真・女神転生4
多くの人間にとっての人生は、両親の与えた初源の規律に忠実であるか、それに逆らって徹底的な抗戦を行うか、この二者択一のいずれを選んだかによって決められているように思う。すなわち、すべてが既知の繰り返しである穏やかな鬱を生きるか、身内に宿った規律ごと己を破壊し続ける苛烈な躁を生きるかの選択であり、西洋の神と悪魔の概念は結局のところ、人のするこれらのふるまいへの物語的な理由づけに過ぎない。一神教の世界では、かつての神と同化するか、それを否定して逆位相の新たな神――かつての神からは悪魔と呼ばれる――になるかしか選択肢が与えられておらず、ゆえにどこまで生きても彼らに救いは存在しない。そんな無限地獄の対立構造に第三の道を与えたのが、真•女神転生シリーズ(3はのぞく)なのだ。養育者を無謬の存在として高く高く捧げていけば、それはやがて神の高みへと達してしまう。かつての神を否定しないまま対等の存在としてそれに並立し、二柱の神々がもし並立できるのならば、神はやがて人となり得ることを示した。神と悪魔よりも高い位相に「人」を位置づけるというこの思想は、現代が罹患した多くの問題に解決の道を与えてくれる。天才の閃きによる無意識の到達だとしても、これはゲームというメディアを通じてしか提起し得ないメッセージであり、多神教の背景を持つ本邦だけに生み出すことがゆるされた救済の物語、西洋文明への巨大なジンテーゼとして未だにそびえ続けている。真•女神転生(3はのぞく)はまさにJRPGの精髄としてその極北に位置しており、このシリーズを生むためだけに日本のロールプレイングゲームはその存在があったのだと言っても、決して過言だとは思わない。閑話休題。全体的な昭和の雰囲気に、ずっとファミコンのゲームをしている気分だった。日曜の午後、陽光差し込む団地の窓から布団を叩く音が聞こえる中で、微睡むようにゲームをしていたあの頃が、もしかすると私の人生において最も幸福に近かったのかもしれない。
ザ・ラスト・オブ・アス
プレイできる「ウォーキング・デッド」あるいは「28週後…」。世界とは、本質的に無意味の集合である。すべての存在は神の視座において、おしなべて意味を持つことができない。人生とは、ある一つの主観がその無意味の集合に対して、順に意味を与えていく過程である。そして世界のすべてを敵に回しても構わない存在を、いつか人は避けがたく手に入れてしまう。彼は、彼女を見つけてしまった。
クラウド・アトラス
“My life is far beyond imitations of me.”監督の好きなモチーフと撮りたい場面をてんこ盛りにブチこんだ、超絶・寄せ鍋映画。6つの物語が同時進行する3時間を混乱なくスッキリと試聴できるのは、編集の巧さゆえか。ぜんぜん話は変わるけど、おれ最近さあ、スカイリムにダウロードコンテンツが3つも追加されてるのに気づいて、またぼつぼつプレイしてんのね。このゲーム、MODっていう有志の追加プログラムがあって、ゲームの中身をいろいろ好きにいじれんだけど、あんまやりすぎるとCTD、クラッシュ・トゥ・デスクトップつって、クライアントごと落ちるようになったりするの。あとプレイ時間が累積してくと、これまたセーブデータにゴミみたいのが溜まっちゃって、ゲームが遅くなったり止まったり、しまいには起動しなくなったりすんの。おれ最近、年くってきて特に思うんだけどさあ、なんかこれまでの経験からゴミみたいのが体の奥底に溜まってきてて、ひとつひとつは無視できるくらい小さいんだけど、MODの残りカスみたくそれが全体を鈍らせていってる感じ、あるんだよね。ああ、これが溜まってって、おれもいつかCTDすんだなってなんとなく思うわけ。