大脱出
大物アクションスター二人による、超豪華学芸会。筋肉にモノをいわせない理性的でほっそりしたシュワちゃんと、相変わらず口をへの字に曲げて下唇をつきだす演技しかできないスタローン。この二人が刑務所という閉鎖空間で、アクションによらない演技対決を行うというのだから、未視聴の向きにもどんな内容かは容易に想像できるだろう。この大物二人を配した時点で当たり前のことだが、脇役はまさに脇役としてしか存在できず、刑務所ものを面白くする魅力的なサブキャラクターにはわずかの尺を割く余地すらない。映画として面白くなる要素はあらかじめ徹底的に排除されており、まさに脱出不可能の絶望である。かろうじて想像できるのは現場スタッフに漂う異様な緊張感と、本邦で例えるなら渡哲也と高倉健の共演を実現させた監督の大はしゃぎだけだ。逃げられないのはついうっかり映画館に入ってしまった観客であり、映画の終了による閉鎖空間からの脱出をひたすら待つしかない。映画の進行と観客の状況をメタにリンクさせたなら凄まじい脚本と演出だが、私には二人の上腕二頭筋に触りまくる大はしゃぎの監督しか見えない。
そして父になる
「でもそんなオヤジのマネ、せんでいいんとちゃうの」。うまい、そしてずるい。「氏より育ち」を肯定するための作品であることは、最初の設定を見た段階でわかっているようなものだ。映画畑の人間は例外なく左翼であり、戦後の民主主義、資本主義下の核家族を完膚無きまでに否定して、本邦の価値観を戦前へ回帰させようと手ぐすねひいている。女が中心の大家族こそが、例え貧しくとも子どもにとって最良の養育環境であり理想的な家族であるとどこかで信じているのだ。社会的アッパーとロウアー、育児に関心の無い父親と子ども中心の生活を送る父親、アッパーは血のつながらない母親を遠ざけ、ロウアーは血のつながらない父親を受け入れてひとつ屋根の下に生活する。同じ経済レベルで、片方がネグレクト、片方がDV家庭なら、監督の計画する結論に落としこむことは不可能だった。淡い演出の下に巧妙に隠されているが、まず結論ありき、まず監督の意図ありきの、極めて濃度の高い作品なのである。息子が歩いている道路へ主人公が自ら合流するところとか、スパイダーマンについて尋ねられて「へえ、知らなかった」と最後に答えるところとか、意味を与えられない台詞や構図、漫然と撮影されたシーンはひとつも存在しない。それはときにあざといレベルにまで達しており、監督が正しいと信じる価値観へ観客を強制的に誘導し続けるが、本編視聴中は筋立ての運びの見事さにそこへ批判的な意識をもたげる態度は完全に封じこめられ、物語へ深く同調させられてしまう。この作品は、半世紀ほど本邦を掻き回し続けてきた、ひとりの論客が死ねば存在が消滅するような、自分の父親との個人的なトラウマが主な理由のフェミニズム論壇をひねり潰し、イクメンなる奇ッ怪の造語を生み出した広告会社の作業チームが進歩的と信じる米国追随の家族イメージへ真っ向から打ちかかり、唐竹割りに路傍へ切り捨てているのだ。さらに、これだけの曲者ぞろいのビッグネームを集めておきながら、樹木希林のいつものしょうもないアドリブをのぞいて、だれ一人として監督の敷いたレールから外れず、彼の意志の内側へしっかりと収められている。テレビ局とか芸能プロダクションが挿入してくる物語へのクチバシを、監督が作品の前に仁王立ちして片ッ端からへし折っている。映画監督とは、作品に関わる内外のすべてを掌握し完全に支配する独裁者であらねばならぬ。「誰も知らない」はnWoオールタイムベストに君臨し続けている。そしていま、日々の生活に苦闘するだれかにとって、是枝作品以外に見るべき邦画は存在しないと断言できる。
ノア
