこの場合、”おらが国”へのプライドないし、検閲によるとりつぶしを避けるための元首へのおもねりーーだとの思いをあらたにした次第である(アークナイツでさんざん聞かされた評判とは裏腹に、凡庸でつまらないストーリーのエンドフィールドを細々と続けているのも、第2章の武陵編さえ終われば、この「中華アプリの法則」により、少しはマシになっていくかもしれないとの期待からなのだった)。ひとつまえの感想にも述べたように、二相楽園での冒険は、1990年代に本邦で隆盛をきわめた伝奇作品群で創作の産湯をつかった者たちによる、ある種の返歌ないし本歌どりを意識しているように感じてならない(ノーマルエンドとトゥルーエンドを続けてリニアーに提示するところなど、ビジュアルノベル的な分岐を意識したのだろうなと思わせる)。すこし話はそれるが、無印Fateからの深甚なる影響を隠そうともしないコラボ第2弾ーーお話は二次創作以下で、ぜんぜんダメーーを見て、FGOのリメイクは崩壊スターレイル内の別棟として行うのが正解ではないかと思いはじめており、かなりその意図をもって主要キャラのモデリングを進めている気がする。

 今回のバージョンで特によかったのは、絶滅大君である帰寂のキャラ造形と底を割らない語り口であり、「人非人による偽りの愛情でも、育てられる側にとっては本物の愛情として機能するのか?」という問いには、かなり身につまされる重たさがあった。最後の最後で彼がもらす「勝敗はどっちでもいいが、負ければ自分がまちがっていたことの証明になる」というメッセージも、そこにいたるていねいなビルドアップがあるため、宇宙の混沌を神へと擬人化するならば、きっと我々にそう述べるだろうという奇妙な説得力をはらんでいる。また、成功したクリエイターが「創造すること」への称揚を作品内に織りこむ現象ーーたとえば、グラップラー刃牙におけるリアルシャドーや形象拳がその最たるものーーがあり、年齢を重ねるにつれて、一次産業的な現実への干渉に向けた忸怩たるまなざしが、いっそう複雑さを増すせいだと想像するのだが、本作においては「虚構にも生命が宿る」という舞台設定までをあらかじめ逆算で準備して、創造する行為を通じた素子/姫子の関係性を、臭みなく表現することに成功している。「みずからが生みだしたキャラクターが、おのれの運命を書きかえて、異なる人生をあたえてくれた」という結論は、「姫子は10年前に死んだはず」というミステリーに対する巧妙な謎解きであると同時に、ホヨバのスタッフにとっての偽らざる実感をも表明しているような気がしてならない。ただ、日本語ネイティブではない悲しさ、ある登場人物の名前を「無量塔弘」と書いて「むらたひろし」と読ませるセンスはあまりにもダサすぎて、これが音読されるたびに全身を恥ずかしさで硬直させながら、肌をビッシリおおうサブイボに「イーッ!!」と奇声をあげるような始末だった(ほんと、勘弁してください)。

 あと、帰寂への切り札である姫子の巨大ロボットが造形から演出からポージングまで、まんま勇者シリーズのそれになっており、「大丈夫なの? 許可とってるの?」と心配になって検索したら、ブレイバーンの監督から先んじてコメントをもらっていて、方向性をまちがった周到さに思わず失笑がもれました。

雑文「Captain T., Blue Leg and J. Dream」(近況報告2026.7.19)

 気むずかしげな見かけと文体をしていながら、根の部分がミーハーなので、最近は世界球蹴り合戦の影響を受けて、密林の無限焚書でサッカー漫画ばかり読んでる。まず、大定番であるキャプテン翼の小学生編ですが、いまではギョッとするようなラフプレーの数々を審判が流しまくり、まったくファウルもとらずカードも出ないのには、ビックリしました。小学生にケガの状態を自己判断させすぎだし、気温35度の炎天下で試合を決行するし、これが年をとったということなのでしょう、無責任な大人たちによる大会運営のずさんさばかりが印象に残りました。それにつけても、作者の加齢によって世界的な人気作品が、オリンピック編の下書き連載で終了しそうなのは、じつに残念なことです。いまはタイトルも思いだせない、プレートを目いっぱいに使って対角線上に速球を投げこむことを、クロスファイアと呼ぶ野球漫画を無かったことにして、キャプテン翼の話数を積み増すことができたらとさえ思います。ナレーションで過程をスッとばしていいので、最後のページは翼くんと若林くんがワールドカップをかかげる見開きで終わることを願っています。くれぐれも現在、人気の長編作品を連載されている漫画家のみなさまは、50代半ばくらいでご自身には寿命があり、そこからは目も体力も衰えていくばかりだと自覚してくれればと、思わずにはおれません。

 次に、エッキスで評判のいいアオアシですが、20巻をすこし越えたあたりまで読んだものの、全巻の半分を過ぎてもしょうもない国内レベルの試合(失礼)で、あれだけ圧倒的強者として描かれてきたユースAチームが、無計画の場あたりサッカーで大苦戦するのを延々と見せられると、もしかしてハイキュー!!エンドa.k.a.尻切れトンボなのではないかと、だんだん不安になってきました。一試合もどんどん長くなっていて、それは敵味方の双方の過去エピソードを挿入しまくるせいなのですが、「群像劇になると、主人公の特別性が薄まる」を地で行っており、サッカーの戦術にフォーカスがある漫画のはずなのに、「選手の感動エピソードが入ると、試合が大きく動いたり、点が入ることが事前にわかる」という妙な具合になってきております。このまま読み進めていいものか迷っておりますので、有識者のみなさまにはぜひアドバイスをお願いします。最後に、もっとも感銘を受けたのは「ドーハの悲劇」の前から連載がはじまったJドリームです。自分の家ではない本棚で読んだような記憶はあるのですが、全シリーズを通読したのは今回がはじめてだったように思います。特に無印の1巻は、「Jリーグ発足に間にあった者と、間にあわなかった者」にフォーカスしていて、今日にいたる本邦サッカー界の大幅な躍進の裏に、無数のこういった苦難や挫折があったのだと気づかされ、見えている現実が厚みを増す感じさえありました。

