ムーンライズ・キングダム
つまるところ、「じぶんである」ということのどうしようもなさには手のふれようがなくて、ぼくたちはそれをそのままに、なんとか日々をやっていくしかない。ときには、どうしようもなさとどうしようもなさがあいまって、救われることだってあるのだから。もちろんその救いは、嵐の夜におとずれる風雨の高まりのような、陽がのぼればたちまち消えてしまうような、とどまらずに過ぎてゆく性格のものにはちがいない。でも、それがあったことを知っているから、なんとかどうしようもないじぶんをしのいでいけるんじゃないか。ああ、ただだれも否定しないということが、なんとむずかしいのだろう。
オブリビオン
よし、今からこのB級SFのセンス・オブ・ワンダーをあますところなく解説するぜ! シロディールの話かと思って試聴を始めたら、舞台はウェイストランドだった。
ゼロ・ダーク・サーティ
グローバル化の究極は、国を越えて殺し、国を越えて殺し返す場所だ。それはまさに、戦争と酷似した状態である。グローバル人材なんてのは、実体を伴わない書面上の言葉遊びに過ぎず、子供たちをこういう場所へ率先して送り出すべきではない。彼らが地方の小さな一都市で生活を充足できるとすれば、それをまず尊べるようにしなくてはならないと思う。あと、アメさんとコケージャンだけは敵に回しちゃいけないな、と思った。先の大戦で勝てないわけだ。
河童のクゥと夏休み
ルパンを作った後の宮﨑駿と、クレしんを作った後の原恵一。作り続ける強度という意味で何が二人を分けたかと言えば、アニメーション技術を追求するか、作品のテーマ性を追求するかの一点であろう。結局のところ、「自然礼賛」と「人間賛歌」を語ってしまえば、つまり「生きることへの肯定」という究極の命題を語ってしまえば、我々はあとは何も語る必要が無く、その上で座して死を待つのでなければ、死そのものを語ること、すなわち宗教と近接した、普遍性とは真逆の方向へと向かわざるをを得なくなる。つまり、宮﨑駿は子を成しながらも「人類滅亡しろ」と心の底から唱えるからこそ、未だ作り続けているのであり、原恵一は子を成す前から「人間って、素晴らしい」と気づいたからこそ、もう作ることへ執着する必要が無くなってしまったのである。これはつまり、MMGF!後のよい大人のnWoにも似た、初期動機の消失と言えるだろう。あと、作品への思い入れが強すぎて、それぞれのシーンがわずかずつ冗長になって、作品全体を不必要に長くしているなあ、と感じた。それと、もし宮﨑駿が娘を授かっていたら、作ることへの初期動機は消滅していただろうなあ、と思った。
ルーパー
SF版「ザ・バンク」。物語の前半、あれだけ丁寧に世界観をビルドアップしておきながら、そのすべてをことごとく放棄した後半のソープ・オペラ的展開に唖然とさせられる。ブルース・ウィリスをキャスティングしたせいで撮影途中に制作費が無くなって、外部からの資金を受け入れる代わりに監督が制作の主導権を手放したみたいな裏事情を読み取らざるを得ない。「(脂の浮いたデブが提示された脚本を斜め読みしながら)ライアンちゃんさあ、気持ちはわかるけどさあ、いまどきSFなんかじゃ客は入らないわけよ。この話に足りないのはヒロインじゃない? 昼は聖女で夜は娼婦な、銃を持った経産婦とのファックがみんな見たいのよ。そして、障害を持った子どもへの愛情と家族の絆! 観客が求めているのはズバリこれよ。ライアンちゃん、君もそろそろメジャーになりたい時期だろ? わかったら、明日までに脚本なおしといて。じゃ、エミリー、焼き肉(的な、アメリカでの何か)行こうか」。主人公が死亡した瞬間に場面が巻き戻るシーンや、時間旅行に絡めた拷問のアイデアには本当にワクワクさせられたし、ある段階まではループ物の佳作としてSF愛好家に細々と語り継がれる可能性すら秘めた作品だったのに、この資本主義のブタと売春婦めが(あなたの想像です)! あと、乖離した二つの物語の接ぎ木ぶりへの落胆、それが愛するSFであるがゆえの更なるひどい落胆、なんか体験したことあったなー、なんだったかなーと思ったら、エヴァQだった。
グレート・ギャツビー