でも、スカイリムと違ってクリーンインストールとかニューデータでスタートとかできないからさ、まさにファミコン世代への上からの批判に追いつかれはじめてるって感じなの。で、クラウド・アトラスだけど、CGとかVFXとかバンバン使って、同じ俳優の肌の色や性別まで変えたりして、魂の平等と輪廻を描いてんだけど、マトリックスの監督がいつのまにか性転換しててさ、じぶんの経験からたどりついた思想とかを反映してるんだろうなって考えさせる仕上がりなわけ。自分の悪行を反省したら転生で魂が次第に浄化されて、ついには善玉になるみたいなやつで、ぶっちゃけ、すごい仏教的な世界観なんだけど、おれ、ぜんぜんそれにノれなかったっていうか、うさんくさいなって思ったのよ。たぶんキリスト教の枠組みがガチガチにある国の人だから、そっから外れた東洋的な考え方に救済されるっていうか、ホッとさせられる部分、あったと思うんだよね。でもさ、キリスト教的な復活も仏教的な輪廻も、どっちも同じくらい救いとしてはうさんくせえなあって思っちゃう。スカイリムと同じで、ニューゲームで始めてもデータのゴミが積み重なって汚れてって、クラッシュしたあとに全体へ吸収されてまた生まれ変わるって、そんなの繰り返したって汚れが濃縮し続けるだけじゃん。この映画じゃ行為としての悪が明確に定義されてんだけど、悪ってのはもともと自然界には存在しなくって、つまるところ人と人との関係性において生じる何かを指してるんだから、人間が人間である限り、悪の概念は消滅しないのよ。だったら幼年期の終わりとかエヴァみたく人の形態を捨てるか、ワールドイズマインとか女神転生4のバッドエンドみたく人なるものを消滅させるってのが、救済っていうならいちばんしっくりくるような気がする。これに対してキリスト教の復活はいまの意識の継続を願うわけだから、輪廻のほうがずっと上等な気はするけど、つきつめるとどっちもどっちだよね。どの宗教でも死への解釈が輪廻と転生に分かれるのは、自我の消滅に恐怖が伴う文化なのかどうかってのが、その理由として大きいんだろうなあ。岩と砂漠の中で死ぬのと、水と森の中で死ぬのとでは、やっぱ死の受容に対する理屈づけって変わる気がする。個人的にはさ、たぶん意識は消えるだろうと思ってるけど、身体を構成する分子とかまでは消えようがないから、別のかたちで何かの中では続いていくんだろうなとは感じる。でもそれって、あんまりにも物語じゃなさすぎるよね。どっかで書いたけど、世界で最初の物語って、老いた生者が若い生者に語る死の意味づけだったと思うんだよね。いまの自我を保ったまま、天国で72人の処女とヤリまくるとかって物語、身もフタもなくて笑っちゃうけど、すごい人間らしいじゃない?とりとめもなく話したけど、クラウド・アトラス、SF好きならぜひ見ておくべきでしょう。いろいろ考えさせられます。あと、りんこ、演技が見られるようになったな、もうこれまでみたいにまんことかうんことか呼べないな、と思ってたら、あれ、りんこじゃないの?
HK
周辺の状況を含めて、全体に漂う内輪受けの感じに、すごいモゾモゾした。ほとんど悪ふざけのアドリブが「オッケー! ××チャン、サイコー!」とか言われて、そのまま現場で採用されてる感じ。映画批評サイトの感想とか大手ネット通販のレビューとかで、3名ぐらいの評価者が5点満点中4点をつけてる感じ。爆笑に両手を打ち鳴らしながら、「オイオイ、なんでコレ、ブルーレイ版ださないの!」とか書き込んでるその感じに、なぜかかつてのテキストサイト周辺のアングラノリがフラッシュバックして、悶絶した。「なに言ってんの、小鳥猊下こそがアルファブロガーでしょ!!」みたいな大騒ぎのファンを「いいから、もうオマエ黙れよ、殺すぞ」って赤面しながら後ろから小声でたしなめてるような感じ。アタシ、恥ずかしい!