 また、2巻以降の主人公である少年には、「日本のワールドカップ出場を手だすけするためにつかわされた、正体不明の異国の鳥」としての描写があり、そのように美しく物語は閉じられるはずだったのに、現実ではまさかのロスタイム逆転負けを喫したせいで、盛りあげに盛りあげたストーリーも、泣く泣くそれにあわせる形で「本戦出場ならず」を結論として、尻すぼみに幕を閉じてしまいます。ここから、さらに4年後のワールドカップ出場とフィクションとの同期をもくろみ、Jドリームは「飛翔編」として再起動します。簡単にまとめると、ユース世界大会において、日本がアルゼンチンとイタリアをやぶって優勝するという会作なわけですが、これだけの活躍をしたファンタジスタ(笑)の主人公が、続く「完全燃焼編」では当時の本邦の状況を反映させられてその輝きを失い、イランやサウジアラビア相手に大苦戦を強いられる展開には、もうまいりました。このあたりから、「背景より人物を描きたい」とのたまう作者のクセが悪い方向に出はじめ、異様に近いカメラとバストアップの連続によって、画面は窮屈かつ閉塞感に満ちたものとなり、サッカー漫画版・修羅の門(なんじゃそりゃ)みたいな読み味になっていくのです。それでも、日本のワールドカップ本戦初出場にあわせた最終ページの、「夢物語をやめよう」というナレーションには、ジンと胸をうつ力がありました。

 さすがに若い人が全巻とおして読むのはたいへんだろうので、この駄テキストで興味がわいた向きは、無印1巻と完全燃焼編の最終話、そして当時の日本サッカーの赤裸々な状況がよくわかる各巻末のコラム漫画を読むとよいでしょう。あと、作者が女性であるからなのか、小鳥猊下が栗本薫の影響下にあるせいなのか、登場するすべてのキャラクターに”受け”か”攻め”かの連想を強いる感じがあって、キャプテン翼には無数にあったようですが、本作にもそういった同人誌(婉曲表現)が存在したのかは、気になるところです。そして、新旧代表キーパーのどちらが”受け”でどちらが”攻め”なのかは、一目瞭然と言えるでしょう。へへ、おまえ、代表戦とちがって、こっちのゴールはだらしなく開きっぱなしじゃねえか……(最低)。

ゲーム「原神・Luna8」感想

 原神、ナド・クライ編の最終アップデートであるルナエイトをクリア。月面のマップがドカンと追加され、フィールド探索とストーリー進行が一体となったプレイ体験に、フォンテーヌまでにあった原神の楽しさをひさしぶりに思いだしました。重力ギミックと月面基地、そして機械じかけの「傀儡」の実装とくると、どこかプラグマタとのシンクロニシティを感じさせます。さらに野暮なツッコミをするならば、宇宙に向けてメッセージを送信することの危険性を説くくだりは、まんま三体の「暗黒森林」をなぞっていて、なんだか笑ってしまいました。原神そのものが自身の終わりを意識していることを、すべての語りにおいてほのめかしていきますが、「偽りの天穹」の向こう側になにを置こうとしているのか、まったく不安がないと言えば、ウソになるでしょう。なんとなれば、アチーブメントのひとつに”Love is destructive.”をしこんでくるような、「第三降臨者」といったサード・チルドレンを彷彿とさせるワードをシレッと使ってくるような連中ですから、天穹がガラスのようにヒビ割れてくだけ散った先に、パイモンのコスプレをしたプログラマーと制作スタジオの実写を映すのではないかというメタ的な恐怖を、どうにも捨てきれないためです。大半の人は知らないか、すでに忘れているでしょうけれど、円盤のみに収録されている旧エヴァ劇場版をテレビフォーマットに落としこんだ第26話の次回予告は、ガイナックス社内に敷設された線路の上を走る列車の視点から撮影された実写であり、熱烈かつ盲信的なエヴァ・フォロワーであるホヨバ幹部たちが、ぜったいにこれをオマージュ元にはしないという自信はありません。

 また、今回の更新分で出色だったのは、サンドローネの生いたちにまつわる挿話でした。簡単にまとめてしまえば、フランケンシュタインを始祖とする被造物の葛藤なわけですが、オリジナルが「愛さないなら、なぜ生んだ」という嘆きの慟哭であるのに対して、こちらは「愛してくれて、ありがとう」という誕生への讃歌になっている。本来ならば、「永遠の繁栄を約束するものは、家族である」という中共プロパガンダの臭気がただよいそうなところなのに、制作側が強く意識している「原神という破格の旅の終わり」がシナリオ全体にオーバーラップしていて、強い感動へと昇華させることができています。サンドローネの喪失に満ちた人生を通じた「やがてすべて失われるものに、愛をそそぐ意味はあるのだろうか?」という問いに対して、「やがてすべて失われるとしても、いだいた感情や記憶はずっと残っていく」といらえをかえすのは、原神の終焉へと向けられたメッセージでありながら、死という終わりを持つ我々の人生へ敷衍される普遍的な回答にもなっている。さらに、論理と感情の初期的な乖離というテーマは、多くのおたくたちがかかえる問題であり、泣いている小さな自分を高い位置からながめながら、「馬鹿だな、泣けばまた、ひどくなぐられるのに」と冷めた考えでおのれの弱さを突きはなすのは、我々の過ごしてきた人生の実相に近いのではないでしょうか。ゆえに、サンドローネの論理が鏡うつしの感情を抱きしめるさまに自身の来し方を投影して、ひどく心をゆさぶられてしまうのです。