ラッセル・クロウが主役に配されている段階で史実なんてガン無視するし、原作なんて完膚なきまでに破壊するとあらかじめ宣言しているようなものだ。また、二度と見返したくない映画の十指に入る「レクイエム・フォー・ドリーム」の監督がメガホンを握っている時点で、爽快感絶無の鬱展開になることは火を見るより明らかである。予告にだまされて、ハリウッドのアクション大作と思い込んで視聴した向きには、同情を禁じ得ない。人類滅亡を祈念するばかりか積極的な行動から種の根絶を達成しようとする預言者と、方舟という密室でみどり児の殺害を虎視眈々とねらう舅の狂った視線に怯える若妻という構図は、さすがダーレン・アロノフスキーとしか言い様がなく、ラッセル・クロウの怪演とあいまって凄まじい緊張感を醸成している。洪水を生き延びた人々の末裔がこれを視聴している以上、ラストが予定調和にならざるを得ないのはどうしようもないが、その結末を覆すために血刀を提げたラッセル・クロウが各家庭・各映画館の扉を蹴破って今この瞬間にも我々を殺しに来るのではないかと、最後まで恐ろしかった。それにしてもキリスト教というのはおかしな宗教である。この創世記の設定から人類が生んで増やして地に満ちるためには、現在の同宗教が禁忌としている近親相姦や重婚を繰り返す以外の方法はなく、とうてい現実的な話とは言えない。己が立脚する正統性をゆらがせる虚構を、それが真実であるとして彼らが声高に喧伝し続けるのは、やはり度重なる近親交配による先天異常ゆえだろうか。
アメイジング・スパイダーマン2
サム・ライミ版の3と同じく全体的に非常にとっちらかった印象で、わざわざ前三作を無かったことにしてまでリブートした理由はますますわからない。主人公の俳優も相変わらず粗野な見た目で、スパイダーマンというヒーローが抱える苦悩を表現するには不適格だと言わざるを得ない。個人的にサイダーハウス・ルールが大好きなせいもあるが、トビー・マグワイアはピーターの繊細さを表すのにぴったりの配役だったように思う。ヒロインも特に印象に残らない平凡なブロンド不細工で、我らがモンスター女優・キルスティン・ダンスト(ひと睨みで童貞どもを失禁させるあのド迫力!)と比肩するべくもない。近年のヒーロー物の常として、本作も現在の世界情勢とリンクして正義と悪の立ち位置を読ませようとするのだが、愛が憎しみに転じる瞬間に少しだけ引きこまれたものの、その後はご存知、いつものアメコミ展開だった。さらに物語の中盤で恋人を追いかけてロンドンに行くことを決意する場面では、正義による救済の恣意性を露呈するに至るが、おそらくロマンス優先の描写でそこに何の批評的視点も含まれていないことが失望へ拍車をかける。特殊な視聴の仕方だとは思うが、たぶん私は、例えばイスラム国の台頭に対する何らかのアンサーを求めていたのだと思う。しかし、スパイダーマンの能力を持った兵士が仮に現実に存在したとして、世界は決して救済されないことを皆が知ってしまった。そこへ暴力を解放することを非難されない悪、打倒するべき形のある一個の悪を切実に求めるアメリカ的妄想を形にしたのが、そして、取り除けば確実に世界が良くなる何かというファンタジーを描いたのが、今回のスパイダーマンなのだ。「世界の片隅でラジオを聞いている人々」に言及した黒人大統領、それが政治的な覚悟からではなく、スピーチライターの文学的感傷を受けてのものであったことを我々が知った今、米国のブロンドが美麗なCGとスローモーションの果てにひとり死んだところで、観客たちは同情を感じることはないだろう。ある個人に生まれた憎悪が、やがてより大きな場で争いの火種へと転じる。正義の視点を保つ限り不可視の、悪の生じるダイナミズムをこそ描かなければ、彼の国はどんなヒーローを銀幕上で活躍させようと、もはや虚しいばかりである。
オール・ユー・ニード・イズ・キル