学生時代に小説は読んだはずなのだが、修辞がくどいという印象だけ残っていて、物語として感銘を得たという記憶がない。名作と凡作、嗜好品と普及品を分けるのは「かそけき」差異であって、そのわずかな違いに大きな価値を認められる者にしか届かない。当時の私の鈍かったセンサーが、年齢を重ねることによって鋭敏になったとは言わない。配役から演出から、過剰なまでの(意図的な)下品さが、原作の「かそけき」部分を濃密に煮詰めた結果、私の鈍いセンサーにも届いたということだろう。ディカプリオ目当てでの試聴だったが、グレート・ギャツビーという物語を再発見できたことは大きな収穫だった。そして、ギャツビーの持つ虚像と実像の間を1,000m級のフリーフォールで往復させるギャップ萌えの手腕には、婦女子の股間も大洪水であろう。あと、人として成長できなかった者は神になるというのは、少女保護特区に通じるテーマだな、と思った。なかなかやるじゃないか、フィッツジェラルド君。それにしてもレオ様は、死ぬときは昔からいつも仰向けに水の中へ沈んでいくなあ、と思った。あとこの作品、邦画で言うとヘルター・スケルターよね。現実のディカプリオのキャラを主人公にオーバーラップして読ませる手法がそっくり。
スタートレック・イントゥ・ダークネス
なぜスタートレックがこんなにも胸にグッとくるのか考えてみた。もっとも権力を持った人間が、真っ先にもっとも危険な最前線へと向かう。彼の肉体と精神はジェダイの騎士どころではない、ふつうの人間のそれらに過ぎず、衆に秀でたものと言えば知恵と勇気と、たぶん幸運だけ。そして、どれだけ科学技術が進歩しようとも最終決戦の勝敗を決めるのは、己の拳にすべてを賭けた殴りあいである。これを現実に置き換えるならば、オペレーション・ネプチューン・スピアーの陣頭指揮を取る上半身裸のオバマが、「これはアメリカ国民の分!」などと叫びながら、同じく上半身裸のウサマッチョ・ビン・ラーディンの顔面をしたたかに殴りつけるみたいな感じだろう。あと、ベネディクト・カンバーバッチはいつ見てもオスのカマキリみたいな顔してんな、と思った。
マン・オブ・スティール
スーパーマンが手錠をかけられ、取り調べを受ける予告編にすごく想像力を刺激されたので、視聴した。しかしながら確認できたのは、予告編を編集した誰かの素晴らしい手腕だけであった。あれっ、最近なんか予告編にすごいワクワクして試聴したら肩すかしを食った映画があったなー、なんだったかなーと思っていたら、エヴァQだった。名前のある数名の登場人物以外はすべて書割りの背景に過ぎず、派手にあちこち舞台が切り変わるにも関わらず、すごくミニマムで閉塞した感じを受ける。異星人の葛藤ばかりに焦点があり、守るべき世界が魅力的に描かれていないため、世界を守る大義は空転し、結果として観客のカタルシスが大幅に減じるという負の構造だ。あれっ、どこかでこんな構造の映画見たことあったなー、なんだったかなーと思っていたら、エヴァQだった。あとザック・スナイダーって、300の印象から絵画的な止め絵を美しく描く監督と思ってたんだけど、今回は画面がゴチャゴチャしている上にアクションが速すぎて、いま目の前で何が行われているのか非常にわかりづらい。CG技術としては凄いのかもしれないが、どの場面もまったく印象に残らない。そして、こういった素人感想にCG技術の専門家が鼻息荒く、「どれだけ大変かわかってないよ! おまえが作ってみろよ! 嫌なら見るなよ!」とか逆ギレのコメントをしそうだ。あれっ、なんか最近、そんな視聴者の感性を罵倒する映画あったよなー、なんだったかなーと思っていたら、エヴァQだった。前回のリブートであるスーパーマン・リターンズは、冒頭の野球場に至るシークエンスや、眼球で弾丸を弾き返すシーン(たぶん、範馬刃牙のゴキブリダッシュで指を折る回から強烈にインスパイアされた)など、彼のヒーローとしての象徴性や凄みをすっきりと効果的に表すことができていた。しかし今回は物語が進行すればするほどますます、CG技術の向上以外は新たな切り口が何も無いことを露呈していき、なぜ再リメイクに至ったのかが全くわからなくなっていく。もうマン・オブ・スティールはこのまま座礁させて、今こそスーパーマン・リターンズ・リブートをこそ制作するべきであろう。そろそろ地球の自転を逆回しにして時間を遡行し、恋人を蘇らせるあの名場面を最新のCG技術で見せていただきたい。あれっ、リブートを繰り返すくせに物語がぜんぜん前に進まなくてイライラするのって、最近何かで体験したよなー、なんだったかなーと思っていたら、エヴァQだった。それと主人公の外見も、これまでのスーパーマン像をわざと外してやるみたいな粗野な雰囲気で、まったく気に食わない。あれっ、最近なんか主人公のキャラデザインが前回までと違っていて気に食わなかった映画があったなー、なんだったかなーと思っていたら、エヴァQだった。感想を書いていて気づいたが、全体的に何から何までエヴァQだった。