 正直なところ、ゴミの集積場である「星々の幻境」が体現するところの、中華街のごとき”生き汚なさ”には辟易しており、かなり気持ちは離れていたのですが、今回のバージョンアップでしばらくぶりに、物心両面における原神の美点を再確認することができました。もちろん、生粋の萌えコションである小鳥猊下は、たちまちサンドローネを2凸し、モチーフ武器もキチンとそろえ、レベルマとスキルマをすでに達成済みであることを、みなさまにお伝えしておきます。あと、サンドローネとコロンビーナの関係性は、機械人形と月の神という出自ゆえに、生殖と美の喪失を考慮する必要がなく、直近に語った「百合という現象」に対する、変則的かつ条件つきの正答になっているような気がしました。

雑文「上伊那ぼたん、あるいは百合について」

 最近はフォロワーを増やしたくて、手あたり次第にフォローをくり返しているため、完全にタイムラインの構築に失敗しており、なぜか「上伊那ぼたん」なる百合アニメの話が延々と流れてくる。Diablo2Rのシーズン14において、ついにsteamとbattle.netの2アカウント運用を始めてしまったため、セルフrushとセルフbaalrunがはかどってしょうがないので、数話をながら見して、深刻に考えこんでしまった(吠え馬場は完成した)。なので、きょうは思いつくままに、”百合”という虚構カテゴリについて、すこしテキストを書いてみようと思う。まず、対立する概念であるところの”薔薇”は、まさにその語源となった「薔薇族」や「さぶ」に描かれた、むくつけき毛むくじゃらの大男がくんずほぐれつする、男性の性欲が男性へむかうさまをあらわす。つまり、このワードは現実に行われる同性愛を指している。次に、栗本薫を創始者とする”やおい”は「JUNE」などに小説や漫画の形式で掲載されていた、読み手であり書き手でもある少女が自身の自我をあずけた美少年や美青年による愛の営為であり、現実とは連絡のない明確なフィクションだと言えるだろう。ただし、繁殖の不可能性による社会からの冷たい拒絶に、少女たちの青春期の鬱屈や孤絶や閉塞感を重ねて書かれたため、それらの一部は非常に高い文学性をまとうこととなった。しかしながら、栗本薫その人がのちに嘆いてみせたように、大家族の解体による社会の変容が進むにつれ、誤解をおそれずに書くならば、「世間や父母や友人から祝福される、無責任・末代同性セックス最高にきもちいい!」というポルノ方向へと、やおい作品の総体が傾いていってしまったのである。

 では、百合はどうか。「上伊那ぼたん」を見るにつけ、現実に生きるレズビアンの実体を描いているわけではなく、若い女性を都合よくドール化した人形あそびのようなもので、同性ゆえの行き止まりの葛藤も、他のだれかではない”あなた”でなければならない理由も、いっさい感じることはできなかった。「わたしが醜い肉塊であったとしても、あなたはわたしを愛してくれるのか」という切実な問いかけは、かつてのやおい作品にはたしかに存在していたが、現代の百合において美醜へのまなざしは、あらかじめキャンセルされる。なぜなら、”性欲”と呼ぶとドぎつすぎるので言いかえれば、「生殖の本能から否応に誘引される、若い女の肉にむけられた男性のまなざし」からキャラクターは造形されており、昭和の生んだ有害なマスキュリニティ・ワードの頂点の一角をなす「ギリ抱ける」かどうかが、その基準となっているからである。以前、ナントカちゃんのセーラー服にも似たようなことを感じたのだが、「あらゆる男性のまなざす、若い女の肉がはなつ媚態とフェティッシュ」だけが本体のイラスト集に対して、その事実にまったく気づかないフリの、ストーリー漫画に向けてする高評価がならんでおり、ステラーブレイドばりの奇妙な界隈だなあと感じたのを思いだした。「上伊那ぼたん」に話をもどすと、飲酒をするとしゃっくりが止まらなくなる体質に、ただ一度「うるさい」と言われたことについて、泣くほどのトラウマにしているのを繊細さのあらわれとして受容するには、わたしはこの短くない人生において、あまりに多くの弱き人々を見すぎてしまっている。だいたい、すこしでも波風を立てることを避ける昨今の若者が、あの場面ーーあそこだけ、昭和の飲み会感あるーーで「うるさい」なんて発するはずもなく、100人中100人がその内心がどうであれ、表面上は「だいじょうぶ?」と声をかけるだろう(”ためにする”作劇をやめろ)。

 しかしながら、最終回において、ピアスの穴をあけることをセックスの代替行為としたのには、非常に納得感があった(結局、ぜんぶ見てるやん)。なんとなれば、「体内への侵入による支配と、テンポラリーな合一」こそがセックスの本質であり、ペニパンを装着したところでそれはあなたの一部ではないし、懸命に外性器をすりあわせたところで、永遠に相手とは近づけないだろう。現実のレズビアンが持つ、そういった”どうしようもない寂しさ”が、百合のフィクションからはきれいサッパリ抜け落ちているし、せいぜいが大学生までの若さと”何者でもなさ”があるからこそ、「やがて過ぎ去り、いつか失われるもの」として鑑賞していられるのだ。このあと、彼女らは就職活動の果てに、企業の序列と職種による外的な評価があたえられ、そうして2人が30代、40代になり、否応に関係性を変化させていく未来を、おそらく本作のファンは見たいと思わないにちがいない。その態度こそが、やおいのような文学の高みへは到達できない、「生殖の本能から否応に誘引される、若い女の肉にむけられる男性のまなざし」にのみ立脚する、百合作品の限界なのだろうと思う。正しく百合の関係性を完遂するためには、肉の誘引力が消えるまえに心中させるーーできれば、体内への侵入を象徴する刃物でーーしかないのだが、その張りつめたテンションとそこへいたらなければならない切実さは、上伊那ぼたん系の作品には求めるべくもないというのが、小鳥猊下の偽らざる感想である。寡聞にして物を知らない可能性もあるので、女性の若さにフォーカスが無い、女性視点の百合を題材としたフィクションがあるなら、ぜひ教えていただきたい。終わる。