ドラゴンズクラウン
まだノーマルをクリアしたばかりだが、久しぶりの正統的な横スクロールアクションにワクワクと胸を踊らせている。しかしながら、いま感じている高い評価がはたしてゲームの内容に向けられたのものなのかどうか、世代的に郷愁がはるかに勝ってしまっていて、自分では判断できないでいる。このゲームを楽しんでいる現在というよりは過去の感情の追体験が半分くらいになっていて、ちょうどファイナルファイトとかゴールデンアックスとかD&Dとかの筐体を旅先の旅館のゲームコーナーで見つけて、ついプレイしてしまうときの気分に近いのかもしれない。古びたゲームコーナーの持つ情動のタイムマシン機能が、私にとってのドラゴンズクラウンなのだ。世界三大ジャクソンが「マイケル・ジャクソン」「ピーター・ジャクソン」「スティーブ・ジャクソン」であることは論を俟たないが、まず「ソーサリー!」ノリのテキスト、イラスト、アルファベット三文字魔法にグッと来る。キャラ選択画面でディアブロ2を思い出し、衛兵には「スタァップ!」と呼び止められ、仲間が死ぬと「CONTINUE?」の表記が出て、道中の遺骨は「膝に矢を受けて」しまっている。ちりばめられた小ネタが、どれもいちいちグッと来る。本当にゲームの好きな誰かが、本当にゲームが好きで作ってる感じがひしひしと伝わってくる。80年代の子どもたちにとってはるか夢の未来であったはずの21世紀が色あせた現在、すべてのトレンドに敢然と背を向け、あえて横スクロールアクションを製作しようと考えたその執念、もしくは愛情に深い感動の念を禁じ得ない。最近のゲームキッズにとっては、画面がゴチャゴチャして何をやってるかわからないのかもしれないし、キャラの動きも不自然なのかもしれないし、アクション性もそれほど高くないのかもしれないし、アイテムのために少ないステージの周回を繰り返すだけの作業ゲーなのかもしれない。しかし、オッサンたちにとって、これはとても大切なゲームだ。タバコ臭いゲームコーナーの一角で、コンパネに飲みかけのビールを置いて、甘くなったレバーとボタンを叩きながら、懐かしくて、でももう戻れなくて、涙ににじむ10カウントの画面へ連コインする、そんな記憶のゲームなのだ。サーバー側に管理されたデータ、エミュレーターでいつでもプレイできるレトロゲー。そうじゃないんだ、そうじゃなかったんだ。あと半世紀もすれば、ゲームコーナーの記憶ごと、ゆるいコンパネの手触りごと、データ的に寸分たがわぬはずのエミュレーションでは決して再現できないあのゲームたちは、オッサンたちと共に世界から永久に消滅するだろう。それは、白人たちに追われたインディアンのような必然なのだ。そう、「おれたちは滅びてゆくのかもしれない」。
マクロスFB7
オマエら素人さんはマクロスってえと、初代とかプラスとかゼロとかフロンティアとかをあげるんだろうが、オレのような玄人に言わせりゃ、ぜんぶ女子供のお遊びみたいなもんさ。セブン一択、これしかない。朴念仁のキチガイ主人公にチンクシャヒロイン、昭和の遊園地のパンダほども動かない戦闘機、4クールもあるくせに三分の二ほどが不要な話数の上に未放映の話さえいくつかあって、おまけに別に放映されなくても大筋の理解にゃ、まったく支障がない。予算もCG班も作曲家も、良い作品にするため考えられる要素はことごとくプラスに取られて、まさにダメロボットアニメの大三元の二乗、日曜朝のお目汚し、再放送なんて望むべくもない。だけど、DA・MEじゃない、DA・MEじゃない、ファイヤーボンバー、DAMEじゃない。オマエらさあ、マクロスってどれも歌で異文化交流する話だと思ってるだろ。でもじつのところ、歌で弱らせた後は、やっぱミサイルでブッ殺してんだよ。歌を聞いて恭順の姿勢を示した少数だけをゆるして、残りはぜんぶブッ殺してんの。これって、まんま米帝のやり方じゃん。マクドとハリウッドで相手の文化土壌を弱体化させてからぶっといミサイルぶちこんで午後の散歩みたくアーミー送りこんで制圧してさ、全然おなじじゃん。でも、セブンだけはちがうの。ほんと、歌だけなんだよ。ブチこむものは歌しかないし、身を守るものも歌しかないし、歌がきかないと主人公、アッサリやられちゃうのよ。あれっ、これってどっかの国のやり方とまるきり同じじゃん。特殊な文化バリヤーだけを発し続けて、そこに共振すれば仲間になるのは勝手で、もし通じなきゃ粛々と殺されていくだけ。つまりさ、数あるマクロスの中でセブンだけが唯一、西洋史観のくびきから解き放たれてるのよ。これしかねえって思いこんだキチガイのキチガイはさ、感染力があるんだよ。このキチガイじみたセブン押しのテキスト読むだけで、なんとなく伝わんだろ? なに、ツー? ファック・ユー、ブチ殺すぞ……!! ありゃ、真性のそびえたつクソだ!