本邦の歴代SF作品すべてをならべてタイトルコンテストを行ったならば、ダントツの最下位は間違いなくこれだろう。中二病マックス、チラシの裏に書いておけ、発案者の正気を疑うレベルのダサさであり、この文字列が網膜に投射されるたび、これの音像が鼓膜をとらえるたび、我が全身は痙攣を抑えるように固くなり、正体の知れぬ恥ずかしさに身悶えを繰り返さねばならぬほどカッコ悪い。ちなみにタイトルコンテスト一位は「百億の昼と千億の夜」である。閑話休題。未見の諸氏は、「日本原作」みたいなキャッチコピーに愛国心を刺激されて小鼻をふくらませてはならぬ。21世紀にクレムリンを爆破することが最高にクールだと考えて、実際に主演映画で爆破してみせる(おそらくサイエントロジーからの啓示)ところの、ぼくたちの疾走するバカa.k.a.トム・クルーズによって、「日本原作」はミキサー大帝のするが如く粉々のミンチにされ、超人パワー=原作のトリックのみが分離して採用されているからだ。本作のトリックを、スペランカーからダークソウルにつながる系譜であるところの所謂「死に覚えゲー」と重ねて、ゲーム的リアリティの表現と読む向きもあるようだが、私はそれに賛成しない。このトリックの本質は時空ループという物語構造そのものであり、まどかマギカをまず言えばあまりに先人たちに失礼だろう、デザイアを代表とする本邦エロゲー業界の秘中の秘、一子相伝のタレなのである。幾度も同じグラフィックを使いまわすことに、初めて物語的な意味付けを与えたシナリオ構造が時空ループであり、低予算をしか持たないが長時間遊ばせないと評価につながらないという、当時のエロゲー業界特有の市場ニーズへ迎合していく中で生み出された、共有財産としての枠組みなのだ。個人的には特許取得可能なぐらいの大発明だと思う。なので、例の魔法少女ものに古参の業界人が複雑な視線を向けるのは、なんとなくわかる気がする。推察するに、閉じた業界の中小企業で共用していた製品の製法をある日突然、国外の大企業が特許申請して、結果莫大な利益を上げていくのを見る感じだろう。法的にはなんら反駁の余地はないが、「えッ、そんなのアリ?」みたいな道徳的義憤を禁じえず、困惑して互いに顔を見合わせているような、そんな空気を当時は感じたものである。話がそれた。この時空のループが長く日本の専売特許であったのは、やはり西洋との宗教観の違いが大きいように思う。仏教における輪廻転生とは、その最終的な段階で輪廻の束縛を離れ涅槃に至り、高次の存在へと解脱することを目的とする。繰り返しのうちに全てのストーリーラインを体験し、トゥルーエンドに至って物語が終焉を迎えるというループ構造は、こういった本邦の死生観ととても良く合致している。エロゲー発であることが大きな理由だろう、本邦においてこの物語類型がすべて少女への恋着を中心に回転していくのに対して、本作では世界の現状を改変することの方に軸足がある。指揮官として戻ってきた主人公による大反攻を予感させる、エンディングの底抜けな明るさがそれを象徴しているように感じた。すべての責任を男性が引受け、少女は死なないし、不幸にもならない。この違いは先の大戦においての現実に対する双方の姿勢を正確に写しとっており、時空ループという一つの物語類型を通じて、諸賢は二つの文化に関する深い洞察を得ることができるだろう。
新世紀エヴァンゲリオン14巻
二十年の歳月を経て、エヴァという巨大な虚構のアニメ版と漫画版の結論を分けた要素が、双方の作者に子どもがいるかいないかという事実にのみ由来しているのは、あまりに情けなく腹立たしい。この漫画版では、親子の葛藤を描くのに最も無難な落としどころを見つけており、個人的なトラウマで世界を破壊してはならないという当たり前の普遍性へ至ることに成功している。反対に、劇場版が制作責任者の個人的な生活実態をライブ感で写したがゆえに、前二作から生じていたはずの作品の自走性を完全に殺してしまい、主人公の子どもへ虐待のための虐待を繰り返す、擁護不能の異様なディストピアを露わにしたことは示唆的であろう。エヴァQは、まるで蟹工船みたいだ。創作者の個人的な状況を言うのは批評としてアンフェアだとは思うが、すべてのSF作品は人間原理を超えねばならないという私的な思い込みがどこかにあって、エヴァという作品の持つポテンシャルを己が生例えば、「幼年期の終わり」はSF史上に燦然と輝く傑作であり、もしこれより千年を人類が耐えたとして、作者から完全に切り離された神話として読み継がれることへ疑いはない。