漫画「呪術廻戦モジュロ」感想

 呪術廻戦モジュロ全3巻を、温泉と漫画喫茶が複合したような施設にて読了。本編のその後を描く短期集中連載で、わざわざ作画担当を別に立ててのぞむというのだから、事前の期待はかなり高まっていました。結論から申せば、「設定を作るのが好きで、描きたいシーンはあれど、ストーリーテリングが下手」という薄々は感じていた作者の弱点を、赤裸々に露呈した作品になっています。冨樫義博に影響を受けて、本筋とは関係ないサブキャラをつっこんでくる手クセも健在で、致命的なのはコピー元とちがって、それらに主役を食うような魅力がまったくないことです。じっさい、サメのカブリモノをした呪術師が登場した瞬間、どうでもよすぎるあまりいったん単行本を閉じて、汗を流しにサウナへと向かったほどでした。思いかえせば、本編も五条悟のキャラ造形だけが突出していて、サブキャラのバトルはけっこう読みとばしがちでした(高羽史彦は例外)。また、これまではかろうじて臭みにいたっていなかった「政治や世相にモノ申したい」「おのれの思想信条を語りたい」「大上段から一方的な高説を垂れたい」という気持ちが、本作ではビックリするほどダダ漏れになっていて、この作者はファンガスのフォロワーでもあると聞きおよびましたが、そんな悪癖の部分をマネしなくていいのにと思いました。そもそも設定の大元が「宗教による民族対立」「移民難民への差別」「エネルギー資源の枯渇」などの社会問題を、宇宙人と謎パワーにあずけて語る目的で立てられていて、作劇としてはほとんど「はじめに、説教ありき」になっており、前作の続きを期待するファンにとっては本末転倒もいいところでしょう。5万人を収容できるモノリス型宇宙船も、謎の鉱石から設計図もなしにマジカル呪力錬成で一瞬(ひとコマ)のうちに完成するし、恒星間航行を可能にする推進力はまったくの不明で、そのあいだの衣食住をどうまかなったのかにはいっさい言及がなく、そもそも5万人を収容しているスケール感を作画のウソでごまかしきれていません。

 新キャラである「三つ目がとおる!」も最初のバトルでの開眼でオッと思わせたのが最高潮で、そのあとはギミックとして完全に消滅します(なんで涙を流すの? 重力操作じゃなかったの?)。そして、なんら伏線も脈絡もなく脳腫瘍におかされている設定をつっこんできたかと思えば、意識が混濁した状態の女子を車椅子ごと飛行機から放りだしたのもビックリで、そこにいたる組み立てが下手クソすぎるため、「ウナゲリオン降下と同じ構図が描きたかった」以外の理由を見つけることはできません。とにかく徹頭徹尾、虚構を虚構として成立させるためのビルドアップが雑なせいで、印象的になるはずの数々のシーンが、どれもウソくさいものになっているのです。ビッシリと紙面を埋めるネームの多くは、登場人物のセリフに仮託した作者のウンチクーーキャッチボールの説明、いる?ーーか説教で、わずか3巻なのに遅々としてストーリーは前に進まないばかりか、次第にどの方向が”前”なのかもわからなくなってくる始末です。新世代のキャラたちの魅力を充分に表現することができないまま、物語をまとめるためだけに旧作の最強キャラ2名を引っぱりだしてきたのには、思わず「ワレ、なにがしたいんや」のツッコミがもれました。純粋に後日譚として見ても、孫子の代まで時間をスッとばし、前作の腫瘍、じゃなかった主要キャラはのきなみ死んでいるかジジババになっていて、主人公だけが不老不死の「さまよえるオランダ人」として生きさらばえているのに、はたしてファンのみなさんは納得しておられるのでしょうか。あまつさえ、その口から特級呪物・イコール・両面宿儺と同じ存在になるだなんて言いだして、「有限の者たちによる継承と、巨悪をうがつ市井の小さな善意」というFGOを彷彿とさせる前作のテーマと結論を、すべて台無しにしてしまうのです。

 じつは、世界球蹴り合戦を気のないフリで7大会ほど横目に見てきているのですが、「個人を越えた継承による集団の成長」をこれほど強く実感させられるイベントはありません。だれひとりボールを足下でキープできず、わずかのプレッシャーでバックパスに次ぐバックパス、撃つシュート撃つシュートすべて枠を外れた宇宙開発、中央を突破できないからサイドで縦ポンするほかなく、コーナーキックからの偶発的な事故でしかゴールは期待できず、1点先制されたらどれだけ時間が残っていてもたちまち終戦ムード、技術は低くプライドは高くチームの雰囲気はつねにギスギス、往年の名選手に「私なら両脚にギプスをはめていても決めることができる!」とまで言わせたキュー・ビー・ケー、専属のカメラマンに撮影させるためのトラベラーによるフィールド寝ころがりなど、数々の茶番をリアルタイムで苦々しく見てきたからこそ、本大会におぼえる感慨はいっそう強いものとなっております。突然のサッカー方向への脱線でなにが言いたいかといえば、シンジさんの孫たちと宇宙難民をさしおいて、物語のシメに「未来永劫にわたり存在し続ける虎杖悠仁」をお出しするのは、ファンサを越えた本編への冒瀆と作者の自己満足であり、チームプレイをガン無視してボールの供給だけを求めるロートル・ストライカーみたいな醜悪さであると感じたということです(げいかくんのごういんなイグザンプル!)。あと、ジェネリック・ファンガスであるがゆえの疾病だろうと推察しますが、そろそろ「フィクションが世界を救う」という妄想ーーもちろん、個人を救うことはありますーーから距離をおいたほうがいいとアドバイスして、この低級テキスト呪物を閉じたいと思います。