パシフィック・リム
カンフーハッスルのときにも感じた、日本のサブカルの精髄を他国の人間が最も理解し、深い尊敬を持って換骨奪胎する様に腕をもみしぼりたいような思いにさせられる。ただ楽しみたい、そしてただ楽しんで欲しいという、エンターテイメントへの巨大な情熱を前にして、某福音漫画映画が見せた迷走のことを苦々しく思いだした。本邦のメディアが喧伝する「公」なる同調圧力は、ときにサブカルの作り手たちをひどく追いつめていく。実際のところ、西洋世界でのキリスト教倫理と似たスキームへの反抗心が、ロリコンのそしりを哲学へと昇華させ、荒唐無稽のそしりを政治へと昇華させた。そして己の愛を「公」に認めさせるための方法論のねじれ、出自を隠蔽しようとするねじれが、ほんの一部の作品たちを例外的な高みへと止揚したため、悪臭放つ無残なフォロワーたちを多く生んでしまったのだ。結果、「公」が是とするものとの融合だけを求める、ごく短命のキメラ的被造物が量産されていったのである。その歪んだ複雑さに比べ、積み上げた経歴で出資者をだまくらかし、まきあげたカネを湯水のように注ぎこんで、売れる売れない度外視のおたく趣味を完遂したギレルモ監督の確信犯的手口は、もはやさわやかでさえある。これはそのまま、西洋と東洋の対比、大人と子供、あるいは成熟と未成熟の対比のように思えてならないが、閑話休題、ともあれ本邦のマスメディアは、もういい加減、おたくたちを愚弄するのを止めよ。取材と記事のフォーマットが定まった白痴の自動書記a.k.a.プロ・アマの野球報道をいくら垂れ流そうとも、我々は文句を言わない。人気漫画の実写化にアイドルを配しても、笑って見過ごそう。だからもう、本邦のサブカルを情けないもの、大人の視聴に耐えないもの、いつか卒業すべき一等地低いものと刷り込み続けるのを止めよ。いまある才能が貴方たちにたわめられ、その伸びやかさを失っていくのが、私には忍びないのだ。けれど、エヴァンゲリオンがパシフィック・リムになれなかったことを、ただ口惜しく思う。
ジャンゴ
会話劇で高まりに高まったテンションを、突然の暴力で解放するタランティーノ節は健在で、いつものことながら座り小便を漏らすほど面白い。同監督の作品でベストに上げたキル・ビル2が、その位置を入れ替えそうなほどの勢いである。しかしながら、ヒーローであるはずのジャンゴが、シュルツ医師のキャラクターに完全に食われてしまっているのが残念だ。結局のところ、物語の最終盤でジャンゴを駆動するのは「奴隷解放以前のミシシッピ州にいる黒人」という背景的な部分であり、ドクター・キング・シュルツの用いた手法を表面だけトレースした、彼の内面に根ざさない動機だ。この物語の真の主人公はシュルツ医師であり、死を賭してディカプリオ扮するカルヴィンとの握手を拒んだ魂の高潔さこそが、人間性への賛歌をうたいあげ、彼をヒーロー足らしめているのである。その直後、ジャンゴによって行われた殺戮は、外部刺激への反射にも似た暴力に過ぎず、シュルツ医師の持っていた主人公の格を引き継ぐには至らなかった。タランティーノ監督の作劇に弱点があるとすれば、あまりに魅力的に悪役・脇役を描きすぎるので、ときに正義は説得力を失い、主人公は色褪せてしまうところだろう。黒人の主人公が白人の脇役をその魅力で上回れなかったことは、監督が意図する人種差別へのメッセージを真逆に伝えてしまいかねない。もちろん、こういう観点で視聴すべき作品ではないこともわかる。未見の諸氏はネット泡沫のバブリングに印象を左右されず、ぜひ自分の目で内容を確かめて欲しい。