アーサー・C・クラークが子を持たず、同性愛者だったかもしれない事実は、「幼年期の終わり」の強度に何ら影響を与えない。活感情へと卑小化し、単なる私小説へと変じたことは決して看過されるべきではない。エヴァの新劇場版には、そうあって欲しかった。もし巻末のEXTRA STAGE(もちろん、nWoへのオマージュに違いない)なる掌編が、カラー原作のお墨付きを得た上で正史として扱われるならば、ループの否定という依怙地の結論をさらに強弁していることになる。それは石女の理論であり、純文学としての評価は期待できるかもしれないが、SFの所作とは何の連絡もない。人間理論を超越し、蟹工船のようではない続編を見ることこそが、いまの私の願いである。
ドラゴンエイジ:インクイジション
3D全盛の時代に、これよりグラフィックやモーションのいいゲームはいくらでもある。UIも使いづらくダサいし、戦闘の戦略性もそれほど高いとは言えない。しかしながら、本シリーズを他の凡百のRPGと峻別するのは、ストーリーである。その精緻な紡がれ方を見れば、ジャンルはRPGに属しこそすれ、本質を複数分岐のアドベンチャーゲームだと指摘できるほどだ。話は少しそれるが、本邦のRPGにおいては物語を駆動する主体が常に主人公とは別のところにあって、ヒーローのする行為はすべて敵側の決断に対するリアクションに過ぎず、本質的に事件の現場へ「間に合わない」ことで進行していく。そして、その溜まりに溜まったフラストレーションを純然たる暴力として敵にぶつけ、最後の最後で解放のカタルシスを得る。これはつまり、水戸黄門や暴れん坊将軍や忠臣蔵に代表される、日本人の好む昔からの物語類型だ。理不尽へは忍耐を求めるが、相手のふるまいが大きく度を越えていく場合、暴力に訴えても非難されず、むしろ称賛を与えられる閾値がこの社会には確かに存在している。JRPGのストーリーはこういった本邦の気質によく合うし、何よりシナリオライターの力量の問題もあるだろう。悲劇や理不尽を定型的に繰り返すことによる物語の駆動は、白黒つかぬ権謀術策や成熟した者たちの政治劇を興味深く描くより、はるかに簡単だからである。話を戻そう。以前nWoでは、FF12がキリストの復活をモチーフにしたギャルゲーになると的外れの予言をしたことがあった。恐ろしいことにドラゴンエイジ最新作は正にその、私の求めるファイナルファンタジーの正統な後継であり、聖痕を持つ者の復活と遍歴を真正面から四つ相撲に描いているのだ。例えるなら、ローマ帝国健在なりし頃、そしてユダヤ教全盛の時代に、キリストを主人公として展開していくようなストーリーである。己の現し身がビホールド・ザ・マンのその人となり、まさに唯一無二の存在として世界の中心に置かれ、我が一挙手一投足、我が言葉と決断がそのまま歴史を紡いでいくというこの圧倒的な感覚は、JRPGなどでは到底得られぬ次元の快感であり、大人の愉悦と言えよう。だが、台詞をボタン連打でスキップするような遊び方をする層には、ひとつの凡庸な3Dゲームに過ぎないこともまた、事実である。激しく人を選ぶが、選ばれた者には至高のゲーム体験を与えてくれるだろう。本年度のジー・オー・ティー・エヌ(Game of the nWo)、堂々の大賞である。
楽園追放