映画「マイケル」感想

 話題のマイケルをIMAXで見る。ボヘミアン・ラプソディの大ヒット以降、雨後のタケノコのごとく作られた有名アーティスト(笑)の生涯を描く伝記作品のひとつで、これまでのご多分にもれず、本家を越えることはできておりません。個人的なマイケル・ジャクソンの印象を述べておくと、インターネットの存在しない時代に活躍した最後のポップ・スターa.k.a.スーパー外タレであり、いまからふりかえって気づくことながら、テレビメディアが圧倒的な唯一性から莫大な影響を全人類へとおよぼしていた時代において、良くも悪くもその功罪の暴威にさらされ続けてきた人物でした。死後に相当な神格化が進みましたが、本邦における当時のあつかいは、パリス・ヒルトンとおなじ「おさわがせ海外セレブ枠」であり、たび重なる整形、突然の白人化、小児性愛疑惑など、良識的な人々がまゆをひそめながらもギラギラと好奇の目をむける、まごうことなき奇人変人のたぐいだったのです。アラビアンナイトのようなベールをかぶりながら、逗留先のホテルで赤ン坊を窓から突きだしてマスコミのカメラにさらす姿など、巷間をにぎわせた彼の奇行の数々をいまでもまざまざと思いだすことができます。テレビを通じた時代の意志によって黒人というカテゴリを突きやぶって、はるかな至高の園にまで連れていかれながら、他ならぬそのテレビのパワーによってさんざんに失落させられたのが、マイケル・ジャクソンの人生だったと言えるでしょう。最近、ネトフリで古畑任三郎を見かえしているのですが、こちらもまたインターネットの存在しない時代の空気感にあふれていて、まさに「楽しくなければテレビではない」を地で体現する、傲慢かつ無邪気、衒学的かつ無知蒙昧、不真面目かと思わせながら転じてドシリアス、そしてなにより、ジャブジャブにカネをつかった躁のハイテンションと”正しくなさ”に満ちあふれていて、なつかしい気持ちとうらやましい気持ちが同時にきました。万能の科学捜査と街中にめぐらされた防犯カメラによって、もはや成立しえないトリックの数々と、大物ゲスト俳優たちとの演技対決を、田村正和という特異点的な個性で強引に成立させるドラマは、令和の御代にはぜったいに再現不可能なオーパーツと言えるでしょう。インターネットが24時間365日を常駐する世界において、古畑任三郎vs.マイケル・ジャクソン回ーー「ンフフ……それはおかしいですねえぇ……あなたのペニスの斑紋と、坊やが暗闇で見た模様は完全に一致しています!」ーーは、残念なことに起こりえないのです。

 話を映画のほうのマイケルにもどしますと、元祖・アーティスト伝記作品であるボヘミアン・ラプソディの持っていた、時代時代の楽曲にあわせて、思春期の劣等感、家族との葛藤、妻とのいつわりの生活、性的嗜好のカムアウト、エイズによる死の恐怖と積みあげた先に、ライブ・エイドにおいて情動を大爆発させるにいたる構成の妙が、こちらからはスッポリと抜け落ちています。多くの観客は「ジャクソン5を抜けて”から”」のマイケルが見たいのに、本作で描かれるのは「ジャクソン5を抜ける”まで”」の時間軸で、父・ジョセフとの軋轢だけが弱いストーリーラインとして、延々と細くつむがれてゆくばかりなのです。この父親によるドメスティック・バイオレンスも時代の要請からか、後期マイケルの肌のように完全に”漂白”されていて、冒頭に少し声をあらげる場面があるものの、あんなほっそいベルトで分厚い半纏の上からいくらたたいたって、皮膚に赤いスジすらつきはしないでしょう。なのに、子役はギャアギャアと大げさに泣きさけんでみせ、この映画のフェイクっぷりを最初からフルスロットルであびせられて、たいそう鼻じろみました。以後もジョセフはホラー映画のドッキリ演出みたく、突然に画面へ登場するたび、コワモテですごんでみせるのですが、毎回マイケルには特に危害をくわえず、すごすごと引きかえしていきます。腕をつかみ、頭髪をつかみ、胸ぐらをつかみ、顔面を殴打し、腹を蹴りあげ、大声で罵倒するなんてことはいっさい起こらず、マイケルの部屋で帰宅を待ちかまえる場面でも、ムダに緊張感だけは高めながら大暴れにはいたらず、なにひとつ調度品を壊さないまま静かに部屋を出ていったのには、「なんやねん、おまえ! なにしにきとんねん!」と心の中で思わず悪態をついたほどでした。直接的なDV描写への遠慮がすぎることの弊害として、父親と目もあわせられず、FAXひとつでマネージャーを解任したのになぜか実家ぐらしを続け、大観客にむけてジャクソン5の解散を宣言するくせに、面とむかってはなにひとつ言えず足早に会場から逃げ去る姿は、一貫してただのヘタレにしか見えません。問題の本質は、マイケル役が遺伝的類似を持つソックリさんにすぎず、本職の役者ではないことで、実在の人物とは似ても似つかぬ細面の優男がフレディ・マーキュリーという男の本質を表現しきったのに対して、演技が弱すぎるために父親と対立が葛藤のドラマとして昇華していかないのです。