魔界の滅亡
指輪物語を読む前、私の中でファンタジーの極北に位置していたのは、ドルアーガシリーズだった。「悪魔に魅せられし者」「魔宮の勇者たち」は、それこそ表紙が擦り切れるまで遊んだ。普通の文庫本の見かけで文字サイズも小さく、子供心にすごく大人の本を読んでいる感じがした。母親も普通の小説を読んでいると勘違いしていたようだ。(というのも以前、「ドルアーガの塔外伝」という明らかに児童向けの装丁のゲームブックを、ずっと手放さずに読んでいたからだ)。赤い背表紙を最高にカッコイイと思い、ブックカバーをかけようなんて少しも考えなかった。奥付の「東京創元社」という意味のわからない文字列も、ひどく謎めいて神秘的に感じられた。今でさえ私の中で、「東京」という単語の持つイメージは赤い背表紙の文庫本と、東京創元社の社名に紐付けられている。天辺の断ち切りの凹凸に指の腹を滑らせる感触が好きだったし、開いたページに鼻を突っこんでよく紙とインクのにおいを嗅いだものだ。ドルアーガシリーズ三部作の完結編は本当に待ち遠しく、当時は新刊の発売日を調べることさえしなかった(当然、ネットも無かった)から、学校帰りに毎日、駅前の書店へ自転車で通った。発売日のことを覚えている。平積みではなかったように思う。赤い背表紙に白抜きで「魔界の滅亡」と書いてあった。ドルアーガシリーズの併記は無かったにも関わらず、私はそれが待ち望んだ一冊であることがわかった。あの頃は誰が書いた本かなんて意識もしなかったのに、もしかすると鈴木直人の名前を覚えていたのかもしれない。手に取ると、ひどく分厚かった。表紙に描かれた巨大な悪魔と細身の騎士を見て、痺れるような高揚を味わった。私がこの悪魔を殺すことで、魔界は滅亡するのだ! 消費税はまだ導入されておらず、自販機のジュースが100円だった時代だ。小走りに駆け込んだレジで告げられたのは、680円。手持ちは600円ちょうど。「魔宮の勇者たち」が550円だったからだ。黙って本を元の棚へ戻すと、私は家へと急いだ。足りない分を取りに帰るためだ。家に着いたときには、もう5時を回っていただろうか。私の常にはめずらしく、母親の強い制止(ヒステリックな怒鳴り声の)をふりきって、再び書店へと向う。周囲はすでに薄暗く、街灯がともりはじめていた。あのドルアーガシリーズの完結編を手に入れられるという興奮と、親の言うことを聞かなかったことへの後悔と罪悪感、そして夜の街頭の様子への不安がないまぜになり、ある感覚の塊として自転車をこぐ膝頭の当たりから太ももの内側を伝って腰の方へ上がってきたのを覚えている。突如、全身をえもいわれぬ快感が訪れる。それは脳天からつま先までをしばし満たした後、眼前にテレビの砂嵐のようなチカチカとした残像を残して、消えた。いまふりかえれば、あれが私の精通だったのかもしれない。そうして手に入れた「魔界の滅亡」はやはり擦り切れるまで読まれ、未だに私の手元に置かれている。知識や経験ははるかに乏しく、感受性のみで世界を理解していた時代に、あらゆるアナログ的肉体感覚と直結したがゆえの至高のファンタジー、それが「魔界の滅亡」なのだ。その時代に享受した物語は、すべての外部評価をあらかじめ超えている。だから諸君は、諸君のすれっからしの批評眼にはつまらなく思える作品に出会っても、それに耽溺する誰かの嗜好を批判するべきではない。何歳の時にその物語を体験したかというのは、非常に大きなファクターだと思う。例えば、進撃の巨人で精通を迎える者も確実にいるだろうから。話を戻そう。当たり前のことだが、私は復刻版の装丁が好きではない。使われているフォントの違いや配色のセンスには、言及するまでもないだろう。何より、表紙の絵の構図が縦にせばめられているのが、ひどく気にくわない。オリジナルは騎士の右側にもっとスペースがあり、いよいよ悪魔を追い詰めている(左側、つまり過去へ)感じが伝わってきた。しかしながら、この本が復刻された事実に比べれば、それらは些細なことだ。作者も自虐的にあとがきで言及しているように、この本を手に取るのは旧版を知っている人たちだけなのかもしれない。けれど、30年近い時を経て復刻されたことは、この作品に対する多くの人の深い愛を証明してくれた(余談だが、アマゾンで「魔界の滅亡」を購入するのは不思議な感覚だった)。私もまちがいなく、この作品を愛した一人である。本当に、ありがとう。