フルCGとのふれこみで視聴するも、ファーストインプレッションは劇場版・3Dカスタム少女。サイファイギークであるところの俺様はニヤニヤと小鼻をふくらませながら大いに楽しんだが、正月休みでついウッカリいっしょに見ることとなったそのような素養と耐性の薄い方々は、冒頭からわりとすぐに熟睡していた。「ロリィ」や「そういう趣味」など未成年への劣情を連想させるエロゲー的表現(一般人には異様に響くに違いなく、内心ヒヤッとした)が散見され、18禁版ではねっちりと描かれているのだろう「はじめての肉体」のもたらすはじめての排泄やはじめての性交を省いた全年齢版が、本作なのだと推察される。また、一つひとつの台詞が非常に長い上に堅い方の語彙を常に選択するため、かなり意識して聞かないとすぐに何を言っているのかわからなくなる。家人は寝た。この辺りもアニメというよりはテキスト主体のゲームに向けて書き起こされたようなシナリオで、やはり18禁のエロゲー版が存在するに違いない。そして、女子のパイロットが画面手前に向けて乗り出してくるカットとか、複数のミサイルが意志を持っているみたいに標的を追尾するカットとか、青空にロケットの噴煙が傾ぎながら登っていくカットとか、全体的に映像の既視感が強く、フルCGでなければ表現できない絵作りはまったく見られなかった。もしかすると、既存の表現をより低コストで達成できることを強調するための見本市的なねらいがあるのかもしれない。いずれにせよ、全編を通してギークなら確認するまでもないが、実は普遍性に乏しい前提を視聴の際に強要される感じがあり、家人は寝た。昔はものすごい数の時代劇が放映されていたのに今はテレビの片隅に追いやられてしまった、アニメも現在ものすごい数が放映されているがいずれ時代劇と同じ道をたどるだろう、みたいな記事だかつぶやきだかを以前に見かけたことがあったけれど、その理由を体現するような作品だった。うかつなことを言えば、ため息からものすごい反論が返ってきそうな面倒くさい感じが全編に漂っており、家人は寝た。あと、前情報からフロンティアセッターがガンダムやイデオンみたいな位置づけで活躍すると勝手に思いこんでいたので、ジムとザクが格闘するみたいなクライマックスの戦闘シーンにはガックリした。それと何より許せないのは、生物の進化と惑星の重力に対する科学的な考察が非常に甘いところである。そもそも十六歳はあんなおっぱいしてないし、あんなおっぱいをしてるのにゆれないのはSF考証ができてない証拠だし、ゆれないのにレオタードなんて一般人を遠ざけるデザインでしかないし、こんな3Dカスタム少女みたいなんだから、家人も寝たことだし、もっと激しくゆれればいいのにと思いました。
ジ・アクト・オブ・キリング
千人を手にかけたかつての殺人者を題材とすることが無謀だという声に、私は同意しない。このアメリカ人監督はむしろ、ドキュメンタリーという手法の、そしてアクト、「演じること」の持つ力の魔性を熟知した上で、アンワル・コンゴの精神を意図的に壊しにかかっているからだ。本作を見て思い出した作品が二つある。一つ目は、ドイツ映画の「エス」。我々はだれもが与えられた環境に応じて役割を演じているに過ぎず、個性や自己同一性と呼ばれるものは一種の幻想、揺れる大地の上のかりそめである。ゆえに演じるという行為、「ジ・アクト・オブ・アクティング」を通じて私たちはあらゆる人物になれるし、あらゆる心理を追体験することができる。二つ目は、邦画の「ゆきゆきて神軍」。このドキュメンタリーでカメラを向けられたことが主人公を躁的に狂わせていくのと対照的に、本作ではカメラを向けられた人物が演技を通じて正気を取り戻してしまい、罪悪感ゆえの絶望へと転がり落ちていく。私は、無辜の千人を殺したという事実を前にしてなお、彼に対して最後まで同情する立場を崩すことができなかった。同じ立場に置かれたら、たぶん、私たちのだれもが殺していたと思うからだ。ひとりの老人に殺される側の味わった恐怖と絶望を「主体的に」体験させる手法は、千人を殺すほどに残酷ではないというのだろうか。階段の踊り場に取り残された、かつての殺人に嘔吐するだれか。そして、数多くのANONYMOUSが並ぶ異様なエンドロール。監督が映画を通じて行う残虐は、アンワルの行った残虐に勝るとも劣らない。れこそが、世界にするアメリカの残虐の正体だと思う。知恵の実を食べたものが、知恵の実を食べなかったものに行う、悪魔の残虐である。