 じっさいには他の兄弟との確執もあったのでしょうが、映画化の許認可を与えるさい、マイケルに係るすべての罪をジョセフに押しつけようと暗黙の合意がなされ、ジャクソン5の他のメンバーは彼の人生になにひとつ影響をおよぼさない、無個性の点景にまで後退していきます。結果として、「家族という名の地獄を撹拌することで生まれた、天上の音楽と魔性の舞踊」という創造の源泉が消滅し、スリラーのMV撮影シーンも制作秘話というより、フワッとしたマイケルの指示と挙動に一流ダンサーたちがいちいち大げさに驚いてみせる、デトロイト・メタルシティを彷彿とさせるーー「すげえ、さすがマイケルさん! ジャケットの脱ぎ着をダンスの一部にとりいれるなんて!」ーーギャグみたいになっています(我々はすでに「THIS IS IT」で彼のクリエイティブの舞台裏を見ているだけに、余計にそう感じるのかもしれません)。おなじことがコンサートシーンにも言え、おそらくダンスと歌唱のしあがりに自信がないせいでしょう、やたらとカメラアングルを変えながら、熱狂する観客の様子を次々とインサートしまくります。これは国宝における鷺娘問題と同様の構造になっていて、もっと堂々と引きの定点カメラで長回しをすべきだったと思います。家族の葛藤を描けず、マイケルの真情を演技で伝えられない以上、本作は「最新の映像フォーマットおよび音響技術で再現する、遺伝的類似を持つソックリさんによる完コピ・ミュージックビデオ」であることが最大の価値となるはずですが、その観点からさえ不満の残るクオリティになっているのです。映画の最後に置かれたロンドンでのソロライブも、直前のジャクソン5解散コンサートとパフォーマンスの内容が似かよっているため、父親のくびきからの解放というテーマも表現できておらず、どこまでいっても画面の解像度と音圧以外は本家にかなわないミュージックビデオという印象のままでした。

 本作には字幕版しかないのですが、全編にわたって歌詞のキャプションがつかないのも、楽曲に仮託する隠された真意がまったくないことを逆に表してしまっていて、ハリボテMV感はいっそうに強まりました。またぞろ続編の話も聞こえてきますが、巨大な事故物件となったネバーランドを実物とVFXを駆使して、当時のままの姿で見られるだろうぐらいの期待しか、もはや残されておりません。裁判とスキャンダルの落としこみ方に四苦八苦するぐらいなら、マイケル本人がほぼ唯一、ライブ映像のパッケージ化を許諾したライブ・イン・ブカレストを8Kリマスターして劇場にかけるほうが、オールドファンにとっても、本作を通じて新たにファンになった人たちにとっても、よっぽどウィンウィンになると思いました、ポウ!(おわり)

ゲーム「FGO新章:ワンセカンド・アフタータイム」感想

 FGOの新章を6時間ほどかけて読了。新章とうたいながらも、第3部ではなくファンディスクのような中身になっていて、新旧所長を一場面に同居させたり、失われたはずの人物がよみがえったり、本編ならばけっして踏みこまなかったところにまで踏みこんで、10年を伴走してくれたプレイヤーへのていねいなアフターサービスが行われます。それはとても愉快で楽しいものですが、「この物語はすでに語り終えられている」ことを再確認する行為でもあり、沈みゆくタイタニック号の広間で弦楽四重奏を聞くような、どこかうらさびしい気持ちにはなりました。とは言いながら、時の女神編が残り2章、フォーリナー編が残り7章、残された謎をすべて解明するトゥルー・エンドに1章と考えれば、これまでの実装ペースから逆算して、少なくともあと3年は祭りを継続することが確定しており、もしかするとタイタニックどころか、宗谷のような南極砕氷船である可能性も捨てきれません。なによりうれしかったのは、令和の最突端においてファンガスの最新テキストを読めたことで、第2部終章にただよっていた「あらかじめ書いてあった感」のない、同じ時代を生きる者による現在進行形のビビッドな生活感情が、あふれているように思いました。読み手にとってはポジティブな驚きであるドクターの復活について、主人公の口から「嫌な気分」と言わせたり、資産を公開していれば長者番付にのるだろうファンガスがキャラのセリフに仮託して、「個人の資産より未来の浪漫」と言いはなったり、そこここにかざらない真情の発露がかいま見られるのです。特に、現世利益の追求において空前絶後の大成功をおさめたテキスト書きが、「過去の栄光を反芻することの怠惰と醜さ」にまで、たとえそれが”フリ”であっても言及する姿勢には、この場末の管理人さえ背筋をのばして、直立しながら脱帽するほかはありません。

 ドクターの消滅の描き方も非常に示唆的で、「深夜のファミレスで、学生時代からの気のおけない仲間とダベりながら、なんどもくりかえしてきた話で笑いあい、そうしているうちに空がピカッと光って、最も楽しい意識のまま、一瞬で蒸発させてくれる死」は、たしかに「病院のベッドで多くの管につながれて、ひとり混濁した意識のまま、ジリジリと先のばされる死」よりもずっとマシなものに感じられます。テキストサイト運営者としての小鳥猊下が、だれにも読まれない文章を書き続けるのも、いまやメディアやSNSへはめったに表出しなくなった”根幹の本音”を、偶然おなじ100年に生まれてしまった同胞へと伝えたいからなのです。以前の指摘をくり返しますが、ファンガスの異能はそれを物語へと変換できることで、新章のシナリオを読む行為は、「彼/彼女という人間を深く知る」ことと同義だと言えるでしょう。私にとってFGOとは、すでにかつての個人ホームページにも似た存在になっていて、ファンガス以外の書き手が書くものに、ストーリーテリングの巧拙はおくとして、ほとんど興味はわきません。その意味において、またぞろストーリーの最後にアガルタの持ちキャラであるヤモリが登場して、次回のシナリオへの期待値が底をうった状態で虚無期間へと放りだされたのは、端的に言って最悪の体験でした。さらに、年単位ぶりに課金して引いたガチャは、万札シュレッダーとも呼ぶべき人類悪の体現となっており、近年のアジア産ゲームにおける付加価値の高いガチャと比べると、ファンの好意にあぐらをかいた、心胆寒からしめる邪智の所業そのものです。新たな星5サーバント以外、まったく当たりの入っていないゴミ箱をあさる権利をカネで買う作業は、新章の読後感を大いに汚したことを、ここにお伝えしておきます。

アニメ「あかね噺」感想

 ネトフリであかね噺を7話まで見る。いつもはアニメから原作に入るのですが、今回は順序が逆で、漫画を既刊21巻まで先に読んでいました。きっかけは、コミックスの帯にQアンノが推薦の辞を寄せていたことで、それを目にしたとたん、瞬間湯沸かし器のように感情がカッと燃えあがったからです。結果として、さまざまな既知の落語をこれまでにはなかった斬新な漫画表現で再発見するという、稀有な体験をすることができました。棋士ほどではないにせよ、男性優位の落語界で女性が高座にあがることには、有形無形の障壁があると推察しますが、本作は「女性落語家としての苦労や葛藤」にはいっさいフォーカスせずに進んでいくことから、少女を主人公にしながら純然たる少年漫画になっているのは、おもしろいところです。またも未完の作品に手をつけてしまった後悔から、あかね噺のストーリーにおける瑕疵未満の気になる点をならべていきますと、唐突なフランスへの武者修行は主人公の強さイコール知名度をリセットして、作中の時間をいたずらに進めるだけで、帰国後の展開になんら影響をあたえていないのには、迷走感があります。また、主人公の必殺技が北斗の拳の無想転生を彷彿とさせる「個我を消失させて、噺そのものになりきること」なのは、ライバル2人を超個性派にしたてているせいか、少年漫画としてはなんとも地味で、フラストレーションがたまりました。そして、作中において最大のミステリーとされている「志ぐまの芸」にしたところで、死神と芝浜の熟達を求める昭和前期の噺とくれば、その正体が「戦争講話」であることがなんとなく読めてしまうのです。ベテランになったあかねが、寄席ではなく小中学校の体育館に呼ばれて、平和学習の一貫として「志ぐまの芸」を披露するのをまざまざと幻視し、ひどく気持ちが落ちこみました(昭和人間の人生に由来する感情なので、あかね噺はなにも悪くないです)。

 アニメ版は原作を忠実に再現していて、非常にていねいに作られているとは思うのですが、「紙面から音が聞こえる」たぐいの漫画を映像化するときの難しさが、そのままあらわれていると言えるでしょう。つまり、「読者の頭蓋にひびいていた音を越えられない」という問題です。この課題をクリアして大成功をおさめたのは、近年ではブルージャイアントですが、あちらは超一流プロの上原ひとみをかつぎだし、モノホンのジャズで正面からブンなぐるという反則級の荒技で成立したものです。一方であかね噺のアニメは、画面の派手な演出や観客とライバルの驚きで芸のすごさを強調しながら、肝心かなめの落語のクオリティは、「声優が懸命に台本を読んでいる」以上のものではありません。求められていたのは、日常会話を声優、高座をプロの女性真打が担当する、マクロス7ばりのボディダブルならぬボイスダブルだったと思います。落語界、噺家本人、あかね噺の三方一両得のアイデアを、なぜ関係者のだれも思いつかなかったのか、不思議でなりません。その代わりに、どこであかね噺につけられた潤沢な予算が空費されたかと言えば、落語とはなんの関係もない桑田佳祐の主題歌になのです。これはあかね噺にとって、複雑骨折および内蔵破裂級の大事故だったと言えるでしょう。昭和の女性観a.k.a.「オンナは1回ヤッたらみんなおなじや」を令和の御代になお信念としていだきつづける、ちょいワルおやじならぬこの超ワルおやじは、若い世代のファンをとりこみたいという欲望と、アニメなどという低俗なものにおのれの楽曲を使われることへの屈辱ーー昭和の歌手には、一般的な感情ーーとの葛藤から、とんでもないイタズラーー令和の辞書では、性的暴行の意ーーをあかねチャンへとしかけてきたのです。

 オープニングテーマである「ひとたらし」の歌詞を検索しますと、「女流名人を論破して、燃える勝負をしたい」という一見して意味不明の内容が出てきます。しかしながら、よくよく注意してケースケの歌唱を聞くと、「女流名人ナンパして、燃える小便したい」とじっさいは発声しており、これは「オレは名人と認めない”女流”落語家をコマして、熱いスペルマを彼女の膣に射精したい」と、ハレンチにも宣言しているのです! そうなれば、直後のとってつけたような”ガラスの天井”なるポリコレ・ワードも、処女膜の読みかえであることがあきらかになってきます。今回の件は、ヨネヅのアホがメダリストにしたのと同じ種類の狼藉で、現世ではもうだれも面とむかって文句を言えないような大御所が、木ッ端アニメ(失礼)を権威にみたてて反抗してみせるアナーキー仕草は、まさに全共闘世代のヤンチャーー令和の辞書では、暴力行為の意ーーそのもので、自分より若い世代のクリエイティブに対する敬意を欠いた行為には、暗澹たる気分にさせられます。桑田佳祐へ支払うギャランティの10分の1もあれば、実在の女性噺家をボイスダブルに当てることができ、アニメ化の価値は10倍にもハネあがったのにと、心から残念でなりません。原作に準拠しない、ほおを赤らめ瞳をうるませた恍惚の表情や、光るふとももを強調するカットなど、アニメーターがする手クセの性的要素も散見されるし、いまは女性を徹底的にモノ化する昭和の男性性(manliness)の充満、マン充がこわい。おあとがよろしいようで。

映画「マンダロリアン・アンド・グローグー」感想

 マンダロリアン・アンド・グローグーを愛最大・三次元で見る。もはや初代アバターを視聴するためだけの古代遺物と化した本技術は、3Dを意識した構図で撮影されていない場合、画面の彩度がわずかに下がるデメリットのみなので積極的に選択することはないのですが、複数の家人と都合のつく上映時間にうながされる形となりました。「スターウォーズ未履修者が最初に見る作品が決まった」などの、人気作にありがちなネットバスだけを意識した、トンチンカンな言説が巷間にあふれかえっているため、より正確な評価をおのれのテキストで残しておこうと思った次第です。以下は、スターウォーズ・シリーズでもっとも好きなのは3、もっとも嫌いなのはで、ライアン・ジョンソンの情婦であるキャスリーンへの強い反発から、ディズニーには一銭もはらいたくないため、ドラマ版はまったく見ておらず、初期トリロジーにはそれほど思い入れのない人物による感想となります。まず、「スターウォーズを見たことがなくても大丈夫」というのは大ウソで、主人公2人とハット族の造形からどういう背景を持つキャラクターなのかを説明なしに理解ーー本当になにひとつ説明しませんーーできることは、本作を楽しむための最低要件でしょう。もしかすると、アメリカ本国では本邦の青ダヌキやアンコ顔面のように、幼少期から全国民の意識に無条件で刷りこまれるレベルのIPなのかもしれませんが、地上波での放送がとんと途絶えた現在、我が国の若い世代に同じレベルの教養があるとは思えません。個人的なことを言えば、家人たちの成長とともに劇場へ足を運んだ123へ強い思い入れがあり、スターウォーズのスピンオフがいまだに半世紀も前の456をベースに作られ続けるのには、まったく納得がいっておりません。

 ファントム・メナスーーおなじみ、腰抜け田吾作邦題ーーの公開をめぐるファンとの騒動をフィルムにおさめたピープルVSジョージ・ルーカスを見てもわかるように、初期トリロジー愛好家は発達偏向のロコモーション・オタクと同じ特性を持っており、蒸気機関車が好きすぎるあまり新幹線を列車と認めないような、はたから見て病的なまでの執着へといたっている人々なのです(暴言)。国家間の紛争に個人で武力介入できるレベルのジェダイがゴロゴロしていた、明るく豪華絢爛な都市が惑星の地表をうめつくすプリクエルを「カエサル時代のローマ帝国」とするならば、戦えるジェダイはルークとベイダーぐらいしかおらず、辺境の砂漠と治安の乱れた薄暗いスラムばかりの初期トリロジーは「ローマ崩壊後の暗黒の中世」とでも表現できるでしょう。プリクエルは、マニアたちの”おもてたんとちがう”のかもしれませんが、毎作品、世界観から映像表現からキャラクターにいたるまで、確実に新しいものを見せてくれました。シークエルへの批判に、「すべての場面が既視感に満ち、スターウォーズ世界へなにひとつ新しいものを加えなかった」という言説がありますが、初期トリロジーを下敷きにしたディズニー傘下のスピンオフ作品の多くにも、同じくあてはまるように思います。これは本作においてもそうで、やっかいなファンの脳内に存在するスターウォーズ教科書a.k.a.不磨の大典を完全に読みこんでから作劇していることが、ある種の窮屈さとなって画面から伝わってくるのです。都市部はどんなに栄えていてもつねに薄暗く、計器はアナクロで解像度の低いデジタルのまま、操作系はタッチパネルを廃したボタンにレバーとくると、「もうええっちゅうねん」という気にさせられます。つまり、「おもしろいかどうか」「見ばえがいいかどうか」よりも、「不磨の大典に忠実かどうか」が優先されて作られており、プリクエルびいきは「帝国が滅んだんだから、いい加減、共和国時代の文明レベルにもどせよ」と、文句のひとつも言いたくなるわけです。

 ここまではすべてガワの話で、ようやくマンダロリアン・アンド・グローグーの中身についてふれていきますと、映画というより1時間のドラマを2本つなげたような構成になっていて、アクションこそ多めではありながら、全体としては起伏に欠ける印象を持ちました。”ジェダイ”の語源が”時代劇”なのは有名な話ですが、「スターウォーズを作るさいは、昭和のクロサワ周辺を下敷きにせよ」という教科書に記載されている製造ルールを厳密に遵守し、本作では「子連れ狼」や「てなもんや三度笠」(たぶん、ちがう)が参照されております。ここまでゴチャゴチャとプリクエル好きの恨み節を書いてきましたが、この映画を評価するにあたっての本質的な部分はほぼプラグマタと同じであり、すなわち、ベイビー・ヨーダたるグローグーに対する印象の好悪が、そのままダイレクトに加点要素へつながると言えるでしょう。マンドーが大蛇の毒にたおれたあと、ダーククリスタル的なパペット操演とVFXのハイブリッドであろう小人族との冒険行を、「はじめてのおつかい」としてハラハラドキドキ見まもるのは新鮮な体験で、ひさしぶりにスターウォーズ関連のグッズがほしいと思わされました。やっかいなオールドファンのうずまくこの巨大IPにおいて、新たなキャラクターが商品として定着するのはきわめてむずかしく、に初登場したBB8はかなりいいセンいっていたと思うのですが、8によるスターウォーズ・スキームの盛大なブッこわしに激怒したファンの暴動から、泣く泣く過剰な原点回帰をせまられた結果、9ではまたぞろC3POとR2D2を前面に押しだすこととなり、愛されるべきだった新たなイコンは完全に銀河の塵と消えたのです(またぞろ、シークエルへの批判がエッキスで再燃しながら、だれもBB8の話をしないことが、これを証明しています)。

 あと、御年76歳のシガニー・ウィーバーが劇中では俳優としてブッちぎりの格上すぎて、ジャバ・ザ・ハットの息子さえしのぐ存在感をかもしだしており、「Xウイングを持ちだすまでもなく、マザー・エイリアンをブチころがしたアナタの手腕なら、ハット族の砦ぐらい単騎で壊滅できるのでは?」と考えてしまったのは、作品世界を堪能する上でのかなりなノイズとなったことをお伝えしておきます。ともあれ、マンダロリアン・アンド・グローグー、ベイビー・ヨーダがなんらかの形で再撮影のウワサされる789の本編にからんでくれることを期待しつつ、虚構審美集団nWoによる採点は、100億とんで60点としておきます。